四
ある日、一人の農夫が死んだ。
世界にとっては、ありふれた出来事だが、彼の三男坊であるジョンにとっては、死活問題だった。
なにせ、遺産のほとんどを長男と次男に持っていかれ、ジョンに残されたのは、わずかな金子と、なまくらの剣が一振り。これが、長靴を欲しがる珍妙な猫なら、もうちょっとましな未来もあったかも知れないが、生憎と彼の父親は猫が嫌いだった。
そんなわけで、ジョンは冒険者になった。
なぜ冒険者かというと、これまで、農家のせがれとして生きてきたジョンは、無頼の生活に少なからず憧れていたし、加えて冒険者となるのに、特別な資格が必要ないことも、この職業を選んだ理由の一つだった。
ただ、問題もあった。資格が不要となれば、指針もないと言うことだ。ひとまず生家から、丸一日ほど離れた場所にある、小さな町までやっては来たものの、この稼業を始める取っ掛かりすら掴めない。
まあ、それでも方法はある。わからなければ、バカのふりをして聞けばよいのだ。とりあえずの寝床と決めた、宿の女将に声を掛ける。
しかし、
「あのね、ジョンさん」女将のパチャンカは、ジョンが注文した料理をテーブルに置いてから、心底心配そうに言う。「悪いことは言わないから、もっとマシな仕事をあたりなよ」
見た目は十二、三の小娘のように見えるが、彼女は長命で知られる長耳の人種で、実際はジョンよりずっと年上だ。敬意をもって応じなければならない。
「ありがとう、女将さん。けど、俺が他に出来ることと言ったら野良仕事くらいだし、小作人としての暮らしが、どれだけひどいもんかも、よく知ってますからね。なんとか、この道で食っていけるように、手を貸しちゃもらえませんか」
パチャンカは、「ちょっと待て」と身振りで示してから、他のテーブルへ注文を取りに言った。
大抵の宿屋がそうであるように、ここも一階は居酒屋になっている。あまり流行ってはいなさそうだが、それでも二つ三つのテーブルは埋まっていた。
女将を待つ間に、ジョンは酸っぱい黒パンと、脂身が二切ほど入った塩のスープをやっつけに掛かる。この店で一番安い料理だが、腹はふくれるし、そう不味いものでもなかった。
「剣は使えるのかい?」
戻ってくるなり、パチャンカは聞いた。
「親父が、元傭兵でした。俺たち兄弟も、いずれ戦場へ行くことになるだろうからって、それなりに仕込まれてます。まあ、その前に戦争が終わっちまったけど、畑を荒らしに来る魔物を追っ払うのには役に立ちました」
と言っても、大きさはせいぜいウサギくらいで、見た目もくちばしが生えたネズミと言った様子の、たいして手強い相手ではなかった。ただ、背中の皮が厚く、やっつけるのには手間がかかった。
「読み書きは?」
「自分の名前くらいなら」
ジョンの母親は、写本の内職をしていたが、文盲だった。父親は簡単な読み書きなら出来たようだが、子供の教育に時間を割くよりは、仕事を優先する類の人間だった。
ジョンが、自分の名前の綴りを知ったのは、三年ほど前のことだ。近くの森に湧いた魔物を退治するために、父親が雇い入れた冒険者から、それを教わった。見かけは人食い鬼のように恐ろしげだったが、笑顔に愛嬌があり、細やかな気配りのできる男だった。ジョンが冒険者と言う職業に就こうと心に決めたのは、多分に彼の存在があった。
「冒険者をやるつもりなら、依頼書くらい自分で読めるようにしとかないと、たちの悪い斡旋所にあたったら、上前をはねられることになるよ」
「そうなんですか。こりゃあ、勉強しないといけないなあ」
「代書屋に通うといいよ。ああ言う店は、本業のほかに、手間賃を取って読み書きを教えたりしてるもんなんだ」
「なるほど」
とは言え、まずは先立つものが必要だ。
「その、斡旋所ってやつは、どこにあるんですか?」
ジョンがたずねると、パチャンカは自分の胸を親指でさし、にっと笑った。
