毒婦と言われて婚約破棄されたので、見知らぬ男爵さまと経済学のお話で盛り上がりました
「毒婦、アリシア・ノートレイン! もうわたしは耐えられない! あなたとの婚約は、今をもって破棄させてもらう!!」
伯爵家以上の王太后の派閥が集う夜会での出来事だった。
本音を笑顔で隠す貴族達の宴。
特に爵位が上がるほど、その傾向は顕著になっていく。
その中で怒気をはらんだ叫び声は、衆目を引かずにはいられなかった。
声を上げたのはジェントレー伯爵の次男、オーセン。
紅潮した顔を見るに、よほど腹に据えかねているのだろう。
彼の前には、怒鳴り声すらもどこ吹く風といった感じの女性が座っていた。
テーブルの上に本を広げていて、交流を育んでいるようには見えない。
婚約破棄という言葉を受けても、感情が揺れているようにはみえなかった。
上級貴族ほど感情を隠すのが上手い。
(この方、本当に『毒婦』という言葉の意味をご存じなのかしら)
アリシア・ノートレイン侯爵令嬢は、澄ました表情のまま少し前のことを思い出していた。
☆
婚約が決まったのは、四年前の春のことだ。
まだ十五だったアリシアの前に現れたオーセンは、緊張した顔でこう言った。
「よろしく頼む、アリシア嬢。あなたの力になれる婚約者でありたい」
言葉が足りない不器用な挨拶だったが、それが逆に彼の誠実さを裏付けているように感じさせた。
しかし、蜜月は長くは続かなかった。
オーセンは頭のいい女が好きではなかった。
――正確には、自分を立てない女を心底嫌っていた。
アリシアが雑学の話をするたび、彼の眉はわずかに曇った。
学問の話題に触れると、あからさまに不機嫌になった。
「令嬢がそんなことを知って、何の得がある?」
そう吐き捨てた彼の言葉を、アリシアは今でも覚えている。
それ以降、アリシアは賢いことを隠すようになった。
読書は自室の中だけで。
意見は問われない限り口にしない。
オーセンの服を選ぶ話、季節の花の話、当たり障りのない天気の話。
二人の間には、上辺だけの会話だけが交わされるようになっていった。
それでも、アリシアは婚約を解消しようとは思わなかった。
両家にとって利のある縁組だという事情もあったが、それ以上に――誰かに必要とされたいという願望を、ずっと心の奥底に持っていたからだ。
(いつか、本当のわたくしを見てくれると思っていたのかもしれません)
☆
今となっては、笑い話にもならない。
「オーセン様がそう仰るのであれば、わたくしに否はございません」
騒然とする周囲の状況に反して、アリシアは静かに本を閉じて立ち上がった。
「どうして、そんな冷静でいられるんだ! 婚約破棄なんだぞ!? ノートレイン侯爵家にとって大きな傷になるはずだ!! アリシア、あなたにとってもそうだろう?」
その場から立ち去ろうとするアリシアに向かって、オーセンは更に声を荒げる。
その瞳には焦燥感が見て取れた。
アリシアは立ち止まる。
オーセンの表情が笑顔でゆがんだ。
(あぁ、この方は、わたくしが許しを請うと思ってらっしゃるのでしょうね。けれど――本当に、何もご存じないのですね)
アリシアには、オーセンが『毒婦』という言葉の意味を、本当に理解しているようには思えなかった。
最近、彼が親しくしているマリアベル・シュテルン。
おそらく、彼女から吹き込まれた言葉を、そのまま口にしているのだろう。
ならば、ここで反論する必要はない。
傷心を理由に、この場を離れるのが最善だといえた。
母の言葉は、今でもアリシアの胸に残っている。
だからこそ、アリシアは学問だけではなく、情報を集めることにも力を注いできた。
「アリシア、覚えておきなさい。人を動かすのはお金と感情、そして情報よ。その三つを持つ者には、誰も勝つことができないわ。それは例え王族であったとしてもよ」
対立派閥のシュテルン家がオーセンに接触している、という情報をアリシアは、三週間前に手に入れていた。
これはアリシア自身がもつ情報網によるものだ。
対立派閥の令嬢に取り込まれたことや、侯爵家の評判を貶める役目を買って出たことなど。
シュテルン家とジェントレー家の帳簿に、同じ金額の不自然な入出金を見つけていた。
以前から付き合いのある商人を通じて、帳簿の写しを手に入れていたのだ。
それはオーセンが既に敵対派閥側にいるということを暗示している。
だから、オーセンの行動は想定していた。
それを知りつつ、あえてアリシアは動かなかった。
公の場で全てをさらけ出して対抗することは、貴族としての矜持に反することだと分かっていたから。
