第二 2 名前は「モグリン」でいいか
エカテリーナ王女が辺獄へと帰った翌日、俺は単身アケローン川へと向かわされた。
アケローン川を渡ると“辺獄”へ行けるのだとアスカに諭され、氷のような目で中継昆虫を手渡された。
偶然とはいえ、まだ胸を鷲掴みしたことに怒髪天を衝いているのだろうか・・・。
アスカによるとキルカ族居住区のある“地獄前域”と目的地の“辺獄”とは階層が違うため、通信するには間に中継基地を置かないといけないのだそうだ。
その役目を果たすのがこの中継昆虫で、原理はコンクリートの厚い壁があると、Wi-Fiが届きにくいのと同じだとか言ってた。
城を出た。
裏門はゲートバーがあるだけのイージーな門構えだったが、正門は三重に張り巡らされ、テムズ川沿いのロンドン塔の地下牢にある鉄格子のような門扉が厳かに建っていた。
もっとも、この城は敵対していたシボルチ族の入城を許しているので、門は三つとも開け放たれていたが、往時の対立の激しさを垣間見ることができる。
門はちょうど谷が狭まる地形に設置され、外から来ると 中へ進むにつれて入口が狭まっていく天然要塞のごとき構造をしており、攻め込んだ敵はバーゲンセールに群がる主婦のように団子状態になる。
キルカ族は、そこを飛び道具で撃ち殺す寸法だったのだが、金銭による買収という方法で城を奪われ、この巧妙な仕掛けが陽の目を見る日はついに来なかった。
一説によるとターニャが使っていた電子弓はキルカ族の武器を改良したものと言われ、キルカ族には弓矢製造の技術があるか、防御に長けた部族だと断言する辺獄の歴史家もいる。
反対に城を出る時は、門全体が大きく広がっていく。
最初は下町の蕎麦屋の入り口ほどだったのが、大都市にある老舗デパートのガラス製ドア、そして国際基準を満たしたサッカー場のゲートへと成長する。
一番外側の門の脇に歩哨に立つ兵士はいるものの、往来する人々を茫然と眺めているだけなので軍事クーデターでも起きない限り動かないだろう。
シェンゲン協定が結ばれたヨーロッパ諸国のように一度入国してしまえばパスポートコントロールなしに旅ができるのと同じ感覚だ。
誰もこの荘厳なゲートをかつての部族間の境界線と思う人はおらず、むしろ城内のシボルチ族とキルカ族居住区との境界の方が異国情緒を味わえる。
まず、俺の最初の目的地は“アケローン川”である。その先に辺獄があり、シボルチ族とウハーの民が居を構えている。そして両者のうち、ウハーの民と接触し協力を得るのが最終目的となる。何をどう協力してもらうかは、うすうす感付いている。
マンハッタン計画によって原子爆弾を運ぶ重巡洋艦インディアナポリスの艦長になった気分だ。
黒の外套を被り、身元がばれないように城外を歩く。ターニャには観光がてらアケローン川を見ておきたいとだけ伝えた。
地獄は深くて広い。
上京したときに初めて契約したアパートの賃貸借契約書の特約のようだ。
地上に最も近い地獄前域は地獄の中で最大の面積を誇る。その割に価値が低いので、人口も少なく町もさほど発展していない。利点は地上と交流できる地獄で唯一のエリアということだろうか。
かつての城門をくぐり、道を独歩で進むがアケローン川はおろか、地下水の音さえ耳に入ってこない。本当にこの先に川が流れているのだろうかと不安になるほど湧き水や温泉、水脈といった水源らしきものの欠けらさえ見当たらない。
地獄の住人はどこから水を入手しているのだろうかと思いながら、昨日カスミたちと一緒にコップに入った水を飲んだ一幕を回想した。
あの透明の地下水は、正真正銘の真水だった。
海水のような塩分も日本の水道水のような塩素の匂いもない無味無臭の水であった。あれほどクリアな水が城内では飲めたのだ。きっと地獄前域のどこかに地下水脈か何かがあって、パイプラインで輸送しているのだろう。
仮にそれが事実ならば、アケローン川への中途で、かすかでも岩壁の脇や溝をちょろちょろと液体が流れる音が聞こえてきてもいいはずである。
ところが足元にはさざれ石のような道が延々と続き、両側はひたすら岩肌であり、井戸水も硬水もアルプスの名水も見当たらない。
