二話
「晴山が演劇部入るって言ってくれてほんと嬉しいよ」
那須先生が職員室の机の中から入部届を探しながら言った。
机の上には担当科目である地歴公民の教科書が散らばっていて、お世辞にも整理整頓されているとはいえなかった。
なるほど、授業でプリントを使うときに限って毎回5分ほど遅れてくるのはこれが理由なのかもしれない。
今回も、目的のものを見つけるまでしばらくかかりそうだった。
「晴山は今日二、三年の劇みたんだよな」
机の中をガサガサと漁りながら那須先生は話しかけた。
「はい、見ました」
「正直、どうだった」
「……すごかったです。先輩方全員上手かったんですけど、特に那奈先輩の演技が何というか。とても引き込まれました」
頭の中で那奈先輩の演技が再生される。
「ああ、あいつはすごいよな。才能の塊って周りから言われてるくらいだし」
才能。
確かに、そう言われるだろう雰囲気は持っていたように感じる。やはり顧問の立場から見てもそう見えるのか。
那須先生の顔をちらりと見ると明らかに曇っていた。その顔が何を意味するのか、僕にははっきりとわからなかった。
ふと、那須先生は手を止めて僕の方を見た。
「晴山は演劇でなにがしたい」
あまりにも当たり前すぎる質問にすこし戸惑う。
「それは、演技がしたいです」
解答方法がよく分からない中、なるべく真面目に答えた。
だが、那須先生はそれを聞いてきょとんとしていた。
頭の中で理解が追いついたのか、納得した表情をみせたあと大笑いをした。
「まあそうだよな。いやいや、俺の聞き方が悪かった。すまんすまん」
仕切り直しとでもいうかのように、コホンと咳払いをした。
「晴山は演劇を通してどんな人になりたい」
どんな人。
「えっと、それはどんな人を演じたいかってことですか」
「ん、ちょっと違うかな」
もう一度、入部届の紙を探してガサゴソと机の中をあさり始めた。
「演劇を始める奴の動機って色々あるんだけど、その中に『今の自分が嫌いで、変わりたいから』ってやつもいるわけ。まあ、全員が全員ってわけじゃないけど。晴山はどうなのかなって」
変わりたい。
そういう気持ちはある。
変わりたいと言っても特別になりたいなんてことじゃない。
そんな贅沢いわない。
普通の人になりたいだけ。
それをどうやって人に伝えるのがいいのかわからない。
悩んでいる僕の頭の上に温かい手がのった。
「いきなりこんなこと聞いてごめんな。今のは忘れていいから」
那須先生の笑顔は本当に申し訳ないと思っている人がするそれだった。
「あ、いや。すぐに答えられなくてすみません」
那須先生はまっすぐこちらを見る。
「全然大丈夫だから。誰だってそんないきなりは答えられないよ。ほんとすまん」
そう言って入部届を渡された。
「これ、一週間以内に俺のところに持ってきてもらえれば大丈夫だから」
「わかりました」
気づけばもうほとんど日は暮れて、あたりはだいぶ暗くなっていた。
「気をつけて帰れよ」
そう言う那須先生に向かって軽くおじきをして、職員室を後にした。
「ただいま」
家に帰ると、大学三年生の兄貴、颯太がリビングのソファーで動画を見ていた。
兄貴とは小さい頃から仲がいい。喧嘩なんて滅多にしない。
「なに見てんの」
そう話しかける。
「ん」
兄貴はそう言って振り返った。
「あ、これか。えっと、ベースの弾いてみた動画」
「あれ、兄貴ってバンドやってたっけ」
「やってないよ。なんとなく、好きな曲のベースってどうなってんのかなって思って調べただけ」
昔から好奇心旺盛だった兄貴らしい回答だった。
何事にも興味を持つし、一つ一つに対してかなり真剣に向き合う。
それは人に対しても同じだ。
