椿海月三幡(5)
逃げ切った。逃げ切った先は郊外の山の中の川岸で、公道もそれなりに近い場所を陣取って、椿海月さんに結界を張ってもらっている。ここならばそもそも人通りが少ないし、もしも影人間に強襲されても、人目触れずに力を行使できる。
ぐるりと警戒のために哨戒してきたら、椿海月さんが倒木を椅子にして川辺に座っていた。
「周りには人も影人間もいなかったよ」
「そ、そうですか・・・」
逃げ切ってから椿海月さんは心ここにあらずと言った状態だった。それもそうだ僕のせいで巻き込まれて、親友である姫鏡の安否も気になるだろう。
「ごめん。僕のせいで」
「へ・・・いや、オイラーさんのせいではない・・・ですよ。姫鏡ちゃんなら大丈夫ですよ。私と違って武闘派ですから、ちょっとやそっとのことじゃやられません」
「そうなのかもしれないけど、姫鏡をあの状況で置いておくしかなかったのが悔しいよ。それに僕のせいじゃなかったにしろ、椿海月さんを巻き込んだのは事実だよ。ごめん」
「優しいんですね」
頭を下げているとそう言われた。優しいのではなく、ただ人として頼りなく、誰かを傷つけてしまっている後ろめたさからくる謝罪だ。卑怯者の謝罪なのだと言われている気がした。
「オイラーさんは本当に姫鏡ちゃんの事が好きなんですね」
「え? 好き?」
「だって今もずっと心配しているじゃないですか」
「そりゃあ心配するよ・・・」
言葉が続かなかった。僕と姫鏡の関係はなんだろうかと思ったからだ。友達でもない。恋人でもない。クラスメイトと言っていいけど、一クラスメイトを心配して思いを馳せるのは重すぎる気がした。
僕と姫鏡の関係性を人に説くと難解だけど、同種の椿海月さんに説明するのは至極簡単なのに考えてから気が付いた。
「眷属だからね。それに僕が姫鏡に恋愛感情を抱くことはないよ」
「えっ!? どういうことですか」
今日一番大きな声で驚く椿海月さん。そんなに驚かれることだっただろうか。
「僕と姫鏡は事故で主人と眷属の間柄になっただけで、本来は関わる事さえなかったんだよ。そんな存在が恋愛感情を抱くことなんてできないよ」
「えっ・・・でも、姫鏡ちゃんから眷属にしたんですよね?」
「そうだけど、何か問題でもあるの?」
姫鏡から眷属にするのと、僕から眷属になりたいと言うのでは大きな違いがありそうな言い方だ。眷属は親族的な意味合いだから、姫鏡から眷属にするのと、僕から言うのでは親族の階級の違いがでるのではないかと予想してみる。それならば椿海月さんが何度も戸惑っているのも理解できなくもない。
「・・・い、いえ。何も問題はないと思います・・・また悪い癖です」
そう言うと椿海月さんは俯いて暫く喋らなくなってしまった。
姫鏡が心配だけど、僕も予定の時間が来るまで影を動かす修行を始める。
ちょっとした沈黙を破ったのは気分屋の僕の腹の音だった。そういえば昼ご飯を食べようとした時に襲われたので、食べ忘れていた。
「あの・・・これ」
椿海月さんが姫鏡の持っていた弁当箱を気まずそうに差し出す。
受け取って中を見ると、フルーツサンドは少し形を崩して、サランラップから生クリームがはみ出ていた。
「食べよっか」
形がそれなりにいいフルーツサンドを椿海月さんに手渡して、倒木に座った。椿海月さんは小さくお礼を言って受け取って、一緒にフルーツサンドを黙食した。
イチゴやミカンの味は普通だが、生クリームは酷く薄い味で、生クリームのような粘着質な何かを食べている気がした。おそらくこのフルーツサンドは改良の余地があるが、僕や椿海月さんと食べたくて作った姫鏡の手料理の一つなのだろう。そんな思いを込めて作ってくれたものを、味が薄いからと言って残すのは、姫鏡を慕うものからすればありえないことだ。
「そういえば椿海月さんは姫鏡と違って、普通に食べられるんだね」
