第1章 4月24日の日常
「菫。起きて」
幼なじみの声で目が覚める。
犬養棗。
真穂百合中学二年A組出席番号二番。
わたしは彼女の後ろの机に突っ伏して朝礼前の仮眠を取っている。
扶草菫。
真穂百合中学二年A組出席番号二十二番。
始業時間までまだ三十秒ほど余裕があるはず。
二度寝一択。
リスク管理能力の低下したわたしの脳に幼なじみの第二次警報が鳴り響く。
「はやく起きて。サーティ激おこだよ」
やばっ。
がつん。
起き上がる瞬間、目からすごい勢いで火花が散った。
涙目で蹲るわたしをものすごくいい笑顔で拳を固めたまま覗き込む担任教師・桜歯幸子。
「目は覚めた?扶草さん?」
「ハイ……」
笑顔のサディストとしかいいようがない我らが真穂百合中学2年A組担任・桜歯幸子先生は何事も無かったかのように教卓へ戻るといつものように教卓を出席簿でばんばん、と八つ当たり気味に叩いてそれと同時に始業のチャイムが鳴るのを確認するとやはり何事も無かったかのように朝礼を始める。
被害者少女Aがそっと手を後頭部に当てると前の席の幼なじみがそっとアイコンタクト。
(どうしたの?)
(油断した)
(昨日眠れなかった?)
(夢見がよくなかった)
(夢?)
(魔女にキスされた)
(……………………)
(……………………)
「おまえマジかよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!?」
朝の静寂を引き裂く幼なじみの絶叫。
色恋沙汰と無縁な同級生の告白に驚くのも無理からぬ話───だが。
かくん。
犬養棗は糸の切れたマリオネットのように力なくわたしのほうへと崩れ落ちる。
目の前には先ほどと寸分たがわぬものすごくいい笑顔の桜歯先生。
赤い染みと湯気の立った拳を携えて。
「どうやら犬養さんは体調が悪いみたいですね。扶草さん、悪いけど保健室に連れて行ってくれるかしら?」
「は、ハイ……」
円滑な教室運営を妨害する輩は何人たりとも許しはしない。
それがたとえ愛する生徒であっても。
桜歯幸子先生の教育理念に逆らった哀れな亡骸をおぶってわたしは死体安置所もとい癒しと安らぎの保健室へと向かった。
「つ、ついに百合の咲かない土瀝青女にも花が咲いたわ……」
死体がなんか喋っているみたいだけど。
聞かなかったことにしよう。
うん。
百合の咲かない土瀝青女。
かつて百合世界の主人公でこんな不名誉なあだ名つけられた子がいただろうか。
名付け親に対して名誉棄損で訴えてもいいくらいの案件だがクラスで孤立しがちだったわたしを苛めや村八分からの防御網の一環として機能し得る緊急手段と考えると逆に感謝すべきともいえるわけでなかなかに悩ましい。
それくらい思春期の秘めたるエネルギーは苛烈で一歩間違えたらなにもかもが取り返しのつかなくなる災厄にも等しいものだから。
色恋沙汰になると途端に目をきらきら輝かせて蠱惑的なオーラを放ちつつ爆発的なコミュ力を発揮する同年代の子たち。
そんななか異彩を放つぼっちという名の異分子。
ただのコミュ障由来のぼっちならまだ救いがあったかもしれない。
わたしのぼっちは他者に対する生来の無関心に由来するもの。
物心ついた頃からの筋金入りだ。
おかげで幼稚園に入るときはめちゃくちゃ苦労したらしい。
保護者が呼び出されたのも一度や二度ではないと聞く。
伝聞形なのはこの頃の記憶は霞がかった上に断片的で誰の記憶でいつどこの記憶なのかすらも曖昧だからだ。
モノクロだった世界が初めて色づいたのは小学一年生のとき。
犬養棗と出会った日。
世話焼きとイケメンと変顔という属性を併せ持った不思議な女の子。
彼女の眼に惹かれ彼女に手を引かれることで誰とも関わらないぼっちからきわめて狭い範囲でならなんとか他人と関われるぼっちへとレベルアップ。
