通話中の沈黙
深夜零時を過ぎても、朝倉環はまだ亮との電話を切っていなかった。
「明日、何時に出るんだっけ」
「たぶん九時。環は?」
「わたしは十時からシフト」
他愛のない会話だった。付き合って三年、こういう用もない通話は週に何度もある。環はベッドに寝転がり、スマホを頬に当てたまま天井を見ていた。
「亮、あくびした?」
「してない」
「した気がした」
そのとき、回線に小さなノイズが走った。ザザッ、という砂を撒いたような音。
「亮?」
返事がない。環はスマホを見た。通話時間の表示は動いている。切れてはいない。
「もしもーし。聞こえてる?」
無音。
数秒──環は後になって、あれがどれくらいの長さだったのか、何度も思い出そうとすることになる。五秒か、十五秒か。少なくとも、いつもの「ちょっと電波悪いね」で片付けられる長さよりは、確実に長かった。
「もしもし、環?聞こえてる?」
亮の声が戻ってきた。何事もなかったかのように。
「今の、聞こえてなかったの? 呼んでたんだけど」
「ごめん、ちょっと電波悪かったかも。何の話だっけ」
環は少し笑って、話を続けた。それだけのことだった。その夜は、それだけで終わった。
違和感というのは、後から振り返ると輪郭がはっきりするが、渦中にいるときは驚くほど曖昧なものだ。
最初に気づいたのは、環の名前を呼ぶときの間だった。
「たまき」でも「環」でもいい。亮はいつも、電話の第一声で名前を呼ぶ癖があった。「環、今大丈夫?」というふうに。それが、あの夜を境に、ほんの一瞬──コンマ何秒か──遅れるようになった。「……環、今大丈夫?」というように。
気のせいだと思った。
次に気づいたのは食べ物の話だった。亮は昔から茄子が好きで、環がよく茄子の煮浸しを作っていた。それなのにある日、「実は茄子、そんなに好きじゃないんだよね」と言い出した。
「え、いつも美味しいって食べてたじゃん」
「そう?口に合わせてただけかも」
そんなはずはない、と環は思ったが、口には出さなかった。人の好みは変わるものだ、と自分に言い聞かせた。
そして三つ目。これが一番、環の中で拭えない違和感として残った。
亮は貧乏揺すりの癖があった。電話中、環が黙って考え事をしていると、向こうから貧乏揺すりでカタカタとテーブルが鳴る音や、小さな咳払いが聞こえてくるのが常だった。それが、いつからか──おそらくあの夜以来──一切なくなっていた。環が黙ると、亮も完全に黙る。物音一つ立てずに、ただ待っている。
「疲れてるのかな」
環はそう自分に言い聞かせていたが、職場で先輩の佐伯と雑談していたとき、ふと口をついて出た。
「最近、彼氏の様子がちょっと変で」
「変って?」
「なんて言うか……電話の感じが違うんですよね。前と微妙に」
佐伯は書類をめくる手を止めた。
「電話中に、変なノイズとか入らなかった?一瞬、無音になるみたいな」
環は佐伯の顔を見た。
「……なんでわかるんですか」
佐伯は元々、心霊系のオカルト話が好きな人だった。会社では「そういうキャラ」として認識されていて、環もこれまでは半分冗談として聞き流していた。だが、このときの佐伯の表情には、いつもの茶化すような色がなかった。
「昔さ、知り合いから聞いた話があるんだよ。通話中に急に無音になることがあって、それを経験した相手は、その後ちょっとずつ様子がおかしくなるって」
「様子がおかしくなるって、どんなふうに」
「性格が変わる。癖がなくなる。声のトーンが微妙に変わる。……で、その"変わった人"と長く電話してた別の人にも、同じ無音が起きるらしい」
環は背筋が冷たくなるのを感じた。
「亮、母にもよく電話してるんです。ここ最近」
「それはまずいかもね」
その言葉通りになった。数日後、環の母から電話がかかってきた。実家の近況、健康診断の結果、隣の犬がうるさいという愚痴。いつも通りの会話の途中──不意に、あの砂嵐のようなノイズが走った。
「お母さん?」
無音。
環は息を止めて待った。数秒後、母の声が戻る。
「あら、ごめんね、電波かしら。何の話だったっけ」
環はスマホを握りしめたまま、何も言えなかった。
それからの母の変化は、亮のときよりもむしろ分かりやすかった。
