n番目の患者(3)
大聖堂の中は、血と排泄物の臭いに満ち、怒号とうめき声が反響し、清掃されていない床に汚れたシーツが山積みになねという有様だった。全くの地獄絵図だ。祈りの場は、病院と監獄をくっつけたような施設に改造されていたのだ。
イギフィギに噛まれた者は、檻の中に閉じ込められる。外から輪のついた棒で首を絞められて隅に引き寄せられ、聖水を飲まされたりヒールの祈りを唱えられたりする。正気を失った者はそのまま檻の中で矢を射られ、動けなくなったところで首を刎ねられる。あるいは、網をかけられて動けなくなったところを、新薬の治療実験に使われる。
鈴代はこの光景に膝を震わせていた。
俺は、ヒヨス氏にたずねた。
「治療の方針はあるのですか」
「ありません。各ヒーラーがそれぞれの方針で治療を試みています」
「檻の中に入れられる基準は」
「イギフィギに噛まれたものは、とりあえずは檻に入れています。噛まれても発症しない者、発症しても回復する者、重症化して望みのない者、噛まれたというだけでは、その区別がつかないのです」
「たとえば、あの人は?」
筋骨隆々の男が、檻の中のベッドに所在なげに坐っている。一見、何の故障もなさそうだ。
「ああ、彼はイカイスダヒから来た勇者です。昨日、夜の町を見回っていて複数のイギフィギに噛みつかれたのです」
「俺が診ても?」
「ええ。ですが、もっと重傷の者がたくさんいます。そちらを優先して診てもらえませんか」
「戦力は少しでも多い方がいいでしょう。俺は、治る可能性が高い者から診ていきます」
ヒヨス氏は口をつぐむ。トリアージの考え方は、一般人には残酷に思えるのだろう。
「ヒーラーのミシャグチです。傷を見せていただけますか」
ごつい勇者は、黙って柵の間から腕を突き出す。
何カ所かにわたる傷口。傷薬が塗られ、包帯が巻かれている。
「免疫賦活」と「万能治癒」の力を使ってみる。どうも効きが悪い。
「腕以外にどこか不調はありませんか」
「ああ。首筋が痛い」
勇者は、猪のように太い首を指さす。
傷を受けた側が腫れていた。すでに毒が回っているらしい。
気の巡りを診る。
凝り固まった汚穢な気を感じる。まるで腕の中を這う細い根っこのようだ。その発生源は腕の嚙み傷で間違いない。
「神経系に沿って毒が回っています。腕を切り落とす以外に方法はありません。手術がうまく行く保証はありません。が、このまま放置すればあなたは確実にイギフィギと化します。どうです。リスクを承知で治療を受けますか?」
「ああ。やってくれ。覚悟は出来ている」
勇者は、静かに同意する。
頭部に向かって延びる神経系を凍結する。煮沸した小刀で脇の下を切り、血液の流れを制御して凍結した神経を押し出していく。その後、腕の付け根をしばり、檻の柵に固定する。
「ここから先を切り落としてくれ」
誰も動こうとしない。
「私がやります」
宿舎にいったはずの佳奈女だった。腰の脇差のような刀を抜いて構える。
「えい!」
みごとな一閃だった。
同時に傷口を凍結する。傷口を包帯で巻き、体に固定する。
あとは、免疫賦活の効果に期待するしかない。
病室の世話係に後を託すと、俺は次の患者の治療へと向かった。
治療をしてわかったことがあった。
ヒーラーと呼ばれる連中は、何の治療もしていないのだ。
適切に処置していれば生き残れたはずの命が、呪文と護符で何とかしようという連中のせいで失われていく。これはさすがに腹に据えかねる状況だった。
そして、もう死ぬしかない人間の「治療」を優先することで、聖堂の周りにはケガ人や病人が折り重なって診察を待ち、その間に症状が悪化していた。体のいい虐殺システムが出来上がっていたのだ。
教会の司祭たちは、全ての患者に聖別した聖水を飲ませていた。万能薬のようにありがたがっている。が、実際にはただのどこかの池の水に祈りの言葉を加えただけの気休めなのだ。プラシーボ効果以上の何かがあるわけではない。
俺は、聖堂の外に椅子とテーブルを置くと、軽傷の人を優先して診ていくことにした。
大半は、栄養失調に思えた。
パン、野菜、肉、果実。
