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二人の師・2

井上が訪れた夜から一週間後の朝。和己と聡子はいつものように朝食をとっていた時だ


「ゴメン、機能バイトが一時まで長引いちゃって、起きるのが遅れた」


「まだ七時半ですよ」


「だから今日朝食が作れなかったんだ。せっかく出汁用の粉昆布買って置いたのに・・

君に食べさせる新メニュー作りたかったのに・・・。」


和己はパンを口に運ぶ手を休め残念そうにうなだれた。それを励ますように聡子は微笑みかける

ここ数日の疲労で睡眠も碌に取っていない和己だったが、彼女の笑顔を見ると体の奥から力が湧き上がってくるようだった

だからこそ、意外に早い日数で目を覚ました聡子を気遣っているのだ。自分より無茶しているのは彼女のほうではないのかとも…


「私のことは気にしないで。別に食べなくても平気なんです」


「でも、栄養…だっけ?は取っておいたほうがいいだろ?」


「幽霊にとって食事することが栄養を取り込めるのかどうかわかりませんけど、食べることは楽しいです」


「生きる活力が沸いてくるって感じだよね、全国のラーメン屋巡りしている人の気持ちが解るような気がするよ」


「さすがにそこまでは・・・」


「そうだった。極端過ぎたよね」


二人はどこかおかしそうに笑う。他人を嘲る事の無い邪気の篭らない笑顔

彼は密かに少女の顔を見る。あれから二日ほど目を覚まさなかったものの彼女は何も変わった様子は無い

その事について言及しても聡子は大丈夫です。と曖昧な笑みを浮かべながら答えるばかりで、詳しいことは教えてくれなかった


(本当に何も無いのだろうか?)


和己は聡子の事が心配だった。目を離したときにいつの間にか消えてしまうような気がするのだ

毎日美大には通って練習している。帰宅した後はバイトが控えていない場合聡子に見てもらって、納得がいくまで描き直す

そんな日々を送ってきたせいか、絵は自分でも比較的うまくなったとは思う


自分より上手かった友人達はおろか、あの井上ですら「線の描き方が多少はマシになった。」と言わしめ、多少の絶賛を得られるほどには

そして最近は知り合いや講師のアドバイスさえも理解し、ある程度は自分の技巧にフィードバックする事が出来る様になった自覚はある

しかし、これは自分の力ではないと和己は考えている。すべては自分を励まし、支えてくれた聡子の御蔭なのだと

もともと才能はあったのだ、しかしやる気が無かった。周りの人間の御蔭で自分を見つめなおすことが出来たのだ


腕時計に目を向ける。そろそろ駅まで走らないと間に合わない時間が迫っていた


「それじゃ行ってくるよ」


「気をつけて下さい」


玄関口に歩いていく和己に聡子は励ますように手を振った

いつもの光景、ずっと続けばいいのにとさえ思い始めた充実した日常

胸の内に暖かな光が宿るのを感じながら彼はドアの外へ出る


(だが、この胸騒ぎは何だ?)


感じる、予感。

思い出すは一週間前の聡子の反応。それは福留達の襲撃の前の出来事だ



『迷惑かけますから!構わないで下さいッ!!』



聡子は彼女にしては珍しいまでに激情を曝け出して、自分の部屋から出て行った

そしてそれを和己が追いかけ、屋敷までたどり着いて彼女を連れ戻そうとしたのだから

嫉妬に狂った、福留率いるチーマーの襲撃を受けたのはその後である


(何が彼女を激昂させたんだ?)


考えても分からない。和己がもしかして無意識の内に聡子が不快になるようなことでもしたのだろうか?

思い当たることといえば、その前に彼女に絵のモデルを頼んだこと位しか分からない

そういえば、あの日の聡子はやけに様子がおかしかった気がする

しっかりとして気品を失わず、それでいて天然な部分を垣間見せる聡子があの日はやけにそわそわしていなかっただろうか?