「まあ、たいして儲かる依頼は入ってこないけど、一応、うちも斡旋所をやっててね。やる気があるなら、使ってやってもいいよ」
「恩に着ます、女将さん」
ジョンは殊勝に頭を下げた。
「そのかわり、宿賃と食事代は、仕事料から差っ引かせてもらうからね」
「そりゃあもう」
つまり、この宿を根城にしろと言うことだ。むしろ願ったり叶ったりである。
「その様子じゃ、金勘定も苦手なんじゃないかい?」
「ええ、まったくその通りです」
「だったら、あんたの稼ぎはあたしが預かってやるよ。まあ、言うなれば銀行みたいなもんかね。必要な時に言ってくれれば、その都度、渡してやるから、不便はないだろ?」
「何から何まで、ありがとうございます」
ジョンは言ってから、首に提げた巾着袋を襟元から引っ張り出し、テーブルに置いた。
「それは?」
パチャンカは、戸惑った様子で、巾着袋とジョンを交互に見た。
「俺の、有り金全部です。こうやって持ち歩くのは、どうにも不安なんで、もし迷惑じゃなけりゃ、預かっちゃもらえませんか?」
「あんた、バカなのかい?」パチャンカはあきれた様子で言う。
「いやあ」ジョンは頭を掻いた。「自分のことを賢いなんて思ったことはないですから、たぶん、そうなんでしょうね」
「そう言うことじゃなくて」パチャンカは、小さく首を振ってから、ジョンの財布を取り上げた。「まあ、いいさ。ともかく、明日からしっかり稼いでおくれ」
「はい、頑張ります」
こんな具合に、ジョンは親切な女将のおかげで、冒険者としての生活を始めることができた。とは言え、回って来る仕事のほとんどが、納屋の修理だとか、野良仕事の手伝いと言った農家の雑用ばかりで、およそ冒険者らしくない。それでも、無事に仕事を終えるとパチャンカが労ってくれたし、稼ぎがよければ機嫌よくビールなどをおごってくれるので、ジョンに不満はなかった。
冒険者稼業が軌道に乗って来ると、パチャンカは読み書きの勉強を始めるよう、ジョンに言い渡した。代書屋への手配と支払いは、彼女が全部やってくれたので、ジョンはアルファベットとの格闘に、集中することができた。さらにパチャンカは、手が空いた時に勘定の仕方も仕込んでくれたから、ジョンが受けられる依頼の幅はぐんと広がり、斡旋所の儲けがずいぶん増えたと、パチャンカを大いに喜ばせた。
もちろん、失敗もあった。
ジョンが、貯金にまったく手を付けないので、パチャンカが少しくらい買い物をしたらどうかと提案してきたことがある。ジョンが貯金の額を聞くと、パチャンカはぎょっとするような数字を答えた。高々半年ほどで、彼は遺産として受け取った金と、ほとんど倍の額を稼いだ計算になる。
その金で、剣や武具を揃えれば、魔物退治や商隊の護衛と言った、それこそ冒険者らしい依頼も、こなせるようになるかも知れない。ジョンが自分の考えを告げると、パチャンカは良案だとほめ、ジョンに金を持たせ、彼を市場へ送り出した。
ところが、宿へ戻ったジョンが手にしていたのは、剣でも盾でも鎧でもなく、新品のフライパンだった。たまたま金物屋の前を通りかかったとき、パチャンカの使う調理道具が、いささか古びていたことを、ふと思い出してしまったのだ。日頃、世話を焼いてくれている彼女に、なにがしかの贈り物をしようと思い立ったジョンは、自分の買い物などそっちのけで、フライパンを買ってしまった、と言う顛末。
パチャンカは、ひどく怒った。よほど腹に据えかねたのか、「大バカ者」と、泣きながらジョンを罵るほどだ。それでも次の日には、すっかり機嫌が直っていたし、プレゼントしたフライパンも、よく使ってくれたので、ジョンは困惑するばかりだった。
そうして、一年が過ぎた。
ジョンは、多少の荒事もこなせるようになり、パチャンカも、魔物退治の依頼などを回してくれるようになった。なんでも国からのお達しで、魔物に関する情報を報告すると、いくばくかの金をもらえるようになったらしい。