気の流れと水の滞りを見て、適切な食事を指示する。
「そうは言われましても、金がないのです」
当然の反論だ。これには困った。一介のヒーラーには手持ちの金でどうこうできる問題ではない。
貧困者への炊き出しはないのか、と様子を見に来たヒヨス氏にたずねてみた。
「ええ、あるにはありますが。条件が厳しいのですよ」
何日か飲まず喰わずでようやく施しの食事が与えられるらしい。これもまた、体のいい虐殺システムだった。
金は持っている者の元へと集まる。それは金が集まる仕組を作り、維持しているからだ。それは権力と結びつき、支配者を生む。
人類は、この構造を転覆させる「革命」という仕組を生み出した。けど、革命は支配者が入れ替わるだけだ。やがて新しい支配者のもとに金が集まるシステムが出来る。
人類は別系統の金の流れのシステムも作り出していた。「功徳」や「心の安寧」を対価とした、財貨の放出システムだ。墓場の中までは金は持って行けない、だから生きている内に善行をし功徳を積むのだ。そうすれば、死後によい境遇が得られる。一番理想的なのは、現世で他人に迷惑をかけず、せっせと働いて大いに楽しみ、最後には無一文で野垂れ死んでいくことかもしれない。
ただ、この功徳を宗教団体に向けてしまうと、この再配分システムはただの集金システムと化してしまう。同じようにして、税金と社会福祉というシステムも、税金チューチューによって再配分システムが破壊されていく。人類はいつも、金の再配分システムを壊していくのだ。
単純労働の治療を続けているとそんなことばかり考えてしまう。
鈴代と佳奈女は昼間は治療の補助をしてくれて、夜はイギフィギの討伐をしている。相談して交代制にしたのだそうだ。二人が仲良くしてくれるのはとても嬉しい。というか、この極限状態の中で、ついに嫁二人体制が完成した。幼なじみと同級生が日替わりでベッドに忍び込んでくるのだ。そう、ここまで命の危機に瀕した状況にあって、年頃の男女間で何もない方がおかしいだろう。
俺が治療した人々は、順調に治っていった。最初に片腕を切り落とした勇者――マイツォ・リツィニアコスは、リハビリも兼ねて聖堂で働くことになった。この寡黙な戦士は、怒ると威圧感が凄い。一度、治療師ギルドの連中が聖堂外での治療に難癖をつけてきたときは、マイツォがすっくと立って威圧感だけで追い払ってくれた。鈴代と佳奈女ではこうはいかない所だ。
そして、アジクに来て初めての休日。この日は自然という至高神に感謝する日で、アジクのほとんどの人が休みを謳歌していた。
俺は、嫁二人とともに町を散策することにした。屋台の食べ物を買い食いし、今まで行ったことのない場所をめぐる。古代文明の遺跡や整備された公園、高い塔などを見て回る。イギフィギの件がなければ、とてもいい町なのだ。
人々が行列をつくっている建物があった。誰もが小ぶりな壺を持っている。
「何なんだろう」
俺たちが首をかしげていると、地元の人が教えてくれた。
「聖水の頒布所だよ。町に八ヶ所、あるんだ。誰にでも分けてくれるよ」
日本語にして内輪の会話に切り替える。
「あれ、飲むのかなあ」
「みたいね。何だったら、持って帰って調べてみる?」と佳奈女。
路上の屋台で素焼きの小さな壺を買う。
俺と佳奈女は勇者として人目についているので、鈴代に並んでもらった。
しばらくすると、大事そうに壺を抱えて小走りで帰ってきた。
「お兄ちゃん、もらって来たよ!」
まるでお使いを成功させた子供だ。
俺は、物陰に行って水の様子を観察した。水魔法で、水にまじったものを感じ取る。
「うわっ、雑菌だらけだ!」
「そんなに危険なものなのか?」佳奈女がたずねる。
「危険というか…… アメーバだらけだ。普通の井戸水よりもひどい」
水分子を動かしてみる。
なじみのある感触だった。
これは…… イギフィギの病原体!?
とたんに、信仰心の厚い人々の光景が、自ら汚濁に飛び込んでいく愚者の群れに見えてきた。
みんな、こんなものを飲んじゃだめだ! そう叫び出したい自分を抑える。
「行こう。この町には根本的な治療が必要だ」