第一 1 お尻だ
「カスミ。お前のお尻、でかいな」
前方を歩く王女の締まったヒップを眺めながら、冗談まじりで言った。
「どこを見ている。お前、股間が大きくなってるぞ」
振り向いたカスミは俺のたくましい下半身にジロリと視線を向けた。
「へっ?」
俺はついベルト越しに社会の窓を確認したが、平常運転だった。というか、男子ならばあそこが大きくなっていれば、ズボンが引っ張られるような感覚があるので容易く分かるはずなのに、どうしてわざわざ目で確認したのだろうか。
(それにしても王女のお尻っていいな)
溶岩石らしき岩で覆われた薄暗い谷間の小道をしばらく進んだように思う。時間にしてナイトドラマの冒頭から最初のCMぐらいまではあっただろう。その間、ずっとゴツゴツした採石場の如き壁が続いていた。
「そろそろ城だな」
立ち止まったカスミは俺の股の間をさわさわしながら、真顔で言った。カスミは微塵も顔が赤くなっていないが、俺は赤面していた。反対に壁は花崗岩のような白っぽい風合いに姿を変えている。
「攻め・・・落とされて・・・いるんだろ?」
俺はカスミの小さな手によって性的欲求をコントロールされているという法悦の境で、ようやくトークすることができた。
(地獄のハネムーンもいいものだ。きっと大手旅行会社でも売れ筋の旅行プランになるだろう)
「多分な」
(あっ、気持ちいい。もうズボンの中に手を入れてもいいぞ。カスミ)
自慰を覚えたての中学生のような妄想していると、カスミが俺の股間から手を離し、顔を曇らせ、王女らしい高貴な顔をしたように見えたが、暗いのではっきりとはわからなかった。
そして、さらに映画一本分ほどの時間だけ歩くと、占領されているであろうキルカ族の城が近づき怪しい空気が辺りを包んだ。するとカスミが頭上の岩陰に身を隠すよう合図した。
岩陰までは急な斜面で、身を低くしながら慎重に登って行った。登山というより“這って行く“というニュアンスの方が近い。およそターミナル駅の通路から各方面へ散らばる各停在来線のホームへ上がるくらいの高さだったと思う。
山登りと同じように距離は短くても斜面が急だと、予想以上の体力を消耗する。全く復習しないで期末テストの化学に臨んだ気分だ。
ゴツゴツとした茶色い岩肌に手と足をかけながら、少しずつ目的の岩陰が目に入った。途中、カスミのお尻がおでこに当たりそうになって、慌てて静止した。新婚早々にタイミングよく、すかしっぺでもされたら、たまったものではない。
額や鼻先や首筋に汗を垂らしながらカスミ、俺、アスカ、リンの順に岩陰へ到着した。ここへ何度も来たことがあるのだろう。カスミたちは慣れているように見え、汗もそれほどかいていない。岩陰には四人とティンパニーが一台置けそうなくらいスペースがあった。もしかしたら、敵の部族が攻城のために築いたものかもしれない。
ほどなく俺たち四人は岩陰から、プレーリードックのようにそっと顔だけを覗かせる。
もっとも地獄は深海を照らす潜水艇のように明かりが少ないので、敵さんにバレる心配も少ないとは思ったが、そもそも俺は“地獄初体験“なのでキュートなお尻の王女たるカスミ様の指示を仰ごうと心に決めていた。
「さっき・・・・・・“多分“って言ってたよな。自分が統治していた城を占拠されたかどうかの情報は入ってないのか?」
俺は敵襲がいつ来るかわからない緊張状態だったので、前を見つめたまま王女に話しかけた。
「地上へ逃げるので手一杯だった」
カスミは悔しそうな声で言った。その言葉の一つ一つが喉の奥から絞り出すような声だった。
共に逃げたであろうアスカとリンも一様に下を向いている。
「王女様、あそこ」
薄暗くてよく見えないが、前方に動きがあったようだ。近衛兵兼監視役のアスカが人差し指で示す。
「やはり陥落している」
何を見て“陥落“とカスミは感じたのか推測できなかったが、城門に女性が立っているのだけはわかった。
きっとあいつらがカスミたちと敵対する部族なのだろう。地獄の部族について世界史で習っていない俺は、カスミの言った陥落という言葉を変換せずに脳で受け取るしかなかった。
