猫神様に恋をしたモモ
猫猫村のあじさい神社には、黒い石でできた大きな猫神様の石像がある。
真っ赤なマントを羽織ったその姿は高さ二メートル。社殿の前に堂々と鎮座し、足元には苔がびっしり生えていた。
「ネズミ除け」と「豊漁」のご利益があると言われ、村一番の人気スポットだった。
モモは最近、あじさい神社の猫神様に夢中になっている。
毎日神社へ通ってはお参りをし、帰ってくると窓辺に座ってぼんやり空を見上げる。
しっぽの先をふにゃふにゃ揺らしながら、
「猫神様って本当にかっこいいニャー……」
「もし猫神様と結婚できたらいいのにニャー……」
「猫神様のお嫁さんになりたいニャー……」
と、毎日のようにつぶやいていた。
ご飯の時間になっても落ち着かず、煮干しを一匹また一匹包んでは言う。
「明日、猫神様に持っていくの。愛のお供え物よ」
それを見た父ユウスケは、モモに渡そうとしていた焼き魚を、何も言わずナナのお皿へ移した。
そんな日々が、半月ほど続いた。
ついにネコジャラシが我慢できなくなった。
ネコジャラシはモモに言った。
「お姉ちゃん、あの神像は石でできてるんだよ」
「石だから何?」
モモは顔を前足に埋めて、耳の先が真っ赤になった。
「あれは猫神様の石像なの! きっと心もあるし、きっと恋だってするわ! それに……すっごくかっこいいんだもん! ニャー~」
ネコジャラシ(……
……石なのに?
石のどこがかっこいいんだ。
お姉ちゃんの恋愛脳はもう救いようがないんじゃないか?)
ヒロキは姉の告白を聞き終えると、口に含んだばかりの水をそのまま吹き出してしまった。
「ハハハハハハ!」
ヒロキは庭で猫猫拳を三セット披露した。
ネコジャラシが大事に育てていたネコジャラシの列の半分を蹴り飛ばしてしまった。
「ママー! ヒロキがまた僕のネコジャラシを蹴り飛ばした!」
ヒロキはネコジャラシの口を塞ぎながら、モモに言った。
「お姉ちゃん、石像は動かないんだよ?
結婚したら毎晩石を抱いて寝ることになるぞ?」
ナナは地面にしゃがみ込み、首を傾げてネコジャラシとヒロキの喧嘩を見ていたが、しばらくすると退屈になったようで、お姉ちゃんに尋ねた。
「石猫さんって雨が降ると苔が生えるの? 苔って食べられる?」
ネコジャラシはようやくヒロキの魔の手から逃れ、ナナの言葉を耳にすると、仕方なく目を閉じた。
深呼吸。
「ハー……フー……!」
ネクタイが少しきつい。
ネコジャラシは自分でこの件を解決することに決めた。
土曜日の早朝、ネコジャラシはこっそりとヒロキの部屋へやって来た。
「行こう、お姉ちゃんを猫神様から救いに行く」
まだ眠気が残っているヒロキは、ネコジャラシの頭をポンと叩いた。
「どうやって?
猫神様に『この縁談は反対です』って言うの?
それとも、おみくじ引いて『大凶でした。諦めましょう』ってお姉ちゃんに言うの?