一方で不思議と俺の口蓋は渇いておらず、地面や空気や壁たちは湿っていて粘土のように冷たかった。
もしかしたら、知らず知らずのうちに大気の水分を皮膚呼吸しながら血液中に取り込んでくれているのかもしれないと思うほど、ひんやりした世界だった。
退屈しながら歩いているとリンから餞別に渡されたショートブーツの甲にペットボトルほどの大きさのふわふわしたものが当たった。小石かと思ったが、れっきとした小動物で小学生向けのA4版の図鑑に載っていたアズマモグラにどことなく似ていた。
地下を掘り進んでいたら、突如として地中が空洞へと変わり、旋回する間もなく間抜けにも地上へと落ち、偶然にも右足のブーツに接触したように思えた。
色は暗くてはっきりしないが、おそらくココアかチョコレートかエスプレッソに似た色味で、目はないに等しい三日月のような細さで、とりわけ爪が長いのが特徴であった。
しばらく様子を見ていると土が柔らかく掘れそうな場所を探り出し、爪を食い込ませては諦め、次の場所へと移動するという所作を幾度か繰り返していたが、いかんせん砂利なので思うように掘れない。
暗中模索する中、くるりと旋回し、少しでも易しい所を回る。終には精魂尽き果て、俺の左足のかかとに突進し、仰向けになった。
「仕方ない。面倒を見てやろうか」
と、俺はそっと両手で掴みとると小さな鞄へ丁寧に入れた。
名前は「モグリン」でいいか。
ちょうど話し相手が欲しかったのだ。ひとまずアケローン川まで連れていこう。
モグリンを拾ってから数時間、まだアケローン川は見えてこない。
道中にキッチンカーや弁当屋でもあればと思ったが、城を出てからというもの人にすら会っていない。一体、地獄前域はどんだけ広いのだろうか、それともアスカやリンでさえ知らない秘密の迂回路でもあるのだろうか。
・・・・・すでに仁徳天皇陵古墳、百基分は歩いたと思う。
道はうなぎの寝床のように狭く、サイドは岩壁のままで色合いも風合いも城の辺りとさほど変化は見られない。
少し開けたところはないものかと途方に暮れていたら、六畳用エアコンの室外機ほどの大きさをした座りやすそうな巌を見つけたので休息を取ることにした。
「ふう、カスミにでも連絡するか」
俺は鞄から音声昆虫を手に取り、通信モードをオンにした。予想に反して応答したのはリンだった。
「着いたんですか?」
機械越しのかすれた無線が洞内に響く。
「まだアケローン川にさえ辿り着いてない」
「おそらくそうだと思いました。すごく広いですから、前域は。そうですね、ざっと三日はかかるでしょう」
「うおっ! そんなにか?」
「ええ、頑張ってください。それともう例の事件のこと、アスカは怒っていないそうです」
「そうか。ありがとう」
暇つぶしに通信したのだが、思いもかけない距離情報に肩を落としたのは言うまでもない。
すると鞄の中でモグリンが、がさがさ動き出したので外へ出してやった。小さな腕をくるくるさせながら宙をかいている。
かわいい。
周囲をぐるりとして運動を終えると岩を登り、再び手元に戻ってきた。
モグリンを捕まえてから三日ほど歩いた。
まだ着かない。
一体、地獄前域は琵琶湖、何周分だろうかと空想していると急にちょろちょろと湧水とおぼしき響きが、わずかに鼓膜へと届いた。
俺は片手でモグリンを持ったまま小走りした。
しばらく行くと、ざんざんというダムの緊急放水のような音へと変わり、俺の心は自然と狂喜乱舞した。
ついにアケローン川かと喜び勇んで疾走するが、依然として河口は見えてこない。
俺は薄暗い闇を地中のペットとともに走り続けた。まだかまだかと山頂を目指す山ガールのごとく。
期待が膨らむにつれ、疲労は大気圏の外れまで飛んでいき、歩くスピードは重賞レースで最終コーナーを曲がり、騎手に鞭を入れられたサラブレッドのように加速していく。
少しずつ道幅が広くなってきて到着の予感が沸々と湧き上がってきた。俺は水流の勢いが弱まるのを耳目で感じると歩を緩めた・・・・・。
アケローン川は太古の夜空のように広かった。
了