姫鏡まりあ(2)
そして起きたら見知らぬ場所で目を覚ました。隣にはウサギのぬいぐるみが置かれた、良い匂いのするソファーベッドの上だった。あたりを見渡すと、箪笥や姿見や、様々レトロゲームが置かれたラックにゲームムック本と参考書が入り混じった本棚。ブラウン管テレビと、部屋の中央に置かれた簡易丸テーブルが置かれて、暖色系のカーペットが敷かれた明るめな八畳間ほどの部屋。
「お、起きたね。ね、大丈夫だったでしょ?」
部屋の奥へと続く廊下から、ひょっこりと姫鏡が顔を覗かせる。そう言われて、慌てて自分の身体を確かめるも、身体がまともに動かずにいた。でもとりあえず、指先と足先の感覚があるので、五体満足のようでホッと安堵する。
「今、食べられるものを作っているから、ちょっと待ってね」
ゴーッとミキサーが稼働しているような機械音していて、鼻腔をくすぐるようにおいしそうな匂いがしてきて、腹の虫がぐうぅと鳴いた。
「ここは?」
砂の音がする枕の奥に置かれたデジタル時計の時刻を確認しながら呟くと、姫鏡の声が返ってきた。
「私の家だよ」
「姫鏡の・・・家?」
じゃあこのベッドは姫鏡が毎日睡眠に使っているベッドだってこと? だからいい匂いもするし、この温もりも姫鏡のものだと言っても過言ではない。なんて恐れ多い事だ。僕如きが姫鏡の安息の地である寝床を侵食するなんて。颯爽に起き上がらなければ。
「うっ・・・ん?」
急いで身体を起こそうとするも、やっぱり身体が一切命令を受け付けてくれない。まるで固定具をつけられて磔にされているかの如く、起き上がることはできなかった。
「ありゃりゃ、体は動かせなさそう?」
おそらくキッチンでの機械音が消えたと思ったら、赤くドロドロとした得体の知れない何かが入ったミキサー容器を持って、姫鏡が熊のアップリケが胸に刺繍されたエプロンを着用しながらやってきた。
丸テーブルにミキサー容器を置いて、顔文字ビーズクッションの上に膝を曲げて座った。
「どうして身体が動かないの?」
「まだ順応していないからかな。大丈夫、安心して、その間は私が面倒見るからね。ちょっと失礼するね」
そう言いつつ姫鏡は膝で移動してきて、僕の枕横に来てから背中に手を回して、首を支えつつ力の入らない気の抜けた上体を持ち上げて、片手で支えてしまう。姫鏡って見た目によらず力持ちなんだなぁ。
「はい。これを食べれば少しは体が動くようになるよ」
空いている片手で赤いドロドロの液体をコップに入れて、そのえげつのない見た目をしたコップを口元まで持ってこられる。
食べると言われても、赤くドロドロとした液体だ。臭いからして野菜ではないし、果物のような匂いもしない。記憶にある臭いと類似するのは、鉄。ほんのりだけど鉄の臭いがする。
「これは何?」
「栄養満点だよ」
姫鏡ははぐらかす。はぐらかさなければいけない内容物なのだろう。単純明快だ。僕は吸血鬼になった。つまりは食事も人間とは違い、吸血鬼基準になったのだ。だからこの赤いドロドロとした液体の正体を考えると、人間ならば決して口にしていいものではないと分かってしまう。
しかし不思議なことに身体は食べ物だと認識して、腹がぐうぅと、鳴るのであった。
「僕は遠慮しようかな」
「駄目。食べないと回復しないし、干からびちゃう。オイラー君も干からびるのは嫌でしょ?」
母が子を叱るような優しい口調で、ズイッとコップの縁を口にあてがわれる。拒否しようにも体は動かせないし、無理やりに飲まされるのも勘弁してほしい。だが僕の意思を尊重してくれているようで、強硬手段にはでなかった。
「嫌だけど、これを飲むのも抵抗があるよ」
「ふーん。じゃあ普通の食べ物を食べてみる?」
コップを一旦置いて、姫鏡はエプロンの備え付けポケットから魚肉ソーセージを取り出して剥き始める。
差し出された剥き身の魚肉ソーセージは鉄の臭いなんてさせていなかったので、僕は大きく口を開けて食べた。気持ち的にも謎の赤い液体より、実績のある企業の魚肉ソーセージの方が食べやすいのは当たり前だ。
もぐもぐと咀嚼してみる。うん。なんら変わりない魚肉ソーセージである。十二分に咀嚼したので、飲み込んで、次の一口を食べようとすると、姫鏡の唖然とした顔が目に留まった。
「ど、どうしたの?」
「どうしたって、逆に訊くけど、どうもないの?」
「うん。普通だよ」
「吐き気は? 気持ち悪くない? 生臭い泥の味はしない?」
「し、しないかな。ただの魚肉ソーセージだよ」
「ただの?ごめんちょっと考えさせて」
