姫鏡まりあ(3)
「じゃあこれから僕はどうすればいいの?」
主に日常生活を今まで通りに送っていけるのかと言う至極真っ当な疑問だった。
答えが分かり切った質問だ。吸血鬼になったのだ、今まで通りに暮らす事なんてできないのだろう。昨夜人間としての僕は死んだも同然なのだから。それでも心配性で臆病な僕は訊かずにいられなかった。
「身体が動くようになれば普通に過ごせばいいんじゃない?」
「だよね・・・え? 普通に過ごしていいの?」
もう日常生活には戻れないだろうと決別の思いがあったので、姫鏡の発言に疑問符が頭を支配する。
「一応オイラー君は特別だね。ちゃんと確認していないけど、恐らく日光も克服していることだろうから、普段の力加減を特訓すれば日常生活もできると思うよ。眷属になったからって日常生活を奪うなんてあってはならないからね」
少しだけ強めの口調で姫鏡は言った。まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえたのは、僕の境遇を憂いてくれていると勘違いしているからかもしれない。
「でもあの男の人、アーサーさんがまた襲ってくる可能性もあるんじゃないの?」
日常生活をしている時に、またアーサーが襲ってきたら、家族を巻き添えに、学校が巻き添えに、通行人が巻き添えに、多くの人間を巻き添えにしてしまう可能性がある。誰かが傷ついて、それに傷つくくらいならば、僕はこれまで通りに日陰者の日常を歩みたい。日光よりも月光で生活するのも嫌ではない。
「まぁそこは心配だよね。安心してとは言えないけど、あの人は流儀を重んじるから、突然襲い掛かってくることはない・・・と思・・・う」
しりすぼみになってしまって、なんとも安心できない。
アーサーは相当お冠の様子だったし、もしかしたら手段を選ばずに、僕や姫鏡に襲い掛かってくるかもしれないのだ。昨日は不意をつけたけど、今度は警戒しているに違いない。僕も姫鏡と同じように四肢のどこかを欠損するかもしれない。いや、四肢だけで済むのか? 昨夜の牙は肉もだが、命も断つだろう。
「あ、そうだ」
不安が頭の中を満たしているのと格闘していると、姫鏡は何かを思い出したのか、僕を優しく寝かせてから衣装箪笥を開いた。
そして冒頭へと戻る。
「なんで急に服を? どこか出かける予定でもあった?」
「うん。デート」
姫鏡は背中を向けながら淡白に言った。
「デート・・・デートぉ!?」
「な、なに? そんなに驚くこと?」
僕の予想外の大きさの驚いた声に姫鏡はぎょっとした表情でこちらを振り向いて言う。
姫鏡の口からデートなんて言葉聞きたくなかった。
そりゃあ、こんな美貌の持ち主だし、学校外でデートをする相手がいてもおかしくはないだろう。だけど、烏滸がましいが、姫鏡に見合う相手などいないというのが僕の見解だ。姫鏡は可憐な一輪の華というのが勝手なイメージだ。
しかしだ。当の本人がデートと言うならば受け入れるしかない。相手はどんな人なんだろうか。資産家の息子とか、有名大学の学士持ちだとか、県内で悪の頂点にたった不良とか、もしかして噂になっていたおじさんか。どれもあって欲しくない。現実を受け入れたくないよ。
落ち着けよ僕。理想の姫鏡と違っても、それは僕如きが作り出したイメージ。姫鏡のデートを受け入れまいが、それは姫鏡が選んだ相手なのだ。そうだ。受け入れるしかないのだ。僕はそばから華を観察するに徹するのが趣味だろう。姫鏡の眷属になったからって、いきなり人間関係に口出すのは違う。
「それじゃあ僕は邪魔だよね。待ってね、頑張って身体を動かしてみせるから」
心の中で涙を流しながら、身体に力を入れると、栄養補給のおかげかぎこちない動作で体を起き上がらせることができた。
早くこの場から去って姫鏡をデートに向かわせてあげたい。本音はこの場から消え去りたいのだけども、これもかっこつけなのだ。
