届けられたスケッチブック
「素直に就職しとけばよかったなあ・・・」
駅へと向かう道を歩きながら犬迫和巳は一人ぼやいた
彼は美術系の大学に通っていた。将来は絵に携わる仕事に就きたかったので就職を勧める親の説得に猛反発して
その業界でもそこそこ名のしれる美術大学に進んだのだ
しかし、今となって和己は己の選択を後悔していた。彼は幼少期に一度だけ賞を貰ったりと、それなりに自分の絵に自信が持っていた
だが、学校では彼以上に優れた感性を持つものや、幼い頃からその道に進むため努力してきた実力者が何人も在籍し、人脈も才能も平凡な和己にとって場違いに等しい場所だったのだ
結果として彼の自信は叩きのめされてしまったと言えよう。何人か絵の上手い友人が出来たはいいが、
和巳には彼等の言っている絵のアドバイスが理解できない上に、彼等自身も余り和己に構っている時間が無い
そして、友人の方が和巳より達筆な人間はたくさんいる、センスも和巳は彼らに遠く及ばない
要するに常人より多少は絵が上手いからと「勘違い」凡人だったのだとようやく和己は己の力量に気付き…悟ってしまい
現状に失望しているのだ
何のために頑固かつ堅物の両親を説得、都内に上京してバイトをいくつか掛け持ちし、一人暮らしをしている自分が馬鹿らしくなり空しさを覚える毎日を和己は過ごしている
「もう辞めちゃおうかな・・・」
いつも続いていた思考のループ。何回も擦り切れそうな程に考えた終わりへの道、夢への諦め
美大を辞める。何回も思ったことだった、しかしそれを遂行すると今までの自分は無駄になる
しかし、どうにも踏ん切りがつかない。未練が尾を引いてしまうのだ
勇気が足りない故に退学届けを提出する事が中々出来ない。貴重な時間を浪費している事を自覚してはいるのだが
歩いていくうちに人通りが多い通りに出た。駅が近いのだ
和巳は早く自宅に戻りたかったので足を急ぐ、雑踏の群れを書き分けて売り場で切符を買おうとした時、横幅の広い中年男性が割り込み接触してしまう
「あ!」
ぶつかった事により小銭をいくつか落としてしまった、拾おうとはしたものの更に押され無情にも全て取りこぼしてしまう
五百円、百円玉等、数枚の硬貨が排水溝まで転がり落ち、乾いた音を立てた
五円、十円といった小額の硬貨をすぐに使うか両替し軽くするため財布に貯めこまない
その貧乏性がここで災いとなってしまったのだ
「ああ・・・。」
大切な生活費が、札の少ない財布から、貴重な硬貨が汚らしい下水溝に落ちてしまったのを目の当たりにして絶望しそうになる
無論の事だが、とても回収できそうにない。這い蹲って排水溝の蓋をこじ開けるという発想は今の彼には存在しなかった
今日の運勢はとことん最悪である
ほうほうの体で各駅停車の電車に乗り込んだ。満員ではなかったものの人が多く、座れそうな席は一つだけしか空いていなかったので急いで確保した
「へえ、五万勝ったの?すげえなあ」
「今度東北地方に出張になってさあ、断ろうと思ったんだけど、上司がクビにするって言うんで結局行くことになっちまったよ・・・」
「聞いた?隣町のお金持ちの家のお嬢さん、死んじゃったみたいなんだけど、お嬢さんの父親がねえ・・・」
(うるさいなあ、少しは静かにしてくれよ)
揺れる電車の中では他愛もない世間話が繰り返される
和巳は乗客たちの声がいやおうにも耳に入ってくるので、ストレスも相まって車内で寝ることも出来ず、内心はイライラを募らせていた
「・・・そのお嬢さん。なにしろ美大に入っていて絵の才能もあってねえ、専門の教師も付けたらしい話で上手く行けばプロになれたんだってねさ」
「いいわねえお金持ちは。道楽にも素質にも恵まれてて。私らの旦那なんてろくに稼ぎもしないのに羨ましい話だわぁ
腹を痛めて産んでやったボンクラ息子に習い事させても身につかないし…」
派手な服装をした二重顎の二人の中年女性同士の会話が耳に入る
髪型が時代遅れのウェーブがかかっており、化粧も同様に派手派手しい
ファンデーションを塗りたくっても皺を隠しきれない皮膚に、明らかに似合わない濃いアイシャドウが浮いていた
おそらく、あの「オバサン」達は十数年前のバブル時代が忘れられずにいる四十代なのかもしれない
「へえ・・・可哀想にねえ」
美大。もしかしたら自分の通っていた学校の生徒の話かもしれない
中年のおばさんの噂話になるくらいなので、もしかしたら有名な生徒だったのかもしれないがここ半年、美大にあまり通わず上京してきた就職組の友人と遊ぶことが多かった和巳からすれば
それが耳に入ってこないのも仕方のないことかもしれなかった
(どうでもいいよな、今の俺には関係ねえし)
和巳は電車の窓から流れていく景色を見たが見慣れた風景は彼に何の感慨も及ぼさない
今は風景を楽しむゆとりは彼に無い。疲れによってうつらうつらと首が舟を漕いでいた
(ヤバイ!乗り過ごした!)
