オイラー君(5)
「ね。何も報告することなんてないでしょ?」
そう言って姫鏡は再び同じ距離に戻ってから、咥えていた自称シガレットを制服の内ポケットにしまった。
「姫鏡さんは、何の人外なの?」
「吸血鬼」
またあっさりと白状するものだから聞き返してしまった。
「吸血鬼?」
あの血を吸って人間を食料と認識している化け物。海外の化け物ビッグスリーと言えばでお馴染みの吸血鬼。
「考えている通りの吸血鬼。ほら牙もあるよ」
べーと、大きく口を開けて舌を出しながら、尖った前歯を見せてくれる。もしかしたら僕だけかもしれないが、舌って普段見ないから、こう恥ずかしげもなく見せられると変な気分になるよね。ほ、ほら、繊細で大事な部分は隠しているじゃないか。だから、それと同じ理屈。って、一体誰に言い訳していのだろう。
「じゃあ人をその・・・・・・」
「人は吸っていないし、殺していないよ。この現代社会で生きていくには吸血鬼は息苦しいからね。昔は殺して吸っていたみたいだけども、今は殺さないし、生きてる人からは直接吸わないから安心して。もちろんオイラー君の事も吸わないから安心してね」
何も安心できはしないが、とりあえずは姫鏡のことを信じるしか無かった。そうじゃなければ、出会った時に否応なしに吸われている。
「何で傷だらけだったの?」
「んー・・・怪我しちゃったから、かな」
原因を聞いたのに、返ってきたのは結果だった。つまり、言いたくないのだろう。僕も気になる程度に聞いただけだし、深く関わろうなんて思わない。僕はなんら特別ではなく、ただの人間。人間の中でも不出来な人間なのだから、吸血鬼なんて非実在性の者とは関わったところで食料がいいところだ。こうして対等に話してくれているのが奇跡だ。
「オイラー君はさ、どうしてここに来たの?」
「それは・・・・・・」
唐突な自分語りになってしまうが、聞かれたのだし答えておこう。
「ここは、昔家族でよく来ていたんだ。今は来ないけどね。それで近くを通ったから偶々寄っただけだよ」
「偶々・・・ねぇ。ねぇねぇ、オイラー君って結界って信じる?」
「信じるも何も、姫鏡さんが吸血鬼っていうのが事実なら、結界も信じるさ」
「へー。物分かりがいいのかな? まぁまぁ結界の話だね。私ね、ちょっとした事情でこの辺り一帯に人除けの結界を張らせていただきましてね」
人除けの結界だって? 確かに公園に近くなれば成程人は減っていたな。露骨という程ではないが、人はいなかった。でもそれは偶然にも人が居なかっただけではないだろうか。現に僕はここにいる訳だし。
「それでですね。人除けの結界は中から外に出るのは簡単なんだけど、外から中に入るのは凄く難しいんだよね。どれくらいかと言うと魔界村を初見プレイノーコンテニューでクリアするくらいなんだよね。知ってる魔界村?」
「知っているけど、もうちょっとポピュラーな例えなかったの?」
「ない事もないけど、伝わったのならいいよね」
僕が知っていたからいいものの、もっと日常的な物を使った例えをしてほしいものだ。
「まぁ侵入するのが普通じゃ到底無理だってのは分かったけど、僕はここにいるよ」
「うん。結界を張った後に侵入してきたんだよね。だからね、最初は警戒したよ。でも現れたのはただの人間のクラスメイトのオイラー君だった。臭いも気配も身体形も全て人間。だからこそ不思議でならないんだよね」
普通の人間では入れない場所に僕がやってきた。さっきまでのやり取りは、もしかして人間かどうか、有害か無害かを確かめられていたってことか。無論無害なのだろうけども。
「確かに、それは不思議だね。だって僕は平凡以下の人間だし、何も特別な力も持っていないからね」
そう。僕は物語の主人公なんかじゃなくて、ただのモブ。もしくはモブとしても描いてもらえない存在。誰かを引き立てるわけでもない。存在さえ無価値な人間だ。
「自己肯定感の欠如だよ。確かに特別な能力は持っていないかもしれないよ。でもさ、目に見えないし、自慢できないかもしれないけど、こうして結界を通過するっていう不可能なことを可能にしているんだから、自信を持とうよ。無自覚なら億に一人いるかどうかだよ、凄い事だよ。オイラー君は凄い」
胸の前で両拳を握って姫鏡は励ましてくれる。誰かに励ましてもらったのなんていつぶりだ。しかも異性で同級生で、あの姫鏡からなんて。あんな出会いじゃなければ素直に喜べたのかな。
これまでの問答でようやく一つの疑問に辿り着く。姫鏡の怪我。吸血鬼。人除けの結界。結界の侵入者を警戒した。ここから導き出される疑問を深く関わる気のない癖につい口にする。
