椿海月三幡(6)
「分かっていたなら、結界を解いたらどうなるかも分かっていたんじゃ」
動揺しているからか思考が違う方向を向いている。そうじゃないだろう。大事なことは椿海月さんがいつからこうなることを分かっていたかだ。
結界を解いたら影人間に囲まれている状況は最初から仕組まれていたとしたら。
椿海月さんが姫鏡に今日呼ばれると分かっているとしたら。
椿海月さんがダキア派閥だったら。
最初からアーサーと繋がりがあるとするならば、分かっていてもおかしくはない。
いいやそうと決めるのは早計だ。疑り深い性格で凝り固まった思考なのは駄目だ。椿海月さんが直接そうだとは言っていない。
「椿海月さん。君はダキア派閥の、アーサーの関係者なの?」
「・・・言えません。けど! 姫鏡ちゃんを助けるのにはこうするしかないんです!」
「今の僕はそれを信用できないよ。僕の前にいる椿海月さんは、どっち側なのかを判別しないと、たとえ姫鏡のためだと言っても、僕は君の言葉を信じられない」
椿海月さんが姫鏡の名前を使って嘘を言うとは思えない。少し接しただけでそうだと思える。彼女は僕と同じように姫鏡を慕っている。だからこそ姫鏡を貶める行為はしない。
椿海月さんは唇を噛んで、今にもでてきそうな感情を抑え込んでいるように見えた。
結を結んでいた口が開いた。意を決したのか、大きく息を吐いてから、強い意志を持った視線で僕を見た。
「私は・・・ダキア派閥ではないです。でも、今はオイラーさんを足止めする為に、この結界から出さないために、決闘に行かせないために、立ちはだかっています」
揺るがない心を持った言葉なのだろうと真摯に受け取った。嘘であってほしいが、眼が嘘だとは語っていない。僕にそんな眼だけで嘘を判別できる特技なんて持っていないけど、持っていなくても、嘘じゃないと分かるほどの力強い眼なのだ。
「今張っている結界は外から中、中から外どちらも侵入するのが困難となっています。もしかしたらオイラーさんなら突破できるかもしれませんね」
「ちょっ」
椿海月さんが結界の説明を始めたと同時に衣服を上から脱いでいく。目の前で立ち憚る者宣言した人物から目を離すのは愚行だと思うけど、軟弱な僕は手で顔を覆ってみないふりをしながら、指の隙間から黒のニットセーターから現れた巨大な果実を見逃さなかった。
「アンデルセンの人魚姫のお話がありますよね。人魚姫は王子に恋をして、魔女に声を奪われ、最後には王子と結ばれず泡となって消える。私あの話が嫌いなんです。境遇も、待遇も、思考も、あの人魚姫が嫌いです」
アンデルセンの人魚姫は王子の幸せを願い、人魚姫が身を引いた話だ。妹に読み聞かせしてあげたので覚えている。僕の読了後の感想は、理不尽な環境と、代価と代償の大事さと、献身的な身の振舞い方は身を亡ぼすだった。あの掛け違えたボタンのような悲哀なストーリーは、確かに苦手なのは分からなくもない。
「私も呪いで人間になっていて、あることをすれば人魚へと戻るんです。人魚になれば、人間の時とは非にならない程の結界を展開できます。つまり私が人魚に戻ればオイラーさんは確実に外へ出ることはできません」
椿海月さんはついに下着姿になってしまった。姫鏡とは違う肉付きの良い身体だと思う。
混乱する頭の中、椿海月さんの肉体に見惚れるのは、動物的本能がそうさせているのか、僕がムッツリスケベなだけなのか、はたまた混乱しているからなのかは知らない。一つ言えるのは、椿海月さんが重大な事を言っているのに、話が頭に入ってこないことだ。
「人魚に戻ると話せなくなるので言っておきたいんです。オイラーさんはいい人です。姫鏡ちゃんが選んだ眷属なんだって分かります。今もこうして邪魔者なのに手を出さずに、話を聞いてくれている。人間でも、吸血鬼でも、良識のある人です」
「だったらなんで・・・」
「だからこそ。なんです。正しさだけじゃ、姫鏡ちゃんは救えないんです。貴方が決闘へと行くと、姫鏡ちゃんは救えないんです。どう考えても、どうしても泥沼になります。貴方は傷ついて、傷つく度に姫鏡ちゃんも傷つく。だったら、だったら傷が少ない方がいいじゃないですか」
