オイラー君(6)
「おい人間、お前は一体」
男が詰め寄ろうとした時、姫鏡は自分の影に手を入れて、影から刀を取り出して男の方に斬りかかる。男もスーツの袖口から剣を出して刀を受け止めた。
今が逃げ時だろう。
這うように後退ってから、立ち上がって戦いの場に背を向け、公園の階段を駆け降りる為の一歩を踏み出し、一段、一段と覚束ない足取りで降りていく。
まだ後ろでは金切り音が鳴っていて、あと一歩踏み出せば完全に視界から見えなくなってしまう。僕はそこで踏み止まった。
僕の前には大きな壁が立ち塞がっている。選択の時だ。今までもこれからもしていくであろう人生での選択。これまでは壁にぶち当たったら逃げていた。見ないふりして、言い訳して、都合のいいように解釈して逃げた。そのせいで地獄のような現実にしがみつくことになった。
現実に正解があればどれだけいいか。公式を解いて値を求められればどれだけいいか。
最近思うのだ。勉強とは未知への探求だ。人間は考える葦だって言う人もいた。その通りかもしれないって。
同じ過ちは犯さない。
それに姫鏡のあの笑顔を僕は知っているんだ。知っているのに、答えが分かっているのに、白紙にするなんてできない。
「ふっ、弱いな。この程度なのか? あの食料を食っていた方が良かったのではないか?」
「彼は何も関係ない」
今までの朗らかな口調ではなく、真面目な口調で冷たく言い切った。
「・・・・・・何も関係なく、食料ではない、か。そういう貴様らの偽善が弱者を付け上がらせる!」
「がっはっ」
姫鏡の腹部に蹴りが入って、初めて痛みに顔を歪め、後方へ転がっていく。
「そんな何者でもない者がまだ何かようかね?」
男はそう僕に訊ねる。
「ど、どうして逃げなかったの。死ぬよ?」
「うん。死ぬんだろうね。見てよ、身体が震えている。武者振るいであってほしいよ」
膝はおろか身体全体が死の恐怖に震えている。そんな無様な様を姫鏡は地に伏しながら見ていた。
「だったら逃げれば」
「逃げたらさ。僕は今日の事を絶対に忘れないと思う。でも何の変哲もない日を過ごすんだ。朝起きて、顔を洗って、歯磨きして朝食食べて、登校して、勉強して、昼ごはん食べて、また勉強して、下校して、夜ご飯食べて、くつろいで、勉強して、風呂に入って、寝る。そしてどこかでふと思うんだよ。あの時逃げなければ、どうなっていたんだろうかなって。ちょっと妄想して違う未来を想像するんだよ。でも現実はすぐそこにあって、日常に引き戻すんだ。ずっと逃げなかった未来を夢見ながら現実で過ごさなきゃいけない。僕はそんな思いをするくらいだったら、もう逃げない」
決めたんだ。こんな地獄を繰り返すくらいならば、逃げない選択をする。例えそれが不正解だったとしても、僕が自信を持って選択した答えなんだと胸を張れる現実を過ごす。
「その対価が死だとしても? 死ぬんだよ? ありふれた日常を過ごせないんだよ」
「姫鏡さんの知っての通り、僕は一人だからさ」
震える脚で男から守るように姫鏡の前に立って、安心させる為に自虐気味に言って空笑いをする。僕が死んでも妹と愛犬は悲しんでくれるかな。
「だからって・・・・・・」
実はもう二つ理由がある。一つは逃げたとして、僕だけが助かった場合。あの現実には姫鏡はいないのが嫌だった。地獄に咲く花は、ただ一つの清涼剤は必要なのだ。
そしてもう一つは、姫鏡が嘘をついていたから。姫鏡をひっそりと観察していたら気づいた事なんだけども、姫鏡が愛想笑いをする時は嘘をついている時である。また明日と言った時の笑顔は、いつもの愛想笑いだった。
だからあの地獄に一人戻るくらいなら、僕はこの本物の地獄から逃げない。
姫鏡を一人にさせない。
「・・・・・・」
姫鏡は目を丸くさせていた。何か突拍子もない事を言われた表情だけども、やっぱりクサかっただろうか。いやでもこれは僕の決意表明の中での、三つの理由の中で一番クサくなさそうなのを選んだのだけども、選択を間違ってしまったか?
