白い幽霊
アパートの部屋にそのまま帰る気持ちはあまり湧かなかった
帰ったらそれこそ自分は、昨日と同じように安い発泡酒を呷りつつ下らないバラエティ番組を眺め、ニュースを見ながら就寝するだろう事は明白であり
そのように通り繰り返された行動をリピートするだろうと思っていたからだ。それでは宿題もできないし、また一日を無駄に過ごすことになることは明らかである
一番つまらない暇のつぶし方だけは避けたかった。堕落した生活のサイクルはいつか断ち切らねばならない
今はそれはそれでいいかもしれない。しかし、このまま何も変わらず得られずに美大に通い続けても何の進展も無いのは明らかだ
それでは親が斡旋した就職を断ってまで都内に来た意味が無くなってしまう。ただでさえ今は世界的な不況なのだ、何も得られないまま自分のやっている事を投げ出してしまうということは
この摩天楼の下でハローワークに足を運びながら過酷な職探しが始まってしまう事を意味していた。和己は特別な資格などは持っていないので苦戦は必死である
背水の陣に居座る覚悟で何が何でも成果を挙げなければならない。そうでなければ何のために美大に数年在籍したのか分からなくなる
だからこそ今を無駄にしている訳には行かなかった。目的と手段が逆転している感があったが
時間が遅いことを理由に近くのファミレスにて、課題を済ませる為にいくつかデッサンを書き上げる事を決める。
被写体は特に思い浮かばなかったので昨日の絵をトレース、更にアレンジして仕上げる
背景の無い椅子に座った白いワンピースを着た少女の絵。井上は十枚のデッサンをすべて違う絵にしろとは言っていない
つまり、同じ絵をトレースして十枚書き上げても構わないのだ
(僕の部屋のほうが道具は充実してる、だけど・・・)
自宅のほうがやり易いのは目に見えている。いくつか安い木製のモデル人形も買っていた
道具と環境に頼るならば自宅でやるべきだったが、和己はそうしなかった。ここ半年部屋で作業に集中したためしがなかったからだ
理由はいくつかある、二つ挙げるとテレビや酒類があるためにそちらのほうに意識が行ってしまう。
そしてもうひとつは大音量でポップスを流す、自己中心的ではた迷惑な隣人が居るからである
昨日、一昨日は外出でもしているのか何事もなかったが、今日も無事だとは限らない
和己は店内を見渡した。窓側の端っこから見わたして一組のカップルと三人の女子大生グループしか席に収まった客は居ない
何しろ時刻は既に午後十時を過ぎている。夕食の時間はもう過ぎたはずなので人の入りは少ないのは当然であった
いくつかの理由を踏まえて。この時間帯であまり人が集まらないファミレスは作業がし易いと言えよう
今なら客もあまり来ない。閉店は一時、最近のファミレスは若者客の取り込みを狙っているのか営業時間が長い
絵を描くには最適な環境だった
和己は0.3ミリのシャープペンシルを握り締め、スケッチブックを開き、白地の表面を睨み付けながら作業を開始した
一時間三十分後、おおよそ十一時半頃に和己は精力が尽きたようにがっくりと項垂れながらアパートへの道を歩んでいた
スケッチブックを埋めたページの数は四枚。最初の三十分あたりまでは集中力も続き黙々と作業に没頭できたが十一時を過ぎたあたりで
派手な服装の近場の大学生らしきグループが五人近く集まって、あろう事か和己の二つ前の席に陣取り雑談し始めたのだ
連中のお喋りと場をわきまえない嬌声のおかげで、すっかり集中力が削がれ作業が進まなくなり
和己は氷が溶け温くなった安いストレートティーを飲み干した後、ファミレスから出たのだった
「まだ、十二時にはなっていない・・・か」
済ませたページは四。まだ、課題は半分以上残っている、自分にしてはペースが早いほうだったがまだまだである
後六枚書き終わるには早くても二時間くらい必要だった。しかし、もう集中して書ける場所はアパートの部屋くらいしかない
時間を使えば課題は終わる。しかし朝が弱い和己はあまりにも遅く寝たとしても、いつも通り七時に起床する自信は無かった
(明日サボろうかな)
夜の道をかすかに照らす外灯に群がった蛾の群を見ながら無断欠席を考える。
徹夜してやるという手もあったが、そこまでして真剣に課題に取り組めるかどうかは微妙なところだ
何しろ、今の自分は何故絵を描きたいのか判らないし、情熱も湧かない上に遅刻の危険性がある
『他人の絵を写し、学ぶ姿勢を忘れ、手を抜いて描き続けても、時間が無駄になるだけだ。やる気が無いなら学校を辞めろ』
井上が言った言葉を思い出す。確かに美大に入ったばかりの頃は自分もまだそれなりの情熱に燃えていた時期もあったのかもしれない
少なくとも、今よりは野心も向上心も持ち合わせていた、反骨心も同様に。
だが、今となっては若さゆえの愚かしい全能感が行動力に転換されていたと思うし、未来に輝かしい希望すらも抱いていた
それが社会の裏側を知り、現実が身に染みるまでのちょっとした反抗心から芽生えた虚勢だったとしてもだ
自分なんかより才能も技能も時間も感性も優れているものが同じ場所に居た。自分はそれを知り、思い知っただけなのである
『僕は絵で食っていく。世の中の人間に僕の才能を知らしめるんだ!』
旅立つ前に親に言い放った言葉が胸の中に浮かぶ
結局は虚勢だけに終わりそうだ。若さゆえの失敗、今考えたら甘えがあったのだろう
絵で失敗しても若いうちに就職すれば生活は出来る。だから今はやりたい事をやるのだと思い上がっていた事は確かだ
就職なんて都内で半年駆けずり回っても正社員にはなれないし。学歴も平凡で資格も持っていない自分はこの不況の中での就職活動が成就するとは思えない
いつの間にか、アパートが目の前にある。和己の部屋は四階
二十年近く前に立てられた建物なのでエレベーターなどは付いていない。自分の足で登るしかない
階段に足をかけ、昇って行く一歩一歩が重く体にのしかかってくるようだ
途中で二人の住人とすれ違い、挨拶をする。自分より充実しているようなマンションの隣人
(いっそ死んでしまおうか?)