それから7年間、喧嘩もしたし距離を置いたこともあるけど。
結局のところ棗がそばにいてわちゃわちゃする日々がずっと続いてきたわけで。
だからわたしは棗に感謝するべきかもしれない。
普段なら口が裂けてもいわない台詞だけど。
いまならいえる。
ありがとう、と。
「それでは百合の咲かない土瀝青女さんの前途を祝して」
「「「カンパーイ!!!」」」
前言撤回。
こんなふざけたヤツは物言わぬ骸のまま永久凍土で朽ち果てるのがお似合いだ。
いまから近くの道路工事の現場でアスファルトフィニッシャーでも借りてくるか。
そんな殺意の波動を浴びてもまるで意に介さず、わたしのほっぺを無邪気に突っついてくる。チョコミントジュースとかいうふざけた紙パック入りの飲み物を摂取しながら。
「どうしました土瀝青女さん?主賓なのに飲みが進んでませんよお~~~?」
「うっせ」
放課後の教室。
一時間目の授業の途中であっさり復活したコイツは菫のはじめてをお祝いしないとなどとひとりで勝手に盛り上がって当人から何の了承も得ないまま放課後の教室に自分の取り巻きを呼んで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。
桜歯先生に見つかったらどうする気だ。
二度目はないぞ。
カレーサイダーとかいうふざけた飲み物を前に手付かずのまま頭を抱える。
そんなわたしのとなりに棗はすっと近づくといたずらっぽくほほえむ。
「それ、好きじゃなかったっけ?私のチョコミントと交換する?」
「いらん」
「いまなら間接キッスつきでお得だよ?」
「もっといらん」
溜息混じりに容器を彼女のほうへなげて返す。
「大体夢でキスされたからってなんだというの。正夢でもあるまいし」
「そうでもないでしょ。ほら、昔から夢は深層心理の投影だっていうし。ね?」
「ええ。創作的にも興味深い素材ですからね」
棗の振りに取り巻きのひとりが眼鏡クイッとさせて知的キャラを確定演出させる。
ショートボブの女の子。
鷲瑞遥。
真穂百合中学三年A組出席番号三十番。
文芸部部長。
先輩なのに後輩のわたしたちにもつねに丁寧語で接する彼女は創作ノートとおぼしきアクア色の付箋貼りまくった大学ノートを取り出すと事務的な口調で語り始める。
わたしの個人情報というとんでもない爆弾を。
「前回の夢では学校を占拠したテロリストグループを扶草さんがたったひとりで制圧したんでしたよね?」
ぐふっ。
「あれ?前回は満員電車に乗り込んだ殺人鬼集団をたまたま居合わせた菫がひとりで取り押さえたんじゃなかったっけ?」
「それは前々回の夢です」
ぐふうっっ。
「さらにその前の夢では時限爆弾をセットされた東京スカイツリーから何百人もの人質たちを救うべく決死の大ジャンプを」
「YA・ME・TE!」
ひとの夢をべらべらと。ひとの心とかないんか。まあ結果的に自分にダメージ喰らうことになることを想定せずぺらぺら喋ったわたしがいちばん悪いんだけど。
些少の自己嫌悪でも後天性のため息が出るのを身をもって体感したところにすっ、とそばに寄っておずおずと口を挟む身長170cmの影。
「で、でも」
「うん?」
「こ、こうして比べてみると、今回の夢は扶草先輩が他人に関心を向けつつあることがよくわかるから、と、とってもいいことだと思います!」
おそるおそるといった感じでちぐはぐな意見表明する長身の後輩。
小山内薫。
真穂百合中学一年B組出席番号六番。
バスケ部のセンター。
いい子だけど自分より年下の子に成長の兆し云々を夢判断されるのはなんというか、モヤる。
そんなかすかな不快感を嗅ぎ取ったのか、薫はさっと目を伏せてしまう。
最後まで自分の意見を伝えきることを忘れずに。
