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鬼講師・井上

「おい、犬迫。」


講師の井上正勝いのうえ まさかつが怒鳴る様に言う

彼の背丈は和己よりやや高いくらいだったが、上半身の肉つきが筋肉質で体格が良く横幅は広い。

美大の講師というよりも中・高校での運動部顧問として、グラウンドで走る生徒に向かって怒声を張り上げている方がこの人物を表すイメージとしては適格で説明しやすいのかもしれない

申し分程度にかけた薄縁の眼鏡も、井上が醸し出す体育会系のイメージと威圧感を払拭するには圧倒的に役不足だった


「昨日書いたデッサンを見せろ」


「・・・はい」


和己は仕方なさそうに立ち上がりたどついた手つきでスケッチブックを井上に渡すと、彼はすぐさま開いて中のページを見た

昨日、自分は宿題をサボったので見せたのは例の少女の絵である。これで課題をこなしたと誤魔化せる訳が無いと思ったが、無地のページを見せるよりはマシである

最悪、他の絵からトレスしたと良い訳を挙げればよい。一応立つ瀬はある

発覚すればどちらにせよ井上の機嫌を損ねること間違い無いだろう。この教師は懲罰として宿題を増やす傾向が多いのだ


井上は無地に描かれた少女の絵を興味深そうに視線を這わせ、数秒後に和己にそれを押し付けた


「・・・おい、何だ?これはお前が書いたやつじゃないな」


速攻でバレた。やはり曲がりなりにも講師、小手先で誤魔化せる訳は無かった

予想通り井上の声が途端に険しいものになる。和己は講師が怒る前にいくつか用意してあった言い訳を口にする


「済みません、昨日バイトが忙しくて友人に頼みました」


講師は目を鋭く細め、和己の顔を覗き込むように顔を近づけてくる

ヤニ臭い臭いが顔にかかるが、目を背けるような事は出来ない。そうなれば最後、更なる罵声が飛んでくるのが解りきっていたからだ


「言い訳は分かった。終わった後で来い、たっぷり絞ってやる」


井上は和己の言い訳を両断する様にぴしゃりと言い放つ。放課後に呼び出されるなんてとんでもない

しかも今日はバイトがあるのだ。休んでシフトが開くと同僚に何を言われるか解らない

職場の雰囲気を悪くするわけにも、生活費の綱をボイコットするわけにはいかなかった

だから無駄だと解りつつ、和己は頼み込むのであった


「あの、今日はバイトが・・・」


縋り付くような口調で懇願する和己を講師は無言で和己を睨み付けた。自信なげな口調から彼の嘘を見破ったように見えた


「お前の事情なんか知るか!とにかく放課後は必ず来い」


「はい・・判りました」


有無を言わさぬ口調で言い切られる。幾つか反論の台詞が浮かんだが口に出せないまま雲散霧消してしまった

和己は渋々引き下がるしかない自分を呪った。自分にはこの講師に逆らう気力が無い事が判っているだけに無力感が再び彼の胸を覆いつくす

自分の意志の弱さを呪うしかできない


(なんで美大なんかに入ったんだろう?僕は)


考えても、いくら自分と問いかけても答えが得られないまま和己は自分の席に戻る

井上は和己には目をくれず、他の生徒たちの絵も見ていったのだった




夕方、予想通りにこってり絞られた挙句、膨大な宿題を課題として押し付けられ

すっかり気力が減退した和己は電車の中でなぜ自分が美大に入っていたのか考える

時刻は午後九時近くを回っている、バイトの時間はとっくに過ぎていた。

初めての欠席なので首にはならないだろうが、後日に無断欠席の理由を問われるだろう


更に井上には下書きのデッサンを十枚明日まで書いてくるように言われている、そのことを思い出すとまた口の中から溜息が漏れた

現在の状況は最悪であるとしか言いようが無い


(こんなことをして絵を描くことが何のためになるんだろう?)


自分は昔から絵が好きだった。そうだったはずだ

今思えば小中学の頃は下手糞な漫画のようなものを描いて知り合いに見せて自慢していたような気がした

毎日のように書いていたわけではない。習い事をあまりしていなかった事もありあの頃は時間が余っていたから出来た事だった

それを意識して絵の道を目指して見ようなどと思った事は、高校三年の秋くらいだったろうか?


周りが就職、進学と進路を決めていく中で和己は特に何をするまでも無くただ友人たちと遊び過ごしていた

そうして青春を謳歌していくことが、青年である自分たちの宿命であると信じて疑わない毎日

元来、彼は遊び好きの性格なのだ。ゲームセンターを巡ったり、カラオケボックスを同性の友達と練り歩いたり・・・春休みはそうして過ごしてきたのだ


それを見た親は当然ながら彼に就職を勧めてきた。関西地方のとある町工場に親がコネを持っていたからだ

給料もそれなりでサービス残業も有給も存分に使えるらしい。不景気の近況、今時珍しい好待遇の会社。悪くない話ではある

それを断ったのは、思春期の残り香である末期的な反抗期と根拠の無い全能感

更には、浮世離れして仙人じみた芸術家に対してへの反社会的かつ表面的な憧れだったと思う。今思えば遊びつかれた果ての気まぐれだったのだろう


『社会に頼らず、俺は絵描きになって生きる!』


和己はそう親に伝え就職の話を蹴ったのだ

しかし、現実はそう甘くは無い。美大に行ってみると彼より才能のある人間はごまんと在籍していた。福留みたいなやつも居るには居たが、それはごく少数の問題であって

半分以上の生徒は、和己より小さいころから真剣に芸術家への道を歩こうとしているものが多数だった


平凡で面白みに欠けてに見えた友人は一日に五十枚近くもデッサンや模写を行い、純粋な努力の力で和美を追い越したし

芸術家の子息が技術を学ぶ為に入学させられた天性の絵描きの卵も居たのだ。当然及ぶはずも無い

それは、和己の薄っぺらい思い込みの自身をやすやすと打ち砕いた。就職した方がましだったと思えるほどに打ちのめされてしまう


目標も情熱も磨耗して、金や時間を無駄にしながら美大の養分に成り下がった人間。それが現在の自分なのだと和己は己を嘲笑う毎日を送っていた、昨日までは


ふと、彼はスケッチブックを取り出した。今日書いた書きかけのデッサンの横に少女の絵

その絵に惹かれるものがあった。磨り潰された筈の情熱が絵を見るほどに湧き上がってくるのを感じる


(でも、なんでだろう?この絵を見ていると心の中のどこかが熱くなるような気がする)


訳の分からない衝動に急かされる様に、鞄から筆箱を取り出して鉛筆を手に取る。学生からの視線が集まったが周囲の目は気にならない


絵の線を足そうとするが揺れる列車の中では上手くいかない、幾度と無く線がずれた

周囲のサラリーマンからの視線も気になり始める、緊張で鼓動が早くなる。更に背中が無性に痒くなるような感触を覚える、上手く線が纏まらず輪郭を出せない

線を足せば足すほど心は乱れ、まともな絵にはならない。無駄なストレスが募るばかりである


熱が冷め切った彼は筆を握り、十分もしないうちに道具を鞄の中に戻す。そして自分には才能が無いのだと改めて思い知らされるように頭を抱え、揺れる車内にて苦悩するのだった

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