暗い考えが浮かび上がる。心が普遍な平穏に悲鳴を上げるかのように、息苦しさが胸の中を覆って心を押しつぶそうとしている
階段を上りきり自室のドアの前に立つ、いまだに気持ちは重い。帰ったらそのまま寝ようか、徹夜で宿題を続けようかと思案を巡らしながらドアノブに手をかけた
中からテレビの音が聞こえる、消し忘れたのだろうか?出るときはそこまで気が回らなかったが、電源の着いた家電をそのまま放置して長時間出かけるのだろうか?
田舎では空き巣や泥棒対策に電灯を着けたまま家を空ける事があると聞いたことがある、あくまでも一例に過ぎないだろうが
部屋の中に誰か居るのだろうか?和己は生来の気の弱さから不安にとらわれそうになった
和己は意を決してドアを開く決心をした。もし空き巣が居てそいつに刺されたとしてもどうでもいいと投げやりな気持ちからだった
躊躇は一瞬。ギイイという錆びた金属同士が擦れ合う音を聞きながら電灯を入れ、目を剥いた
そこには髪の長い、白いブラウスと紺のレースを履いた少女が部屋の中で教育チャンネルを映したを眺めていた
「・・・・・・。」
和己は目の前の光景に唖然として、口を開いたままだった
確かに強盗などは居ない。何か盗もうにも部屋の中には価値のあるものなんて何も無かった
そして自分が襲われようと運命だと思って意を決してドアを開いた、開いたのだが・・・
中に居たのは白い服を着て腰まで長い紙を伸ばした少女であった
和己は自分の部屋に彼女が居る事について何か声をかけようとしたが、言葉が喉に詰まって何も出てこない
少女の姿があまりにも美しかったからというのもあるだろう
横顔から見ても判る日本人形のように整ったやや小さめな顔立ちに、桜の花弁のような桃色の唇と憂いを秘めたどこか寂しげな眼差し
肩まで下ろした長い髪は、夜色をそのまま染めたのような漆黒で部屋から浮いてしまうほどの異彩を放っている
和己は自分の胸の中の鼓動が高まっているのを感じた
視線が少女から離れない、まるで金縛りにかけられた様に視界が少女に固定されていた
(あの子は誰なんだろう?)
思いながら、疑問が浮かぶ。自分の親族に妹や姉は居ない
ましてや和己には女友達や彼女も居ないのだ。全く彼の知らない他人が自分の部屋の中でテレビを見ている
冷静に考えると。少女は勝手に人の家宅へ侵入しているのだ
犯罪では在るのだが、強盗や空き巣といった犯罪を連想させる物騒な単語が目の前の可憐な少女に結びつかない
だからといって、どうすべきなのか次の判断が和己の中で取れないままだった
「あ・・・。」
少女が玄関の戸を微かに開けて、自分を眺める視線に気付き和己の目と少女の目が合った
振り返った彼女の顔は子供が大人になる経過途中のそれであり、幼なさと艶やかさが入り混じる一見矛盾しながらも、二つの要素が成り立ったような端正な顔立ちを彼のほうへと向けていたのだ
そして、戸に張り付くようにして中の様子を伺っていた和己は驚き、その拍子にバランスが崩れ――――
「うわあっ!」
派手に転倒し玄関の石床に頭を打ちつけてしまう
目の前に散る火花というものを始めて知覚する。脳が揺れ、痛みで頭がくらくらし立とうと思ってもそれが出来ない
「あ、あの・・・大丈夫、ですか?」
(だ、大丈夫だよ・・・多分)
朦朧とする意識の中、和巳を心配する少女の声に心の中で答えたあとぷっつりと意識は闇に途切れてしまった