そんなわけで、ジョンは町からさほど遠くない農場を訪れる。依頼人である農場主の話によれば、くちばしの生えたネズミのような魔物に、畑を荒らされて困っているのだと言う。
ジョンにとっては、馴染みのある魔物だった。連中は普段、山の中に住んでいて、ある時期になると、子供を産むために里へ下りてくる。畑を荒らすのは、出産のための巣穴を掘るためだ。わざわざ畑を狙う理由はよくわからないが、農家には迷惑極まりない生き物である。
ジョンは、畑に住み着いた魔物を一通り駆除すると、山へ入った。そこにはまだ、これから子を産もうとする魔物が、多くいるに違いないからだ。農場主からの依頼は畑だけだったが、少しでも数を減らしておけば、先の被害も少なくて済む。
案の定、山中には、くちばしネズミがはびこっていた。剣を振るい、一匹ずつ着実に殺す。殺生をしていると言う感覚はなく、硬くなった土を、鍬で耕しているときと同じ気分だ。面倒で、とにかく腕が疲れる。
ひたすら魔物を追い掛けるうちに、ジョンは沢へ出ていた。斜面を滑り降り、岸に立つ。川幅はさほどでもないが、流れは速く、なかなかに深そうだった。対岸へ渡るのは、いささか骨が折れるだろう。
上流の両岸は切り立った崖になっていて、それに挟まれた最奥には、二〇フィートほどの落差がある滝と、大きな滝つぼがあった。
ジョンは滝つぼに歩み寄る。川の水は清らかで、彼は汗まみれだったから、軽く水浴びをしようと思い立ったのだ。しかし、それが良案でないことは、すぐに知れた。
揺れる水面の下に、恐ろしく巨大な生き物の姿が見えた。それは、荷馬車ほどもある亀の魔物だった。突起のある甲羅と、太い首を持ち、鋸のようなぎざぎざのくちばしを大きく開け、どす黒い口内を水中に晒している。
魔物と目が合ったような気がした。ジョンは、そっと後退りを始めた。「助けてくれ」と叫びながら走り出したい気分だったが、こんな山の中では助っ人など期待できないので、口はしっかりとつぐむ。
じゅうぶん距離をとったところで、ジョンは滝つぼに背を向け、先ほど滑り降りた斜面を目指す。が、ほどなく背後から激しい水音がして、「シャー」とも「ハー」ともとれる咆哮が響く。肩越しに振り向けば、大口を開けた亀の魔物が滝つぼから這い上がり、ジョン目掛けて突進してくるところだった。
亀のくせに、恐ろしく足が速い。悠長に斜面を這い登っている暇はなさそうだった。ジョンは沢伝いに走り出した。川岸は、流れに近い場所は礫だらけだが、少し外れると固くしまった砂利だったので、全力で駆けるのに不都合はない。しかし、しばらく進むと、川は前方でぷつりと途切れた。縁に立ち、下を覗き込むと、案の定、そこは滝だった。落差は三〇フィートほどだろうか。亀の魔物が潜んでいた滝よりも、ずっと高い。
礫を蹴立てる重たい足音が、どんどん近づいて来る。魔物が吐き出す、生臭い息も漂ってきた。もはや、躊躇している暇はなかった。ジョンは腹を決め、宙に身を躍らせた。落下までの長い一瞬の中で、ふとパチャンカの顔が頭を過る。「今日もがんばったね」と、ジョンをねぎらう彼女の笑顔は本当に愛らしくて、叶うなら、もう一度――
*
ヒロが見込んだ通り、エウラは魔王の探索と言う難業について、大いに役立つことを証明して見せた。何せ、帝国が躍起になって探しても、ようとして知れない魔王の眷属たる魔獣の居所を、ヒロたちの説明を少しばかり聞いただけで、たちどころに突き止めてしまったのだ。
しかし、ザヒは未だに、彼の手腕を認めていない。どうやら、エウラに示された場所が、彼の目には、ひどく曖昧に映ったらしい。
まあ、地図の上では、端から端まで五マイルほどの範囲だから、確かに少しばかり広いと感じるのは仕方のないことだ。それでも、大陸全土をあてどなく探して回るよりは、ずいぶんましである。あとは近隣の町の斡旋所をめぐり、それらしい目撃情報がないか、聞いて回るだけでよい。