姫鏡は難しい顔をして考え込んでしまった。何か拙い事をやらかしてしまったのだろうか。実はこれは眷属になる為の必要なテストで、絶対に選んではいけない回答をしてしまったんじゃないか。魚肉ソーセージじゃなくて、あの液体を飲むべきだったのか。僕にはまだその決心はつかないよ。
それも気になるが、生臭い泥の味も専ら気になるところだ。泥を食べるなんて事はないから、田んぼの臭いを想像する。どんな味だろう。だが今はそこを追及している場合ではないのだろう。
「吸血鬼はね、感覚が過敏になるから、人間の食事とは合わないんだよね。根菜とかだったら青臭い土の味しかしないし、海水魚だったら潮臭い泥の味だし、食べられたものじゃないよ。またまた失礼するよ」
説明しながら姫鏡は僕の口に指を入れて、頬を口内から引っ張る。どこか歯医者に来たみたいで、性癖ではないが、口内を姫鏡に覗かれていると思うと気恥ずかしい。
「噛んでみて」
「ふぇ」
姫鏡の指がまだ口の中にあると言うのにそんなことを言うから変な声が出た。
「おもいっきりね」
姫鏡の面持ちは真剣そのもの。このままあんぐりと口を開けたままの時間が過ぎるのもよしとせん自分がいる。姫鏡の指が舌先に当たって、何故か厭らしい気持ちになってくる。落ち着け僕。これは何も厭らしくないぞ。
「吸血鬼には再生能力があるから遠慮しなくていいからね」
早くしろと促されている。いくら姫鏡のお願いと言えども、無理なものは無理なのだ。遠慮などをしているわけでもなく。至高の存在である姫鏡の指を嚙むことなんて事が出来ないのだ。口に入れることでさえ多少の抵抗感があるのに、ましてや傷つけるなんてもっての他。治ると分かっていても、痛みはあるのだろうし、何よりも僕が姫鏡を傷つけるのが嫌だった。
「む、意外と頑固だね。じゃあ代わりにこれを噛んでみて」
ぬるっとした涎と共にテカテカに光った指が引き抜かれた後に、今度は自称シガレットを口に突っ込まれる。シガレットよりも硬くて、冷たくて、何やら苦みを感じる。全然甘くない。まぁでもこれならば噛んでも大丈夫だろう。
えい。と心の中で唱えてから言われたとおりに噛んでみる。ガキンと金属音をたてて自称シガレットは折れてしまった。
「ふむふむ。はい吐き出そうね」
折れた自称シガレット? を口の中から取り出して、またしても姫鏡の手は僕の涎まみれになる。
「これで何が分かったの」
「推測の域だけどね。あ、これは最後まで食べていいよ」
自称シガレット? の残骸をゴミ箱に捨てて、備えてあったウェットティッシュで手を拭き終わると、姫鏡は魚肉ソーセージを口元まで持ってきてくれたので、遠慮なく食べた。
「ときにオイラー君は吸血鬼の苦手なものを知っているかな?」
「ニンニクとか十字架とか銀とか聖水とか太陽光とかかな?」
「そうそう。物知りだね。それでね、今噛み折ったのが銀製のものでね。どう? 苦しくなかった?」
「うん。とういうか僕は銀製のものを嚙み砕いたの!?」
「そうだよ。本当は無害な私の指で試してみたかったんだけど、頑固な子がいたから致し方ないね」
残念そうな顔をしているが、姫鏡の指があんな風になるなら、シガレットを噛んでおいて良かった。というか銀製のシガレットって何? 分かってはいたけど絶対シガレットじゃないないじゃん。
「これはあくまで私の推測だよ。オイラー君は吸血鬼の能力だけを持っている人間。もしくは吸血鬼の弱点を克服して吸血鬼になった。のかもしれないね」
「えっと、それってよくあることなの?」
「史上初だよ。人間の食べ物を食べられて、銀を口に含んでも爛れないし、その後に死なない。なのに力は吸血鬼と同じなんて、見たことも聞いたこともない」
残った魚肉ソーセージを食べさせてもらいつつ、美味しさに舌鼓を打ちながら話を聞く。
昨日まで、つい半日前までただの人間だったボクが、史上初の究極生物になってしまった。そう考えても、やはり漠然としたものしかないために、現実と言う実感がない。そのせいで喜びも悲しみもをするのが正しいのかが分からないために、冷めている反応になってしまう。
「僕はどうなるの?」
「どうもならないよ」
「然るべき機関とかで調べなくてもいいの?」
「あー、うん。そういうのはないわけではないけど、今は大丈夫かな」
そんな究極生物なら、吸血鬼内のコミュニティで研究対象になるのだろうと踏んでいたのだが、そうでもないみたいだ。弱点を克服した吸血鬼なんて史上最強の生物だと思うのだけども、姫鏡の落ち着きようからそこまで重要な変化ではないのだろうと予想しておこう。
きりのいいところまで書いています。
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