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心の底から嬉しいついて

とても根源的な喜びについて語りたい

私が人間について語るとき、まずは意識と無意識の二つに分けて説明する

無意識と意識は同じライン上、本来は分かれていないと思う。

その理由はそもそも意識とは、無意識から生まれたものだとしているからだ。

しかし我々が自分と認識する私は、意識であり、私は私の関知できない自分の部分を無意識と置いている

体が勝手に、とか。くそ、なぜ言うことを聞かない俺の体!。体は正直だなぁ。

みたいな

私ではどうにもできない自分の部分が存在するのは。みんな分かってくれると思う

そんな無意識での喜びは、とても根源的な喜びだと思う

例えば美味しい食べ物を食べたときは嬉しいし、

好きな音楽を聴いたときは楽しい。

この二つは私の根源的な喜びなので、否定することはない。

好き嫌いが変わることもあるだろう。しかし食事や音楽鑑賞が嫌いになることはない。

こと私という人間は、食事と音楽が好きなのである。

ではもう少し意識的な、浅い喜びの話をしたい。

私は幼少期、ピアノを習っていた。

そのころから音楽は好きだったが、ピアノの練習は嫌いだった

引きたくもない曲を、苦手な先生から教わり、練習した。

数年習ったが結局続かず、小学生でピアノはやめた。

しかし中学に入ってから。またポツポツと引き始めた。

そして今では立派な趣味だ。ピアノを弾くのは好きだ。

引きたくない曲を、習いたくない相手から、延々と教わる

そんな時間が、私は嫌だったんだ。

このことについて、私はこう振り返る。

確かにあの時も、今と変わらず音楽は好きだった。しかしそれ以上に、

嫌な事が多すぎて、ピアノを弾くという行為は好きになれなかった。

でもしかし、

思えば本当は、ピアノを弾くのはずっと好きだったのではないだろうか。

好きな曲を、自由にひかせてくれるのなら、あの頃の僕は、ピアノを嫌いにはならなかったのではないだろうか。

私が考えたいのはこの部分。何か意識的に違いがあれば、変わる喜びという部分だ。

最初の例を持ち出すなら、嫌いな食べ物ばかり出された食事や、嫌いな音楽ばかり聴き続けた音楽鑑賞は、果たして喜べるのだろうかというものだ。

断言しよう。私は嫌いな食べ物を何度出されたとしても、美味しい食べ物を探しに行くし、嫌いな音楽が何度流れようと、好きな音楽を聴きに行く。

私の考える根源的な喜びとは、それ程根の深い喜びのことである。

ただ注意してほしいのは、別にこれらも絶対に変わらなくはない、ということだ。

私も何か大きなきっかけがあれば、食事や音楽鑑賞が嫌いになるかもしれない。

では結局何が言いたいのかといえば、喜びにはその基準に深みがあるということだ。

三大欲求のように本当に根源的なものをいったんよそにおいて考えれば

我々が好きになるものは案外表面的で、移り変わるものだ。

しかし無意識レベルで喜びを感じるなら、それはなかなか動かない。

あなたがどれだけその物事が好きか、そしてどうあっても好きでいられるか。

そう心に語り掛けたとき、きっと否定しきれない、譲れない喜びがあるだろう。

喜びに深みを感じることが、意識と無意識の認識を高める。

まずはただ行い続けている行為に喜ぶ自分について考えることが

自分を知るという第一歩になるはずだ。

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