「わたくし、動揺しているようで気分が優れません。申し訳ございませんが席を外させて頂きますね」
アリシアは振り返ることもなく会場をあとにする。
すれ違う令嬢達の視線には、憐憫と嘲笑が入り混じっていた。
「まあ、お可哀想に」
「所詮、才女気取りだったのですね」
「婚約破棄された令嬢が、次の縁を見つけられるのかしら」
悪意がこもった囁き声は、隠す気もなく耳に届く。
アリシアは表情ひとつ変えなかった。
傷つかなかったわけではない。
こういう視線は、幼い頃から受け続けてきた。
孤児院から引き取られ、侯爵家の養女となった身の上――それだけで格好の的になる。
(慣れていますもの。こんな視線には、とうの昔に――)
そう自分に言い聞かせながら、アリシアは会場の外へと歩き続けた。
その矢先だった。
「こんばんは、ノートレイン侯爵令嬢」
アリシアに立ち塞がるようにして、一人の男性が立っていた。
「こんばんは。あなた様はどちら様なのでしょうか? 先に名乗るのが礼儀ではございませんか」
「大変、失礼致しました。わたしはバルド男爵。本日はシュルツ伯爵家のご厚意で、社交の勉強をするために参加しております。田舎の領地におりますと、王都の社交には疎くなりますので。先ほどのお詫びに、こちらを受け取って下さいませんか?」
「あら、何かしら」
「バーンズ卿が書いたバーンズ経済学という書籍です。お持ちの本が、こちらと似ていると思いまして」
アリシアは、差し出された本の表紙をしばらく見つめた。
バーンズ経済学。
王国の商業政策に多大な影響を与えたとされる一冊で、初版はとうに市場から消えており、入手は困難とされている逸品である。
アリシア自身、何度も書商に問い合わせたが、いずれも空振りに終わった貴重品だ。
「まあ、バーンズ卿の本ですね。わたくしも手に入れようとしたのですけれど……」
「宜しければお貸しいたしますよ」
「まあ、殿方から本をお借りするなど、外聞が悪くはございませんか?」
特に先刻、婚約破棄を言い渡された身の上である。
それでもアリシアの瞳には、隠しきれない興味の色が浮かんでいた。
(最近になって再版されたもののようですね。どうやって手に入れることができたのかしら……?)
表紙の質感を確かめながら、アリシアは思考を巡らせる。
この本を持ち歩いていたということは、この男性は夜会で経済学の本を読んでいたのだろうか。
このような社交の場で読書をするのは自分だけではないか、と思っていたが、案外そうではないらしい。
「また配慮が足りなかったようです。どうでしょう、お詫びといってはなんですが、お貸しするのではなく差し上げましょう。わたしはもう一冊持っておりますので」
「このような貴重品をですか? あなた様にそこまでして頂く理由がございません」
「理由なら、今しがた出来ました。バーンズ経済学について語り合える相手など、そうそう出会えるものではありませんので」
バルド男爵は口元に笑みを浮かべた。
それでも、アリシアを見る視線は真剣だった。
(お上手ですこと)
表情から本心を悟らせずに、状況掌握と言葉だけで主導権を握っている。
侯爵家の才媛としての矜持が、アリシアを動かした。
「――でしたら、少しだけお付き合い頂けますか。バーンズ卿の唱えた『価値循環論』について、わたくしには納得のいかない点がございまして」
「価値循環論ですか。その着眼点は面白いですね。わたしも誰かと語りたいと思っていた箇所です」
二人は連れ立って、喧騒から離れたバルコニーへと足を向けた。
婚約破棄の余韻など、もはやアリシアの頭にはなかった。
月明かりの下、二人は貨幣の流通速度と商会の独占について、身分も立場も忘れて語り合った。
アリシアの理路整然とした主張に、バルド男爵は何度も舌を巻く。
「アリシア嬢は、何故そこまで経済学に惹かれるのですか? 令嬢が学ぶには、いささか浮世離れした学問かと思いますが」
「……亡き母から、知識だけが、誰にも奪われない財産よと、幼い頃からよく言い聞かされておりましたので」
アリシアは懐かしそうに目を細める。
「貴族の令嬢として着飾ることより、わたくしはその言葉の方が、ずっと胸の中に残っているのです」
バルド男爵は、目の前の令嬢の評価を上方修正する。
(これほどまでに聡明な令嬢が、なぜ今まで社交界で噂にもならなかったのか)
理由は至って簡単だった。
アリシアが婚約者であるオーセンの顔を立てるため、目立つことを避けていたのだ。
「バルド男爵。あなた様は本当に男爵なのでしょうか?」
「……それは、どういう意味でしょうか?」
