第一 6 お尻がピクピクしてきた
「それではー、四つん這いになってくださーい」
エコーしたメゾソプラノが鼓膜を通して脳内に響く。
声の主は、ほんの数時間前に城内をガイドしてくれた電子弓使いのターニャだ。服装に目をやると先ほど装備していた真紅の胸当てをつけたままだ。スパッツやレギンスではない。
その方が集客力がアップするのだろうか・・・。
鹿苑寺金閣に金箔を張り、菊に黄色の絵具を塗り、梔子に香水を振りかけるような心配をしながら、俺はある王女の命によってヨガ任務に就いている。
二人の王女から密命を受けている点はスパイらしいと言えばスパイらしいのだが、実際にやっていることはストレッチと情報収集。
前者に至ってはお尻の筋肉を増強させるという目的のヨガ講座で、着させられたスパッツが気恥ずかしい。
そんな個人的見解をよそにターニャコーチのレッスンは次々と進む。後者の任務については追々こなすことにしよう。
「次はー、右足だけを、地面から離しまーす。後ろに伸ばしてからー、右足を外側から、回すようにー、腰の辺りまで、引きつけまーす。わかりましたかー? では、やってみてくださーい。・・・分からない人は手を挙げてくださいねー」
コーチのターニャは板についていた。前にも似た経験があるのだろうか、それともただの資金稼ぎだろうか。
ガイドしてくれた時に見せたムフフな表情が今も忘れられない。財布がほくほくしているときの女子の顔は地上も地獄も同じだと左脳が悟った。
地獄の沙汰も金次第、ということだろうか。ヨガレッスンは裁判ではなく筋トレの一種だが、ここが地獄であるという現実は何ら変わらない。
そして注目したいのはレッスン中のターニャの演技力だ。
さっきまで色っぽい手つきで俺を誘惑していたとは思えないぐらい商売顔になっている。とりわけ初心者への対応が懇切丁寧だ。
それにしても・・・・・・・・・一番後ろの列だと丸いお尻の行列と美しい脚の羅列しか視界に入ってこない。
教室の黒板は見えなくてもいいが、ヨガ中のターニャは少し見たい。
というわけで、ポーズを取ろうにもターニャの声こそ耳まで届くが、一体どんな動きをしているかまでは、西日ですれ違ったトラック運転手の顔のように想像できない。
仕方がないので、前列や横の人の動きを見てポーズを真似てみる。ところが、右隣の女性も同じ状況だったらしく、
“どうやるの? 合ってる?“
みたいな顔で見つめ合った時は思わず苦笑いしてしまった。
そんな状況になるほどターニャのヨガレッスンは好評だった。
どうせなら夏休みの朝のラジオ体操のように朝礼台に登って、お手本を見せてほしい。終わったら、このティーシャツに参加のスタンプでも押してもらおうか・・・。
そんな下らない妄想と微笑と追憶を繰り返しながら、俺はお尻を綺麗に見せるヨガのポーズをしていたのだが・・・・・・・、
「き、キツイぞ。このポーズ。お尻がピクピクしてきた」
「頑張って」
斜め後ろから励ましの声が届く。正月に小涌園で声援を受ける駅伝選手のようだ。
(よし、あと少し!)
俺が一連の動作を終えようとしたところで、ターニャの声が灰色の壁で囲われた城内に響く。
そのやや低い声は石壁から石壁へと反響し、よく聞こえるのだが、姿形はこれっぽっちも見えないので、ターニャがヨガのポーズをとる様を俺はいろいろと想像した。
「いいですよー、皆さん。ではー、片足で二十回繰り返したらー、反対の足も、同じように二十回繰り返しまーす」
コーチの言う通り、同じ動きを正確に繰り返していると脚の付け根辺りが悲鳴をあげてきた。我が肉体に“お尻筋“という存在が鎮座していることを認めざるを得なかった瞬間である。
今の今まで、お尻は渋谷のハチ公前にある金属製のパイプ状ベンチに腰掛けるときのクッション的パーツぐらいにしか捉えていなかった。
しかし、この右脚付け根の表面にほんのり痛みを感じた時、俺は“お尻筋“に爵位を与えた。今日からお前は“子爵”だ。
そして、同じ痛みが左サイドの子爵にも降りかかるであろうことを予知すると俺は自然とレッスンの手を抜き始めた。最後列のメリットは最大限に生かさなければ・・・。
「ふう、ふう、ふう・・・・・、ふう、ふう、ふう・・・・・・」
どうにかこうにかターニャの目をごまかしつつ、片足二十回ずつのトレーニングを終えた。もはやシボルチ族に関する情報収集タスクは頭の片鱗にすらない。
「お尻筋トレ」がこれほど過酷だとは想像さえしなかった。
