乞仏座伽羅(1)
「お兄」
誰かが僕を呼んでいる。
「お兄ぃ!」
子供の頃からずっと変わらない声だ。
「お兄ぃ起きろ!」
これは我が妹の声だ。
「香子! いでっ」
「いっだぁ!」
僕は突発的に目を開けて飛び起きた。そのせいで顔を覗かせていた妹と額と額をぶつけて互いに悶絶する。
「もぉ、急に起きないでくれる? いったいなぁ」
我が妹香子は、中学校の女子生徒用制服を着て、日本人形みたいな黒く長い髪を靡かせて、三日前に共に家を出た時と同じ姿で、可愛らしい小さなおでこをさすりながら、ベッドで寝ていた僕の隣にいた。
辺りを見回すと、勉強机と参考書が詰まった堅物そうな本棚と、漫画と小説が詰まった娯楽の本棚と、自分で選んだものの方が少ない衣装ラック。小デスクの上に小型のモニターと、小分けにされたお菓子類。ここは列記とした僕の部屋だった。レトロゲームや、ピンク色の小物や、女性用の下着もない。
壁に掛けてある電子時計を見ると、月曜日になっていた。金曜日の夜から帰っていないから、ちゃんと三日経っているのは確かだ。あれらが夢ではないらしい。
僕はどうして自分の部屋で寝ていたんだ。昨日は確か暮山と決闘して、それで頭の中がぐるぐるして、気を失った。何回気を失えばいいんだ。一日一善と同じように、一日一気絶している気がする。
「ねぇ僕は昨日どうやって帰ってきたの?」
「どうって、玄関から帰ってきたけど」
「自分の脚で?」
「勉強し過ぎて熱でもあるの? 慣れないことはしない方がいいよ。ちゃーんと約束のお土産も持って来なくて、夜中の二時にちゃっかり自分の脚で帰ってきたよ」
目を細めて笑っているけど、これは笑ってない。どうやら自分の脚で帰ってきたみたいだが、気絶してから今までの記憶が一切ない。夢遊病のように気絶しながら帰ってきたのだろうか。だとしても姫鏡や立藤さんが近くまで送ってくれている可能性があるが、香子の話には出てこなかったな。
「ごめんごめん。あの時間だからお店閉まっていてさ、今日買ってくるから」
「本当?」
「本当本当。僕が香子との約束蔑ろにしたことある?」
「武士に二言はないよね。約束破ったら生き胴だからね」
「武士にする処刑じゃない!てか僕は武士じゃない!」
「え、そうなの? インターネットでござるござるって語尾で喋ってたじゃん」
「喋ってないし、今時そんな喋り方する奴いない! もう着替えるから早く出てって」
「はーい」
浮足立ったような足取りで香子は部屋の扉まで行って、ドアノブに手をかけた時、思い出したように言葉を発した。
「あ」
「今度は何? 忍者でもないからね」
「姫鏡さんが居間で待ってるよ。その為に起こしに来たんだったよ。じゃっ、朝練あるからお先に」
悪戯な笑顔で扉を閉めて、トタトタと足音を鳴らして行ってしまった。
「もっと早く言ってくれる!?」
飛び上がるように起き上がって、記憶にないのに着替えていたパジャマを脱いで、制服に着替える。階段を大急ぎで降りて、洗面所に入って身だしなみを確認しながら、歯を磨く。顔を洗い、水の冷たさで、しっかりと起床しているのだと理解する。
洗面所から出て、居間へと入ると、家族団欒のスクエアテーブルにお客用のティーカップを置いて、いつも妹が座っている席に金髪の美少女。金髪の吸血鬼。僕の主人である姫鏡が姿勢よく座っていた。
「あ、オイラー君、おはよう」
「おはよう」
僕の家に姫鏡がいる。長年過ごした空間に、あの姫鏡がいる。それは嬉しさの反面、奇妙な悲しさもあった。
「いや、なんでいるの!?」
「えっ、いちゃ駄目だった?」
目を大きく開いて驚いた後に、悲しそうな目をされる。