「はい。私は呪いのおかげで人間と変わりませんので、人の食べ物は食べられますよ。オイラーさんも普通に食べていらっしゃりますけど、その・・・無理をしているんじゃないんですか?」
「僕は吸血鬼としての弱点がないんだって。だから知覚過敏にならずに普通に物を食べられているんじゃないかって姫鏡が言ってたよ」
最後の一口を飲み込んでから言うと、椿海月さんは小首を傾げた。
「弱点のない? 太陽も大蒜も十字架もですか?」
「そうみたい。吸血鬼の特性を持った人間らしい・・・のに影が操れないんだよね」
現在の僕は膂力がずば抜けて強い人間。それだけでも人間からすれば桁外れの化け物なのだろうけど、相手どるアーサーからすれば稚児とも変わらないだろう。
それでは駄目なのだ。アーサーは僕を指名して決闘を申し込んできたのだ。僕が決闘で勝てば、姫鏡の婚姻問題は白紙に戻るのだろう。契約については義理堅いと姫鏡が言っていたからそのはずだ。
「オイラーさん、影を扱えていたじゃないですか」
「全然動いてなかったよ」
ずっと修行を見ていた椿海月さんからの慰めの言葉は有難いけど傷つく。
「だって空を飛んでたじゃないですか」
「へ? あれって、影が関係しているの?」
「その感じですと姫鏡ちゃんから聞いてませんね? てっきりあれができるから修行をなさっていると思っていました。えっとですね、影は足元から伸びているんですね。その影を踏んで空中を闊歩しているんですよ。姫鏡ちゃんが昔言っていました、空中闊歩ができるようになるのに凄い修行したって」
色々ありすぎて空中を跳べる原理を聞くのを忘れていたけど、そういう原理だったのか。
だとすれば僕は無意識下で影を操っていたと言える。意識下で操るのが苦手なだけで、もっとはっきりと意識すれば操れるのではないか。
立ち上がって倒木から少し離れ、足に力を入れて跳びあがる。そして空中でもう一度踏み込む。何かを踏む感触と共に身体は跳躍する。この踏む感触が影だというのならば、何度も踏む感触を確かめれば、頭が影を意識しだすのではないか。
何度も。何度も。何度も。空中を闊歩する。幸い椿海月さんの結界が作用しているので、誰にも見られる心配はない。
暫くしてから降りてくる。今までは線路のような線を作って着地していたが、着地の際にも影を踏むことで、衝撃を緩和できるのを体感できた。
完全に足元にある影を意識できている証拠であった。
「椿海月さん、ありがとう」
日も傾いて山間に消えていくなかで、ずっと見守ってくれていた椿海月さんに礼を言う。
「わ、私は何もお礼を言われることはしてないです。オイラーさんが凄いんですよ」
「ううん。椿海月さんがいなかったら、この感覚は掴めなかったよ。本当にありがとう」
今ならば影を操り、纏う事も叶うだろう。そうと思えば行動は早かった。今までのように目を瞑って、足元のゆらぎを意識する。今回はゆらぎを正確に捉えられている。足元に自分の感覚がハッキリとある。これを形を生成するように意識すればいいのだ。そうすれば影が形を成す。
ぐにゃりと感覚が歪んだ気がしたので、思い切って目を開ける。
影は。
影は何も変わっておらずに、その場の暗闇と同化しているだけだった。
椿海月さんはなんと声をかけていいのかを戸惑っているようだった。どうやら現実はそんなに甘くないと再認識させてくれるようだ。
しかしこんなことではへこたれない。やっとコツを掴んだのだ。今は必死に練習あるのみだ。
勉強に例えるなら、公式を理解できて、問題文を解けるようになったところ。歯車がかみ合って、全能感が身体を支配しているところだ。
それから辺りが暗くなり、月と星明かりと、機械的なスマホの光だけの暗闇の中、影を動かすことに集中した。