二十代女子がヒップアップ効果を意識する理由が分かりかけてきた気がする。書店の雑誌コーナーでお尻の筋肉を鍛えると美脚になるだけでなく内臓も活性化し、ひいては便秘も改善されるという記事を読んだ当時は、お尻筋の増強で便秘まで改善とは大口を叩いているような気がしたが、こうして実際にヨガを体験してみるとまんざら嘘ではない気がしてきた。
「では次のトレーニングに移りまーす。この後ー、休憩をとりますので、頑張ってくださーい」
レディ・ターニャのヨガ講座は留めどなく続く。
「さっきとー、逆のポーズをとりまーす。仰向けになってからー、肘を支えにして、膝を曲げまーす。腰もしっかり上げてくださいねー」
前回と同じように正確無比なポーズをとっている周囲の模範生を探す。大概クラスに一人はいるものだ。
(おっ、あの子のポーズが良さそうだな)
俺は二列ほど前にいるショートカット女子のポーズを真似てみた。
(くっ、こ、これは背筋だけでなく腹筋にもくる・・・)
上半身を支えているのが、両肘のみなので油断すると腰全体がどんどん落ちてくる。俺は地獄にも万有引力の法則が働いていることを実感した。
足は膝を曲げた状態で直角の姿勢をとっているから容易いが、お尻や背中は筋力がないとまず支えられない。
皆さんもやってみることを勧める。一人で。
すかさずコーチのアドバイスが入る。
「腰がー、沈みがちになるのでー、肘で、しっかりとー、支えてくださーい。肘ですよー」
逆四つん這い姿勢をキープしながら、周りをちらりとみると皆苦しそうに喘いでいる。実はここの受講生は俺以外ほぼ全員が女性捕虜だ。男性捕虜はどうしたのだろうか。
さらに男子がこの“逆四つん這いポーズ“をとると、下腹部がもろに強調されてエロ気まずい。
つまり、完全にあれの格好だ。
もしもここで、一物をマッターホルンのように隆起させようものなら、一目で男性捕虜とバレてしまう。全員同じポーズをとっているからいいようなものの、コーチが立ち上がって様子を見に来たら露呈するほど息子の膨らみは危うい。
俺は苦しさと恥ずかしさに耐えながら、ヨガを続けた。
ところが、次のポーズはその羞恥心をいっそう激しくするものであった。
「それではー、両足の外側を軸にしてー、両膝を開きまーす。四十五度ぐらいまで下げてー、元に戻しまーす。これで一回。ではー、十回ほどやってみましょうー!」
「いっちにさんし、いっちにさんし・・・・・・」
俺も隣の高校生ぐらいのレディも難なくこなしている。
(格好は恥ずかしいが、さっきよりイージーだな)
そしらぬ振りでレッスンをしていると、フリスビー型浮遊機から降りた王女がゆっくりと俺のところへと近づいてきた。
天孫降臨ならぬ王女降臨だ。
そして、麗しい顔を俺の腹や太腿、膝などに近づけ仔細に観察を始めた。
(一体何をチェックしているのだろうか? シボルチ族の新しい治療法か?)
やがて、膝から太もも、そして股間へと王女の顔が迫った。男性特有の妄想を胸に抱いたが、実現はしなかった。
科学的な見地から男性の肉体を見ているように思えた。
しかし、脳細胞でエロエロな妄想を膨らませていたため、俺のあそこは噴火寸前の活火山のようだった。
(王女様ぁ! も、もう限界だーーー。その綺麗なお顔をどうか、一センチでもいいから一物から遠ざけてくれぇぇぇーーー!!!)
幸か不幸か、俺のいた最後列は他より薄暗く、王女様は気づかなかったようだが、俺は異様にエキサイトしていた。
例えるなら地下鉄の向かいの席に眠れる森の美女を発見したような奇跡の瞬間だろうか・・・。
スパッツに腰や尻を締め付けられ、あそこがパンツの中をうねうねしながら膨張していた。万が一、王女様の細く可憐な指先で下腹部をちょろっとでも撫でられていたら、エッチな物質がスパッツの中央分離帯を濡らしていたかもしれない。
それぐらいドキドキした。
ようやく王女が観測を終えると付き人にゴニョゴニョと耳打ちしていた。
(えっ? もしかして股間の件がバレたのか? それとも「やだあ、あの男子。トレーニングしながら股間を膨らませてるう。変態ー」とかギャルっぽい会話を交わしているのだろうか)
ところが、本の最初のページをめくるかめくらないかといった短い合間に、それは否定された。なんとトレーニングを中断して広間で王女様に謁見するよう申しつけられたのだ。
これは千載一遇の好機に思えた。まさに情報収集をするのに打って付けのシチュエーションである。
謁見となればシボルチ族の中枢への立ち入りを許可されたも同然、つまり賓客として丁重に扱われ、王女様の信頼を得たことを意味しているのだ。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。