第四十話 実験
一日の授業を終え、迎えた放課後。部活の時間だ。
いやぁ、今日はなんかいつもよりも他の人たちから距離置かれていたような気がするんだけど、なんで?
元々噂のせいで近寄りがたい印象になっているのは知っているけど、それを差し引いても今日は皆から視線を感じた。
途中まで登校して友人に連れて行かれた加賀も、教室で会うと苦い顔をしていた。……オレ、何かやらかしただろうか? 一日中考えても答えが出ることなく時間だけが虚しく過ぎて行った。
放課後を迎えた教室は一気に喧騒に飲まれる。既に部活に入部している者はすぐに教室から飛び出し、まだ居残って話をする者もいた。
さて、オレも行きますか。
近くにある鞄を持って席を立つ。気が向いたまま来ていいと言われているけど、流石に入部して全く顔を出さないなんてことはしない。せっかく入部したのだから、ちょっとは楽しないと。
「あ、は、灰原君」
「……ん? 何だ加賀」
部活へ向かおうと席を立つと同時、これまで沈黙した状態だった加賀がオレを呼んだ。
「……どうかしたか?」
「う、うん、えっとね……」
しどろもどろで何か言いかける加賀。しかし、その後の言葉が続かない。
言いにくいことなのか? 視線がオレの顔を捉えたり外したりと彷徨わせていた。
こういう時、相手が何を伝えたいのか分かるくらい察しが良ければと思う。残念ながらオレにはそれがない。
……あいつなら。
不意に、脳裏に浮かぶ知っている顔。
笑いかけてくる顔が眩しく輝る。
「……っ」
頭に浮かぶ表情を振り払うように首を振る。
くそ、あいつの顔が出てきた瞬間収まり出していたぐつぐつした感情が再発する。
やっと落ち着いてきたって思っていたのに。
「ど、どうしたの?」
心配した声が前方から響く。
オレの顔を覗き込むように加賀の眼が下にあった。
「っ……いや、なんでもない。えと、それじゃオレ部活行くから」
「え、あ……うん、じゃあね」
結局、彼女の用事を聞くことなくオレは急いで教室を出る。これ以上加賀の前にいるとイラついた顔を見せてしまいそうだった。
「……」
背後から突き刺さる視線が、悲し気に揺れていたのに気づくことはなかった。
☆☆
ようやく慣れてきた部室への道。人通りが少なく、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。
辿り着いた理科室の扉を開ける。
「……こんにちは」
「あ、灰原君。こんにちは!」
「ご機嫌よう灰原君」
「うぃす」
理科室にいたのは吉川先輩、早乙女先輩、草部先輩の三名だった。三城田先輩は不在のようだ。
「……あの、三城田先輩は?」
「俊介は家の用事で今日は休みだよ」
「……用事?」
「羽衣ちゃん、妹を幼稚園から迎えに行かないといけないんだ」
オレの疑問に吉川先輩が答えた。
あの人、妹いたんだ。言われて見れば確かに兄という言葉似合う人である。吉川先輩の行動を窘めているからからな。
そんな吉川先輩であるが、何やら白衣を羽織ってフラスコに火を当てていた。なんかの実験中か?