「姫鏡さんはさ、誰かに」
「ヴォルフ」
追われているのか? そう質問しようとした時に空気を震わすような低い声が夜の公園に響いた。
僕の前に姫鏡の背中が見えたかと思えば、ぐちゃりと生々しい音と、ガキンと何かと何かが噛み合うような音がした。
巨大な狼の顎門が飛びかかってきて、姫鏡の右腕を噛みちぎったのだ。何を言っているのか分からないだろうが、僕も目の前で起こったことを頭の中で実況するしかなかった。
綺麗に元に戻っていた姫鏡の右腕から血が吹き出す。頭上から生暖かい雨が降った。傘、ささなきゃ。
「オイラー君。走れる?」
左手で直していた自称シガレットを取り出して咥えてから、視線の奥にいるソレから目を逸らさずに姫鏡は落ち着いて言う。
姫鏡に庇うように押し出されて椅子から転げ落ちていた僕は、呆けたように姫鏡の視線を追った。狼顎門は消えていたけど、狼の顎門が飛んできた方向には男が一人佇んでいた。
図らずしも訊きたかったことは、その男の存在で立証された。
男は長身で三十代前半か、上下黒色で上着に縦に白いボーダーが引かれたスーツを着用していて、丸サングラスをかけ、長い黒い髪を半分で分けて見た目の男。
「まりあ。どうして逃げる」
男の低い声が肌に突き刺さる。何故かその声を聞いていると寒気がして、身体が勝手に震えだす。
「どうしてだって? そりゃあいけすかない中年男性に言い寄られれば花の女子高校生は逃げるね」
「富も名誉も俺は持っている。女子高生はその二つが最も手にしたいものであろう」
「残念だけど、私はいらない」
「そうか。では」
丸サングラスの奥の瞳が自発的に赤く輝いたように見えた。
「オイラー君! 走って! 逃げて!」
何の話をしているのか上の空だった。姫鏡の力強い叫びで我に返った。従おうとしたが、腰が抜けて脚に力が入らなかった。ハハッ本当に腰が抜けることなんてあるんだ。
「ええい! ままよ!」
僕の状態を把握した姫鏡は前を向いて叫んだ。
「ヴォルフ。ヴォルフ。ヴォルフ」
さっき見た巨大な狼が水面から顔を出すように男の影から現れる。しかも今度は三体だ。それらが姫鏡目掛けて襲いかかる。
「犬の躾方は! 知ってる!」
フゥッと煙を吐いた。その煙は赤色で、姫鏡が吐き出した最後の部分を握ると煙状からいきなり鞭へと変わった。その鞭をしならせて、襲いかかってくる狼達の首に巻きつける。
狼の体躯は姫鏡三人分はある。なのにも関わらず姫鏡は難なく巻きつけた鞭を下へと叩きつけていた。
狼達は悲鳴を上げて地面にめり込んで、男の影となって溶けていく。
何だよ。何が起こっているんだ。頭の中で吸血鬼なんだと分かっているつもりだった。だけど、こんなのは知らない。聞いていない。聞き齧ってさえもいない。予習の範囲外だ。
逃げるべきだ。逃げるのだ。ただの人間が介入できる場面ではない。尻尾巻いて逃げるのが正解だ。でなければ死んでしまう。
必死に姫鏡と男から距離を取ろうとするけど、身体が想いのままに動いてくれない。
「食糧が逃げるぞ? いいのか?」
男が僕を指して言う。確かに吸血鬼からすれば人間は食料なのだろう。僕を吸えば身体が回復するのであろう。だから男は初撃で補給線である僕を狙ったに違いない。
「彼は食料じゃない!」
姫鏡は強く否定した。その言葉を聞いて心底呆れたように男は返す。
「そうか。では学友か?」
学友。学校での友達。
「・・・・・・違う」
少し考えた後に姫鏡は答えた。そう。今まで一言も話した事もない人間は学友とは言わない。
男は虫でも見るような視線を僕に向けた。
「お前、なぜこの場所にいる?」
「ぼ、ぼぼ僕は」
口が震えてまともに話すことができない。
「答えろ」
赤く光る瞳に心臓を射抜かれたかと勘違いし、背筋が伸びた。嫌な冷たい汗が背筋に伝っていく。なんだこれ声が出ない。律儀に出そうと思っても、喉の中に固形物が入っているようで微かな空気が音として漏れ出すだけだ。
男は返事がないことに対して首を傾げる。
「ほら、オイラー君。そろそろ腰も戻ったでしょ。私の事はいいから走って逃げて。出るもの拒まずだから。いい? 私が気を引いた瞬間に走るんだよ? そしたら何も振り返らず家に帰って。そしてまた明日学校で、ね」
男の注意が僕に逸れたので、その間に姫鏡が小声で話し、言葉の最後には安堵させる為の笑顔を向けてくれる。僕はこの笑顔を知っている。
きりのいいところまで書いています。
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