「いい。もういつでも来てもいいよ! じゃなくて! あの後だよ。あの後どうなったのさ! 気づいたら自分の部屋で寝ていたし、妹に起こされるし、姫鏡が僕の家でお茶を飲んでいるし! どれか説明してほしい!」
「あはは、朝から元気だね。あの後オイラー君は精魂尽き果てて動かなくなっちゃたんだよね。倒れた時はびっくりしたけど、寝息をたてていたから安心したよ。その後は師匠の力で操って、家に帰したんだ。ちゃんと布団で寝れたのを確認してから、私達は解散したよ。それで私はパニックになっているであろうオイラー君を宥める為に、茶葉を持って推参したってわけ。妹さんはその茶葉でお茶を入れてくれた後に、中々起きてこない大好きなお兄ちゃんを起こしただけだよ」
全部説明された。どれかって言ったのに全部一息に言われた。
「じゃあ僕は一日に一回気絶するような変な病気とかじゃないんだね」
「安心していいよ、吸血鬼は病気にはならないから。それにどちらかと言うならば病原体だしね」
笑えないよ。
香子と日常会話をしていたけど、か細い首にかぶりつきたい衝動もなく、血に飢えている訳でもなく、人間のような日常の一幕をできた。吸血鬼なんだと自覚できない程に人間と変わらない。それでも姫鏡の正体を知って、話していると、僕は吸血鬼なんだと思える。
「そうだ。椿海月さんはどうなったの」
「ん? どうもなってないよ」
「そうなの? アーサーに利用されたりとかは」
「オイラー君が暮山君に釘刺したし、あの男は派閥の人間しか使わないって決めてるから、明確に誓約を邪魔しなければ大丈夫だよ」
誓約。それは昨日行われた決闘を指すのだろう。
決闘は命の取り合いだった。激高して頭に血が上っていたから、本質的にその事実を頭の彼方へとやっていたが、僕は昨日命のやり取りをしたのだ。少しでもズレていれば、僕は人殺しになっていたのだろう。
それがあと二回もある。
「そうだ。決闘があと二回もあるって本当!?」
姫鏡に問うと、姫鏡は徐に立ち上がって、食器棚から白い皿を取り出して、台所に置いてある電子レンジの中からクロワッサンを取り皿の上に置いた。フライパンの小松菜が入ったスクランブルエッグを同じ皿に盛り付けて、ケチャップでハートを描く。カップにインスタントコンポタージュの粉末を入れて、ポットの中のお湯を回すように注いでから、湯気の立つカップを木製のスプーンで回し、皿を持って、いつも僕が座っている席の前に、皿とカップを置いた。
「朝ごはん食べよっか」
そしていつもの笑顔で言った。なんでいつも使っている皿やカップが分かるんだ。
「質問に答えて欲しんだけど・・・」
「答えてもいいけど、込み入った話になるんだよね。ほら時間がね」
姫鏡は居間のラックの上に置いてある海外で買った変なゴテゴテした装飾がついた時計を見た。
現在の時刻は七時四十七分。いつも僕が遅刻せずに家を出ている時間は、七時五十分。時間を逆算すると悠長に話して食べている暇はなかった。
「なんでもっと早くに起こしてくれなかったんだ! いただきます!」
「三日ぶりのお兄ちゃんの寝顔を見てたかったんじゃないかな?」
「そうだったら責めにくい!」
でも生憎香子はそういうお兄ちゃん大好きな妹じゃない。僕がこうして焦っているのを見て、ケタケタ笑うタイプの妹だ。今も登校中で、この姿を想像してほくそ笑んでいるに違いない。
あれ? あいつ今から朝練って、間に合うのか?
「オイラー君。いい妹さんだね」
「僕には過ぎた妹だよ」
憎たらしい妹だ。シュークリームを四つ買ってきてあげよう。
それにしてもちゃんと姫鏡に宥められているあたり、しっかりと僕は姫鏡の眷属なのだな。
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