「先ほどの理論への切り返し、教科書通りの受け売りではございませんでしたもの。ご自身で実際に、商会か何かを動かした経験がおありなのでは? ルデンス商会の名をさらりと出された瞬間、わたくしは確信しましたわ。あの商会が港湾の何割を握っているかを数字で知っているのは、ごく限られた方のはずですもの」
バルド男爵は苦笑した。
議論に熱中するあまり、演技を忘れてしまっていたらしい。
(それでも初対面の令嬢に見抜かれるとは思わなかったが)
「ご想像にお任せ致します」
バルド男爵はおどけた表情で両手を開いた。
「あら、お上手ですね」
そう言って笑うアリシアの顔には、婚約破棄された令嬢のかげりはなかった。
☆
屋敷に戻ったアリシアを出迎えたのは、心配そうな顔をした義父――ノートレイン侯爵家の当主、レナードだ。
「アリシア……大丈夫か。オーセン殿のことは聞いた」
「お父様、ご心配なく。わたくしは何も傷ついてなどおりませんわ」
「……そうか。それならば問題ないんだ」
気丈に振る舞う娘に、父は何も言わず、ただ肩を抱いた。
大きく温かな手のひらの感触に、アリシアは思わず目を閉じる。
「お父様、わたくしは大丈夫ですから」
「分かっている。お前なら、そう言うと思っていた」
父の声が、僅かに震えていた。
「――ただ、その言葉を言わせてしまったことが、父として悔しくてな」
アリシアはそれ以上、何も言えなかった。
その夜、自室に戻ったアリシアの瞳から、静かに一筋の涙がこぼれた。
婚約破棄が悲しかったわけではない。
オーセンへの恋情が冷めたのも、ずいぶん前のことだ。
ただ――愛する父の震える声を聞いて、初めて自分が傷を負っていたことを知った。
(悔しいのは、婚約破棄そのものではありません。彼に本当のわたくしを最後まで理解して頂けなかったことです)
涙を拭ったアリシアは、鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中の自分と、しばらく黙って向き合う。
焦茶色に染め上げた髪に、微かな白粉の匂いが残っている。
物心つく前から続けている染髪の習慣だった。
何故そうしているのか、理由はアリシア自身も知らない。
ただ、養父母から言い聞かされてきただけだ。
これはあなたを守るためのものだから、絶対に欠かさないように、と。
理由を尋ねたことは、一度や二度ではない。
だが、レナードもエレノアも、困ったように微笑むだけだった。
(きっと、大した理由ではないのでしょう)
これまでアリシアはそう思うことにしてきた。
(仮面を被っているのは、社交界に対してだけではございませんわね)
理由も知らぬまま髪の色さえ、嘘をつき続けている。
アリシアは小さく息を吐き、櫛を手に取った。
焦茶色の髪を丁寧に梳きながら、棚に手を伸ばし、一冊の本を取り出す。
ぼろぼろになった表紙、書き込みで埋まった余白。
母が残した経済学の入門書だった。
母がこの本をアリシアに渡したのは、アリシアが五歳のとき――母が亡くなった時だ。
「難しいけれど、頑張って読みなさい。きっとあなたの力になるから」
母が亡くなってから、アリシアにとって書物は唯一の友人になった。
(本は裏切りませんわ。読むたびに、何かを教えてくれる)
涙を拭い、アリシアは母の本をゆっくりと開いた。
☆
それから、バルド男爵はノートレイン侯爵家を訪れるようになった。
決まってレナードが居ない時間に。
表向きは本の貸し借りという名目だったが、二人の間で交わされる会話の内容は時間と共に広がっていった。
経済学の議論、次第に互いの近況や、他愛のない日常の話題にまで及んでいく。
初めての訪問の日、応接間に通されたバルド男爵は、柄にもなく緊張していた。
「その……お茶を、頂いても?」
「あら、あれほど堂々と本を差し出して下さった方が、随分と弱気ですのね」
からかうように笑うアリシアに、バルド男爵は情けなく肩を落とす。
差し出された紅茶のカップを取り落としそうになり、慌てて両手で支える様子に、アリシアは思わず声を上げて笑った。
(オーセン様の前で、こんな風に笑ったことがあったかしら)
自分でも気づかぬうちに、アリシアの頬は緩んでいた。
その日、アリシアの首元で小さく揺れるペンダントに、バルド男爵はふと目を留めた。
古びた金属の飾りで、侯爵令嬢が身につけるにしては、あまりにも簡素な代物だった。
「その首飾りはどちらで?」
「これは亡くなった実母からの贈り物なんです。お守り代わりに、子供の頃から肌身離さず持っていて……。何の変哲もない品ですけれどね」
