序章③ ―槍の女神、邂逅す―
どれくらい気を失っていただろう、隼人が息苦しさに目を覚ますと、そこは辺り一面が黒の世界に包まれていた。
どっちが天井でどっちが地面なのか、自分が一体どんな状態なのか判然としないまま周囲を見渡した。
「あれは…何かの夢だったのか…」
そう隼人が呟いたとき、視線の遠く先に見覚えのある後ろ姿の女性が佇んでいるのが目に入った。
「あれは…おい!明日香!」
隼人はほっと胸を撫でおろし、明日香に駆け寄っていく。
――てっきり謎の2人組に攫われたかと思っていたが、どうやら逃げ切ったようだ――
しかし何かがおかしい。いくら近づこうと全速力で駆けよってもその距離が縮まらないのである。 それどころか、ただ立っているだけの明日香のほうからどんどん離れていく。
「なんで?!どうなってるんだ!明日香!!俺だ!!聞こえているんだろ!?返事をしろよ!!!」
そんな隼人の慟哭に等しい叫びも、周囲を覆う黒の世界に吸い込まれ、ただ空しくかき消され、手をいくら伸ばそうと、ただ虚空を掴むのみであった。
そして彼女が遠ざかるにつれ、隼人の心臓が強く締め付けられるような圧迫感を覚え、その痛みは激しくなっていき、もはや立ち上がることさえできなくなっていた。
隼人はその場で横たわり、襲い来る心臓の痛みをこらえるかのように強く瞼を閉じて、ただただひたすら耐え続けた。
ふと、どこからか声が聞こえてきた。とても澄んだ、穏やかな女性の声である。そしてその声の主はどんどん隼人に近づいてくる。
そしてその声が近づくにつれ、隼人の心臓を蝕んでいた強い痛みも和らぎ、程なくして痛みはすっかり消えたのである。
隼人がふいに顔を上げたところ、彼の目の前にはその声の主と思われる女性が、こちらに手を伸ばす姿が見えた。
「あなたは、一体――?」
「――さあ、目覚めの時です。」
そう声の主が語り掛け、伸ばしてきた手を隼人が取ろうとした途端、声の主の後方から眩いばかりの光が輝き始め、隼人の意識は導かれるかのように光の彼方へ引かれていった。
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「はっ!ここは…」
再び隼人が目を覚ました時、そこは辺りが白い壁に覆われ、様々な装飾で彩られた大広間に横たわっていた。
隼人は何度も周囲を見渡したが、その景色は決して幻などではなく、先程自分がいたはずの仄暗い図書館内の地下書庫とは違い、まるで西洋に見る神殿のようなとても神聖で荘厳な場所であったし、先ほど自身が見ていた黒い世界とは違い、しっかりと実態もあるし、床に二本足を立て、歩くこともできた。
――先程の女の声といい、この神殿といい、本当に俺は頭がどうにかなってしまったのか――
あまりにもその現代日本離れした異様な光景に隼人は頭の中の整理が追い付かず、そのまま呆然としていた。
「ようやく目覚めましたか、遠い異国の者よ。」
隼人がその声の方向に顔を向けると、そこにいたのは白いドレスコートを身に纏い、艶やかに煌めく長めの金髪と、深い蒼の瞳の可憐な女性が立っていた。
歳は隼人と同じか、少し上くらいか、その立ち振る舞いから可憐ながらも気高く、凛とした表情がより一層大人びて見えた。
思わず隼人はその眩いばかりの美しさにしばらくの間、目を奪われてしまった。
――な、なんて美人な女性なんだろう。今までこんな美しい人は見たことがない――
その美しさに見惚れている隼人をよそに、彼女は再び口を開き、残酷な結末を告げた。
「どのように伝えようか考えたのですが…率直に結論からお伝えしたほうが宜しいでしょう。」
「えっ…」