震わせた声と、眼に涙を溜めて椿海月さんは告げた。
「人魚姫は、刺すべきだったんです。王子と姫を」
風にかき消されてなんと言ったのかは聞こえなかったが、それを機に椿海月さんは走り出して、川へ飛び込んだ。
僕は止めることもせずに、それを見てることしかできなかった。椿海月さんは明らかに僕を足止めしようとしている。考えようによっては敵だ。姫鏡の敵になりうる存在なのに。どうしても力を行使しようとは思えなかった。
アーサーのような性格の奴には甘さだと笑われるだろう。だけど同志である彼女を武力で止めたら、それこそ僕の思う人間ではなくなってしまう。
川の中が薄ぼんやりと光り出した。光は次第に川全体に広がっていき、天の川のように煌びやかな帯を作り上げた。
呆けるように見ていると、身体が気怠くなってきた。風邪の引き始めのように、軽い倦怠感。それが段々と明確に不快感へと変わっていく。酸素が薄くなるような感覚、呼吸をうまくできない。器官が細くなっているのかもしれない。喉を押さえて腫れてないかを確かめようにも、腕が脱力して動かない。
結界には人除け、存在消しの他に、外敵排除と縛りがあるって言っていたっけ。外敵排除があの黒い結界ならば、これは縛りなのだろう。この場に留めるという縛る意志。僕の行動権限を奪おうとしているに違いない。
僕が結界内にいる間は、これが適応されるのだろう。
ようやく僕は椿海月さんが本気で行かせまいとしていることを実感する。馬鹿は死ななきゃ治らないと言うが、そうかもしれない。想像力の欠如した凡愚は、体感して取り返しのつかないところまで行って、実感するんだ。
ただ凡愚じゃなくて、吸血鬼になった凡愚だ。まだやれることはある。
足に力を入れて跳びあがる。脱力していも、影を踏んだという行為はできるようで、影を踏んだ反動で大きく飛び上がれた。
椿海月さんの結界はドーム状に張ってあるのは、影を踏んで飛んでいた時に確認済みだ。五十メートル程跳びあがれば天井にあたる。
天井にあたるはずだったが、五十メートル程跳びあがっても天井などなかった。上に行くと身体の調子は復調してきたので、今度はそれなりに力を入れて跳びあがってみる。およそ百数十メートルは飛んだだろうか、小さい山の頂上の高さなのに天井がない。
人魚に戻っただけで、天井が計り知れない大きさの結界を張れるってどういうことだ。乗算しても二倍くらいだろうと思っていた。僕の認識が甘かった。姫鏡がべた褒めする程の力の持ち主だ。本人は謙遜しているが、これはハッキリいって異常で、特別だろう。
縦にこれだけ広かったのならば、横はどれだけ広いのだろうかとぐるりを見渡す。
「嘘だろ」
空から見上げると、光り輝く川が町の方まで続いていた。考えられるのはあの光る川が椿海月さんの結界の範囲内だということ。目測でおおよそ一キロ弱はある。あえて言おう。化け物だ。
このまま下に降りても、さっきの謎の体調不良で動けなくされるだけ、それならば横の結界の端まで行って、その結界を破壊するのが最善策。上空もいつまでも安全とは言えないから、即行動だ。
影を踏んで、横の端まで何事もなくやってこれたのはいいが、結界にはあの黒い結界のように触れると良くないことが起こる空気を孕んでいた。
空中で横幅跳びのステップを踏むように滞空しているけど、地味に呼吸がくるしくなってきた。それが時間がない事を示しているのは明白だ。
「触れたら五体満足ではいかないんだよね・・・」
身体がギャグマンガの如く散り散りになるらしいが、それが僕を結界に触れさせないための嘘だったとすればどうだろうか。いいや、この嫌な感覚は吸血鬼になったからこそ理解できる。本当だ。
でも、どうしよう。と、迷っている暇はなかった。
この場所での僕に残された時間と、決闘までの時間はもう少しなのだ。
「ええい、ままよ。ね」
あの時の姫鏡が言った言葉を小さく言ってから、拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込むくらい握って、僕は結界を殴った。
あれ? 何が起こった?