「確か、亀の魔物だったな?」
ヒロがたずねると、ザヒは一つ頷くが、その目はなんとも疑わしげだった。
「本当に、この町で情報は得られるのか?」
この、金髪の宮廷付き魔法使いは、何にでも疑義を挟むきらいがあるようだ。
「調べてみるまでわからないものを、有るとも無いとも言えるわけがない」ヒロは肩をすくめて答える。
ザヒは束の間考え、頷く「然り」
皮肉のつもりで吐いた言葉を、あっさりと認められ、なんとなく肩透かしを食らった気分になる。
ヒロは気を取り直して言う。「これから向かう斡旋所の主人は、長耳の女だ。見た目は若いが、俺の倍くらい齢を食っている。失礼な態度は慎むようにしてくれ」
「はーい」
鮮やかな赤毛の少年が、元気に挙手をする。エウラの助手のレミだ。
「大丈夫」と、エウラ。
柔らかく微笑む黒髪の学者は、ザヒやサクラコと同年代の青年に見えるが、おそらくは三十路のヒロよりも年かさだった。
「私とレミなら、ちゃんと心得ているよ」
もちろん、そうだろう。かつてエウラの調査に同行し、大陸のあちこちを巡り歩いた時、長耳の連中とは何度か出会っている。そうとなれば、ヒロの警告は、もっぱらザヒとサクラコに向けたものだ。
「実際に会ったことはないが、知識としてはある。忠告に従おう」と、ザヒ。
「僕はよくわかんないけど、気をつける」サクラコは言うが、すぐに首を傾げる。「でも、長耳族って、どんな人たちなの?」
ヒロは、長耳の特徴について簡単に説明した。
「あ、エルフか」サクラコは得心して、籠手のはまった手の平を拳で叩く。
この、暗い赤毛の青年は、見た目こそ美貌の男子ではあるが、宿る魂は異世界から呼び出された、うら若き乙女だと言う。そのせいか、時々、よくわからないことを口走る。
「なんだ、その……エルフってやつは?」
ヒロが聞き返すと、サクラコはとつとつと説明を始める。それによれば、エルフは深い森に住まう半神で、魔法に長け、長命で常に若々しく、美しい容姿をしていると言う。
なるほど、長耳の連中と似てなくはないが、彼らは森ではなく町に住み、神でもなくれっきとした人間である。ただ、数が少なく、帝都住まいの人間には、いささか縁遠い存在だから、しばしば子供のような見た目を軽く見た連中が、トラブルを引き起こすことが多かった。
「ともかくパチャンカは、俺たちよりもずっと年上だし、長く生きているだけに、この辺りでは顔が利くんだ。機嫌を損ねると、情報を集めるのに手間取ることになるぞ」
「わかった」サクラコは神妙に頷いた。
ヒロは一行を、町の中心を東西に走る街道から、少しばかり外れた場所に建つ、古びた宿へ案内した。場所が場所だけに、あまり流行っているようには見えない。街道をゆく旅人が、宿を探してここまでやってくることは、ほとんどないからだ。
もちろん、多くの客を引き込める立地の良い場所は地代が高く、当然のことながら宿賃も跳ね上がる。裏を返せば、懐が寂しいものにとって、ここは手頃な値段で寝床と食事にありつける、ありがたい宿でもだった。
「俺が駆け出しだった頃に、ずいぶん世話になった宿なんだ」
ヒロは、誰にともなく言って、入り口の扉を開けた。カウンターに座る、小さな背中が見えた。女は振り返り、腫らした目をヒロに向けた。
「ヒロ?」と、パチャンカは言って、弱々しく微笑んだ。「ああ、久しぶりだね。元気にしてたかい」
「はい、女将さん。ご無沙汰しています」ヒロは丁寧に応じ、首をひねった。「何か、あったんですか?」
途端にパチャンカは、ぼろぼろと涙をこぼした。
「馬鹿なことを、しちまったんだ」パチャンカは両手で顔を覆い、さめざめと泣く。
ヒロは彼女が言葉を継ぐまで、辛抱強く待った。
「国から、あちこちの斡旋所に、お達しがあったのは知ってるかい。魔物の、居所を報告すると、いくらか金がもらえるって?」