「あなたはあちらの世界でその若い命の灯火を儚く散らしたのです。『死んだ』と、言うことです。おわかりになりますか?」
「そんな言い換えなくても…」
――しかし、何とも馬鹿げた話だ。死んだ後のこと等そこまで考えた訳ではないが、これが死後の世界というものだというのか?――
そのような事実を彼女から告白されてもなお、隼人は自分の置かれている立場があまりよく理解できなかった。というよりかは理解に苦しむしかなかった。
自分はあの大男に蹂躙され、あの時生涯を閉じた等という事実を受け入れるには少々飛躍した、ありもしないお伽話であるとさえ思えてきた。
もしかしたら自分はまだ夢を見ていて、この出来事でさえまだその夢の途中なのかもしれない。いや、もしかしたらあの地下書庫での奇妙な出来事も夢であり、延々と長い夢を見続けているだけなのかもしれない。
「いえ、『死んだ』というにはこれもまた少し曖昧な表現かもしれませんね…」
そう前置きを置いた女は、彼の眼をじっと見つめると次の瞬間信じられないことを口にした。
「貴方の命を奪ったのはこの私、槍の女神であるこの私…アテナなのです。」
「なっ…!」
その女神のあまりにも突拍子のない発言に、隼人は頭を金槌でガンと叩かれたかのようにくらくらと眩暈を覚えた。
――この女は何を言ってるんだ?!俺を殺しただのと平然と言ってのけるこいつはきっとまともなんかじゃない!!殺されたとするならばここにいる俺は一体なんなんだ!?訳が分からねえ――
隼人は慌てて身体中を確認するが、どこにも傷は見あたらなかった。
いや、それどころかあの図書室で襲われたときにできたはずの身体の傷さえ消えていたのである。あの出来事は果たして夢であったのか、現実であったのか…いずれかを証明するにも今隼人が置かれている状況からはそれを断定できるような確固たるものが現時点ではなかったのだ。
慌てふためき動揺を隠せない隼人を尻目に、女神は淡々と隼人に語り続けた。
「さて、早速ですがあなたには私とともにこの世界で果たすべき使命のために働いていただこうと思っています。」
「果たすべき使命?いきなり何を言い出すかと思えば…はいそうですか、なんて言えるわけが――」
「それについては攫われた貴方の友人にも関わるお話でもあるのですよ?」
「っ!!なぜ明日香のことを知っている?!」
「その話を続ける前に、まずは貴方の''力,,を私に見せてもらう必要があります。」
彼女が何かを察したように広間の中央を向き直した瞬間、光が注ぐ天窓が突き破られ、何者かが飛び込んできた。
それは、ぼろの衣類を纏い、短剣、ナイフや槍を持った如何にも悪党といった風貌をした3人組の男達であったが、その者らが隼人達に対し、明らかな敵意をむき出しにしていることは、誰の目から見ても明らかであった。
「こんなところに隠れていやがったか…女神よ!」
「貴様をあの''魔女,,のもとに連れていけば俺たちゃ一生遊んで暮らせるぜぇ!だがその前に…」
「少しぐらい味見しちまっても、罰は当たらんよなぁ…へっへっへ」
見たところ、一見してこの世界の住人であるように思われるが、その言動や立ち振る舞いから、どうやら悪意を持って彼女を手籠めにしようとする悪党であり、いわば''下種,,と呼ばれる輩に相応しいといったところだ。
ところが、彼女はその者たちの振る舞いに対して、怒るわけでもなく、怯えるわけでもなく、平然とした様子で隼人に対して話の続きを始めた。
「あなたが戦えるだけの力は、既に私が与えました。後は貴方の意思一つ…。そして、私と共に戦う決意を決めたのであれば…あなたの持っている''力,,で立ちはだかる困難を打ち砕いてみせなさい。」
