少女の絵
(課題を済ませないと・・・)
ぼんやりと朦朧とする意識の中、和己はうわ言の様に呟いていた
頭の痛みが気になるが、井上の顔が浮かぶ。彼は苦手であり自分にとって天敵だった、せめて言われた事だけは済ませないといけない
鬼講師として知られる彼はどの生徒に対して辛辣で傲慢な態度を取り、課題の内容もノルマも多くの生徒たちに課すあまり良い噂を聞かない人物として有名だった
聞くところによると他の講師達とトラブルを何度も起こしたり、生徒に鉄拳制裁を食らわせたりと今時見ない体育関係の体制をとっていると聞く
そして、人づてから入った噂によれば、ある有名画家の弟子だったが師とトラブルを起こして破門され厄介払いと扱われつつたらい回しにされた結果
和己達が通っている美大の講師として放逐されたと聞く
確かにやくざ顔負けの強面で、柔道や空手にも精通しているとされる彼の体格はまさにゴリラと言っても差し支えなく
顔を直視しただけで、大抵の人間は恐縮してしまう眼光を持つ井上の課題をボイコットする度胸を和己は持ち合わせていないのだ
だが、体が動かない。頭の痛みが一向にやまない。出血したらどうしようと和己は考えるが、それより課題をこなさなければならないのだろう
しかし、今の状態だと何をするにしても辛い。暫くこのまま寝ていたいと言うのが本音だった
そして、見える。うっすらとぼやけた視界の端で揺れる白いブラウスに包まれた細身の誰か
その誰かが、自分の頭に水で冷やしたタオルを載せていた。程よい冷たさが脳の隋まで染みて心地よかった
更に自分はその白い服を着た誰かに介抱されているのだ
頭の鈍痛が再びぶり返してきた、和己は目を閉じて楽になろうとした。彼の手に当てられた冷たくて細い手、その手が痛みに触れると鈍痛が解けるようにして消える
自然と痛みよりも、ほんのりと胸の奥に暖かさが宿った
(ありがとう)
彼は白い服を着た誰かに向かって礼を述べた。自分に知り合いは見覚えなかったが親切にしてくれるのはありがたいものがある
誰かが彼に顔を向ける、人形のように整った幼さの残る少女の顔が見えた
そして、少女が微笑んだ。それにつられるようにして和己は何故か自分の口元が緩んでいるのがわかる
(まるで天使みたいだな・・・)
彼は少女の笑顔をそっと瞼の裏に浮かべるようにして安らかな気持ちのまま目を閉じたのだった
ブルルルルルルルルルル―――――――
目覚まし代わりにしていた耳障りな携帯のバイブ振動音が、彼の意識を眠気の底から引き上げた
携帯を取り上げ、通話ボタンを押しすばやく耳に当てると、今一番世界で聞きたくない声が耳元で爆発する
『お前何やってんだ!授業はもう始まっているぞ!!早く来い!』
井上の怒声が携帯から響いてきて、眠気を一気に吹き飛ばしバネ仕掛けの人形みたいに和己は布団から跳ね上がった
光が瞼の中に満ちる。外はすっかり日が昇っており完全に朝日は顔を出している
和己はいそいで体を起こし、腕を天井に向かって伸ばして大きくあくびをした後、テレビのチャンネルをつけてようやく気付いた
「あ。」
時刻は既に午前九時を過ぎている。完全な遅刻だった
それでも和己は走るしかなかった。あの剣幕で怒鳴られてボイコットなどしたら、次に顔を合わせたときが恐ろしいからである
明らかに井上の額に青筋が立っているのが見える。その原因を作ったのは間違いなく自分だ
和己は出来るだけ講師の顔を見ないように入室したが・・・
「犬迫。前に出ろ」
低く、唸る様な声が彼の耳に入った。彼の努力空しく、筋骨隆々の講師は威圧感をたっぷりと込めた視線を和己に向けた
流石に鬼講師と呼ばれるだけあり獲物の挙動を見逃したりはしない。初めから叱責から逃れるすべなど無かったのだ
さすがに無視するわけにもいかず教壇まで恐る恐るに近づく。指すような視線が痛い
「遅れてきたと言うことは昨日の課題は終わっているんだろう。スケッチブックを見せろ」