アリシアは軽い調子でそう答える。
しかし、バルド男爵の視線は、ペンダントに刻まれた紋様から、しばらく離れなかった。
ある時、二人は午後の書斎を使って向かい合っていた。
バーンズ経済学に書き込んだ注釈とアリシアの母の本を見比べるために。
共通する部分を見つけては頷き合い、異なる解釈に気づいては互いの考えを述べ合っていた。
「バーンズ卿は、ここで一歩引いていますね。商会の独占を批判しているようで、していない」
「政治的配慮からでしょう。当時のパトロンがルデンス商会の傘下でしたから」
「まあ。それを知った上で本を読むと、また別の考え方ができますね」
「アリシア嬢のような読者を、バーンズ卿は想定していたかもしれませんよ」
「そんなことはありません。わたくしを買い被りすぎです」
「いいえ。わたしはそう思っています」
そう言い切ったバルド男爵の真剣な眼差しに、アリシアは思わず視線を逸らした。
三度目の訪問の帰り際、玄関先で二人は少し話し込んだ。
バルド男爵が去ろうとする直前になり、アリシアはふと思いついたように言う。
「あの、バルド男爵。次にいらっしゃるとき、もしよろしければですが……王都の商業区の話を聞かせて頂けませんか。わたくし、実際に商会の様子を見たことがなくて」
「……商業区に、興味がおありなのですか?」
「本で読むのと、実際に聞くのでは、理解の深みが違いますから。あなたはきっと、現場をご存知でしょう?」
バルド男爵は少し迷うような顔をした後、静かに笑う。
「では次回は、わたしが実際に動かしている話をお伝えしましょう。……聞いたら、驚かれるかもしれませんが」
アリシアはその言葉の意味を問い返す前に、バルド男爵はもう馬車へ向かって走り出していた。
四度目は商業区の運営について応接室で語りあった。
これは前回の約束が引き継がれた結果だった。
「では、バルド男爵は商人への税を下げれば、国庫も潤うとお考えなのですか?」
「ええ。少なくとも私はそう考えています」
「それでしたら、少し違うと思います」
「……違う?」
「税を下げるだけでは、商人は動きません」
「ほう、それは面白いですね。続けてください、アリシア嬢」
「重要なのは、商人が『これなら利益を出せる』と思えることです。税率だけではなく、輸送費、保険、在庫、そして売れる場所まで考えなければなりません」
「なるほど……」
バルド男爵は考え込むようにしばらく黙っていた。
「どうされました?」
「いえ。商業区が機能していなかったのは、これが理由かもしれないと思っただけです」
バルド男爵は声を出して笑った。
彼の側近がみれば驚くに違いない光景だ。
「あなたと話していると、本当に時間を忘れてしまいますね」
アリシアもまた時間が過ぎるのを早く感じていた。
「それは経済学のお話が面白いからでしょう?」
「今はそう考えるのが無難ですね。……そういうことにしておきましょう」
バルド男爵の瞳は子供のように輝いていた。
☆
社交界の噂は、そう簡単には収まらない。
ある茶会の席で、アリシアは聞こえよがしの声を浴びせられた。
「婚約破棄された令嬢が、今度は正体不明の男爵様と懇意にしているとか。節操のないことですこと」
「ジェントレー家も、よもやあの令嬢をそこまで嫌ったとはね。原因は本らしいわよ。夜会でも本を広げているような令嬢ですもの、当然ですわよね」
周囲がくすくすと笑う中、アリシアは笑顔を張り付けて静かに紅茶に口をつけた。
傷つかないわけではない。
そういった言動にいちいち反応していては、侯爵家という上級貴族の娘など務まらない。
本音を笑顔で隠すのが貴族という生き物なのだから。
その様子を、少し離れた場所から見ていたバルド男爵は、静かに歩み寄る。
「――噂話に興じるより、もっと有意義な話題がおありでしょう。あなたがたのご実家の商会が、先月から仕入れを絞っているという話を聞きました。港の第三倉庫が火事になって、在庫が三割ほど減ったとか。わたしの実家くらいの下級貴族であれば、上納ができなくなるほどの惨事。あなたがたが心配でなりません」
令嬢達の顔が、一斉に青ざめた。
血相を変えて茶会から退出する令嬢もいる。
アリシアは驚いたように目を見開き、それから小さく吹き出す。
「まあ。意地悪な方ですね」
「意地悪をしたつもりはございません。事実をお伝えしたまでです」
「ところで、話ついでで申し訳ないのですが。先ほどの話で在庫が三割減った程度なら、仕入れ先を変えれば済む話では?」
「……え、えぇ。そういう考え方もできますね」