意識が飛んでいることに気がついたのは、自分が町と街を繋ぐ幹線道路の真ん中でうつ伏せに倒れていることに気がついた時だった。
瞼を二度ほどぱちくりさせて、身体が動くか確かめてみる為に、身体を起こす。五体は満足だし、痛みも一切ない。なんで僕は道路の真ん中で寝ていたのだろう。確か結界を殴って、それから身体に電気が走ったような気がしたんだけど。
上空を見ると、凡そ僕が結界を殴った位置からは数十メートルは離れていた。結界に弾かれたのかと思ったが山が背後にあった。つまり結界も背後にあると言う事だ。どうやら僕は結界の外へと出ていたらしい。
何故かは知らないけど、結界を抜けられたのだ。だったら早くあの公園へと向かった方がいい。椿海月さんも僕が結界を抜けたことを理解しているだろう。
「待って!」
足に力を入れて踏み込もうとした時に、濡れて月明りでてかる身体に、水を滴らせながら椿海月さんが姿を現した。
同時に後ろにあった結界は音を立てて壊れた。
「ごめん。待てない。もう行かないといけない。これ以上邪魔するなら、不本意だけど・・・」
力を行使する。言葉で分かり合えないならば、獣のやり方で邪魔者を排除するしかない。譲れない思いがあるから、最終手段を行使するしかない。
最初からそうすれば良かったんだろう。だけど椿海月さんに対してはそうできない。なぜなら彼女は、彼女なりに姫鏡を思っているからこその行動だからだ。それを手を振り上げて、その拳を振り下ろして否定して決闘にいっても、僕は姫鏡に胸張って顔も合わせられない。
正義を押し付けても、姫鏡はそれを良しとしない。もちろん、僕も心晴れやかにならない。
だから話を最後まで聞いたし、椿海月さんに直接手を出さなかった。彼女は同志だから。
「違います。もう邪魔する気はありません。結界を超えられたら、もう出来ることはないんです」
「じゃあ、何の用?」
焦燥のせいで少々苛立っていたから、語気が強くなった。
「どうして、どうしてそこまで身体を張れるんですか。姫鏡ちゃんとは付き合い深くないんですよね。眷属になったのも偶々なんですよね。どうしてそんな稀薄な関係なのに、命を張れるんですか。さっきだって身体が粉々になってたんですよ」
記憶が飛んだのは身体が粉々になったからか。どうやら吸血鬼の再生能力に助けられたみたいだ。
どうしてかと言われると、立藤さんに話したことと同じになる。
「椿海月さんと同じだよ。姫鏡を助けたいんだ。それで僕ができることをやりたいだけ。姫鏡の為でもあるけど、僕の為でもあるんだ」
違う地獄で戦っていた姫鏡を助けたかったのもそうだけど、僕も助かりたかったんだ。
地獄のような日々の清涼剤として癒してくれていた姫鏡。現実と言う壁に押しつぶされそうになっていたのを非現実で助けてくれた姫鏡。あの場でいつも通りに逃げるを選択していたら僕は助かっていない。心が健やかではなかった。
「人魚姫もさ、自分にできることをしただけなんだよ。願いは既に叶えてもらったから、一時でも幸せを貰ったから、最後に泡になることを選んだだけだと思うんだ。それが間違いだろうが、正しいだろうが、それは本人達にしか分からないよ。僕も今間違っているかもしれないし、正しいのかもしれない。答えなんて分からないから、自分の心が指す正しい方向に歩くしかないんじゃないかな。そうやって僕は姫鏡と一緒に歩きたいんだ。だから戦える」
椿海月さんは何も言わなかった。しかし表情は苦虫を嚙み潰したように苦しそうで、悲しそうだった。
「僕は椿海月さんを責めないよ。椿海月さんの選択を尊重するよ。姫鏡を思っての事だって理解している。だから、その、できればまた友達として接してほしいな。・・・・・・じゃあ、もう時間がないから、行くね」
「ズルいなぁ・・・」
今度こそ踵を返して、敵意のない椿海月さんに背を向けて跳びあがろうとすると、椿海月さんが何かを呟いた。か細すぎて吸血鬼の耳を持っても聞こえなかった。口元を見ていたのであれば、なんとなく理解していたのかもしれない。
「オイラーさん」
呼ばれて、渋々振り向くと、椿海月さんが土下座していた。
奇麗に指立てて、額を道路につけて、背骨がくっきりと背中に浮き出ているのがわかるくらいの土下座。しかも着ていた下着を脱いで、隣に置いてあった。
「申し訳ございません」
裸になってまで、人としての尊厳を投げ出してまでも、謝意を伝えたかった。それ程までに椿海月さんは罪の意識で苛まれていたのが計り知れる。彼女なりの誠意なのだろうが、やり過ぎではある。
僕はジャージを脱いで、彼女の背中にかけた。
「いいよ。・・・顔を上げて椿海月さん」
そう言っても、椿海月さんは顔を上げてくれなかった。鼻水を啜る音が聞こえるので、酷く泣いているのだろう。無理に顔を上げさせるのも酷な仕打ちなので、僕はここら辺に逃げてきた時とは違い、椿海月さんの前に屈んで背中を向けた。
「ほら、行こう」
「うぐっ・・・いいんですか?」
声が籠っていないので、どうやら顔を上げたようだ。
「姫鏡も待ってるよ。もう邪魔しないんでしょ? じゃあ一緒に行こうよ」
そう言うと積が切れたように椿海月さんは大泣きしてしまった。
そんな赤子のように泣いている椿海月さんを背負いながら、僕は決闘者が待つ公園まで跳んだ。
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