少しばかり落ち着いたパチャンカは、ぽつぽつと話した。
ヒロは頷く。それを皇帝に提案したのは、自分なのだ。
「私も、それに乗っかって、ちょっと魔物退治の依頼を、多めに引き受けるようにしたんだ。けどね、そのせいでジョンが、うちの冒険者が、魔物に――」
パチャンカは言葉を詰まらせ、再び泣き出した。
ヒロは、パチャンカの小さな身体を抱いて、背中を優しく叩いた。冒険者稼業が、常に命の危険と隣り合わせなのは、わかり切っていることだ。それでも、この長耳の女は、「仕方がない」と切って捨てるのではなく、こうやってジョンとやらの死を嘆いている。
「あれ、お客さんですか?」
扉が開いて、宿の入口の前に、杖を突く青年が顔を覗かせる。青年は、ヒロにすがって泣くパチャンカに、よたよたと歩み寄った。
「女将さん。ほうら、ちゃんと仕事をしなきゃ。お客さんが帰っちまいますよ」
青年は、子供にでも言い聞かせるように、パチャンカに語り掛けた。しかし、宿の女将は、ヒロの腹に顔をうずめたまま、いやいやと首を振る。
「すみません」青年は肩をすくめ、苦笑いをヒロに向ける。「俺が怪我をしてから、ずっとこんな調子でして。それで、今日はお泊りですか。それとも――」
青年は言葉を切って、ぽかんと口を開けた。彼は、しばらくヒロの顔を見てから、ぱっと笑みを浮かべた。「ああ、ヒロさんじゃないですか!」
「知り合い?」
サクラコが聞いてくる。しかし、どうにも思い出せず、首を傾げていると、ジョンは続けた。
「ほら、俺ですよ。キーンの息子のジョンです。名前の書き方を教えてくれた?」
ヒロは、ようやく思い出す。四年ほど前、魔物退治の依頼を受けて訪れた農場で、出会った青年だ。父親と二人の兄は、迷信と慣習に凝り固まった、よくある田舎の農夫だったが、ジョンはいささか違った。好奇心旺盛で、ヒロを質問攻めにしたり、魔物が住まう山中を案内して、仕事を手伝ってくれたりもした。
「ここで働いてるのか?」
「ええ。家を追い出されたんで、せっかくならヒロさんみたいな冒険者になろうと思いましてね。女将さんのところで、働かせてもらってます」
「そうか。もう一端の冒険者って面構えだな?」
「え、そうですかね?」ジョンは、にへらと笑う。
「ああ、見違えたよ。それで――」ヒロは、ふと気付き、パチャンカに目を落とす。「女将さん。ひょっとして、さっき言ってたジョンって言うのは?」
「たぶん、俺のことですよ」代わりに、ジョンが答える。「なんか、自分が欲をかいたせいで、俺に大怪我させちまったって悔やんでるんです」
ヒロは、パチャンカに抗議をくれてやろうかと考え、思いとどまった。いささか紛らわしい態度と言動ではあったが、勘違いしたのは自分なのだ。
「怪我と言うのは、その足か?」ザヒが言った。
「はい、旦那。十日くらい前に、おっかない魔物に追われて滝に飛び込んだんですが、流される途中で骨をやっちまって」
「歩き回ったりして痛くないの?」サクラコがぎょっとしてたずねる。
「そりゃあ、ちょっとばかり痛みますけど、女将がちゃんと医者へ通えって言うんで。けど、医者はもう今まで通りに歩き回るのは無理だって言うし、わざわざ高い金を払って診てもらうのも、ちょっともったいないように思うんですよ」
ジョンは努めて明るく言うが、その診断は、冒険者を辞めろと言うことに同義だった。もちろん、手足を損ねても、冒険者を続ける者はいるが、大半は他の職を見つけて去っていく。
「ちょっと、診せてもらえる?」
「え? ああ、はい。構いませんよ」
サクラコはジョンを椅子に座らせると、青年の前にひざまずいて、傷めた足をしげしげと観察した。ジョンのつま先は、いささかあらぬ方を向いていた。サクラコは、何やらぶつぶつつぶやいてから、小さくため息を落とし、ザヒに目を向ける。
「骨が変な位置でくっ付いてるみたい」
