コンクール推薦・1
和己が井上に呼び出されたのは、聡子が自分の名前を明かしてから二日後のことである
正直に言うと、あまり良い気分はしない。幾度と無く呼ばれては怒鳴りつけられた前歴があったからだ
思い返してみると、その内のほぼ大多数が和己自身にも非があるような事ばかりではあったが、それを自覚し省みるには彼は流石にまだ若すぎた
「・・何ですか、先生」
「お前、今度のコンクールに絵を出してみる気はないか?俺が推薦してやる」
「えっ?」
彼が驚いたのも当然だ、井上からこのような話が出るなんて考えたことも無かったし
それにコンクールに呼ばれるほど自分の絵が上手いなどと思ったことも例が存在しなかったからだ
長らく待ち望んでいたはずの夢の舞台。正直、心が躍った事は否定できない
だが、いざ現実にそれが突きつけられても素直に受け入れるはずが無い。現に和己は今、困惑と戸惑いの眼差しを井上に向けている
「僕なんかより、もっと上手い人いると思うんですが」
「それがどうした?」
断ろうとすると井上が疑問の表情を向けてくる。原因が分からない、これは彼なりの嫌がらせなのだろうかとの考えが脳内によぎってしまう
何か自分が彼の機嫌を損ねるようなことでもしたのだろうか?と、和己が後ろ向きな思考をした時に井上が言った
「お前もここに入って三年だ、上手いとは言わないが絵のレベルは外に出してもまあまあ見られるようになってきた。特に最近は並より上を行っている
ここで一つ、実力を試してみるのもいい機会じゃないか?」
「・・・。」
全く状況が掴めない。昨日この人は車に撥ねられて頭を打っておかしなことでも考え始めたのではないのか?
そのような疑いを持ちながら和己は考えたが、至って井上は真剣に見える。彼が冗談を好き好んでいる人間じゃないことは知る限り明らかであると言ってもいい
ある意味では真面目過ぎるほどに頑固で、昭和の古臭い伝統を受け継いだかのような化石講師
そんな石頭性分の井上の提案。辞退したい気持ちもあったが、コンクールに絵を出したいというのは実を言うとかねてからの願望でもあったのだ
「受けてくれるな?」
美大入学から抱いてきた夢への第一歩。その輝きの一端を垣間見るには己の絵が力不足である感は否めなかったが・・・
「・・・・・気が進みませんけど、引き受けることにします」
誘惑には勝てない。当たり前だ、たとえどんな形であってもそれは夢に近づける切符なのだ
自分の絵を売り込むための第一歩となるのならばたとえ悪魔と契ってでもチャンスは掴みたかったのが本音だ。その悪魔の顔がたとえ忌み嫌う井上の顔を持っていたとしても
和己でなくとも目的を持ってこの美大に籍を置いているものならば、断る理由は何も無いのだ。井上が自分を推薦しようとしていることを本気なのか疑う気持ちは残ってはいるが
「そうか、済まんな」
「?」
井上が唐突に謝罪の言葉を告げたので、和己はますます混乱しつつ冷静な部分で考えてみた
何故自分なんかが他の人間を押しのけて、絵をコンクールに出させようなんて鬼講師が考えたことを色々と推測しながら
彼は今日最初の授業を受けるために部屋を後にしたのだった
昼休み。和己は昼食も取らず一心不乱に画用紙に向かいコンテを振るっていた
無論の事だが、コンクールに出展する絵の練習に取り組んでいる最中である
人前に絵を出す機会を得られたのならばそれ相応の努力だけは惜しんではいけないと考えた末の結論である
だが、彼の決意とは裏腹に線を描いても描いてもまとまらない。感情の高ぶりと興奮がまともに指を動かさないのだ
焦りは焦りを呼び、更に描くものが雑に、そして汚くなっていく
(ダメだ、曲線が上手くまとまらない。イメージを捉えきれない!)