結局は影は動きすらしなかった。感覚は確かにあるのだけど、それが形を成すことは一切ない。空中で踏んでいるのだから、あるのはあるのだろうが、意識できても動かないものは動かないのかもしれない。
ま、一朝一夕でできるとは思ってない。僕如きが、姫鏡が苦労した修行を一日でものにできるなんて有り得ない。
そろそろ日付が変わる時間が近づいてきている。ここから跳躍しても数十分はかかるから、影を動かすのはここまでにしておこう。
「ねぇ椿海月さん。ダキア派閥って何?」
最後の休憩がてらに倒木に座ってから、疑問に思っていたことを訊いた。
「ダキア派閥ですか? 大まかに言うとアーサーさんが率いている派閥ですね。ダキアは昔のルーマニア公国ですね。ほらドラキュラといえばじゃないですか。伝承に残っているかは怪しいですけど、始祖はその頃からいたらしいですよ」
世界史を勤勉に勉強していない僕は、ワラキア公国ならば知っているけど、ダキアは知らない。椿海月さんは物知りだ。
「ダキア派閥の人って、話してなんとかならないかな・・・」
アーサーの派閥は人間を忌み嫌い、戦闘狂と聞く。言葉で決闘の決着ができるならば、言葉で終わらせたいものだ。僕は一昨日まで、勉強と言う指標の戦いしかしていなかった人間だ。それが人外の決闘をするとなると、命の保証はされない。
「なんともならないですよ。もしかして対峙するんですか?」
「あぁ、ごめん。話してなかったね。アーサーが僕を標的にしてみたいで、ダキア派閥の人と決闘することになってるんだ。それで決闘に勝てば、本当に姫鏡と僕を諦めてくれるらしい」
「そっ・・・うなんです・・・ね。だから、影人間さんでオイラーさんを狙ってきたんですね・・・」
椿海月さんは目を泳がせながら、遅れて状況を理解したのか俯いた。
「そうみたいだね。それで椿海月さんには悪いけど、町の近くまで運んだら、そこからは待ち合わせ場所に僕一人で行くね」
僕が狙われている訳だし、僕と離れる方が安全だし、決闘に関しては椿海月さんは関係ない。ここまで結界を張って存在を隠し通してくれただけでも感謝しきれない。
「駄目です」
俯きながらも椿海月さんは反対した。
「心配してくれるのは有難いけど、これは僕の事情だから、椿海月さんには迷惑はかけれないよ」
「いいえ、私も関係があります!」
椿海月さんが大きな声で否定した。今までの会話の中で聞いたことのない緊迫したような大声だったので、僕は一瞬だけ怯んだ。
「確かに椿海月さんは姫鏡の友達だけど」
「違います! 私はオイラーさんを、行かせるわけにはいかないんです!」
スラックスに皺ができるくらい拳を強く握りしめて椿海月さんは叫んだ。
「ど、どういうこと?」
そう訊ねても、拳を強く握って俯いたままだった。
「ごめん。僕、もう行くね」
話してくれそうにないから、この場を離れる意思を示す。迫ってきている時間に猶予を持たせて出発しておきたかったし、こういう重い雰囲気は苦手なのだ。
「暮山茶花」
「へ?」
踵を返そうとしたところで、椿海月さんがそう言った。
「暮山茶花。オイラーさんの決闘相手の名前です」
俯きながらも椿海月さんは身体を震わせながら話す。
「どうして椿海月さんが僕の決闘相手を知っているのさ」
決闘は今日立藤さんが交渉で決めたことだ。今日はずっと一緒にいた椿海月さんが知るはずもない。僕が与えた情報と、姫鏡が言った断片的な情報だけで決闘相手の名前に辿り着けるものなのか。そんなの未来予知に近いじゃないか。そうだ。そんなの事前にそれを知っていないとできない芸当だ。
ある嫌な想像をしてしまう。
「まさか、こうなることが分かってた?」
想像は言葉になった。
椿海月さんは言葉にしなかった。しなかったけど、震えながら小さく頷いた。
きりのいいところまで書いています。
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