台所仕事の音が変わった。以前は包丁のリズムが少し不規則で、鍋の蓋を雑に閉める癖があったのに、今は妙に規則正しく、機械のように正確な音が聞こえてくる。テレビの音量はいつも大きめだったのに、今はほとんど無音に近いくらい小さい。母の笑い方も、以前は「あはは」と息を吐くような笑いだったのが、今は「ふ、ふ、ふ」と区切られたような笑いに変わっていた。
そして環がある夜、電話をしながら気づいてしまった。
母は、一度も息継ぎの音をしていない。
長い話をしているのに、どこにも「すー」という吸気音がない。まるで、話す前にあらかじめ肺いっぱいに息を溜めておいて、それを吐き切るまで一切吸わずに喋っているかのようだった。
環はその夜、佐伯に連絡した。
「録音、してみようと思うんです。あの無音のところ」
「危ないと思うけど……でも、確かに手がかりにはなるかもね」
翌週、亮からまた電話がかかってきたとき、環はスマホの録音アプリを起動させた。通話は普段通り進み、そして──来た。ノイズ、そして沈黙。環は息を殺して、録音を続けた。
通話が終わったあと、環と佐伯は会社の空き会議室で、無音部分だけを抽出して波形を確認した。一見すると、本当に何も入っていない、ただのフラットな線。だが佐伯が音量を極限まで上げ、さらに逆再生とスロー再生をかけると──
かすかに、何かが聞こえた。
一人の声ではない。何人もの、何十人もの声が重なり合って、判別できない塊になっている。まるで満員電車の雑踏をひどく歪ませたような音。だが、その中に一つだけ、繰り返し浮かび上がるパターンがあった。
「……たま……き……」
「これ、環さんの名前じゃない?」
佐伯の声が震えていた。環は何度も再生し直した。聞き間違いだと思いたかった。だが、聞けば聞くほど、それは確かに自分の名前を呼ぶ声だった。何十もの声が重なり合いながら、同じリズムで、同じ言葉を。
「たまき」
「たまき」
「たまき」
佐伯は環に、当分の間、誰とも電話をしないように勧めた。
「メッセージだけにしなよ。声を通さなければ、多分平気だから」
環はその忠告に従おうとした。だが、亮の変化は日に日に進んでいた。表情が乏しくなり、動きがどこかぎこちなくなっていく。LINEの文面すら、以前の彼らしい言葉選びから、妙に平坦な、テンプレートのような文章に変わっていった。
「大丈夫、心配しないで」
そのメッセージを見た瞬間、環は限界だった。声が聞きたかった。本当の亮の声を、もう一度確かめたかった。
その夜、環は自分から電話をかけた。
コール音が三回鳴って、繋がる。
「もしもし」
いつもの亮の声だった。少しほっとした。だが、会話を続けているうちに、環は自分の胸の奥で何かが待ち構えているのを感じていた。ああ、来る。今夜、来る。
「亮、最近さ」
言いかけたところで、砂嵐のようなノイズが走った。
環は今度は、電話を切らなかった。息を止めて、その無音の中に、意識を集中させた。
すると、聞こえた。
声にならない声。無数の囁きが重なり合い、うねりながら、自分の名前を呼び続けている。それは死んでしまった誰かの声のようでもあり、まだこの世に生まれていない何かの声のようでもあった。呼びかけというより、確認するような響きだった。まるで「お前で合っているか」と、名前を照合しているかのように。
沈黙が明けた。
「環、聞こえてる?」
亮の声だった。だがそのトーンは、以前よりもさらに一段、何かが"完成"に近づいたような、滑らかさを帯びていた。
環は「うん、聞こえてる」と答えて、電話を切った。
そして、独り言のつもりで、小さく呟いた。
「……疲れた」
だが、喉から出てきたその声は──
一瞬、自分のものではなかった。
数日後、環は佐伯に電話をかけた。解析結果の相談のためだった。
「もしもし、佐伯さん、あの件なんですけど──」
会話が始まって間もなく、回線にノイズが走った。
環はスマホを耳に当てたまま、その無音を静かに聞いていた。もう驚きはしなかった。ただ、耳を澄ませていた。
無音の奥、幾重にも重なる囁きの中に、今度ははっきりと、こう聞こえた。
「佐伯さん……聞こえてる……?」
数秒後、沈黙が明けた。
「もしもし、環さん?聞こえてる?」
佐伯の声だった。いつもと変わらない、明るい声。
環は電話越しに、小さく微笑んだ。
「聞こえてます」
その声は、もう環自身のものではなかった。