「何を言っているの? 相手がいないとデートにならないでしょうに」
振り向いたまま姫鏡は呆れたように言った。
「相手とは・・・?」
起こした身体を安定させるのに必死で、ぷるぷると震える身体で問うと、声が震えていた。
「何を分かり切ったことを。君だよ君」
「キミって人?」
「きーみ。オイラー君のこーと」
姫鏡が今度は身体ごと振り返って、僕を指さした。
姫鏡が何を言っているのかが理解できなかった。理解しようとすると、僕が姫鏡とデートをすることになってしまう。
それは違うだろう。僕如きが姫鏡の隣を並んで歩いていいわけがない。隣の席なだけでも羨まれて妬まれている気がするのに。こんなの美女と路傍の石だぞ。不釣り合いなんてものじゃない。姫鏡の隣に合う男性は・・・いないな。いないからこそ、僕ではないと断言できる。
「もー、どうしてそう悲観的なのかな。私とデートするのが嫌?」
「けっ決して嫌とかじゃなくて、姫鏡とデデデデートをしゅるのが畏れ多いわけで、僕がそんな幸福を受けるのは間違っていて、僕なんかが姫鏡と休日に一緒にいることが解釈違いと言うか。その、あの」
姫鏡の真っすぐできれいな瞳に射抜かれて、思っていることをすべてぶちまけて、しまいには恥ずかしさのあまりに言葉をつまらせてしまった。
「ふふ」
そんな慌てふためく僕を見て、姫鏡は楽しそうに笑って、
「可愛いね」
と、優しく呟くように言った。
初めて言われた言葉だった。もしかしたら物心つく前は親族に言われていたかもしれないが、記憶している限りでは初めて言われた。可愛いって。誰がだ。僕か? 僕がカワイイ?
カワイイとは愛嬌があり、人懐っこい物体や生物に形容する言葉だ。家にいる犬によくかける言葉だ。僕はそれに当てはまらない。姫鏡は僕をからかっているんだろう。
あー顔が熱い。
「じゃあちょっと着替えようかな」
ん? 着替えようかなって言った?
僕が言葉の真意を反芻している間に、パサリと姫鏡の来ていたエプロンが床に落ちる音がした。そして次はスカートのファスナーを下ろした。
「ちょちょちょっと、姫鏡さん!?」
慌てて姫鏡と反対の壁の方へと視線を移動させる。
「何かな?」
「どうしてここで着替えるのさ」
「私の家だもの、ここで着替えるのが日課だからだよ」
「ぼ、僕がいるんだよ」
「そうだね」
「そうだねって。は、恥ずかしくないの?」
「だって見られていないでしょ? それとも何かな? オイラー君は私の生着替えを観察するのかな? だとすれば、えっち。だね」
そんな会話をしながらも姫鏡は着替えていく。絹の擦れる音が妄想を引き立てるが、深呼吸をして諫める。ここで姫鏡の着替えを見ようものなら、僕の視力は失われるだろう。強い光を目に入れた時、失明の危機があるのだ。でも最後の景色が姫鏡の着替えならば、網膜に張り付けてもいいのかもしれない。
駄目だ駄目だ疚しい考えをするんじゃない。僕が見ないと信頼しているからこそーーもしくは僕が臆病者だと理解しているからこそ、着替えているのだろう。そうじゃなければ、昨日初めて話した異性であり同級生の前で着替えを始めるなんて行為は到底できない。僕だったら恥ずかしいもの。
僕は今、また姫鏡の眷属に事足りているかを試されているのだ。
ふっ、虚仮にされたものだね。女性の生着替えなんてどうってことはない。こんなの妹が薄い部屋着や、下着姿でうろちょろしているのと差異はないのだ。見慣れていると言っても過言じゃないね。
「あ、ちょっと失礼」
ふわりと甘美な姫鏡の匂いと共に、健康的な二の腕と、視界の端で見える胸のふくらみが急に視界に入ってくる。
きめ細かい肌で、触れると洋菓子のスポンジのようなふんわりとした触感なのだろうと、一見するだけでも分かってしまう。
胸のふくらみをこんなにも近くで見たことはないので、青筋の血管が浮いているなんて知らなかった。新たな知見が得られて良かったな。
姫鏡はベッドの横に畳まれていた洗濯物の山から、ブラジャーを抜き出して取っていった。
