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観察する少女

誰も居ないアパートの部屋へと戻った和己は部屋の空気が内包した熱に当てられ顔を顰める

夏の熱気がまだ残留する生温い無風の室内は、風の吹く外よりも暑い時もある


その問題を解決するために、クーラーの温度を高めに設定してスイッチを入れた。どの道早く寝るのならば電気代は高くならない

テレビを付けるとちょうどニュースをやっていた。左端に表示された時刻は七時を少し過ぎた辺り

冷蔵庫を開ける。もう夏が過ぎ九月の下旬というべき時期だったが暑さが完全に過ぎたわけではない、2リットルのウーロン茶のキャップを開放しテーブルに置きっぱなし

だったガラスのコップに注ぎ込む。氷を入れようかとも思ったが、流石にそこまでするのに冷蔵庫まで出向くには面倒な気分だった


「九月は終わりなのにまだ暑いな」


クーラーの温度を更に下げようかとも思ったが電気代が上乗せになるのでやめておく

どうせ点けても一日中稼動させるわけでもないし大した追加料金にはならないのだが、バイトの給料日が後一週間程度だったので余計な浪費は避けたかった

ろくに貯金も出来ないアパート暮らしの男性の生活におけるやりくりは大変で数百円の赤字さえ結構な問題になるのだ

それが定職に通わず、週に数度のバイトに通っている和己ならなおさらの事である。更に最近は政府の無策によって税金が上がって、生活は圧迫されつつある事は悩ましい問題である


ブルルルルル・・・


携帯のバイブ音が鳴った。開けると友人から一通のメール。バイトの知り合いで付き合い安いタイプの性格の良い知人からである

内容はカラオケの誘いだった。魅力的ではある、が残念な事に余分な金が無いのだ、簡単に断りの連絡を入れコップの中の褐色の液体を飲み干す

冷たすぎず、ぬる過ぎない丁度良い清涼感が食道に流れていくのを感じる。存分に冷やされたウーロン茶が体の中を巡っていく感覚を覚え、ベッドを兼ねたソファーに寄りかかってチャンネルを変えた


七時のバラエティ番組。大阪弁で進行を進める中年男性の大物タレントがゲストに話題を振っている場面が映った

見慣れた光景。ほとんどの日本人が共有したありきたりな日常の一部

正直、面白くないと思う。だが暇を潰すにはテレビは丁度いい道具ではあった


ありふれた生活は、和己の習慣に組み込まれており。連続した日常は惰性と化して時の流れの中にある

今の生活が楽しいとは思わない、だが特に気になることも、特に何がしたいとかの欲求が自分の中に溢れてくる事は無い


『それでは、クイズの答えはCMの後で!』


クイズ番組が答えを発表する前にビールのCMに切り替わる。最近売れているらしい女性タレントがジョッキを一気飲みするのが映った

別に見慣れている。面白みの無いCM、特に真新しさを感じずタレントも和己の好みではない。どちらかと言うと福留が好みそうなどぎついメイクの女優だった

和己はソファーの下に投げ捨てていた通学用の鞄を拾い上げた。

特に目的など無い、ただ目に付いたから鞄の口から端が見えてきたスケッチブックを取り出す。開くとあの絵は相変わらずそこに描かれていた


その絵を見る。バランスの整った輪郭、一本一本丁寧に0,3ミリ芯で流れるように描かれた少女の長い髪

書き直しや、消しゴムで消した後は見られない。

見事な描写力。和己は電車の時と同じようにその絵から目を離せなくなっていた

CMが終わり、司会にカメラが向けられるが和己はもうテレビのほうを見てもいない


『それでは、答えを発表します』


テレビの音が不快なものに感じた和己は、リモコンで電源を切った

クイズの答えは全く気にならなかった。外で喧しく蝉の鳴く音だけが室内に残った

更に三十分くらい彼は絵を眺めていると。鞄から筆箱を取り出した

スケッチブックをめくる微かな音が聞こえる、蝉の鳴き声は彼にとって既にガラスで阻まれた別世界の音のように遠くで聞こえた


(なんだ、この気持ちは)