「第三倉庫だけが被害に遭ったのであれば、むしろ問題は在庫ではなく、保険と輸送路でしょう?」
「…………」
「バルド男爵?」
「……やはり、あなたは面白い」
そう言いながらも、バルド男爵の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
その後、二人は商業政策についてさらに議論を深めていった。
周囲からの冷めた視線は、二人の熱気で届くことはない。
アリシアにとって、初めて社交が楽しいと思える時間だった。
茶会が終わり、アリシアが馬車に乗ろうとした時。
後ろからバルド男爵に声をかけられた。
「アリシア侯爵令嬢。今日はありがとうございました」
「お礼を言わなければいけないのは、わたくしの方です。あなたのおかげで、お茶会を楽しめました。ありがとうございました」
「お礼には及びません。わたしがしたかっただけですので」
「そういう訳にはまいりません。わたくしに出来ることがあれば、なんなりとお申し付けください。できる限りは尽力することをお約束します」
アリシアが言うと、バルド男爵は少し驚いた顔をした。
それから何故か抑える声でクツクツと笑った。
その笑い方が、妙に親しみやすくて、それでいて本心はまったく読めなかった。
☆
季節が移ろい、雨の続くある日のことだった。
約束の時間に、ずぶ濡れになったバルド男爵が屋敷を訪ねてきた。
「馬車の車輪が、途中でぬかるみにはまってしまいまして。……歩いた方が早いと判断致しました」
「その判断は間違えています! 風邪を召してからでは遅いではありませんか!」
慌てた様子で、アリシアは自ら布を取りに走った。
使用人に任せることもできたのに、なぜそうしなかったのかは、自分でもよく分からないままに。
持ってきた布を、バルド男爵の前に差し出す。
受け取るかと思ったが、彼はただ立っているだけだった。
根負けしたアリシアがバルド男爵を拭き始めた。
濡れた前髪をぬぐいながら、アリシアはぽつりと呟く。
「バルド男爵も髪を染めていらっしゃるのですね。雨を拭いたタオルに灰色の染髪料が着いています」
染髪料が薄くなった箇所は、輝くような金色の髪が薄く見える。
「わたしにも秘密は色々とあるんですよ。アリシア嬢が聞きたいと言えば、教えますよ」
「そんなことを笑顔で言わないでください。調べたいことは自分で調べます。それより、どうして雨の中を歩いてきたのですか?」
「――あなたと過ごす時間を、一分たりとも無駄にしたくありませんので」
真っ直ぐな言葉に、アリシアは思わず視線を逸らした。
髪をぬぐう手が、一瞬だけ止まったことに、当のアリシアは気づいていない。
(困らせてしまったかな)
バルド男爵は心の中で反省する。
しかし不思議なことに、後悔は少しもなかった。
それよりもアリシアの言葉が気になっていた。
手紙のやりとりが始まったのは、雨の日の訪問から一週間後のことだ。
最初に送ったのはバルド男爵からだった。
その手紙には、バーンズ経済学の第三章への疑問が書かれていた。
アリシアからの返信は、三日後に届いた。
書かれていたのは疑問への回答だけでなく、窓から見た庭の花のことや、侯爵家の料理人が新しいデザートを作ったこと――アリシアの近況が添えられていた。
(これは、アリシア嬢が初めて自分から打ち明けてくれた話だ)
バルド男爵はその一節を、何度も読み返した。
それからは、二つの手紙が往来するようになった。
表向きは経済学の議論。
その傍らに、小さな日常の欠片を添えて。
バルド男爵は気づいていた。
アリシアの文体が回を重ねるたびに、少しずつ柔らかくなっていることに。
最初は丁寧で硬い文章だったものが、今では時々、独り言のような余談も含まれるようになっていた。
『今日は父が帳簿の計算を間違えていたので、こっそり直しておきました。怒られるかと思ったら照れていました。可愛らしい人です』
フェリスはその一文を読んで、思わず吹き出す。
(あの堅物のレナード卿が可愛らしいか)
側にいた執事が、主がひとりで笑うところを見て、驚いた顔をしていた。
そして、心の距離が近づくほどに、小さな違和感も積み重なっていった。
ある日、屋敷の玄関先で、バルド男爵を出迎えた御者が深々と頭を下げるのを、アリシアは目にする。
ただの来客への礼ではなかった。
もっと深く、まるで上位の貴族を前にするような礼だった。
(今の礼はどういうことかしら。男爵に対するものというより、もっと上位の貴族にするような態度でしたが……)