(僕にはまだ、彼女のことが分かっていないのかも知れない。)


落ち込みつつも駅に向かって和己は走った。己の迷いを振り切るように

どんなことが起きても今は悩まずに突っ走るのが正解だった。そう、コンクールの日が来るまで気を抜いて入られないのだから





「…よう、意外と早かったじゃねぇか?」


「まだ始業一時間前です。それに毎日来るのは早いですから」


「そうだったな」


井上は準備室で待っていた。その様子が彼にしては珍しくどこと無く疲労しているように見えたのは和己の気のせいだろうか?

尊大で憎々しげな口調はそのままだったが、多少覇気に欠けているような気がする

少しだが気になったので尋ねてみる。いつもの様子の井上だったら声などかけなかっただろう

今日は何かが今までと違った


「どうしたんですか?疲れたような顔をして」


「お前にはどうでもいいことだ。余計な詮索をするくらいならいい作品を描き上げる事を考えろ」


彫りの深い顔の鬼講師は口元を歪める。目はやや充血し、浮かべた笑みは疲労の色が隠せないが眼光の強さは失われていない

顎の下にびっしりと無精髭が生えているのが見えた、剃るのに気が回らなかったのだろうか?

いつも以上に粗暴な印象を抱かせる。それになんだか酒臭いそれが否応にも不安を煽るのだ


変であると、和己彼を評した

今までは井上なんかこの学校から出て行って欲しいなどと顔を合わせるたびに思っていたのに

今日の彼を見ると、なぜか不安に思ってしまうのだ

あの夜以降、彼が生前の聡子の専属講師だったことを知ってから、同じ少女を知るもの同士として多少なりと情が映ったのかもしれない

それ以前にこの男性ひとは自分の講師であり師匠なのだ


「分かりましたよ。余計なことは考えずに練習します」


井上は無言で顔を背け、窓の外を見た。和己は彼の反応も機にせずにボードを引っ張ってきて画用紙を広げ、コンテを持った

本人が大丈夫だといっている以上、余計な心配を寄せるべきではない。それにあの井上だ、必要以上に同情を寄せるのは失礼というものだろう


無地の白に見えないラインを幻視すると、即座に手が動き線をなしていく

数本の線はやがて折り重なり、結びつきながら一つの輪郭となり少女の笑顔を書き出していった

木製の仏像を素材から切り出す彫刻家というものは完璧に己の幻想を捕らえながら、無形の仏に形を与えるために

唯の木材に精緻な彫刻を施し形を与えていくのだろう


今の和己はそれに近い心象だった。特に意識しなくても頭の中のイメージが浮かび上がり手に伝播させ絵と成していくのが分かる

それは選ばれた才能とそこから一握りの人間だけが授けられる美を造形する才の一端だった


チャイムが鳴ると同時に、和己の手が止まった

背後を振り返ると井上はまだ立っている、先程と比べ幾分か精彩が戻ってきたような気がした


「これでどうですか?」


「まだまだだな。聡子どころか全盛期の俺には及ばん」


ガハハ、と彼が笑った。豪快に人前で笑う井上を見たのは和己にとって初めてだった

今まで井上のこんな嬉しそうな顔は見たことが無い。だからこそ何か有るのだと裏を探らずにはいけなかった


「それでは僕は授業がありますので」


「和己。」


去ろうとする和己に井上は言葉を送った


「夢を諦めるな、世の中を恨んだりするな、政治や新興宗教に首を突っ込むな・・そして腐って世の中を恨むな

そうすれば下手糞な絵でも物好きの成金が金をくれるかもしれん。後、女にも気を付けろ」


「長いですよ・・・それに、俺は絵で食って行くつもりなので他の事には興味を持ちません」


「そうか」


不適に笑ってやると、井上は楽しげに目を細める。まるで手のかかる息子の成長を見守るように

それを見届けると、和己は出口を抜けて教室に走っていく。井上の事は考えないようにした

彼ならば多少の障害をやり過ごすすべは備えているだろうと信頼していたからである。これも、以前は抱かなかった井上に対しての信頼の情からである



だが、数日後に彼は思い知ることになる。己の悟った悪い予感が辛くも的中してしまう事に

彼が福留不動産からの苦情と圧力から和己を庇い、美大の講師を解任された情報が耳に入ったのは

更に一ヵ月後の事件であった

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