どんな人だって大切にするし、何より理解しようとする。
兄貴が友達が多いのも、よく相談事をされているのもなんとなくわかる気がする。
僕が唯一性別について相談したのも兄貴だった。
スマホに目を戻した兄貴の肩をそっと叩く。
「あのさ、ちょっと話したいんだけど。時間できたら教えて」
「ああ、今でも全然大丈夫だよ」
そう言ってスマホの画面を閉じた。
軽く深呼吸をする。
「……僕、演劇部に入ることにした」
兄貴は驚いた顔をした。
「それはまた、急だね」
「今日いきなり誘われて見学に行ったんだけど、やりたいなって思っちゃった」
昨日まで部活には入らないと言っていたのに、今日いきなり入ると言われたら、そりゃあ誰だって驚くだろう。
兄貴は何かを考えるように少しだけ顔を下に向けたあと、僕の方をまっすぐみた。
「お前がやりたいことはなんでも応援するつもりだし、否定もしないけどさ」
言うかどうか悩んでいる。
そんな風に感じられる間があいた。
「なんで演劇がやりたいの」
僕がさっき答えられなかった、那須先生の質問みたいだと思った。
でも、兄貴になら言える気がした。
「僕、今の自分が大っ嫌いでさ。自信も勇気もなんにも持ってないぐちゃぐちゃな自分が大っ嫌いで。変わりたいって思うんだけど、変われるほど強くなくて。初めてやりたいって思った演劇をやれば何か変わるかなって思って。だから、つまり」
言っているうちに文章がめちゃくちゃになっていた。
慌てる僕をみて兄貴がにこりと微笑む。
「お前ってほんと俺に似てるよな」
「なんで。兄貴は僕みたいにかっこ悪くはないよ。むしろ人間としてはかっこいいと思う」
そういうと、兄貴は笑った。
「『人間としては』ってなんだよ。普通に、かっこいいでいいだろ」
「まあそれは、ねえ。好みとかあるし」
「なんでだよぉ。そこは嘘でもかっこいいって言ってくれてもいいじゃんかよ」
ちょっと悲しそうにする兄貴が少し可愛く見えた。
「うるせぇ。だって彼女いないだろ」
ニヤリと笑ってからかった。
正直に言うと、兄貴は性格的にはかなりモテると思うし、僕が言うのも気持ち悪いけれど、顔も決して不細工ではないと思う。ただ、多趣味すぎて恋愛に興味がなさそうに見えてしまうのが玉に瑕だ。
「あー、そういうこと言うなら今日買ってきたケーキ、お前にはあげないぞ」
「え、うそうそ。カッコいいカッコいい」
僕は慌てて訂正した。
これで大好きなケーキを食べられなくなるのは辛い。
「いや、意見覆りすぎだろ。お前ほんとケーキ好きだな」
兄貴が白い歯を見せた。
僕は苦笑いをしてみせる。
甘いものには昔から目がなかった。
特にケーキは本当に大好きだ。
ただ、それに対して最近少しだけ悩みを覚えているのも本音だった。
「男になりたいとか言ってるのに、女子みたいに『ケーキ好き』って言ってるの、おかしいかな」
表情をみる勇気が出なくて、少し視線を下げた。
兄貴は優しい声で言った。
「全然。好きなものは好きって堂々と言っていいんだよ。それがお前なんだから」
僕の顔を覗き込んでにこりと笑った。
くっそ。やっぱり兄貴はカッコいい人だ。
「ありがとう。兄貴にそう言われると大丈夫な気がする」
「それはよかった」
兄貴の手元にあるスマホを指さす。
「さっきの動画の続き、一緒にみていいかな」
「おー、いいよ。みようか」
兄貴の隣に腰をかけた。
「はい、これイヤホン。右だから」
渡されたイヤホンを耳につける。
「どう。みえる」
「大丈夫」
そう言って一つのスマホ画面を二人で覗き込んだ。
楽器にはあまり興味がないから、その動画の面白さはよくわからなかった。
でも、隣で兄貴が楽しそうにみていたから僕も楽しかった。