確認しようとした言葉を、アリシアは飲み込んだ。
理由を知るのが、少しだけ怖かったからだ。
(もし、この方まで、わたくしに嘘をついているのだとしたら――)
その日の夜、二人は温室で向かい合っていた。
月夜に浮かぶ花々を眺めながら、アリシアはぽつりと本音を零す。
「わたくし、ずっと『良い婚約者』を演じていました。本を読むことも、意見を述べることも、オーセン様の隣では許されませんでしたから」
「……」
「今思えば、あの婚約破棄をわたくしは最初から望んでいたのかも知れません。良い婚約者の仮面を外すために。それでも、あの方と一緒にいた期間も、間違いなく『わたくし』だったのです」
声が僅かに震えていることに、アリシアは自分でも気づいていなかった。
こぼれた涙を、バルド男爵はそっと指先で拭う。
「仮面を被っていたのは、わたしも同じです。……あなたの前でだけは、それを外したいと思ってしまう」
その言葉の意味を、アリシアは理解できなかった。
けれども、その夜二人の間には、言葉以上の何かが通っていた。
☆
ノートレイン侯爵家を辞した後、バルド男爵という仮初の仮面を脱いだ――フェリス・リオ・リークレインは一人、公爵邸の執務室の灯りを見つめていた。
机の上には、二つのものが置かれている。
一つは、ジェントレー伯爵家の調査書。
もう一つは、今日アリシアから返却された、バーンズ経済学だった。
表紙の裏に、アリシアの文字で一行だけ書かれていた。
「拝読しました。おかげさまで、また少し世界が広くなりました。――アリシア」
フェリスはその文字を、長い間見つめていた。
(正体を明かせば、アリシア嬢はどう思うだろう)
バルド男爵として過ごす時間は、フェリスにとって初めての経験だった。
公爵としての自分は、常に人に見られている。
言葉の一つ一つが、政治的意図を持って解釈される。
笑顔も、怒りも、沈黙でさえ――すべてが社交の道具として使われる。
それが当たり前の世界で生きてきたフェリスは、いつしか、自分が本当に何を感じているのか、分からなくなっていた。
だが、バルド男爵としてアリシアと話す時間だけは違った。
彼女はフェリスの爵位も、財力も、政治的立場も知らない。
ただ、目の前の男の言葉だけを聞いて、それに真剣に向き合ってくれた。
(あれが、素直な反応というものか)
フェリスは、自分が笑っていたことに気づく。
誰も見ていない部屋の中で、ひとりで、笑っていた。
だからこそ、正体を隠したままでいることが嫌になった。
(真実を明かせば、アリシア嬢はきっと離れていくだろう。……それでも、これはわたしの義務だ。彼女をだましたままで、この先も隣にいるわけにはいかない)
バルド男爵としての穏やかな時間と、リークレイン公爵としての責務。
二つの顔の狭間で、フェリスは幾晩も一人、執務室の灯りを見つめ続けた。
もうひとつ、フェリスの心に引っかかっていることがあった。
アリシアが肌身離さず身につけている、あの古いペンダントだ。
王宮の書庫に眠る古い外交記録を紐解くうち、フェリスはその紋様に見覚えがあることに気づいた。
かつて隣国に存在し、内乱によって滅んだ小国、エルデシア王国。
その王家の紋章と、寸分違わぬものだったのだ。
当時のエルデシア王家には、三人の王女がいたという記録が残っている。
末の王女は、王国が滅びた夜以来、行方が分からなくなったままだった。
エルデシア王家の血筋には、代々金色の髪が現れるという記録も残っていた。
(まさか――)
フェリスは、静かに息を呑んだ。
アリシアの年齢、あの紋章を象ったペンダント。
そして彼女が言った言葉。
『バルド男爵も髪を染めていらっしゃるのですね』
王族であれば、きっと美しい金色の髪をしているのだろう。
だがフェリスはその確信を、誰にも明かさなかった。
アリシア自身にすら。
(彼女がいつか、自らの口で話してくれる日まで――いや、話さずとも構わない。わたしが知っていればいい)
それでも、いつかこの秘密を、正面から受け止めたいと思う自分がいることに、フェリスは気づいていた。
フェリスがオーセンの調査を本格的に始めたのは、あの夜会の翌日からだ。
動機は単純だった。
アリシアが不当に傷つけられたことが、許せなかった。
調査が進むほど、オーセンの行いの浅ましさが明らかになる。
調書では王太后派と対立する派閥の令嬢――マリアベル・シュテルンが、オーセンに接触していた。
オーセン自身も、対立派閥から資金援助を受けることで、侯爵家の資金繰りの助けにしようと目論んでいた。
