八話
見慣れた風景が広がる。
気づけば次はもう僕の家の最寄駅だ。
ドアが開いた。
僕が改札を出ると何故か兄貴が一人でそこにいた。
「よっ」
「え、急にどうしたの。誰かと待ち合わせでもしてるの」
「そろそろお前が帰ってくる時間かなって」
あまり普段はかけてない眼鏡をクイッとあげて、兄貴は僕に笑いかけた。
「いや、いつも迎えになんて来ないじゃん」
「別にただ迎えにきた訳じゃないから」
そう言って手に持っていたエコバッグを見せた。
「今日の夕飯の材料買ってきた」
中を覗くと、人参、玉ねぎ、じゃがいも、そしてお肉が入っていた。
「もしかして、今日の夕飯はカレー」
「そそ。カレー粉はあったんだけど、他の食材がほとんど家になくてさ。だから買い出しついでってわけ」
僕の家では献立から調理まで、忙しい両親に代わって全て兄貴がやってくれている。
兄貴が作るカレーはとくに絶品で、僕の大好物だ。
「ほんと。嬉しい」
嬉しさのあまり、つい笑みが溢れる。
「よかった、よかった」
また電車が来たようで、人の波がどっと押し寄せた。
「わわっ」
波にのまれそうになって思わずよたつくと、兄貴がグッと僕の手を引いた。
「大丈夫か」
「うん。ありがとう」
僕はそう言って手を離そうとする。
だが、兄貴は僕の手を変わらない強さで握り続けていた。
人はさっきと比べればだいぶいなくなったというのに。
「あ、あの。もう大丈夫だよ、手」
「……んあ。ごめん」
ハッとした様子で兄貴は慌てて僕の手を離した。
「何かあった」
そう聞く。
兄貴は横に首を小さく振った。
「何もないよ。ただ、ちょっとだけボーッとしちゃっただけだから。心配すんな」
「だったらいいんだけど」
兄貴は確実に何か僕に隠してる。
なんの証拠もないし単なる直感だけど。
もし兄貴に悩みがあるなら、いつも兄貴が僕の話を聞いてくれるみたいに、僕も力になりたいと思う。
でも今回は何か簡単に触れてはいけないような気もした。
そっとしておくことにした。
「今日とくに学校の課題とか無いからさ、一緒にカレー作りしてもいい」
少しモヤっとした空気を切り替える意味も込めて、僕は新たに話題を振った。
「お、いいの」
「うん、たまには僕もやんないと」
「怪我すんなよ」
「しないよ。僕を何歳だと思ってんの」
ゆづの真似をして、少しほっぺを膨らませて見せる。
僕の顔を見た兄貴が笑った。
「いや、やろうとしてることはなんとなくわかったけどさ」
「けど」
「それ、ただの変顔だから」
「……なっ」
スマホのうちカメラに写った自分の顔は、ほっぺたを膨らましすぎたせいで見事な変顔になっていた。
別にこんな顔をイメージしてたわけじゃないのに。
見事にツボにハマったようだった。
公共の場ということもあり、兄貴は笑いを止めるのにもの凄く必死になっていた。
ようやく少し落ち着いてきたと思った頃に、兄貴の顔を覗き込んでみる。
もちろんさっきの顔で。
兄貴はもう一度ツボにハマっていた。
「ちょっ、お前。その顔、やめろってば」
笑いすぎてちょっと涙目になった兄貴が僕に言う。
「ふふっ」
「まじ、なんだよ、その顔」
ふーっと深く深呼吸をしていた。
「よしっ、帰るぞ」
そう言った兄貴に、さっきのもやっとした何かはもうないように見えた。
「うん」
そう言って僕らは帰路についた。
「えっと」
僕の切ったにんじんを見て兄貴がフリーズした。
当然だが、怪我は一切しなかった。
なんでそんなに固まっているんだろうか。
苦笑いの兄貴は人参を見たまま言った。
「お前絶対家庭科の成績悪いだろ」
突然なんの話だ。
「まあ、いい方じゃないけど」
「だろうな」
兄貴が呆れた顔で僕をみる。
「誰がカレーライスの人参を縦に切るんだよ」
そう言って細長くなった人参を手で持った。
「あ、やっぱ駄目か」
初めにピーラーで皮を剥くときに少し深くいきすぎて、食べられる部分もたくさん失ってしまった。
勿体無いと思いながらそれを掴んだとき、もしかしたら縦でもいけるんじゃないのかと思ったのだが。
大きなため息をついた後、僕の顔をまじまじと見て言った。
「お前って結構日常生活でボケるタイプだったっけ」
「べ、別にボケてやったつもりではないんだけど」
「それじゃあ、ただのバカか」
「馬鹿とかいうなよ」
馬鹿はあまりにも言い過ぎじゃないか。
「だってバカじゃなければこんな変なことしねぇだろ」
「発想の転換力が凄いとか言ってくれればいいじゃん」
必死になって言い返す。
兄貴がまた大きくため息をついた。
「もう、何しでかすかわかんないからお前はソファーとか座ってて」
「えっ。さっき一緒に作るって言っただろ」
「もういいから」
「でも……」
「でも、じゃない」
いつもの優しい口調じゃなかった。
僕はもう今回は勝てないなと察した。
とぼとぼと僕はソファーに向かう。
なんか、冷たい。
気のせいかも知れないけど。
そういえば、いつも優しい兄貴が冷たくなったことが前に一度だけあった。
あれは、なんの時だったっけ。
その時の記憶にだけ霧がかかってるみたいで、うまく思い出せない。
兄貴がカレーを二つ持ってきてくれた。
いつも通り、とても美味しそうなカレーだった。
僕は三口ほど頬張ったあと、兄貴の目を見た。
「あの、さっきはごめん」
そう兄貴に謝る。
兄貴は口いっぱいに入っていたカレーをごくりと飲み込んだ。
「いや、お前は謝る必要ないよ。別件でちょっと色々あって、苛々してたっぽい。ほんと、ごめん」
「やっぱりなんかあったの」
兄貴はぱっと見笑っていたけれど、少しだけ目を逸らした。
「大したことじゃないから。心配すんなって」
ここには二人いるのに、誰もいないんじゃないかと思うくらい静かだった。
兄貴は僕に相談はしてくれない。
親に相談してるそぶりも見せたことがないような気がする。
兄貴のその気持ちは、一体どこにいっているんだろう。
じっと見つめても、何も言ってはくれなかった。
お前じゃ無理だって言われたようで、なんだか少し心が曇った。
カレーを食べ終わると僕は自分の部屋にこもった。
そばにいるのに、もし状況が悪化してしまったらと思うと怖くて何もできないことが、何より不甲斐なく感じた。
「ごめんね……」
そうぽつりと呟いた。