自分でも訳がわからない。只、この絵を見るたびに自分の中の何かが

心の奥底に沈みとっくに冷え切ったはずの何かが微かながら熱を発しているのが判る

白いページに線を描き、徐々に描き足していく。一本の線が次々とスケッチブックの上で追加されていくたびに徐々にそれは形を作り、姿を現しているかのようだった


熱が一気に伝導したかのように体は既に熱くなっている。心臓が震えるが頭は冷静そのもので、線を描く指先は少しも震えてはいない

だんだんと、白い紙の上をシャープペンが走る速度が速くなっていく。大理石を加工し石造が形作られる過程を早回しで見ているかのようにその線は人の形を作っていく

情熱が絵となって現像されいく内に手の動きは早くなっていく。雑だった動作は少しずつ洗練され機械のような精密さに近づいているようだった


時に不要な線を消し、修正を繰り返しながら。一時間近くかけてその絵は完成した

それは、あの絵と同じ少女が椅子に座って微笑む形を取っていた。過去の自分のものと比べてみる

影の付け方や、輪郭のバランスが多少おかしかった昔の絵とあまり変わらないようだったが満足感が和己の中にあふれていた


いきなり、凛とした声が耳に入った



「・・・少し荒削りですが、上手ですね。洗練すればもっと上達すると思います」



「えっ?」


傍らに、白いワンピースを着た少女が透明な表情を浮かべ、ソファーに座した和己を見下ろしていた

昨日、ソファーの前に座っていた少女。そして、和己を看病してくれた彼女がそこにいた

さっきまで、まるで人の気配なんて無かった。白い少女はもともとそこにいたかのようにスケッチブックの端を握った和美を見下ろしていた

だが、不思議だった。視線の位置的に少女は和己を見下ろしているのだが、そこに嫌味や傲慢さといった感情は感じられない

しかし、温かみもあまり感じられない。微かに興味を持ったのか俯瞰されているような、観察されているようなむず痒い感覚


「君は?」


得体の知れない少女が鍵をかけた筈の自分の部屋に入ってきて自分の絵を見ている

納得できない。どうやって忍び込んだのか。しかし、本能は自然にそれを受け入れている自分がいた

彼女はこういう存在なのだと自分の理性の更に奥の本能の場所がそう言っている。彼女は普通の人間ではない


少女はここに確かに存在していて目の前にもいて、肉眼でも見えるのだが何か、人間として本質的な部分が欠けている様な気がするのだ

感情や姿形といったものより本質的なもの・・・例えようとしても上手く説明の出来ない何かが


「どうやって入った?」


厳しく、なるべく声を低くして和己は言った。少女は少し動じたが真っ直ぐに和美の視線を受け止める

しかし、長年生活して鍛えられてきた理性というものはどうにも頑固で常識以外の現象が発生すると、現実的にその回答を知りたがる不便なものだった

それもそうだろう。文明にせよ、秩序にせよ、見た事の無い非常識に過ぎるものに対しては人間はあくまで警戒心を顔を出してしまう

この少女は空き巣に入ったのだとにわかに信じられないが、神経質で臆病な気質の和己は聞かずに入られなかった


「悪意があって貴方に会いに着たのではありません」


「じゃあ、何だっていうんだい」


あまり言葉が荒くならないのは、見た目が可憐な少女だというのも有る。一応、和己は自分でも所見の女性を罵倒するような野蛮な性格には育っていないと確信していた

そのような性格に育て上げてくれた両親に和己は無意識の内に感謝していたが、それで損をするような事態が多くなった事もまた否めなかった


そして、少女の言葉は嘘を吐いているとはとても思えないほどに透き通っていて、耳の中に入ってくる

しかし、言葉だけじゃ信用できるはずも無い。口先だけで人を騙す者はいくらでも存在するからだ。見た目で人をだますのは更に容易である

この白い少女がそんな事をしないのだと本能がわかっていても、長年培ってきた防衛本能を黙らせるにはとりあえず聞いて確認するしか出来なかった


「絵です。貴方が描いているところを見たかったのです」


そこで両者とも言葉が途切れる。蝉が遠くで鳴く声だけが微かに聞こえた

少女の言ったことが噛み砕けずに、口を閉じてしまう。そして、一分ぐらいの沈黙を割ってようやく和己が言った


「僕の絵を?」


少女はこくりと小さく。明確に意思を示すかのように頷いた

問い返しながらも、やはり。とは思った

昨日の絵はこの少女が描いた物なのであろう。それは確信が取れた、だが理解が出来ない

そして、少女の招待は何者なのか?さまざまな疑問が和美の中で洗濯機のようにぐるぐると回転している


「どうして僕なんだ、そして一体何の為に?」


「それは・・・」


しかし目的が分からない。これが福留の悪戯であることも否定しきれないのだ

だが、問い詰めると少女は困ったように顔を伏せている。なぜか少女に悪意が無い事はわかった、少女の対応があまりにも単純で正直すぎたからだ

和己は少女を追及する気を無くした


「・・・黙ってくれるなら見ていてもいいよ。」


「はい」


和己は少女を無視するように装って、無地のページにシャープペンの黒く細い線を走らせる

どういう訳か、今は他人に見られているはずなのに異様に集中力が湧いてきている

その理由が何なのかは彼にもよくわからないままであったが、彼はそれを気にせず筆を走らせ続けた


何故か、この少女にだけはずっと観察され続けても不快にならないだろうと思った理由が今の彼にはわからなかった

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