一話
片手で数えられるほどしか人のいない、静かな図書室。
僕はここで本を手に取りながら、少し妄想をしていた。
理想の自分についての妄想だった。
気持ちを切り替えようとして本の方に視線を戻す。
どれだけ願ったって所詮は自分の中の妄想でしかないことに時間を使うなんて無駄な行為だ。
そう分かっているはずなのにどうしてか本の内容が頭に入ってくることはなかった。
いつの間にかまた同じ妄想をしてしまっていた。
そんな自分に呆れて、心の中でため息をつく。
読みかけの本を本棚へと戻して、僕は出口へと向かう。
「あの」
扉を出て少し歩いたところで、後ろの方から話しかけられた。
振り返ると先輩らしき女の人がこちらをみていた。
「これ、落としたよ」
僕の学年色である青色の生徒手帳をひらひらと振って見せた。
カバンを見るとチャックが一か所だけ空いていた。
きっとそこから落ちたのだろう。
「あ、ありがとうございます」
僕はその人の元へと駆け寄る。
「ねえ、君一年生でしょ。部活とかもう決めたの」
気さくな感じで、女の人がそう尋ねてきた。
「いや、そもそも入ろうかどうか悩んでいるところです」
そう答えると、女の人はジロジロとこちらを眺めた。
女の人はにこりと笑った。
「もしよければ、演劇部の体験来てみない。私いま二年なんだけど、一応今年からそこで部長やってるんだ。今日もこれから活動するんだけど」
なるほど、部活動の勧誘か。
このあと確かに予定は入っていない。だが、少しだけ面倒に感じた。
その雰囲気を察したのか、女の人は半ば強引に僕の手を握る。
「一回だけでもいいからさ。きっと楽しいよ。いや、楽しいって思わせてみせるから」
「でも」
「ん、それなら見学だけでも来てよ。みてるだけでいいし、なんなら一回通しでやるからそれだけ見て帰ってもいいよ」
女の人が少し悲しそうに呟いた。
「……じゃあ、みるだけなら」
僕は渋々了承した。
「やったあ」
女の人はくしゃりとした笑顔を浮かべた。
「えっと、名前は」
「名前、ですか」
「ああ、こういうのって私から言ったほうがいっか。私は古谷那奈。那覇市の那に奈良県の奈。那奈先輩って言ってくれると嬉しいかな」
とてつもなくテンポよく彼女、那奈先輩は自己紹介を終えて、僕に名前を聞いた。
「その」
那奈先輩の笑顔と反比例しているかのように僕の心は暗くなっていった。
「晴山茉莉奈っていいます」
そう言った声は少しだけかすれていた。
どっからどうみても女子だとわかる名前だ。
僕は女子なんだから仕方ないんだってことくらい、痛いくらいにわかってる。
でも僕は女子だけど女子じゃない。
こんな名前、嫌いだ。
「なるほど、いい名前だね」
純粋に言ってくれたのだとはわかっていながらも、僕には嫌味にしか聞こえなかった。
「そんなことないです」
「そうかなぁ」
僕の暗い気持ちとは裏腹に、那奈先輩は変わらずにこにことしていた。
「じゃあさ、えっと。なんて呼ぼうかなぁ」
そう言って顎に手を当てながら、あからさまに眉をハの字にして見せた。
演劇部に対する完全な偏見だけど、感情表現豊かな感じがまさに演劇部らしいと思った。
何か浮かんだのだろうか。勢いよくこちらを向いた。
「ハルって呼んでいいかな。晴山だからハル」
名前で呼ばれると思っていたから、呆気に取られてしまった。
だが、今までで一番好きな呼び名だった。
「そう呼んでいただけると嬉しいです」
さっきよりは心なしか気分が軽くなったような気がした。
「よし。じゃあさっそく向かおうか」
案内されたのは少し広めの演習室だった。
そこには、先輩らしき人がいるのはもちろんだが、みたことのある顔もちらほらとあった。
「みんな、注目」
那奈先輩がそう言うと、全員が練習を止めた。
「一年生が見学することになったから、ちょっといつもと順番違うけど最初に一回通しでやるよ。アップとかはもう終わってるよね」
「はい」
先輩方がそういうと、僕以外の一年生は状況を飲み込めず、おどおどとし始めた。
「あ、新入部員のみんなも一緒にみてて」
そうして、僕と他の一年生合わせて六名が前の方に座る。
劇が始まった。