いやいや姫鏡さん。もう僕には刺激が強すぎますってば。
姫鏡は僕の事を思春期真っ只中の男の子だと言う事を忘れているのだろうか。目をひん剥いて、姫鏡の肌を脳の海馬に寸分の狂いなく記憶して、それを今生の最高の記憶として死んでもいいだろうと思ってしまっている自分がいる。
いくら姫鏡が僕のことを歯牙にもかけない存在だと認識していても、健康的な僕は姫鏡を扇情的な目で見てしまうのだ。いかんいかん。これは試練なのだ。僕の姫鏡に対する情はそれではない。
しかし留め具を止める音が生々しくて、後ろ手で留め具を止めている姫鏡の姿を想像してしまう。ぐぬぬ厭らしい想像力がフル稼働している。煩悩よ消え去れ。僕は違うんだ。姫鏡をそういう目で見ないんだ。消えろー、治まってくれー、頼むから落ち着いてくれ。
「そうそう。オイラー君の御家には連絡しておいたよ。事後報告だけどスマホを勝手に弄っちゃってごめんね」
煩悩と課せられた試練と闘っていると、姫鏡が申し訳なさそうな口調で言う。
「スマホは別に見られても構わないんだけど、両親が出たの?」
高鳴る心臓を落ち着かせながら、冷静を装って言葉を返す。
スマホの中身は見られても困るものは特にない。連絡先も家族しか入っていないし、家族の電話番号は記憶しているので電話帳を開くこともない。写真も風景や犬しか撮らないし、人が入っていることもない。変なアプリも入っていない。強いて言うならばインターネットの検索履歴くらいか。
「妹さんが出たよ。伝えておきますだって」
妹と聞いて安心した。親だと姫鏡が嫌な気持ちになっていた可能性があるのだから。まぁでも両親は来週まで家を空けているから、早く帰ってきていない限り電話に出ることもないだろう。
「そっか。ありがとう」
兄の初めての外泊なのに淡白な妹だことで。
家族は。とくに両親は僕の事には殆ど無関心だ。期待も羨望もしない。失敗と堕落さえしなければ、口を出してこない。放任主義と言えばそうなのだが、道を誤ろうとすれば流石に説教はされる。妹の方が玉石で手もかかる年頃だから、そちらに愛を注いでいるのだろう。寂しいとか、辛いとかじゃなく、僕としても過干渉されたくないから、気楽でいいけど。
やっぱり家族の事を考えると興奮も冷めるようで、あれだけ血走らせていた感覚も無くなった。
姫鏡も家族の事については、それ以上何も聞いてこなかった。僕も姫鏡の家族の事を訊かなかったので、気を遣ってくれたのだろうか。僕はただ訊ねる勇気がないだけなのだけども。
「もう向いても大丈夫だよ」
そう言われて、ゆっくりと視線を戻す。
そこには先ほどの白色の春物ワンピースの裾を靡かせている姫鏡がいた。
「女神?」
「吸血鬼だよ?」
安直な感想だった。姫鏡がまりあという名前だから言った訳じゃない。それもまた安直すぎる。
「どうかな?」
ちょっとだけ恥ずかしそうに僕に訊ねてくる。なんで生着替えは毅然としていて、ここで恥ずかしがるのだろう。女子って分からない。
「いつもの姫鏡もいいけど、この姫鏡も新鮮で良き」
いいと思うよ。
「なんか想いと言葉が逆な気がするけど、ま、いっか。どう? 動けそうかな?」
「ちょっとづつ動けるようになってきたかも」
ぷるぷると震えていた身体も落ち着きを取り戻して、一人で立ち上がることもできるようになった。膝が震えて安定しないけど、これも次第に落ち着くことだろう。
「生まれた小鹿みたいだね」
「誕生日みたいなものだし、そうなのかも」
「確かに。オイラー君はうまいことを言うね」
姫鏡は関心した様子で頷く。
そんなつもりは多少あったから、褒められている気がして嬉しかった。
だが人間としての僕は死んだのだと言われている事実には気付かないふりをした。
きりのいいところまで書いています。
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