「わ、私も犬養先輩とお付き合いする前そういう夢見たから。き、きっと近いうちによいご縁があると思います!」
「……あっそ」
いい子だ。
こんないい子なのになんで棗なんかと付き合っているのか。
この子だけでなく棗の取り巻き全員にいえることだけど。
犬養棗の取り巻き百合重婚、通称《百合の季節》。
《百合の一角獣》《百合の楽園》と並び讃えられる三大百合重婚。
百合重婚はこの世界では合法とはいえ中学生のうちからこんな放蕩っぷりでは先が思いやられるというかなんというか。倫理とか節度とか欠けていないかとかなんとか。
気が付けば取り巻きのモブどもがわたしを取り囲んでいつものジェットストリームアタックを仕掛けようとしてくる。
定期ミッション:扶草菫を百合重婚に堕とせ。
ヤバい。
「菫センパイもはやく私たちと一緒に沼りましょうよ~❤」
「小学生からの幼なじみなのに彼女面ひとつしないなんて信じられないですけど~?」
「こんな顔のいい女に告らないのは日本国憲法で禁止ッスよね~?」
「棗さまのお指くちゅくちゅはいいゾ。いいゾ↑いいゾ↑いいゾ↑~~~❤❤❤❤❤」
……いつものことながら妖しい宗教の集団洗脳めいたこの雰囲気には慣れることがないし慣れたくもない。
逃げるか。
当の教祖様にアイコンタクトを送る。
するとなにを勘違いしたか。
バチコーン☆
わたしにむけて思いっきし下っ手くそなウィンクを放ってくる。
しかも変顔で。
バカッ。
ガラッ。
「……放課後のチャイムはとっくに鳴ったというのに、教室でなにをしていらっしゃるんですか?」
ドアから顔を覗かせたのは、ものすごくいい笑顔の桜歯先生。
しかも敬語付き。
ヤバい。
朝礼の時など比較にならぬヤバさ。
放課後の教室が一瞬で処刑会場の空気と化す。
全員蛇に睨まれた蛙どころかヤマタノオロチに睨まれたオタマジャクシのよう。
これは下手したら指導室で夜までお説教、翌日から一週間の指導付き停学フルコース。
そんな最悪の未来がわたしたち全員の脳裏に明確なビジョンとして浮かんでいた。
しかしどんな絶体絶命のピンチでもそれをどうにかしてしまうのが犬養棗。
もうひとりの主人公がスサノオノミコトの如く勇者面でヤマタノオロチと対峙すると。
「すみません先生。実は菫から大事な相談を受けていまして」
「相談?」
「はい」
一点の曇りもない真摯なまなざしでそう言い切ると桜歯先生のそばに寄ってそっと耳打ち。
あのバカ。
幼なじみ特有の以心伝心であいつがなにを耳打ちしたか瞬時に察してしまう。
真っ赤な嘘に少量の真実をまぶしてそれらしく伝えるのはあいつの十八番。
生徒の嘘に慣れているはずのベテラン教師でさえ耳を傾けてしまうほど。
案の定。
「ほんとうですか?」
笑顔を消して真顔になった桜歯先生の目はわたしの顔をまっすぐに射抜く。
正真正銘教育者の視線。
まずい。
①もしわたしがここで「いいえ」といったら。
連帯責任ということでみんななかよく裁きの鉄槌下されてトラウマになって思い出したくもない青春の黒歴史に新たな一頁が追加されること間違いなし。
②もしわたしがここで「はい」といったら。
全員無罪ということでみんななかよくこの処刑場の空気から解放されいつの日か青春の明るい一頁として同窓会での笑い話のネタにでもなるだろう。ただし、わたしが嘘をついたという罪悪感、というよりいつ嘘がバレるかわからない恐怖感を引き換えにしての話だが。
人間誰もが自分のことがいちばんかわいい。
さっきからチラッチラッとわたしにすがるような期待するようないくつもの視線が絡みついてきて鬱陶しい。
そうなるのを見越しての棗のキラーパス。
つまり、そういうことだ。
クソが。
「……ハイ」