諦めろよ、彼女は絶対聞かないよ」
ネコジャラシはヒロキの布団をめくりながら言った。
「そんなこと、君も知ってるでしょ。僕の方が君より賢いんだから、知らないわけないよ。
ほら、余計なことは言わないでついてきて! 急がないと間に合わない!」
その日は土曜日。学校は休みで、モモは早朝から参拝に行った。
彼女は神像の前で、見事なくらい真ん丸に丸くなっていた。目を閉じて、「ごろごろごろ……」と何やら一生懸命祈っている。
通りかかった猫のおばあちゃんはそれを見て、いつもこう感嘆する。
「まあまあ。モモはなんて信心深い子なんでしょうねぇ」
「猫神様が本当にお姿を見せてくださったら、一番おいしい煮干しをお供えします」
「猫神様って、きっと雷みたいにかっこいい声で、ニャー!と鳴くんだろうなぁ」
「ああ……猫神様。大好きです」
モモはいつものように祈りを終え、ちょうど目を開けようとしたその時、突然、地面がぐらりと揺れた。
「にゃっ!?」
驚いて顔を上げたモモは、猫神様の石像が目を光らせているのを見た。
モモは恐怖で思わず後ずさる。
すると、どこからともなく重々しい声が響いてきた。
「私は縁結びの神ではない。その願いは叶えられない。去るがよい」
モモは全身の毛を逆立てると、
「シャーッ!」
と一度石像に威嚇し、そのまま一目散に逃げ出した。
モモが走り去ると、木の陰から小さな頭が二つ、ひょこっと顔を出した。
「おお、本当に成功した!」
ヒロキは二つの小さな鏡をしまいながら言った。
「この鏡、本当に石像の目を光らせられるんだ!」
ネコジャラシは光の角度を図るための分度器をカバンにしまいながら言った。
「あれは光の屈折だよ。言っておくけど、この世に科学で説明できないことなんてないんだからね」
ネコジャラシは得意げにネクタイをきゅっと締め直した。
一方、ヒロキは鏡を眺めるふりをしたまま、ネコジャラシの自慢話はきれいに聞き流した。
「そういえば…俺たち、神社で怪しげなことをしてるんだ。ママにバレたら絶対に殴られるよ。ママは一番信心深いから」
「それなら、祈りに来たって言えばいいじゃん」
「何を祈るんだ? 君、猫神なんて信じてないくせに。行こう」
ヒロキはネコジャラシの腕を引っ張って歩き出そうとしたが、ネコジャラシは抵抗して動こうとしなかった。
「ダメ。お祈りに来たって言うなら、本当にお祈りしなきゃ。
僕、ママに嘘つきたくないもん」
「……じゃあ、祈ってごらん。 何を祈るのか見てみたい」
ヒロキは腕を組んで、呆れたような顔でネコジャラシを見つめた。
ネコジャラシは神像の前に歩み寄り、お行儀よくお辞儀をした。そして、そっと手を合わせ、祈りを始めた。
「猫神様、こんにちは。僕はネコジャラシです。
毎日ご迷惑をおかけしているのは、僕の姉のモモです。悪い子じゃないんです。ただ、恋愛脳がひどいだけなんです。
だから、どうか許してあげてください。
それから……
もし本当に神様なら――
……ちょっと見てみたいです。
あっ、違いました。
えっと、本当に神様でしたら、姉の夢に出てきてください。
夢の中で姉に『すでに家庭がある』とか『実は同性愛者だ』とか、それっぽい理由できっぱり諦めさせてください。
よろしくお願いします。
お礼に、明日はとっておきの煮干しを持ってきます」
ネコジャラシは一気に祈りを唱え終えると、ぱっと目を開けた。
一方、その祈りを聞いたヒロキは、そっと顔を覆った。
(……これ、お母さんに聞かれたら、一発じゃ済まないな)
やがて太陽は真上まで昇り、影もすっかり短くなった。気づけば、もうお昼の十二時だった。
石像からは何の反応もなかった。
ネコジャラシとヒロキはほっとした。
やはり、猫神に祈るようなことは、単なる心の慰めに過ぎないのだ。
ネコジャラシはお尻をポンポンと叩いて立ち上がり、背を向けて立ち去ろうとした。
その時だった。
石像の中から、
「……ニャー」
と、声が聞こえた。
ネコジャラシとヒロキは凍りついた。
