それはまるで生魚のような
駅のホームへと滑り込んでくる電車が、風をつれてきた。
どこからともなく生魚のような臭いが漂う。
私だ。
生魚のような臭いの私と、大勢の乗客を詰め込んだ電車が動き出す。
機械の部品のように、規則正しく、日々繰り返される営み。
これを受け入れるつもりはないが、拒絶する理由もない。
混ざりゆく人々と、それぞれの人生。
その中で私はぼんやりと考える。
痴漢冤罪。
この赦し難い事故に対し、細心の注意を払っている。
もしもこの状況の中で、痴漢騒ぎが起きたとしたら
周囲の人間の大半が、私を犯人だと判断するに違いない。
判断基準は容姿のみ。悲しい現実であるが、承知している。
やや苦しい姿勢ではあるが、両手で荷棚を掴み、顎で鞄を固定する。
この状態では痴漢行為は不可能だ。私の精一杯の主張である。
目的地付近までさしかかると、下腹部に鈍い痛みを感じた。
牛乳。
賞味期限。
非常にわかりやすい理由だった。
やむを得ず途中下車をし、臨時休暇をとる事にした。
会社への連絡を済ませ、開放されたような気持ちでベンチに座る。
少し笑みを浮かべながらペットボトルの蓋を開け、炭酸飲料水を喉へと流し込む。
突然の欠勤であるが、上司からの苦情も無い。期待をされていない故の安心感。
通勤、通学の時間帯を過ぎたからか、駅の様子は先程とは違い、静まりかえっている。
毎日通過している駅なのだが、実際に降りたったのは初めてだった。
暖かい春の風が私の毛髪をすり抜け、頭皮をくすぐる。
こんな時に、人は過ぎ去った優しい日々を思い出すのだろう。
だが私には、特にこれといった思い出は存在しない。
今は、この飲みきれない炭酸飲料水をどう処理するべきかが重要だ。
「何してるんですか、先輩」
どこかで聞いたことのある、男の声。
手元のペットボトルから視線をずらすと、そこには会社の後輩が立っていた。
後輩である。出世に無縁の私には部下は存在しない。
後輩は私の隣の席へと腰を下ろす。
彼はまだ20代前半なのだが、若さをあまり感じない。
スーツの着こなし方が既に中年男性のそれである。
出社時間はとうに過ぎている。
彼こそ何をしているのだろうか。
私が問う前に、彼は喋り始めた。
「急に仕事に行きたくなくなったんで、ははは」
彼は存在こそは目立たないが、仕事の処理能力に関しては優秀であり、
それなりの地位を築き上げる素質があると、皆が認めていた。
そもそも私の存在を憶えていてくれるのだから、
「いいひと」に違いはない。
そんな人物が突然、何を言い出すのだろうか。
そして私の手から炭酸飲料水を奪い、それを一気に飲み干す。
間接キス。
気味の悪い単語が頭を過ぎったが、それどころではない。
「では行きましょうか、先輩」
彼は急に私の袖を乱暴に掴み、走り出す。
崩れ落ちそうになりながら、階段を駆け下りる。
全く事情を理解できないまま、彼とともに改札口を通り抜けた。