【悲報】勇者、魔王に村人を売る【感動を返せ】
村の安寧を守るためにヤマタノオロチに人身御供として差し出された娘の心境。
さすがに罪悪感からか村人ほぼ全員がわたしと目を合わせず気まずそうにしてる。
棗だけは下手っぴなウィンク。
おまえら後で覚えとけよ。
「……まあいいでしょう」
桜歯先生の無罪判決に一同ほっと息をつく。
よくよく冷静に周囲を見渡せば机上に隠し切れていないジュースお菓子の類いがあちこち散乱しているので大事な相談といいつつ実際になにが起きていたかは明白なのだが。
そこは温情措置とか情状酌量といったところだろうか。
それとも。
「扶草さん」
「はい」
「今日は犬養さんに送ってもらいなさい」
「え」
「これは命令です」
「でも」
そういいかけるわたしの口を優しく指で閉ざすと、お城の王子様が舞踏会にエスコートするようにわたしの手を優しく取って。
「それでは先生、失礼します」
ちょ、と口を挟む隙も与えず、教室を出ようとする。
「「「それでは先生、私たちもこれで」」」
いつのまにかちゃっかり帰り支度を整えた《百合の季節》の面々。
わたしたちに続いてごく自然に教室を出ようとする彼女たちを桜歯先生は笑顔で制し、後方の掃除用具入れを指さす。
「あなたたちはお掃除が済んでからです」
「「「デスヨネー」」」
伯《は〇》〇の塩を30kgくらいド派手にぶっかけられたナメクジみたいにしおれていく連中。
ざまあ。
「ううっ、せ、せっかくのい、犬養先輩と一緒にお帰りできる日だったのに~~~!!」
「ごめんね。あとで連絡するから」
半泣きの薫ちゃんを菫は飼い犬のゴールデンレトリバーを宥めるように慈しむように頭ぽんぽんからのなでなで。これにはさすがのわたしもすこしだけ良心が咎めないこともないが元はといえばこいつらの勝手などんちゃん騒ぎが原因なのだからわたしの罪はプラマイゼロで相殺されるべき。そうわたしのなかの言い訳マシーンが超早口でまくし立てる。
「菫、いくよ」
「あ、うん」
背後を振り返ると《百合の季節》の面子がさっそく箒やら塵取りやらを手に取っているがなにやら銃火器に見立ててこちらに照準を当てているようにも見える。それは《百合の季節》からの警告や威嚇の類いなのか、あるいは激励や応援を意味するものなのか。
結婚式会場から出てきた笑顔の新婚カップルを派手な祝砲でお祝いする参列者たち。
一瞬、そんな突拍子もない光景が脳裏をかすめるも頭を振って追い払いつつ、向こうで手を振ってわたしを急かす幼なじみのほうへと駆けていく。
真穂百合中名物の地下トンネルから出口のお花飾りを潜って学校を出る。
棗の付き添いで下校するのは実に小学生以来。
他の生徒たちからやたら視線を感じる。
まあ《百合の季節》の犬養棗とぼっち年中無休の扶草菫がふたり連れ立っている光景なんてそうそうお目にかかれるものでないから無理もないが。
気がつくとわたしを歩道の左側に誘導し自分は右側で自動車やバイクとの接触、衝突といった事故リスクの盾になるというナチュラルな彼女仕草。
手慣れてやがるなこいつ。
「ほんとうにいいの?薫ちゃんといっしょに帰らなくて」
「よくはないけど桜歯先生直々のご命令だしそれに」
「それに?」
「菫のことがいちばん大事だから」
「……それ、ほかの子にもいってんでしょ?」
「黙秘します」
いたずらっぽく自分の口元に指をあてる彼女にわたしはジト目で返す。
棗は彼女風なびかせる中性的な美形だが中身は乙女で世話焼き。そんな相反する魅力が弱冠14歳の彼女を百合重婚の女王たらしめているのだろうか。そんな益体もないことを考えたりする。
対してわたしは鷲瑞先輩曰く「小さな虎みたいな尖ったかわいらしさに口の悪いやさぐれヤンキーみたいなこわさをプラスしたのが扶草さんのチャームポイントだと思いますよ」と褒めてるのか貶してるのかよくわからない講評を頂いている。