画用紙に半分描きかけていたゴッホ人物像を、惜しげも無くくしゃくしゃに丸めゴミ箱に放り投げる
しかしながら、距離が離れていたので投げた画用紙ボールは薄緑色のゴミ箱の縁に弾かれて床に落ちた
「ああもうッ!」
苛立ち混じりの声を上げながら、落ちた画用紙を再び拾ってゴミ箱に放り込む和己
他に生徒や講師がいたら眉をひそめられるであろう光景だったが
この教室には和己以外の人間は居ない。絵の練習の為に井上からあてがわれた空き教室である
「どうして、僕なんだ?」
午前中から胸の中で何百回とループしていた疑問を始めて口に出す
訳が分からなかった。美大でぐうたらに過ごし、一日を使い潰すような生活を送っていた自分が
何故に都のコンクールに絵を出せると言う高待遇を得たのかと
自分よりもっと上手い人間はいる。才能も有る人間は幾らでもいるにもかかわらずだ
それに井上の態度が気にかかる。ここ数日の様子がおかしかった
それまで、和己と彼の接点と言えば怒鳴られるくらいしかなかったのに
和己が今日、問いを投げかけていたようにまたもや答えは得られなかった。自分に思い当たる節は無いのに
悩んでいても答えは見つからない、仕方なくカンバスの前に座りなおし作業を続ける和己だったが
「お前、こんなところで何やってんの?」
廊下から福留が顔を出してきていた
「あ、ああ・・・」
和己は遠慮がちな声を出す、醜態が見られていないか心配だった
彼も一応知人ではあるのだ。今ので余計なうわさが立ってしまうと学校に居辛くなるのは確実だろう
「ど、どうしたんだよ・・いきなり声をかけてくるなんて」
「お前、こんな時間も自習かよ」
「悪いかよ。井上に絵を出せっていわれたんだ、都のコンクールにさ!」
福留は和己の言葉を聴いて驚いたようだった。悪い意味で軽い性格の彼からそのような感情が感情が垣間見えたこと自体、珍しくもあったのだ
彼は驚愕の表情そのままに、今まで和己が聞いたことも無いような情けない声を漏らす
「嘘・・・だろ?何でお前なんかが推薦受けるんだよ」
「俺にだって分からないよ・・・。」
本当に今の状況が分からない、当事者になったのに実感が湧かない。今の彼は福留にすら縋りたい気持ちだった
だが、期待とは裏腹に困惑する和己の前で福留は何を考えたのか即席の半笑いを浮かべると言う
しかし瞳の中の黒い熱情に置かされた炎が自分を見ている。恐れをなして、和己は半歩のみ後方に引いた
「ならよ、いっそのことサボっちまえよ」
「・・・え?」
「お前の実力じゃ、佳作にもなんねーしさ。出すだけ無駄だって
推薦したのも井上がいびりたがってんじゃねーのか?」
楽しそうに言う福留。いつもの和己だったら冗談交じりに己を卑下してそれで終わりだったろう
それを聞いて和己の頭の中が熱くなった
「やめとけやめとけ、真面目にやっても結果なんて出ないんだからさ。女を連れまわして適当に過ごしていたほうが人生楽しいんだよ」
たしかに、それも一つの生き方なのかもしれない
しかし、和己はその生き方を歩むつもりは無かった
自分は福留ほど異性にもてたことも無いし、特に特技らしい特技と言えば絵を描くことくらいだ
それすらも否定してしまったとき、きっと後悔してしまうと思う
だからだろうか、普段は強いことを滅多に言わない彼が口を出したのは
「せっかく貰ったチャンスなんだ。この機会を逃すわけにはいかないよ」
「ハァ?何言ってんのお前」
福留が馬鹿にし切ったように和己を見た。しかし瞳の中は暗い炎で渦巻いている
彼のや無き宿る闇の正体は分かった。おそらく嫉妬と羨望だ、彼自身は努力すらしていないのによくもまあこうも、人に対して図々しい感情を抱けるものである
和己は暗く濁ったその瞳を見て自分はこうはなりたくないと密かに思う
彼を追い込むように福留がまくし立てる。必死に見えた
「夢とか希望とか馬鹿じゃねえのか?どうせお前なんかより金や才能持っている奴のほうが賞を貰うに決まってるよ」
「だから、やってみなければわからないだろ!」
口論が交わされる度に和己の口調が徐々に荒くなっていく、それは福留も同様だった
「大体、木間は僕に説教できるようなタマか?君だって受賞したことがないくせに!」
「何だと・・・?」
福留の目が据わり、つかつかと和己に歩み寄ってくる
胸倉をつかまれる感触を味わいながら、和己は覚悟を決めた
いいだろう、やってみろ。その代わり・・・倍にして返すと心に誓いながら
「オイ!お前ら止めないか!!」
井上の声が割り込んできたのはちょうど福留が拳を振り上げたときだった