和己が目を覚ましたとき、既に彼のアパートが付近にある駅から三区画程度行き過ぎた場所を電車は走っていた
慌てて次の駅で降りるが、再度各駅停車の上り列車が来るには約四十分かかる
暇つぶし用の文庫本も忘れてしまった、無駄な時間を作ってしまった
「しょうがない、いったん駅を出て本屋で暇を潰すか」
和己は改札口を出て、見慣れぬ街へと足を踏み入れていった
何も無い場所だ。和己が今、自分が歩いている場所にそう評価を付けた
確かにデパートや個人経営の小さな書店、申し訳程度の飲食店といった設備は駅周辺に並んでいたが
そこから出て歩いていくと、住宅街が点在する平坦な町並みの場所が延々と続く
和己の通う美大がある市はアミューズメントパークや映画館など最低限の娯楽設備があったのだがここはそれすらも無い
都市部から離れた静かな街というのが、ある意味で最も当てはまっており当たり障りの無い表現なのかもしれない
しばらく迷わない程度に歩いていくと、古屋敷が見える
それなりの名家が住んでいたであろう家ではあったが、『売却中』と立て札が仰々しい門の脇に立てられ既に持ち主の手から不動産屋へと管理が移っている様だ
(なんか幽霊でも出そうな場所だな、造詣は嫌いじゃないけど)
新しい苔の生えた大門を軽く叩きつつ、和己はこの屋敷への感想を抱いた
「ん?」
背中がムズムズする様な、変な感触を覚え彼は背後を振り返るが誰も居ない
ついでに安物の腕時計を除くと時間は電車が来る五分前を指していた
「ヤバイ!遅れちゃう!!」
和己は元来た道を逆方向に一目散に駆け出していく、最近は運動もしたことが無く体を鍛えても居ない彼からすれば
たとえ駅から三百メートルほどの距離でも急がざるを得ないのだ。下手に寄り道でもしようとした己の頭を叩きたくなってくる
しかし、彼は気づかなかった
バックのチャックが緩んでおりそこから黒表紙のスケッチブックが半分ほど顔を覗かせていたことに
そして走り出したことがきっかけでチャックが揺らされ鞄の口が開いた挙句に、それを門の前で落としてしまったことなどは
不幸な事に焦りに焦って、心の余裕がまるで無かった和己が気づく事は無かったのだ
家についたのはそれから一時間ほど後の事である
帰ってからやったことは荷物を玄関の前に放り出し、浴室に入ってすぐシャワーを浴びた
熱い湯と激しい水の流れが、今日の疲れとストレスを洗い流してくれるような気がする
そうやって三十分ほど丹念に体を洗いバスタオルを巻きながら汗を拭き取り、ベッドの前に設置したテレビを付け時刻を確認する
バラエティ番組を映す画面の左上に表示された時刻はすでに九時を過ぎていた、明日の始発に間に合うようにするには十一時辺りには
眠りに就かなければいけなかった
「なにで暇を潰そうか?」
考えたところ、玄関に放置してあった鞄の中をあさくる。しかし、中に入っていたはずのスケッチブックが見当たらない
恐らく、慌てて走っていったときに落としたのかもしれない
「オイ!くそっ!何で俺はついていないんだ・・・」
絶望と無力感で天井を仰ぎそうになった和己だが玄関ポスト口の下に置かれていた黒表紙を認めて驚いた
「嘘・・・。ひょっとして学校の人間が届けてくれたのかな?」
しかし、今日落としたにしては早すぎるような気がした
第一、スケッチブックに自宅の住所を書く人間は和己の知っている人間には居ない
流石に名前くらいは書くが、それで住所が特定できるような輩は警察か私設探偵くらいしか思いつかない
(なんか不気味だなぁ、福留たちの悪戯なのかな?)
