六話
月曜日。
やりたい役の希望をとる日だ。
本音を言えば、誰ともかぶっていないと嬉しい。
だが、そうもいかないだろうと半分諦めている。
僕がやりたいのは主人公の少年なのだから。
僕は先輩が生み出したこの少年の生き方みたいなのが好きだった。
僕はその少年に惹かれたのだ。
「はい。じゃあまず最初に聞くけど、今回主役をやりたい人」
僕は手を挙げる。
前に立つ那奈先輩がばつの悪そうな顔を浮かべる。
「じゃあ、主役希望の人は晴山さんと山中さんっていうことで大丈夫ですか」
バッと横を見る。
ゆづと目があった。
やはりゆづも驚いたような凍りついたような、なんとも言えない顔をしていた。
僕はまだ他の人とは話したことがほとんどない。
だから誰かと被ったとしてもどうでもいいと多少は思っていた。
ただ、ゆづとなると話は少し変わってくる。
僕とゆづでオーディションをやるとなると、必然的にどちらかは落ちることになる。
それで気まずくなって友好関係が崩れてしまったら。
それだけは避けたかった。
ここ数日の間で彼女、ゆづは僕にとって大切な存在になっていた。
ゆづは感情表現豊かで、僕とは違う世界を生きてるような人で、友達付き合いが苦手な僕を見捨てないでくれるから。
僕はミーティングの後、那奈先輩の元に駆け寄った。
「あの」
「どうしたの」
「自分勝手で申し訳ないのですが、先程の役を降りても大丈夫でしょうか」
「……どうして」
那奈先輩は優しい声で言った。
僕はすぐには答えられなかった。
「……山中さんの方が役に合うと思うからです」
「それはオーディションをやってみないとわからないよ」
「でも」
「役が被ることは仕方ないことだし、譲るとかそういうのはこの部活ではいらないんだよ」
「……すみません。降りたいんです」
どうやって言えばいいのかわからない。
こんな感情初めてだから。
那奈先輩は少し目を閉じて何かを考えてから、僕に言った。
「一度、ゆづも交えて話そう」
そう言って那奈先輩は人伝いでゆづを呼んだ。
「先輩、話ってなんですか」
少し重い空気を感じとってか、ゆづの声はいつもよりワントーン低くなっていた。
「ハル、話せる」
那奈先輩が僕を促す。
僕は軽く深呼吸をして、言った。
「さっき主役に立候補したのを、今回は降りたい、です」
場が静まり返る。
そのうち、黙っていたゆづがそっと口を開く。
「なんでそんなこと言うの」
「……主役だし、誰かとはかぶると思ってた。でも、ゆづとは争いたくない」
「いいじゃん、お互いやりたいんだったらそれでさ」
「……ごめんなさい」
「何が『ごめんなさい』なの。一緒にオーディションしようよ。正々堂々戦おうよ」
強い口調で言うゆづに対して、僕は黙り込んだ。
オーディションなんてしたらどちらかが落ちるってことなんだよ。
僕はゆづとこれまで通りの関係でいたいんだよ。
頼むから、お願いだから降りさせてくれよ。
「ねえ、黙んないでよ」
そう言ったゆづの声は震えていた。
「私だってまりなと被ったって知った時、正直驚いたしまじかって思った。でも、本気で頑張ろうと思ったんだよ。本気でぶつかって、どっちが受かっても納得いく。そんなオーディションにしてやろうって。それなのに、何よこれ。自分は降りるって。なに、そうしないと私が落ちちゃうって思ったの。ふざけないでよ」
明らかに怒っていた。
そんなつもりで降りると言ったんじゃない。
僕はただ、ゆづとこのままの関係でいたかっただけなのに。
「……友達だと思ってたのに」
ボソッとゆづはそう呟いた。
その目は潤んでいた。
「那奈先輩。私、今日はもう帰っていいですか」
那奈先輩はゆづに向かってこくりと頷いた。