石像の耳がぴくっと動くと、次の瞬間、石像はゆっくり……ゆっくりと立ち上がった。
砕けた石がさらさらと落ち、その下から本物の猫神の体が現れた。
それはネコジャラシが生まれてこのかた見た中で最大の猫だった。お父さんよりも数倍も大きい。ひげだけでも、ネコジャラシのしっぽより長かった。
猫神様は頭を下げ、金色の瞳をネコジャラシとヒロキに向けた。口を開くと、彼らを丸ごと飲み込めるほどの鋭い牙が露わになった。
「ニャー───」
その声に、木々の葉がざわめきながら舞い落ちた。
猫神様はにこにこと近づき、巨大な前足をネコジャラシとヒロキへと伸ばしながら、優しく言った。
「お前の願い、確かに聞き届けたぞ。さあ、この神がしっかりと可愛がってやろう――」
「………………………………!!!」
ネコジャラシとヒロキの全身の毛が逆立ち、尻尾はリスよりも大きく膨らんだ。
ネコジャラシの口の中は乾ききっていた。ネクタイまで逆立った。
生後四か月の天才子猫・ネコジャラシ。
その小さな脳みそのCPUは、今まさに限界を迎えていて、過負荷で煙を噴き出しそうになっていた。
ネコジャラシのすべての人生信条――「冷静さ」、「分析」、「理性的な判断」は、ヒロキに蹴り飛ばされたネコジャラシのように、空中に散り散りになった。
一方、ヒロキの反応はさらに露骨だった。
「ニャあああああーーーーー!」
ヒロキはかつてないほどの恐怖の叫び声を上げ、ネコジャラシのネクタイを掴むと、後ろ足で地面を力強く蹴り、肉眼では追えないほどの速さで飛び去った。
猫神様はその場にぽつんと座り込み、飛び去っていく二人の背中を見つめ、前足を宙に浮かせたまま、困惑した表情を浮かべていた。
「でも……見てみたいって言ったのは君じゃないか……」
返事の代わりに、くるりと丸まった一枚の落ち葉だけが、風に乗って転がっていった。
ヒロキはネコジャラシをひっつかむと、一目散に駆け出した。
神社の紙戸を突き破り、鳥居を飛び越え、三本の通りを全力疾走。最後は家の塀まで飛び越えると、そのままカリンが干していた布団へ勢いよく突っ込み、二匹そろってすっぽり埋まってしまった。
カリンは二人に驚いた。
「ジャラシ? ヒロキ? どうしたの? あら、ジャラシのネクタイがずれてるわよ」
ネコジャラシは布団の中に縮こまり、綿の隙間からこもった声で言った。
「ママ、お姉ちゃんに伝えて。猫神様とのこの縁談、僕は賛成するよ。早くあっちへ嫁がせて。早ければ早いほどいい」
「?」
カリンはきょとんと首をかしげた。
ユウスケが窓から顔をのぞかせ、怪訝そうな表情で言った。
「犬に追われたの?」
ヒロキは震えながら言った。
「犬より百倍も怖いよ」
「ジャラ?」
ナナはネコジャラシのそばにしゃがみ込み、リスみたいに逆立ったネコジャラシの尻尾をぼんやりと見つめ、手を伸ばして撫でると、真剣な顔で言った。
「ネコジャラシのしっぽ、ネコジャラシみたい。 ふわふわで、きれい~」
……
それ以来、モモもヒロキもネコジャラシも、二度とあじさい神社には行かなくなった。
神社の前を通るときは、みんな遠回りをして、尻尾を股の間にぎゅっと挟み込んでいた。
村の猫おばあさんはまたため息をついた。
「あらあら、モモちゃん最近お参りに来ないねぇ」
モモとヒロキ、そしてネコジャラシだけが知っていた。
神様は、やはり神棚に祀っておいたほうが安全だ。石像のままでいてくれるくらいが、ちょうどいい。
本当に神が降りてきたら、心臓が持たない。
夜、ネコジャラシは布団の中に丸くなり、窓の外の月明かりに照らされた神社の方をこっそり見ながら、小声でつぶやいた。
「猫神様……どうかこれからも石像のままでいてください。 僕……これから煮干しのお供えをたくさんします。 だから……お願いですから、もう出てこないでください。 ずっと寝ててください。いいですか?」
その時、遠くからかすかで優しい声が聞こえてきた。
「ニャー」
ネコジャラシはまた毛を逆立てた。
……その夜、ネコジャラシは一睡もできなかった。