「ふ、ふざけるな!!あんたの身勝手で殺されたと思ったら、力を見せろだのと…俺はお断りだね!!早くこの世界から返してくれ!!」
「助かりたくば、今こそ苦難の道を切り開くための勇気を持ちなさい。でなければ…」
「…でなければ?」
「無惨に死ぬことになるでしょうね。」
――もう無茶苦茶だ。お前を殺した等と言われて、挙句の果てには生き残るための戦いを強いられている。こんなこと、絶対普通じゃない!いっそここから逃げ出してしまおう!――
「はいそうですかと戦えるわけないだろう!悪いが俺は帰らせてもらう!後はあんたらで好きにやってくれ!」
「そうですか…残念です。こんな手は使いたくなかったのですが…」
隼人が立ち去ろうとしたとき、女神は右手を隼人に向けてかざしたかと思うと、そのまま空を握りしめ自らの身体のほうへ引き寄せた。
すると同時に、隼人の身体はそれに引き寄せられるかのように引っ張られ宙を浮き、勢いよく女神の足元に転げ落ちてしまったのである。
「ぐあっ!な、なんだあっ!?」
「目の前の困難から逃げずに戦いなさい。弱い自分と決別するときが来たのです。」
その美しい女神の顔からは、ああ、こいつは可哀そうだとか辛いならここから逃げてしまってもいいのだとかいう一切の手心を読み取ることはできなかった。
隼人はこんな理不尽な環境に置かれた自分自身を、心の底から呪わざるを得なかった。しかし、そんな彼の心のどこかではそんな諦めとは別の感情が芽を出し始めていた。
彼は自分自身が傷つくことを何よりも恐れていた。失敗からくる絶望、他者からの失望の眼差しや軽んじられることを極端に恐れていた。だから負のリスクを考えすぎるあまり、物事を自分の頭で考えて行動することをいつからかやめ、ただ自分を殺して流されるように生きてきた。
自分自身では変えなければいけないと思いつつも、いつもその一歩が踏み込めないでいた。
彼の目覚めの時はもうすぐそこまできている。後はただ、勇気ある一歩を踏み込むだけなのだ。
「くそっ!!」
隼人は震えが止まらない両足を拳で2,3度殴りつけると、ゆっくりと立ち上がりその3人組の男たちの方に歩みを進め、彼女の方を振り向くと、あらためて自らの決意を言葉にしたのである。
「ああ、わかったよ。今はあんたの話に乗ってやる。だが、これっきりだ。次はないからな!!」
その決意の言葉を聞いたであろう女神の表情は少しも変わらなかったが、決意を固めた隼人にはもはやそんなことは些細なことでしかなかった。
「なんだぁ、てめぇ…俺たちとやろうってのかぁ!?」
「こっちは3人がかりだぜぇ?てめぇ一人に何ができる!!」
「お前ら、さっさとやっちまええぇ!!!」
男たちはそう叫び隼人に向かって詰め寄り、手に持った武器を一斉に振り下ろした。
その瞬間、隼人の思いに応えるかのように左手から閃光を放ったかと思うと、その眩い光とともに隼人の左腕には鋭く光を放つ白銀の盾が取り付けられており、その凶刃は隼人に届くことはなかった。
「な、なんだ!?こいつの腕についてる盾は!?こんなもんなかったはずだぞ!」
「く、くそっ!なんて硬さだ!3人がかりでも押し切れねェ!」
男らが力いっぱいに押し込むも、盾のついた隼人の腕を押し込むことはできず、びくともしなかた。
「白銀の盾…。こ、これが…俺の力なのか?」
隼人はその盾で男たちの身体ごと武器を押し返すと、数歩後ろに下がって態勢を整えなおした。
「けっ、所詮は身を守るための盾がついただけじゃねえか!てめえがジリ貧なのは変わらねえぜ!?こっちは3人もいるんだ!一気にたたんでやるよぉ!」」
男たちは武器を握りなおすと、先ほどと同じように隼人に勢いよく飛び掛かっていったが、その瞬間、隼人は残った右手を正拳突きのように男たちに向かい、力の限り振りぬいた。
