仲間と敵 (わたしの概念)
私の私による私のための概念!
仲間と敵
とても肝心な話をしよう。
私が語る私についての話において重要な概念だ
ひとつはなんとなく察しはついているだろうが、意識と無意識だ。
基本的に意識と無意識を取り上げて人間を説明していく。
さて次に説明しておきたいのは、仲間と敵という考え方だ。
これは分かりやすい。
仲間の喜びは自分の喜びで、仲間の悲しみは自分の悲しみ。
そして
敵の喜びは自分の悲しみで、敵の悲しみは自分の喜びだ。
この概念は実はそこまで確証というか、自信がない。
本当はこの概念のおくそこにもっと核心的なルールが人間にはあるかもしれない。
ただ意識的に私が感じる喜びを考えたとき、おそらくかなり深いところにこの概念がある。
ではたとえ話でいこう
これは私もよく考えるたとえ話なのだが
電車に乗っていたとする、自分は席に座っている、
するとドアが開き、人が入ってきた。ご老人だ。
あなたは席を譲るか?、という話だ
この時、私はこう考えるのだ
いち、人として譲るべきだ
に、老人のために譲ってあげたほうがいい
さん、譲らなければ、ほかの人から痛い視線がきそう
この3つについて少し説明すると。
一は私の理想だ。こうあるべきという私の正解にのっとって、正しいとされる行いをする。そして
二は、老人という仲間を心配する。老人の問題を自分の問題と考え、解決するため行動する。
三は自分の意識的な思考。少し先を読み、嫌な体験を回避するためリスクを消しておく
まあだいたいこんな感じだ。
私は最初、1と3で人間は基本的に動くと思っていた。
どうあっても最終的には人間は利己的で、誰かのために何かをするという行為は元をたどれば自分のためであると、そう考えていた。
だがどうにもそうとは言い切れないのだ。それは何故かといえば、時は少々さかのぼる
当時5さいの僕は、ママのお手伝いをした。皿洗いだった。
別に皿洗いをしたところで自分がより高められるとは思っていないだろうし、
皿洗いでお手伝いのお小遣いを期待していたというほど、思考は利口じゃなかった。
ただ思い出せるのは、確かに私はその時ママの笑顔を見て喜びを感じたのだ。
それはよい行いをしたら褒められる、という、そういった関係でもなかったように思う。
それはただの共感だったのだろうか。ママの喜びがうつっただけの、いやしかし。
だから確信はない、だがそう捉えれば納得のいく場面がその後に多く存在するのだ。
皆もあると思う、そういった経験が。誰かのために何かをなしたとき感じた、嬉しさが。
そして同じように感じたことがあるのではないだろうか、憎き人に不幸あれ、と。
何が正義で何が悪か、なにが正しくて何が正しくないのか。何が良くて何が悪いのか。
人間はそういった基準をもって行動している生き物だと私は思っている。そこに他者のはいる余地はない
しかし人間が喜びを感じたとき、自分の基準だけではない時がある。それは他者を思いやり、喜ばせた時だ。
あるいは自分がなにもせずとも他者が喜んでいた時、自分も同じように喜ぶことがある
これは一体、
私はこれは仲間とした。仲間の喜びは自分の喜び。そしてその反対は敵なのだ。