「クスッ」
僕の胸中など意も知らない姫鏡は笑った。
「うふふ、ふふふっ、あははははっ」
最初は可愛らしかったけど、どんどん豪快になっていき、最後は制服が汚れるなんて気にしないで腹を抱えて笑った。
「き、姫鏡さん?」
「いやー、笑った。久しぶりに大笑いしたよ。はースッキリした」
追い詰められておかしくなったのかと思い、心配して声をかけると、よっこいしょとの掛け声で膝を曲げて姫鏡は立ち上がって、土埃を払った後に隣にやってきた。
「よくわかりました。オイラー君のおかげで私も決心がついたよ」
「ここからどうにかなるの?」
「うん。その為には力を貸してもらうよ」
屈託のない笑顔でまたあっけからんと言う。でもこの笑顔はいつもの愛想笑いじゃなくて、姫鏡が初めて見せる笑顔だと言うのは理解できた。
「それって」
「お察しの通り」
人間の僕が吸血鬼に力を貸せることなんて、今までの会話からして一つだけだ。
僕はこれから姫鏡の栄養になる。吸血鬼のオーソドックスな栄養補給方法は血を吸う事。人間だと首筋に牙を突き立てて、そこから血を吸うのが有名な話だ。
姫鏡の両腕が背中に回ってくる。胸元に柔らかな感触にどぎまぎしていると、首筋に生暖かい吐息がかかって。いよいよかと覚悟をして目を瞑る。
「責任取ってね」
耳元で姫鏡がこそばゆい声で言った。
瞬間にチクリと首筋に痛みがしたと思うと、スーッと何かが身体全体に流れていくのが感じられた。
あぁ僕はこのまま姫鏡の血肉となり、栄養となって、永遠に姫鏡と生き続けるんだ。永遠の愛とはここにあったんだ。うわー、なんかサイコチックなロマンティストって感じの感想だ。今際の際で詩人を気取るなんて恥ずかしいったらありゃしない。
・・・・・・あれ? こう言う時って意識とか失うんじゃないかな? なのになんでこんなにもハッキリと感覚が残っているんだろうか。
「目を開けて」
姫鏡の声がハキハキと聞こえた。意識はしっかりとあるし、指の一本一本も動く。ただもう首筋は痛くもなく、何かが流れ込んできている感覚はない。変わりに身体が熱い。全身の血管が熱を帯びている感じがする。
ゆっくりと瞼をあげた。隣には姫鏡が変わらずいて、男も僕達から距離を取るように存在していた。
「なんで? 栄養になったんじゃ?」
自分の身体に異常がないか確かめながら姫鏡に問う。その返答の前に。
「まりあ! き、貴様! 自分が何をしたか分かっているのか!」
男が眉を吊り上げ、牙を剥き出しにして叫んだ。今の今まで僕に感情を向けてこなかった男の激情に、全身の毛という毛が逆立った。
「理解したうえだよ」
そんな心臓の毛までもが立ちかねない男の怒号に、姫鏡はあっかんべーとジェスチャーをして軽く返していた。
「・・・・・・そいつを屠る」
男はそう語気を強めて呟いた。瞬間に男が視界から消えて、突然僕の目の前に出現する。
目はちゃんと男を捉えていたはずなのに男の顔面が目の前にある。何が起こったのか分からなかった。だけど体は正直で、牙を向いた男に何かされると理解したのか、反射的に両腕を男に突き出した。
ドン、と、掌で男の胸板を押して突き飛ばした。恐らく吸血鬼であろう男に対して、痴話喧嘩のような抵抗だ。なのにも関わらず、男は突き飛ばした力に負けて身体をくの字に曲げて吹き飛び、高台から浮遊するように落ちて視界から消えた。
「えっ・・・・・・」
状況が一転二転し過ぎて理解が追いつかない。単純に今起こった出来事を考えると、僕が人外である男をありもしない強さで突き飛ばした事になるが、そんな話があり得るのか。あんな訳の分からない異能バトルをしていたのに、ただの突き飛ばしで対処できてしまうのが現実なのか。
「オイラー君。屈伸してみて」
混乱しているところに自称シガレットを胸ポケットに入れながら姫鏡が提案してきた。
「な、何?」
「屈伸だよ。ほら、こうやって」
姫鏡がぐっと膝を曲げて手本を見せてくれる。戸惑いながらも言われた通りに従い屈伸する。
「それで前に重心をかけて飛び上がってみて」
「飛び上がる? 何の意味が」
「後で教えるから、ほらほら、せーの」
姫鏡に焦らされて、渋々言われた通りの行動をした。膝を曲げて、立ち幅跳びの勢いで飛んだ。
次の瞬間に身体は天高く飛び上がった。そのことに気がついたのは高台の公園が背中に小さく見えた時だった。
「う、うわああああああああああ!!!」
突然空中に放り出された僕は恐怖のあまり叫んでしまう。今は何故か並行に滞空しているが、時がくれば下へ落ちてしまう。そうなればマンション二十階は優に超える高さだ。地面に叩きつけられて死んでしまう。これが叫ばずにいられるか。
「大丈夫だよ。足元を踏み込んでみればいいから」
いつの間にか右上頭上に蝙蝠のような羽を腰から生やしながら、浮いて並走している姫鏡がいた。
「な、何が!? 意味が分からないよ!」
「意味も大事だけど、今は感覚の方が大事かな。ほらほら身体が重力に負け始める前に踏み込まないと落ちちゃうよ」
「そんな事を言われても!」
「足元に地面があると思い込めばいいよ。ここは空中じゃなくて地面だってね。そうすればもっと飛べる」
姫鏡はまた手本のように空中を踏み込んでみせる。まるで地面があるかのように何かを踏み込んで姫鏡は僕よりも前へ飛んでいってしまう。その姿を見て焦っていた心の中に、なんて自由なんだろうかと思える余裕ができた。
頭上には瞬きつつ綺羅びく星空に、澄んだ空気を取り込んだように丸みを幾重にも帯びた満月。前には吸血鬼で憧れのクラスメイトが飛んでいて、遠くから手を差し伸ばしてくれていた。これが現実か、それとも幻想かなんて分からなくなる夜空だった。だからこそ、それを実感する為に僕は踏み込んだ。
これは、現実だ。
肌で風を感じ、星々の歓待と月明かりの祝福が身体に沁み入る。あれだけ現実にしがみついていたのが馬鹿らしいくらい清々しく、現実がこんなにも自由であっていいんだと知ってしまった。
追いついた姫鏡の手を取ると、姫鏡ははにかんだ。
「これからよろしくね」
満月を背景に高い高い壁を僕は飛び越えたのだ。
きりのいいところまで書いています。
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