里見八犬伝という、私が知ってるくらい有名な作品だった。
かなり上手いのだということは、素人の僕でもわかった。
空気感が始まる前と全く違っていた。
その中でも特に一際目立っていたのが、那奈先輩だった。
那奈先輩がやっていたのは犬塚信乃だ。
確かに、メインキャラクターだから上手く見えたというのもあるのかもしれない。
だが、確実にそれだけではなかった。
やっている場所はいつもの演習室だし、照明や小道具なども、そして服装だってさっきまでと同じ制服。
それなのに、そこにいたのは那奈先輩ではなく、犬塚信乃だった。
そこに那奈先輩の姿はどこにもなかった。
風景も、服装も何もかもがいつも通っている学校とは違っている。
僕は気づけば完全に釘づけになっていた。
徐々に劇の終わりが見えてくる。
まだ終わって欲しくない。永遠にこの世界にいたい。
そんな望みも虚しく、劇は終了を迎えた。
「どうだった」
そう言って、劇の前と同じ那奈先輩が駆け寄ってきた。
この感情をなんて表現したらいいのか分からない。言葉では表せないような気がした。
「すごかったです」
結局、薄っぺらな感想しか出てこなかった。
それでも那奈先輩はニコニコしながら、ありがとうと言った。
「このあとどうする。残る、それとも、帰る」
もはや考える必要もなかった。
「残りたいです」
その答えを聞いて満足そうな笑みでこちらを見つめた。
「そうこなくっちゃ。じゃあ、さっそくいつも通り部活はじめますか」
そう言って、発声練習、短劇、そして先輩方の劇をもう一度みた。
やはり、あの劇は何度見ても感動を覚えた。いや、回数を重ねるたびに感動が増したような気がした。
ミーティング前に那奈先輩が僕を見て、端っこのほうで手招きをした。
「なんですか」
「あのさ。今日練習に参加してみて少しでも入りたいって思ってくれた、かな。もちろん今日いきなり入部するかしないかとかは決めなくて大丈夫なんだけど。一応聞いてみたくて」
「正直、お誘いいただいた時は全く興味はありませんでした。それに、帰宅部にしようとほぼ決めていたんです」
これが本音だった。
部活で余計な人間関係を作りたいと思わなかったし、苦しい思いとかはもう二度としたくなかった。
何もしなくていいなら何もしたくない。
そう思っていた。
「でも、参加してみて変わりました。演劇部に入りたいです。私も劇をやってみたいです」
何に惹かれたのか、そう聞かれたらはっきりとは分からない。
けれど、どうしてもここにいたいと思った。
那奈先輩が顎に手を添える。
「ん、てことは入部するってことでいいの。まだ数日くらいは体験っていう形にもできるけど」
「いや、入部するという形でお願いしたいです」
この魔法が明日になったら解けてしまうかもしれないと思うと怖かった。
「わかった、じゃあ入部届けを顧問の先生にミーティング終わったらもらいに行って、それを明日の部活で出して」
「はい」
そういって大切なことを思い出す。
顧問の先生って、誰だ。
そういえば、今日一回も顔を出していない。
もしかしたらあまり部活に熱心ではないタイプの先生なのかもしれない。
だが、熱心じゃなくてこんなにすごい部活が誕生するのだろうか。
扉の開く音がした。
「ごめんね。会議が長引いちゃって来れなかったけど、今日もなんもなかったか」
背後からは聞き馴染んだ若い男性の声が聞こえた。
「あれ、もしかして晴山。どうしてここに」
「こんにちは、もしかして演劇部の顧問って那須先生なんですか」
那須先生は僕のクラスの担任をしている、まだ二年目かそこらの若い教師だ。
クラスでの僕の姿を知っているからか、驚いた顔でこちらをみていた。
「そうなんだよ。俺、結構こういうの好きでさ。もしかして晴山、演劇部入りたいの」
「はい」
「おお、そっかそっか」
何故だか満足げな顔で笑っていた。
「あ、じゃあ帰る前に一緒に職員室来て。入部届け渡したりとかするからさ」
「わかりました」
「那須先生、ミーティング始めても大丈夫ですか」
様子を伺いながら、那奈先輩が話しかけた。
「ああ、悪い悪い。始めるか」
そう言って、僕にとって初めてのミーティングが始まった。