見た目イケメンで中身乙女。
見た目少女で中身ヤンキー。
そんな対照的なふたりが連れ立って歩いている。
傍から見たらわたしたちはどう見えるんだろう。
性格差で喧嘩するほど仲がいい同級生に見えるのか。
身長差で仲睦まじい先輩後輩の関係に見えるのか。
あるいは「タイが曲がっていてよ」の姉妹百合の関係か。
いままで他人に関心など持ったことのない人間が他人からどう見られるのかが気になるなんて。
自分のなかでなにかが変わり始めているのだろうか。
たとえば。
美しい蝶が羽化する前のサナギで中身がドロドロに溶けてうつくしさが生まれる前の対価としてのおぞましさで煮え滾っているのとおなじ現象なのか。
そんなわたしのドロドロの思考で煮詰まった脳内を見透かしたかのように、無邪気な笑みを照射する幼なじみ。
「菫も女の子っぽいキラキラしたものに憧れたりするんだ」
「……なにそれ」
「魔女にキスされたし。魔法少女だし」
「されてねえし。夢のなかの話だし」
「夢にはそのひとの願望がですね」
「やかまし」
わざとらしく鞄をぶんぶん振り回すとわざとらしくきゃっきゃと逃げる。
女子同士の愛らしいじゃれ合い。
そんなもの自分とは一生無縁だと思っていたのに。
棗といっしょのときだけは自然に内面化している。
否。
棗がいないひとりのときも。
夢にまで出てきている。
魔女。魔法少女。宝石。星空。
女の子の夢と希望、願いと憧れがつまったキラキラした意匠たち。
そんなものを心の奥では求めているというのか。
このわたしが。
「菫、ごめん」
「え?」
顔をあげると瞬速で遠ざかる幼なじみの背中。
何が起きたのかもわからぬまま後を追う。
速い。
わたしも脚力には自信のあるほうだけど本気になった棗にはかなわない。
追いつくのはあきらめて彼女の目指す方向に目をやる。
いつもの人通りの多い通学路から大きく左にそれたのでおおよその見当がつく。
真穂百合小学校。
わたしたちがかつて毎日のように通っていたセカイの中心。
まさかの母校訪問と思いきや校門前を素通りし裏門へ。
裏通りの舗道。
潰れたカエルのように横たわっている女児。
最悪の事態が脳裏をかすめる。
が。
「いったーい!!><」
子ども特有の黄色い悲鳴をあげるや起き上がったため、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら転んだだけのようだ。
「だいじょうぶ?」
「あっ、はい。ありがとうございます!」
知らないおねえさんたちが駆け寄ってきても心配させまいとしてか笑顔を絶やさぬ女の子。ぱんぱん、と自分で洋服についたアスファルトの埃を払い落す。そんな健気さとは裏腹にチューブの絵具じみた赤黒い血がべっとりとついたひざと白墨の削り滓めいた皮膚のついた手のひらが痛々しい。
「まず傷口を洗わないと。菫、近くに公園あったよね?」
「小学校の保健室で診てもらったほうがいいんじゃないの?」
「創立記念日で今日はお休み。私たちで手当てしたほうが早いから」
そういって怪我をした女児ちゃんをためらいなくお姫様抱っこする。
「ひゃぅっ!?」と声にならない声をあげるのも構わずイケボで女児にささやく。
「だいじょうぶ、痛くしないから」
「ひゃ、ひゃい……❤」
墜ちたな。
この天然年下キラーめ。
この手で何人の女の子を《百合の季節》に堕としてきたのやら。
心のなかで舌打ちしつつこの気持ちは絶対嫉妬なんかじゃないと心のなかの舌打ちに念押ししつつ彼女の鞄を持ってお医者さんの鞄持ちのようについていく。
「これでよし、と」
