意識と無意識について
意識と無意識について
私の考え方においては、自我である私を
意識、と、無意識、にわけて
わたしという存在を捉えている
それは合理的なのかもしれないし
あるいはしょうがなかったともいえる
例えば、あなたは空腹を辞めれるか?
美味しいものを不味いと思えるか?
勿論無理だろう?
それが無意識による所というわけだ
しかし例えば修行僧は
空腹を極限まで無視できるかもしれないし
催眠術師は味覚を騙せるかもしれない
これは意識的に変えるということだ
歩いているとき足の筋肉を意識するか?
楽器を演奏するときすべてを意識して動かしているか?
何十時間も起きていられるか?
株価の暴落に耐えられるか?
新しいゲームの発売日までのワクワクを抑えられるか?
これはこれまで考えた無意識の一部だ
なんとなく分かってもらえるだろうか
勿論これらは同じ脳といっても色んな働きであろう
しかし確実に言えることは
意識的にはどうしようもできない部分があるという事だ
一応、私はこれを確信して、前提としている
もし無意識の領域を意識的に自由に変えられる方法があるなら
教えてほしい。それはすごいことだ
さて、わたしという意識には無意識という裏表のような存在が
後ろで控えているということを理解してもらって
もうすこし精神的な例をだそう
やる気がでない、という話だ
例えばわたしは食べることが好きだ
美味しいもののためには労力を惜しまないだろう
しかし私も食欲がわかない時があった
目の前に好物があっても食が進まないのだ
この時の私は鬱だろうか?
近い将来不安になる出来事もない
風邪を引いたとか、体を怪我したとかでもない
体はいたって普通、ノーマルだ
ここでおかしいのはどこだと聞かれたら
おかしいのは脳だと言うしかない
しかしその時の私は考えていた
きっとどこも私という意識的な部分はおかしくないのだと
分かりやすく言えば、混乱してはいなかった
喜怒哀楽とでもいおうか
変に喜んだり、怒ったり、笑ったり、悲しんだりしていない
ただなんとなく、食欲がなかったのだ
うつ病が語られる時
よく甘えだとか、きのせいとか、なんでもないとか
そんなふうに言われることがある
とりあえずそういった考え方に対して私はこう考えた
少なくとも
私という悩んでいる意識的にはどうしようもない部分に
問題を抱えることは必ずある
そしてそれを意識的な部分が責任を取る必要はない
無意識的な部分に責任があり、原因がある
だからそれについて悩むことはすれど、責任を取る必要はない
そしてそれを踏まえたうえで
私は考えなければいけない
どうやって無意識を変えてやろう
どうやって付き合っていってやろう、と
先ほど私は責任を取る必要はないといった
これは本当だ。無意識的な部分を意識がなんとかしようだなんて
なかなかに厳しい話だ。しかし
他人はそう思ってはくれない。
はたから見れば、全部わたしの問題だ
無意識由来だろうが、意識的由来だろうが関係ない
それが現実だ
ここまで話したうえで
なんとなくみえてきた構造があるだろう。
なんとなく思い当たるイメージがあるだろう
貴方は心のどこかで、責任の所在を探している
そしておそらくそれは、いずれ無意識のせいにされる
そして無意識による罪をあなたは受け入れられない
なぜなら結局その罪はあなたのものだからだ
そういったどうしようもない悩みの中でふと
こんな免罪符がみつかるのだ
鬱病という都合のいいラベルが
さあ、これで整理できただろう?
私は鬱を中心とした昨今の精神的な悩みは
我慢が原因だと思っている。
我慢が増えたのかもしれないし、
我慢できることが減ったのかもしれない
我慢の仕方が変わったのかもしれない
ただ
この我慢には原因の探求が切り離せなくて
そんな原因探しの工程で
鬱病というラベルが登場してしまったのだ
あれも、これも、
私の分からない不都合は全部うつ病のせい
あるいはなんか別の精神病のせい
そんな風に考えてはいないだろうか
無意識のせいならば、実はそこまで問題はないのだ
なぜなら知らないうちにその問題は解消されることもあるし
なにかがきっかけでパタリと症状がなくなることもあるだろうからだ
しかし精神病のせいにしてしまったら?
貴方は毎日毎時毎秒再認識するだろう
私には精神病が控えている、と
ちなみにこれ一つが原因とはいわない
他にもいろんな理由がある。
だから、これは推論、そして、ただのお話である。
結局なにが言いたいのかというと
意識と無意識があるという事だ
この二つはつながっているし、切り離されている
その線引きを引くのは意識だが、それすら無意識的なものだ
やるきが、ないのだろう?
今一度、考えてみよう
なぜ、やる気がないのか
私のお話は、そういった取り組みだ