ノートレイン侯爵家の評判を貶め、派閥全体を揺さぶる――それがオーセンに与えられた役目だった。
証拠は驚くほどあっさりと集まった。
オーセン自身が、自らの立場に驕り、隠す努力すら怠っていたからだ。
資金の流れ、書簡の写し、複数の証人の証言。
フェリスは静かに揃え、静かに封をした。
証拠を携えたフェリスは、ジェントレー伯爵家当主との面談の場を設けた。
「――というわけです。ご子息の行いは、王太后陛下の派閥全体への侮辱と受け取られても仕方のないものかと」
「な……っ、リークレイン公爵様が、まさか……!!」
伯爵家当主の顔から血の気が引いていく。
バルド男爵の仮面を脱ぎ捨てたフェリスの前で、オーセンは弁解の言葉すら紡げなかった。
ひとつだけ、オーセンには言葉があった。
「……アリシアに、謝罪させて頂けますか」
それに対してフェリスは、ただ一言答えた。
「ノートレイン侯爵令嬢が、その必要があるとお思いになるかどうかは、ご本人がお決めになることです」
オーセンはそれ以上、何も言えなかった。
結果、オーセンはジェントレー伯爵家から籍を抜かれ、追放される運びとなった。
一人の男の浅慮が、家全体を揺るがす事態へと発展した瞬間だった。
☆
ある日、アリシアの元へ一通の招待状が舞い込んだ。
差出人は、リークレイン公爵家。
封を開けたアリシアは、しばらく文面を眺めていた。
(リークレイン公爵家……)
フェリス・リオ・リークレイン。
王太后直轄の筆頭公爵家。
王国の経済政策において絶大な影響力を持つ、最上位の貴族家のひとつ。
(この文字……。まさかバルド男爵というのは――)
アリシアは、招待状を見つめたまま動けなかった。
見慣れた手紙の文字、文体や文章の構成。
そして御者がバルド男爵に向けた礼。
全てが一つにつながり確信へと変わる。
そして同時に、ひどく静かな怒りが、胸の奥から湧き上がってきた。
(わたくし、あなたに騙されていたのですね……)
手配された馬車に乗り、リークレイン公爵邸に向かう。
玄関先に立っていたのは、バルド男爵だった。
「フェリス・リオ・リークレインと申します。今夜は正式にご挨拶させて頂きたく、あなたを招待いたしました」
その姿は男爵をかたる仮初めの装いではなく、公爵家当主に相応しい正装をまとっている。
見慣れた銀の髪ではなく、燦然と輝く金色の髪が、彼の存在感をより一層引き立てていた。
後ろに立つ侍従の数が、格の高さを示していた。
「……バルド男爵様、ですよね?」
「ご想像にお任せします、とお答えしたはずです」
悪びれもせず笑うフェリスに、アリシアは呆れたようにため息をついた。
怒りはある。
だが、それ以上に、この男が何を思って自分を招待したのかが気になっていた。
「……中へどうぞ」
応接間に入ったアリシアは、いつもと同じ椅子に腰かけた。
しかし、出てきた紅茶には手をつけなかった。
「説明して頂けますか」
「はい。すべて、お話しましょう」
フェリスは視線を逸らさずに語り始めた。
バルド男爵として夜会に参加するようになったのは、二年前からのことだ。
公爵という立場で場に現れると、周囲が萎縮して本音を語らない。
政策の現場感覚を掴むために、身分を隠して商家や下位貴族の集まりに紛れる必要があった。
あの夜会も、その一環だった。
バルド男爵として参加しており、最初はアリシアと会話する気などなかった。
ただ、婚約破棄の場面が目に入って、その令嬢が会場を出るのを見て――勝手に足が動いていた。
「……それだけですか」
「いいえ」
フェリスは静かに続ける。
「正体を隠したまま交流を続けたことは、お詫びします。ですがアリシア嬢と本の話をしているとき、わたしは公爵の仮面をつけなくてもよかった。あなたといる時だけ、わたしはわたしでいられたのです」
アリシアはしばらく黙っていた。
テーブルの上の紅茶が、静かに冷えていく。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「あなた様は……バルド男爵でいる間、楽しんでいらっしゃいましたか?」
予想外の問いに、フェリスは少し目を見開いた。
「……はい。生まれて初めて、人と話すことが楽しいと思いました」
アリシアはため息をついた。
その一言に、アリシアは自分でも呆れるほど、胸の内がふっと軽くなるのを感じた。
フェリスは一息つくと真っ直ぐにアリシアを見つめた。
「単刀直入に申し上げます。アリシア・ノートレイン侯爵令嬢。わたしと結婚を前提としたお付き合いをして頂けませんか」
「……随分と急なお話ですが」