井上は言う
和己は数瞬固まった
昨日の課題であるデッサン十枚は半分しか済んでいない
同じ絵を四枚しか書いていないのだ、この状況でスケッチブックを差し出すのは躊躇してしまう
だが井上の眼差しは鋭く、厳しい。彼はある意味では非常に真面目に技能を教えてくれるのだがその分、ほかの講師に比べて生徒へのしめ付けが非常に厳しいのだ
それが原因となって彼の授業をボイコットしたり取らなかったりする者も多く、彼の講義を受ける者は年々減少していった
今や彼のようなステレオタイプの堅物教師よりは敬遠されがちであることは明らかで、今の時代は生徒達に親しみやすく、
授業も自習が多い若い講師が好まれているのも当然の摂理であるのかもしれなかった
和己は美大に入った当初、あまり若い講師に指導を受けたくなかった。世代の近い彼等の浮ついた軽薄な雰囲気が苦手であり、井上の堅実そうなイメージを処々選択したからだ
彼等の授業は「生徒の自主性と感性に任せる」といった方向性でなされている事が多く、講師が課題を出し期間を設けて生徒達がそれをこなすと行った者が多い
この方法は「ゆとり教育」と似通っており、目的意識を持つ才能がある一部の生徒達からすれば、
他人と足並みをそろう必要がなく自分の判断と行動で積極的に技能を磨いていけることが可能であるため
才能と財力ある人間からは歓迎されたが、美大を一つの遊び場として通っているような連中
言い換えれば福留のようにただ学校にきている者からすれば、理由を付けて講義をサボるのに好都合となってしまうのだ
それもあるが彼が権彫の講義を受けるようにしたのは単純に若い教師と話すのが苦手だったという事もある
というか、和己は人と話すのが苦手でともすれば自分と十歳も年が違う人間と会話するのはどうも落ち着かないのであった
だから年長で実績もあるらしい権彫の講義を受けるようにしたのだが・・・
「おい、犬迫」
井上が言う。その次に降りかかってくるであろう怒声を覚悟した和己は足元に視線を移した
だが、講師が言った言葉は予想に反してとんでもないものだった
「お前、ノルマをよくこなせたな。絵もタッチや線が丁寧に描けている」
井上は感心の混じった声を出しながらも、目の奥の光はやや不振そうな輝きを帯びていた。和己はそれに気が付かなかった
彼が自分を賞賛するようなことを言ったのが初めてだったからだ
「・・・何を言ってるんですか?」
和己は井上が自分を褒めているらしい事は頭の中で理解できた。しかし、合点がいかない
昨日、自分は彼が与えた十枚の課題を四枚しかこなしてないのだ
「・・・やれば出来るじゃないか。誰にレクチャーしてもらったか知らないが
正直最近はあまり見込みが無いと思っていたぞ・・・どうした?」
「済みません、それ僕に見せてもらえませんか?」
「?」
井上は彼にしては珍しいような狐に包まれた表情でスケッチブックを和己に返した
和己はそれを半ば毟り取るようにして己が手に戻した後に改めて中身を確認する
(嘘だろ?)
ページを捲っていくと和己が最後に書いた絵の次のページにも絵が記されていた。その次のページを捲っていくと次のページでも丁寧なタッチ描かれた少女の絵
次々に捲っていくと丁度和己の知らない絵が六ページ分あった。和己にはそれを書いた覚えが無い
しかもそれは和己の絵をトーレスした上で洗練された作品に仕上がっていた。輪郭も線の太さも和己のそれに似てはいるが明らかに自分の雑な絵とは違うと和己は思った
そして悟った。似せてはいるがこれは自分が書いたものではないのだと
(あの女の子・・・)
昨日、自分の部屋に座っていた少女。夢の中で自分の看病をしてくれた少女
そして絵の中の少女とあの白い服を着た長い黒髪の少女は何処となく雰囲気が似ているような気がした
その少女の絵がスケッチブックの中からやさしく彼を見守り微笑んでいる様な錯覚を和己は覚えた