手際よく女児ちゃんの傷口を水道で洗い流すと絆創膏を貼り付ける棗。仲のいい伯母さんが病院院長の関係でよく応急救護などの講習を受けているとのこと。簡単な怪我の手当や救命措置には慣れているらしい。
「ありがとうございました、なつめおねえさん!それにすみれおねえさんも!!」
「どういたしまして❤」
「……どうも」
陽キャと陰キャのお手本のような返し。
さっき簡単に自己紹介したから名前を憶えられたのはしょうがない。それでも初対面の相手に自分の名前を口にされると透明な湖に墨汁を垂らすような、不安とも不快ともつかない仄暗い感情のうねりがどうしようもなく胸中を搔き乱してしまう。子ども相手に陰キャ特有のこういう人見知り思考は自分でもどうかと思うがまあ十三年間こつこつと培ってきた、かつ、自分を守って来た心の鎧は一朝一夕でそう簡単に脱ぎ捨てできるものではないのだろう。どうかわかってほしい。誰にいってるんだわたしは。
そんな内心饒舌で外見案山子状態の陰キャをよそに、陽キャ女子ふたりはベンチに座って年の差など関係なくたのしそうにおしゃべりに興じている。
「小山内香ちゃんっていうの?もしかして薫って名前のお姉さんいる?」
「はい!」
「じゃあお姉さんとおなじ中学だよ、私たち」
「ほんとうですか!?」
「ほんとほんと」
世間は狭い。
まさかわたしたちの後輩・小山内薫の妹だったなんて。
大きくて引っ込み思案で吃り癖のある薫ちゃんとは対照的に小さくて元気いっぱいで初対面のわたしたち相手でも人見知りすることなくグイグイくる香ちゃん。
そんな感じでひとしきり初対面同士の話題のタネに花を咲かすと、
「でもなんであんなところに?お父さんお母さんやお友だちと一緒じゃなかったの?」
「ひとりです!」
「ひとり?」
「はい!!」()
「いや、威張るところじゃないから。学校の近くとはいえここ裏通りだし、まだ夕方前とはいえあっという間に暗くなるから危ないよ?幸い棗がみつけてくれたからよかったけど」
「……」
まずったか。
子ども相手に正論トラックをブレーキもかけずに突っ込んでしまった。
どう釈明したものか脳内住所ブロードマン二十二番地の住民たちをフル捜索していると、まるでさっきまでの元気さが嘘のように幽霊のごときか細い声が返ってくる。
「声がしたから」
「声?」
「おねえちゃんの声」
「おねえちゃん?電話がかかってきたの?」
ふるふる。
「友だちのおうちにあそびにいくとちゅうでおねえちゃんの声が、耳もとにキーンとした気が。そして気がついたらここにいて……」
不安そうに小さくなる声のトーン。
わたしと棗が顔を見合わせる。
薫ちゃんは桜歯先生の監視下で教室お掃除の真っ最中のはず。すっぽかすなんてことはあの子の性格的にあり得ない。妹が心配で学校から自宅に連絡というケースもそもそもスマホを持っていない時点でなし。
子どもの空耳か幻聴かあるいは真夏にはいささか早すぎる春の怪談噺の類いか。
無論そんなことを年端もいかない女の子に聞かせるわけもなく、相手の心情の機微に敏い棗が自然に話題をおねえちゃんに逸らしてくれたので、香ちゃんもそのまま忘れたように乗ってくれたけど。
「おねえさんたち、ありがとうございましたー!>▽<」
満面の笑顔の女の子が公園から夕焼けに染まった街並みへと帰っていく。
香ちゃんのすがたが完全に見えなくなると、
「菫、ありがとね」
「わたしはなにも。あんたが手当してあげたんでしょ」
「ううん。あの子がおとなしく手当を受けてくれたのは菫のおかげ」
そういってベンチのバスケットボールを手に取る。
さっき棗が学生鞄から携帯救急箱取り出す際に「ごめん菫、向こうのバスケットコートに転がってるボール取ってきて。それでボール回しお願い」とかいうものだからなにかと思ったら、水道で傷口を洗う際香ちゃんが痛がったり怖がったり暴れたりしないようくるくる回るボールに興味を向けさせようという小児科医あるある案件。