開くと、麦わら帽子とワンピースの長い黒髪の少女の鉛筆書きが描かれている。今日に和己が描いたものではないが見事なデッサンだった
線と影の使い方が上手く、太い鉛筆で描いたらしいものではあるが、まるで写真を写したかのようだった。色を付けてしまえば完成度は更に向上するであろう
(こんな絵、俺描いたっけなあ?)
首を捻りつつも無言でスケッチブックを鞄に戻す。和巳が将来プロになると見込んでいる連中は一日に三十枚近くのデッサンを描き込んでいる
彼らの絵を見せてもらったが線のアタリも、背景の書き込みもパースも何一つ和己が勝てそうな要素は無かった
才能のない自分とは比較にならないほど彼等は努力していたのだ
この絵はそのどれすらも凌駕しているように思えてならない。もやもやした気持ちのままスケッチブックを閉じて鞄に放り込んだ
和巳はテレビのところまで戻り冷蔵庫の中の発泡酒の缶を手に取った
コンビニで買った安い発泡酒を入れた容器はほどよく冷えていた
冷たい感触が僅かだが自分の中にある葛藤を癒してくれるようだ。最近、そうやってストレスを酒で流すのが日課となっていた
今日、硬貨を落としそれどころではないのだがこうでもしないとやっていけない
順調にダメ人間への階段を上っていることは自覚していたが、酒の力にでも頼らないととてもではないが美大に行く気がしないのだ
酒をちびちび飲みながら、和己はテレビを見る。画面の中では毎度おなじみの女優タレントが
関西弁で話す司会者に言葉巧みにいじられている
つまらない。と思いながら缶に口を当てて中の液体を食堂に少しずつ流し込む
別に和己は酒に弱いわけではない。収入の関係から一日一本ずつしか酒を消費できないのだ
これが今の彼の日常だった。こんな暇つぶしをしていても何の進歩にもならないということは和己自身が良くわかったいたが、
改善する気は起きない。ある科目の口うるさい講師に怒鳴られ続ければ鬱気味にもなる
アルコールはいわば麻酔薬だった。日々のストレスから脆弱な心を守るための諸刃の剣
泥と屈辱にまみれたループする毎日は思い切って夢を諦め、美大を退学すれば逃れられるのだろうか?
(俺の人生って、一体何の意味があるんだろうな・・・?)
和己は自虐の笑いを浮かべながらも、テレビの画面を見やった
タレント達は画面の中で下らないことをしている。そして自分はテレビ局が企画した予算削減対策の下らない雛壇クイズ番組を暇つぶしに眺め、貴重な時間を潰している
番組が終わるまで、そうやってアルコールを呷っていた
バラエティ番組が終わり、ニュースが始まると。和己は歯を磨くために洗面所に向かう
和己自身は清潔にしなくても気にしない性分だったが、酒を飲んだ後なのでせめて口の中だけでも綺麗に保ちたい気持ちからである
学校に行くならばそうすべきだった。しかし、明日は行くかどうかは友人からメールが来るかどうかで決めるつもりだ
最早、美大に登校すること自体が和己の中で目的ではなく惰性と化していた
洗面期の明かりをつけると、髭もろくに剃っていない自分の顔が見える。いつもならその筈であった
「え?」
鏡の端、に白いものが映っていた。普段なら見落としてしまいがちの小さな変化
和己はそれが女物の洋服のような錯覚を受けた
彼の頭の中で先日友人宅で見たホラー小説の一幕が目に浮かんだ
和己は息を呑みながら背後を振り返った
何もいない。もう一度鏡を見ると相変わらずくたびれた表情で自分の顔をのぞき込む和己の姿が映っている
「幽霊・・・なんて事は無いよな?」
白い影は何処にも見あたらない。疲れと悩みが自分に幻覚を見せたのだろう
自分が酒に弱い体質である事を和己は自覚している。あくびが出て、情けない声を漏らす
アルコールに頼って現実を忘れるのは最近の悪い癖だ。改善しようとは思ってはいるが、なかなかそうはいかないのだ
体が睡眠を要求している、いつもより早い就寝だが今夜は生理現象の声に従う事に決める
明かりを消した和己は自分の目が錯覚である信じながら
ソファーに転がって横になり睡魔に身を任せるようにして、目を閉じたのだった