「なるほど」ザヒは頷き、サクラコと並んで床に膝をついてから、患部に触れて呪文を唱える。
ジョンが、ぎゃっと叫んで足を押さえた。
「ジョン!」
パチャンカが叫び、ジョンに駆け寄った。そうして、顔面蒼白で脂汗を垂らす青年を心配そうに見てから、きっとザヒを睨み付ける。
「あんた、うちの子に何したんだい!」
ザヒは立ち上がり、小さく鼻を鳴らす。「治療だ」
「ええと、ね」サクラコが口を挟む。「骨が、おかしな方向にくっ付いてたから、ザヒが魔法で、ちゃんとした位置に直したんだ。痛かったよね。ちょっと待ってて」
サクラコは呪文を唱えた。
ジョンは、目を丸くした。「痛くない」
「でも、しばらく安静にした方がいいよ。ただし、リハビリは怠けないように」
「リハ……?」ジョンは戸惑った様子で聞き返す。
「えっと、機能回復訓練って言ったらわかるかな?」
戦場で、似たような怪我人を何度も見て来たヒロは、サクラコが言わんとすることを理解した。強い痛みにひるんで、身体を動かさずにいると、怪我が治っても、歩くことさえ困難になることがある。完治後、すぐに戦場へ復帰するためには、こわばった筋を伸ばし、筋力を維持する運動が必要なのだ。
ヒロが手順を説明すると、ジョンは目をぱちくりさせた。
「ええと、それじゃあ俺、また普通に歩けるようになるんですか?」
「サクラコが言った通り、訓練を怠けなきゃな」
ジョンは頷き、パチャンカに笑顔を向けた。「女将さん。俺、冒険者を辞めなくてもよさそうです」
「うん。うん、そうだね」パチャンカは、ぽろぽろと涙を流しながら言って、ジョンを抱きしめた。長耳の女は、しばらくそうやってからザヒに目を向けた。
「さっきは怒鳴ったりしてごめんよ、魔法使いさん。うちの子を助けてくれて、本当にありがとう」
「大したことではない」ザヒは肩をすくめ、ヒロに目を向けた。「話を進めろ」
ヒロは頷く。「女将さん。実は、聞きたいことがあって、ここへ来たんです」
「ああ、いいよ。何だって聞いておくれ」
ヒロが説明すると、パチャンカとジョンは互いに顔を見合わせた。
「山の中で、俺を食おうとした魔物ってのが、馬鹿でかい亀だったんですよ」と、ジョン。
「詳しく聞かせてもらえますか?」
エウラが身を乗り出して聞いた。すぐにレミが、荷物から紙の束と木炭の欠片を取り出して、エウラの横に控える。
ジョンは、亀の魔物と出会った日のことを話し始めた。いささか要領が悪く、話は行ったり戻ったりを繰り返したが、全てが終わると、レミが持った紙の上には、恐ろしげな魔物の姿が描かれていた。
「間違いありません。俺が見たのは、こいつです。いや、それにしてもそっくりじゃないですか。すごいですね、坊ちゃん」
「へえ、見事なもんだね」パチャンカも横から覗き込んで、感心したように言う。
レミは鼻の下を擦り、にっと笑って見せた。
「先生の睨んだとおりだったろ?」ヒロは、ザヒに笑い掛ける。
「そうだな」口では認めながら、ザヒは納得のいかない顔をしている。「しかし、我々の探す魔獣を、お前の知己が見つけるとは、いささか出来すぎのように思える」
「そうでもないよ」と、サクラコ。「ジョンさんが、ヒロさんの流儀を守って、山の中まで魔物を追い掛けてくれたから、亀の魔獣を見つけられたんだ。もし、ジョンさんがヒロさんに出会ってなかったら、きっと畑の魔物だけ、ちょいちょいとやっつけて終わりにしてただろうからね」
「確かに」ザヒはヒロに目を向ける。「この男も、まったく同じことをして、魔獣に食われかけていたのだったな」
「なあ。それだと、俺のせいでジョンが怪我したって話にならないか?」
ヒロは言って、口をへの字に曲げた。ひどい言いがりである。
「その通りだよ」
パチャンカは両手を腰に当て、ヒロを睨み付けた。が、長耳の女将はすぐに相好をくずし、続けた。
「だから、今夜はうちに泊まって、たっぷり食べて、どーんとお金を落として行っておくれ!」