「……あの、何やっていたんですか?」
「あ、今紅茶淹れようとしていたんだ。灰原君も飲む?」
「……ここ一応教室ですけど」
「気にしない気にしない。どうせ、誰もここには近寄らないんだし」
さも当然とばかりに言う吉川先輩。その明るさがむしろ心配で、早乙女先輩と草部先輩を見る。
「実は知り合いから珍しい茶葉を頂きまして、お菓子もありますよ?」
「吉川の言う通り、好き好んでウチに近寄る物好きは灰原以外いない」
と、こちらも意に介していないようだった。最早その態度には慣れを感じさせていた。多分、よくあることなのだろう。
鞄を机に置き、席に座る。すると、ちょうどよいタイミングだったようで吉川先輩が紅茶をビーカーに入れていた。ビーカーで紅茶とはまた斬新な。
対して、早乙女先輩は鞄から可愛らしくラッピングされた袋を取り出して机の中央に広げた。
「さぁ、遠慮なく召し上がってくださいね。吉川さん、三城田さんに渡しておいてもらえますか?」
「うん、いいよ。きっと俊介喜ぶよ」
「いただき」
しっかりと三城田先輩の分のお菓子を用意して、吉川先輩に渡す早乙女先輩。そんな二人を他所に草部先輩は既にお菓子へと手を伸ばしていた。
「灰原君もどうぞ食べてください」
「……いただきます」
優しく勧められ、オレは袋から姿を現したクッキーを一つ掴み、口へ運ぶ。
甘いものが苦手なオレでも食べられるほど控えめな味。口の中にほんのりと香りが広がって行く。
「……うまい」
「ふふ、ありがとうございます」
「いやぁ、流石いよちん。女子力高いね、こんな美味しいお菓子作れるんだから」
「……え、これ手作り」
「はい、時間がある時だけしか作りませんが趣味の一つです」
謙遜しながら控えめに笑う早乙女先輩。褒められて嬉しそうだが、それを大っぴらに出さないといった顔だった。
「……いよ、今度はガトーショコラが食べたい」
「はい、機会がありましたら」
相当気に入ったのか、草部先輩が寝ぼけまなこでしっかりとした口調で注文していた。それに笑顔で頷く早乙女先輩も凄いと思う。
そうして、ゆっくりとお菓子とお茶を楽しんで暫く経った時。
「さてさて、そろそろやりますか」
それまでお喋りに興じていた吉川先輩がおもむろに立ち上がり教卓の前へと向かった。
「……一体何を?」
「ふふぅ~ん、気になる? 気になるよね?」
オレの問かけに待ってましたとばかりに吉川先輩が微笑む。バサッ、とポールにかかっていた白衣を羽織る。なんか仕草が大袈裟だけど気に入ってるんだろうか。
「……まぁ」
「そうでしょそうでしょ! それではこれから依織ちゃんの実験ショーをはじめまーす!」
ドンドンパフパフ、と自分で音頭を取って盛り上がる吉川先輩。早乙女先輩は微笑ましそうに眺め、草部先輩は既に眠っている。
そんな二人の態度を気にする様子もなく、吉川先輩はノリノリで準備し始めた。こういうやり取りに慣れているようである。
「んじゃ、今日は灰原君がいるから面白いものにしてみようか」
「……面白いもの?」
キョトン、とするオレに吉川先輩は何度も頷く。
「さて、まずはこちらにご注目」
そう言って、吉川先輩が示したのは机の上に置かれたクーラーボックス。一見なんの変哲もないものである。吉川先輩はクーラーボックスを開け、中から何かを取り出した。
「これは昼間に職員室の冷蔵庫に場所を借りて冷やして貰ったペットボトルです」
取り出されたのは数本のペットボトル。ラベルは外され、中身は透明な液体が詰め込まれている。ていうか、普通に水だ。
「そしてこちらは同じように冷やしたお皿です」
こちらもどこにでもある普通の皿だ。特別な感じは全くしない。
吉川先輩が何をしようとしているのかまるで予想がつかない。ただたんに水を飲むという訳ではないだろうが……。
「……あの、先輩何するんですか?」
「まぁまぁ、もう少し待ちたまえ灰原君」
「……はぁ」
掌を見せて勿体ぶる吉川先輩。視線を早乙女先輩に向けるが彼女もよく分からないのか首を傾げていた。草部先輩は起きる気配はない。
「それじゃ、ペットボトルの蓋を開けます」
宣言し吉川先輩はペットボトルの蓋を開けた。随分と冷やしたようで、ちょっと触らせて貰ったが冷たかった。
蓋を外した吉川先輩に次は何をするのだろうと眺めていたオレだったが次の瞬間、吉川先輩はゆっくりと説明した。
「では、今からこの中の水をお皿に注ぎます」
「……え、それだけ?」
もっと器具とか準備して火でも起こすものだと思っていたのだが。ぶっちゃけ、拍子抜けである。