僕は一体どうしたらよかったんだよ。
やはり僕が誰かと仲良くなれるなんて幻想だったんだ。
こんなにつらいなら、友達なんて作らなければよかった。
「ハル」
立ち尽くす僕の横で那奈先輩が言った。
「意地悪してごめん。ハルがこれを言ったらこうなるだろうなってこと、私わかってた」
「それならどうして止めてくれなかったんですか」
「……言葉は偉大だけど、言葉だけじゃどうにもならないこともあるから」
那奈先輩がぽつりと言った。
どう言うことか、わからなかった。
「私も一年の時、ハルと同じことをしたんだよね。親友とやりたい役が被って、すぐに譲ったの。私は昔から演技を習ってて、劇だって何回もやった事あるからって。……かなり頑固だったから、色んな人に何度も止められたのに無理やり。そしたらさ、その子なかなか上手くいかなくてさ。本番の舞台も大失敗した」
那奈先輩の前にはその時の光景が浮かび上がっているのだろうか、少しつらそうに見えた。
「誰かが言ったの。私がやってれば大丈夫だったんじゃないかって。それが落ち込んでるその子の耳にも入ったみたいで。その子が私を呼び出して言ったんだよね。『那奈は初心者で下手な私を憐れんで降りたの。それとも失敗する私の惨めな姿を想像して降りたの』って。そう言った後、彼女は演劇部を辞めた」
空いている窓から風が吹き込む。
那奈先輩の綺麗な髪が風になびいた。
「私は大好きだった親友から演劇を奪った。そして、親友からの信頼を失った」
髪の間から見えるそれは、とても悲しそうな笑顔だった。
「ハルが持つ優しさはとっても素敵なものだと思う。それはハルの魅力でもある。でもね、友達同士って優しさだけじゃ成り立たないんだよ。ぶつかることを恐れちゃ駄目なの」
「……こわれただから、どうしようもないじゃないですか」
「大丈夫」
断言した那奈先輩に、僕は嫌気がさした。
「那奈先輩は何をもってそんなこと言ってるんですか。自分は那奈先輩ほど器用に生きてきた人間じゃないんです。ネガティブで性格も悪い、ぐちゃぐちゃで最低な人間なんですよ」
何も知らないくせに。
性格も、過去も、苦しさの種も、何もかも。
それなのに大丈夫だなんて、簡単に断言するなよ。
勝手に僕らの関係を壊そうとするなよ。
気づけば僕の目からは涙がこぼれていた。
「私の出会ったハルは一見するとクールだけど、実は誰よりも優しい人だった」
「……優しくなんかないです」
「そうかな。私が無理やり部活見学に勧誘した時も、ゆづと喋ってた時も、私が台本を作ってる時も。私から見ればハルは優しい人だったよ」
僕は黙り込む。
「さっき言ったじゃん。『言葉は偉大だけど、言葉だけじゃどうにもならないこともある』って。ハルとゆづなら大丈夫。形は違うけど、お互い思いやりがあるから。二人の友情は、一度ぶつかったくらいで壊れるものであって欲しくない」
「……そんなの、先輩のただの願望じゃないですか」
「そうかもね。やっぱりお節介だったかも知れない。本当に、ごめんなさい」
そう言って那奈先輩は、僕の方に深々と頭を下げた。
そうだ、お節介だ。
僕らの関係をわざわざ試すような真似、しなくていいじゃないか。
苛立ちと悲しさが心の中を動きまわる。
「那奈先輩の判断の結果、ゆづとの関係に大きなひびが入った。そうやって、那奈先輩のせいにしてしまう気持ちは変わりません」
それでも僕の意思は固まった。
「でも、那奈先輩のおかげで勇気が出ました。ゆづのところに行ってきます。ゆづと真正面からぶつかってみます」
強張っていた那奈先輩の顔が少し笑顔になる。
「いっておいで」
僕は急いで駅の方へと走り出した。