作戦は見事成功。
「あの子『すごいすごい!!手品みたい!!』って目をきらきら輝かせたわね」
「『うちのおねえちゃんはできないのに~』とかいってたけど」
「バスケ部なのに?」
「できないひとはできないんじゃないの?」
「今度きいてみよっと」
鬼かおまえは。
わたしのジト目を無視して棗は自分でも人差し指を立てて、わたしより速く上手に回してみせる。こう見えて案外負けず嫌いなんだよなこいつ。
お義理でパチパチ拍手してやるとうれしそうにドヤ顔ピース。
「ねえ、覚えてる?」
「なにを?」
「はじめてここで私と出会ったときのことを」
沈黙。
夕日がじっくりと彩度と明度を増すにつれて、空気もじっとりと湿度を増す。
「……覚えてる」
蒸し暑さに耐えきれずうなづいたときにはすでに棗の表情は夕日の逆光と被ってほぼ見えなくなっていた。
「菫もあの子とおなじであそこで転んでたっけ。でもあの子とちがって私がいくら声をかけても反応しないし起き上がって歩き出しても全然こっち見ないから無視してるのか、あるいは耳が聞こえないのかとも思ったけど」
「子どもの難聴者だったらヘルプマークつけているだろうし、そもそも親御さんが付き添っているでしょ」
「ランドセルの名札に書いてあった『一年一組・ふそうすみれ』さん!!!って大声で読み上げて、ようやくこっち向いてくれたものね」
そういって棗は手にしたバスケットボール特有のつぶつぶを慈しむように撫でる。
わたしはなにもいえない。
いいようがない。それは過去に犯した罪の告白にも似ている。
あの頃のわたしの目には他人の姿形はなにも映っていなかったのだから。
入学式で100人の友だちになれたかもしれない同い年の子どもたちはわたしにとってはおなじひととしての姿形はもっておらず、聞こえないノイズや視えない背景、気づかない小石といった世界からはみ出した異物の類いでしかなく、無論そんな異物の類いに自分から話しかけるなんてひとりおままごとみたいな酔狂な発想は微塵もなかった。
異物に対する徹底した無関心。
自分ひとりだけの世界。
筋金入りのぼっち。
そんな異分子の運命を覆したのが犬養棗。
棗の眼に惹かれて。
棗の手に引かれて。
モノクロだったセカイは少しずつ色づいていった。
いまでもまだところどころ色落ち型落ちしたいびつで不完全な世界ではあるけど。
それでも。
「やっぱりね」
「なにが?」
「菫には百合の咲かない土瀝青女ってあだ名はもう似合わないってこと」
「……あなたがつけたあだ名なんですがそれは」
「昔と今はちがうってこと。今日だって見知らぬ女の子の面倒ちゃんと看れたし。これからは百合が咲くかもしれない土瀝青女に改名してもいいよ」
許可制かよ。てか土瀝青女は変わらないのかよ。
「じゃ、こっからディープスリー打って入ったら改名ね。はい決定!」
ちょ、と制す間もなくベンチに座ったまま上半身のバネだけで放ったボールが夕日に照らされて息を呑むくらいにうつくしい放物線を描く。
しゅぱっ。
入れやがった。
「よし!」
「よし、じゃねーよ」
もし身長差がなかったらデコピンでツッコミ入れたくなるくらいの見事なガッツポーズ。
願いがかなった乙女特有のさわやかさでハイタッチ。
「これで明日から扶草菫という土瀝青女に百合の花が咲くかもしれないよ?」
そういってにっと笑って見せる。
夕日に照らされた彼女のうつくしさを生涯忘れることはないだろう。審美眼に疎いこのわたしですら彼女から目を離すことができなかったのだから。
そして、わたしは知らなかった。
このときに見た笑顔。
それがこの子の最後の笑顔になるなんて。