その刹那、隼人の振り抜いた拳から目にもとまらぬ速さの眩い光の槍が男たちの間をすり抜けたかと思うと、まるで爆風を浴びたかのように男たちは宙を舞い、数十メートル先の壁に激突したのである。
あまりの衝撃に、男たちは立ち上がることもできず、苦悶の表情を浮かべ、その場でもだえ苦しんでいる。
「ぐあああ、いてええよおお!!」
「ひいい!俺の腕が、腕がああ!!」
「畜生!よくもやりやがったなぁあ!てめぇえ!」
先程まで敵意をむき出しにして、隼人に対して溢れんばかりの殺意を向けていたこの悪党たちも、今は打って変わって、口数多く騒ぎ立てるのみでただ悪態をつくばかりだった。
隼人は自分に与えられたあまりにも大きな力に驚き慄くとともに、この光景を目の当たりにし、悪党と呼ばれる者達の醜悪さをひしひしと感じて、唯々嫌悪するばかりであった。
とはいえ、相手はもうすでに瀕死の状態であり、もはや勝敗は目に見えていた為、これからこの者達をどうするべきであるか、考えざるを得なかった。
――悪党とはいえ、もはや戦うことはできないだろう。ここは縛り上げてどこかに引き渡すとか――
そう考えていた矢先、近くにいたはずの彼女が吹き飛ばされた男たちの傍に立っていることに気づいた。
その手には、黄金の槍を携え、そして――
「お、おい、まさか…。」
隼人が彼女に声を掛けようとする間もなく、黄金の槍は三度、男たちの心臓を貫いており、苦しみ、悶えていた男たちの意識は今はもうなく、ただの屍がそこに横たわるのみであった。
「なにも殺すことは…」
「率直に申し上げましょう。あなたは甘すぎる。心の中でこの者達に対して情がわいたのですか?自分が殺されそうだというのに。」
「で、でも相手はもう動けないし、そこまでする必要が…」
「この者らが逃げおおせたとき、いつかきっと私たちに復讐の刃を向けることになるでしょう。そして、その犠牲が私たちではなく、あなたの大切な人であっても、あなたは決して後悔することがないと誓えるのですか?」
「それは…まあ…。」
「はぁ、いいでしょう。しかし、これからは私に誓って頂きます。」
「な、何を誓うっていうんだ?」
「これからは、貴方の命を無駄にすることは罷り通りません。その命、私に預からせなさい。よろしいですね?」
「ちょ、なんで勝手に決めるんだよ!?俺はもうこれっきりだと最初にいったはず…」
「よろしいですね?二度は言いませんよ?」
女神は聞き分けの子供に言い聞かせるかのように彼の顔の前まで近づいて不躾に、そう言い放った。隼人は言いたいことは沢山あったが、その女神の振る舞いに何かを言い返そうという気がすっかりなくなってしまった。
「けっ、勝手にしろ…。」
「わかればよろしい。さて、これからのことについてお話します。私についてきなさい。」
彼女はそう強い口調で申し立て、踵を返すと、立ち尽くす隼人を尻目に歩き出した。
隼人は不服そうな表情を浮かべながらその後を追うように歩き始めたが、彼女は何かを思い立ったように歩みを止め、隼人の方に振り向き、こう答えた。
「…と、忘れていました。あらためて自己紹介させてもらいます。私は、第4次神聖同盟の一柱、槍の女神アテナと申します。以後、お見知りおきを…」
――俺は一体この先どうなってしまうんだ。明日香、お前は一体どこにいるんだ…?――
隼人は、無残に残された亡骸を一瞥し、目の前に佇む女神アテナと名乗る者の前に立ち尽くしたまま、この数奇な運命に対して、幾ばくかの不安を抱えながら、今もどこかにいる幼馴染の身を案じるのであった。
次回より、第1章掲載します。