「急ではございません。あの夜、あなたが本を閉じて立ち上がった瞬間から、わたしの心は決まっておりましたので」
アリシアは目を伏せ、そして小さく笑った。
婚約破棄という一夜の出来事が、まさかこのような結末を運んでくるとは想像もしていなかった。
「ひとつ、条件がございます」
「はい」
「バーンズ経済学について、これからも語り合える殿方であるなら――お受け致しますわ」
フェリスは、胸の奥に何かが溶けていくのを感じた。
「光栄です。生涯、あなたの知的好奇心に応えられる夫でありたいと思います。そして――」
フェリスはそこで少し間を置いて続けた。
「あなたが誰かの前で仮面を被らなくてもよい場所を、この先もずっと、作り続けたいと思います」
アリシアは驚いたように顔を上げた。
フェリスは静かな顔で、ただまっすぐにアリシアを見ていた。
(この方は、知っていたのですね。わたくしがずっと、仮面を被り続けてきたことを)
だが、フェリスの次の言葉は、アリシアの想像を超えていた。
「――お守りのペンダントを調べさせて頂きました。決して、あなたの秘密を暴きたいわけではありません。それは、滅んだエルデシア王家の紋章と同じものでした」
アリシアの表情が、初めて大きく揺らいだ。
「……いつから、ご存知だったのですか」
「確信を得たのは、つい先日のことです。ですが、それを理由にあなたへの想いが変わることはありません。あなたが何者であっても、わたしが見てきたのは、本を片手に経済を語るアリシア嬢です」
瞳に熱いものがこみ上げてきて、アリシアは慌てて目を伏せる。
「……公爵様は、ずるいです」
「ずるい、ですか?」
「こんな言葉を言われたら、断れないではございませんか」
そう言って俯くアリシアの顔が、耳まで赤くなっていることに、フェリスは気づいていた。
婚約破棄された夜、アリシアが拾ったのは、一冊の本と、生涯を語り合いたいと思える相手だった。
アリシアを送っていった帰りの馬車の中。
フェリスは自分の手が、まだ僅かに震えていることに気づいた。
公爵として、これまで幾度となく重要な交渉の場に立ってきたが、あの応接間で過ごした時間ほど、緊張したことはなかったように思う。
(断られたら、どうしようかと思っていた)
窓の外を流れる夜景を眺めながら、フェリスは小さく笑った。
(バルド男爵の仮面を、こんな形で外すことになるとは)
それでも、後悔は一片もなかった。
☆
二人の結婚式は、王都の大聖堂で執り行われた。
王太后派の主要な貴族はもちろん、王家からも祝いの使者が訪れる盛大な式典だった。
控室で純白のドレスに身を包んだアリシアの元に、レナード侯爵が訪れる。
「アリシア……綺麗だ」
声を詰まらせる父に、アリシアは優しく微笑んだ。
「お父様、泣かないで下さいませ。まだ式も始まっていないですのに」
「分かっている。分かっているんだが……」
レナードの脳裏に、アリシアと暮らした日々が過ぎった。
血の繋がりこそなくとも、家族で過ごしたあの年月は、何にも代えがたい思い出だ。
エレノアが生きていたら、この日をどれほど喜んだことだろう。
「お母様も、きっと見ていらっしゃいますわ」
アリシアがそう言うと、レナードはようやく笑顔を見せた。
「そうだな。……エレノア、この子は立派に育ったよ」
誰にともなく呟いたその言葉に、アリシアの目にもジワリと涙が浮かんだ。
祭壇の前で待つフェリスの元に、アリシアが父にエスコートされて歩み寄る。
純白のヴェール越しに見えるアリシアの姿に、フェリスは思わず息を呑んだ。
「……綺麗だ」
小さく零された言葉に、アリシアは頬を染める。
「フェリス様。今更です」
「生涯、何度でも言わせてもらうよ」
誓いの言葉を交わし、二人は静かに口づけを交わした。
二人の美しい金色の髪が爽やかな風に揺られて絡み合った。
大聖堂に、祝福の鐘の音が響き渡る。
式の後、控室に戻った二人だけの時間、フェリスはそっとアリシアに一冊の本を差し出した。
「結婚祝いだよ。開けてみてほしい」
包みを開けると、そこにあったのは、初版のバーンズ経済学だった。
表紙をめくると、こう書かれていた。
「価値は循環し、いつか必ず巡り来る。あなたに出会えたことも、きっとそのひとつなのでしょう。――フェリス」
アリシアは、その一文を何度も読み返した。
「フェリス様。……ずるいです」
「そう何度も言わなくても」
「これからも、ずっと言い続けます!」
そう言って笑うアリシアの目には、もう涙はなかった。
ただ、これから始まる新しい日々への、静かな喜びだけがあった。