しばらくすると一同は様子見をやめて、岩陰に寄り掛かり、ただただ土の上に座っていた。美濃を追い出された明智光秀の心地だ。しかし、どうにかして城を取り戻せないかと計略を練ろうとした俺は、カスミにこう訊いた。
「・・・・で、何か必殺技でもあるのか?」
俺は地上でエッチした王女の艶やかな横顔を見た。実のところ俺は王女、つまりキルカ族トップの婿養子的立場だ。半ば強引な取引だったが、それが縁となって、地獄というカドミウムと硫酸と水銀で溢れていそうな世界へと足を踏み入れてしまった・・・。“地獄“という言葉を使ったが、それは“地面の下“という意味で魔王ルチフェロも閻魔王も蜘蛛の垂らした糸を上るカンダタもいない。今では地味に後悔している。それは幼なじみを助けるためとはいえ、ついカスミと肉体関係を結び、王子という高貴な位に就き、キルカ族の領土奪還に協力せざるを得ない不条理な環境に置かれたからだ。
「お尻だ」
問いかけから数秒あっただろうか、唐突に妻となったカスミが妙なことをほざいた。さっきから俺の股間をなでなでしたり、卑猥な言葉を放つなどプリンセスの品格に欠ける。ディズニー映画のヒロインとは雲泥の差だ。
「へっ?」
俺はつい間の抜けた声を発した。
「だから、必殺技だ」
カスミが表情一つ変えずに言った。
「お尻が?」
「そうだ。もう一度言おうか? ・・・・・・お尻だ」
依然としてカスミは“お尻”という単語を小さな唇からためらいがちに放った。
「お尻?」
俺は怪訝な表情でエロいプリンセスを見た。
「それが我がキルカ族の秘中之秘だ」
あまりにも勝ち目のない計画に俺は祖国日本へ自力で帰ろうとUターンした。それは戦争が終結し、満洲から引き上げる日本人のように固い決意だった。
「待て、地上に帰るな! お尻で攻撃するのではない。よく話を聞け!」
「はいはい」
俺は品格の欠けた新しい妻の話を渋々聞いてやることにした。
「何だ! そのプールの後の古文の授業ような、やる気のない返事は?」
嫁が怒った。でも、可愛い。
「ワカリマシタ」
俺は棒読みでからかったのだが、王女は平然とした口調で必殺技についての話を続けた。
「敵はシボルチ族と言う。奴らの狙いはお前のようなエロエロ男子だ。実はあの種族は女子の比率が高く、子孫繁栄のために男子を狩ろうと我がキルカ族の領土へと攻め込んできた。そのため、キルカ族の男子はほぼ奴らの手に落ちてしまったのだ」
「それってハーレムじゃないのか?」
俺はついシボルチ族の容姿端麗なレディとともに夕食を共にしている光景を思い浮かべてしまった。
「おい! 今度は本当に股間が隆起してるぞ」
カスミが左手でさわさわしながら、俺の興奮を伝えた。
「おっと、いけない、いけない。ついシボルチ族との楽しいパーティーを・・・」
俺はあそこの膨らみも気にせずにバーチャル不倫をした。
「それでだ。そのシボルチ族は“電子弓“という強烈な武器を使う」
いまだにカスミは俺の股ぐらから右手を離さない。
(うお、このままだと俺のあそこが、あそこがもたない。しかも右手だから上手い・・・)
「エリクト・・・何だって?」
ようやくカスミが例の場所から細い右手を離し、正面を向いた。おそらく真剣モードなのだろう。俺は少しあそこを大きくしたまま、その場で正座した。幸い地獄は薄暗いので気持ち隆起しているのはバレていない。
やがてカスミは一息入れてから、シボルチ族特有の武器とその防御方法についての説明を始めた。
「よく聞くんだ。正式名称はエリクトローンルークだ。リンの報告によれば、敵の部族長のお墨付きをもらった武器とのことだ。我がキルカ族の勇敢な女戦士は、弓から電子を帯びた雷のような矢が瞬時に放たれるとくるりと回って“お尻“で矢を弾く。無防備に見えるが、お尻の肉は他の筋肉よりも厚い。それはお前も我がキルカ族も同じだ。地上の人間が顔に大きな火傷を負うとお尻の皮膚を移植したりするだろう? それと同じ理論だ。つまり防御力は“かなり“高い」
「かなり・・・ね」
半信半疑だったが、あまりにもカスミが熱心に語るので、俺はつい聞き入ってしまった。
(お尻で矢を防御ねえ・・・・)