だが、オレの言葉に吉川先輩は「チッチッチッ」と指を左右に揺らした。
「そういう言葉は最後まで見てから言いたまえ灰原君」
と、自信満々に胸を張ると先輩はペットボトルの注ぎ口をゆっくりと傾けた。
傾けた口から水が徐々に外へと流れていく。普通なら、水が容器に溜まるはずなのだが。
「……え」
驚いて声が漏れてしまった。何故なら、注いだ水が一瞬にして氷となったのだ。水を注げば注ぐほど皿の上に小さな氷山が出来上がっていく。
「おお! 一発で成功とは、運がいいね!」
「あら、不思議ですね。水が一瞬で固まってしまいましたね」
「……なんで?」
吉川先輩が用意したのは普通の水だ。カチコチに凍らせた訳ではない。
オレと早乙女先輩がじぃと皿に聳え立つ小さな氷山を眺めている頭上で、吉川先輩が説明してくれた。
「これは『過冷却』という現象で、最初に説明したようにこの水はずっと冷やされていた。では、灰原君に質問です。水は何℃で氷になるでしょうか?」
え、急にクイズ? えぇと、えぇと確か……。
「……0℃?」
「正解! 100点をあげよう」
良かった、あってた。でも一問正解で100点とはこのテスト優しいぞ。
質問に答えられたことに安堵している中、先輩の話は続く。
「灰原君が言ったように水は0℃になると氷になる。でもこの水、実は-5℃くらいまで冷えていたんだ。しかし、この水は氷ることなく液体の状態を保っている。そんな水に衝撃を与えるとたちまち氷になってしまう。これが大雑把だけど『過冷却』という現象なの」
「何故、冷やされた水は凍らなかったのですか?」
「お、いよちんいい質問だね。えぇと、書いた方が分かりやすいかな」
早乙女先輩からの質問に吉川先輩は理科室と併設されている準備室に行くとホワイトボードを引っ張ってきた。黒板だとチョークの消耗が激しいと怒られたらしい。
ホワイトボードを運んだ先輩は青いペンで丸を描き、円の中に『水』と書いた。
「これは水の分子を表したものね。あ、分子って分かる灰原君?」
「……言葉はなんとなく聞いたことありますが」
「まぁそうだよね。詳しい説明はまた今度するとして、ざっくり言うと分子というのは粒の集まったもの。で、通常水の分子は液体の状態では自由に動き回っているの。でも、それが徐々に固まると結晶化してしまう。これが氷になる原理」
説明しながら絵に矢印を描いて氷になるまでを描いていく先輩。
オレに合わせて分かりやすく説明してくれるのでなんなく理解出来た。
「それで、水が氷になるまでには氷の種となる微少な氷の結晶、氷核が必要なのね。そのためにはわずかなエネルギーが必要なの。ところがゆっくり均一に冷やされると、このエネルギーが得られなくなり、条件によっては-10℃以下でも凍らない場合がある。物質が液体から固体に変わる温度以下の温度でも液体のままでいる状態を過冷却といい、この過冷却の水に衝撃を与えたり氷のかけらを入れたりすると、一瞬にして氷に変わるのだよ!」
ドドン、と効果音を机で鳴らし両腕を大きく広げる。説明するにつれて熱が入ったようで頬が僅かに紅潮していた。
その眼が、キラキラと輝く瞳があいつを彷彿とさせて。
オレは__
「……あれ、つまらなかった?」
無意識の外からの声に我に返った。バッ、と視線を上げればさっきまで輝いていた瞳が不安そうに揺れていた。
自分の失態に気づいて慌てて否定する。
「ち……違います! すみません、ちょっと考え事してまして……それに、実験は面白かったです」
「そっか、あぁ、よかった。引かれちゃったんだと焦ったよ~」
「……すみません」
「いいよいいよ」
謝るオレに吉川先輩はニコニコ笑いながら手を振った。
……やってしまった。先輩がせっかくオレを楽しめるようにしてくれたのに水を差してしまった。
申し訳なさに数秒前の自分を殴ってやりたくなった。
「……灰原、なんかあった?」
それまで寝ていた草部先輩から唐突に声を発した。いつの間にか起きていたみたいだ。
おぼろげな眼がオレを捉える。奥深くから覗き込むような大きな瞳に思わず吸い込まれそうになる。
「……いえ、なんでもありません」
「……ふぅん、あっそ」
嘘をついてしまった。だが草部先輩はそれ以上追求してくることはなかった。元々そこまで興味もなかったようである。
吉川先輩も、早乙女先輩も、特に何も言ってはこなかった。
結局、その後も吉川先輩の実験は続いたがオレの頭の中に先輩の楽し気な音だけが響くだけであった。




