二
扉に背を預け、座り込んで寝ていたヒロは、外の廊下を歩く足音に気付き目を覚ました。とっくに日の出を過ぎているようで、羊皮紙張りの窓からは光が差し込んでいる。エイダたちが夜中にこっそり押し掛けてきても、扉が開かないよう自分の身体をつっかえ棒代わりにしていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。
ヒロは立ち上がり、一つ伸びをしてベッドへ眼を向ける。そこでは鎧姿の青年が、少ししかめっ面をして寝息を立てていた。すると、昨夜の出来事は夢だったのかと寝起きのぼんやりした頭で考えていると、外の足音が止まり扉がノックされた。「ヒロさん、起きてるかい?」
ヒロが扉を開けると、髪の薄い年配の男が笑顔で立っていた。
「おはよう、長」
「ああ、おはよう。朝食の用意が出来たから呼びに来たんだが、アーシオンさんは?」
ヒロは肩越しに親指で指さした。「まだ、ぐっすりだ」
「昨日は、ちょいと飲みすぎだったようだからなあ」さもありなんと、アーロンは頷く。「まあ、彼を起こしたら食堂へ来てくれ」
「わかった、ありがとう」
ヒロが礼を言うと、アーロンは一つ頷いて部屋の前を立ち去った。扉を閉めたヒロはベッドへ向かい、アーシオンを揺り起こす。青年は、小さくうなってから目を開ける。「おはよう、ヒロさん」
「おはよう。朝飯が出来ているそうだ。食えるか?」
「うん、食べる」アーシオンはのろのろと起き上がり、ぎゅっと顔をしかめた。「背中、痛い」
「そりゃあ、鎧なんか着て寝ればそうなるさ」笑って言ってから、ヒロはベッドのかたわらに置かれたものに気付いた。やはり、昨夜の出来事は夢などではなかったようだ。彼は艶のある革靴と、短いタイツを手に取りアーシオンに見せた。
「それ、僕の。どうして?」アーシオンはぎょっとした様子で言った。
「昨日、お前が酔っ払って寝たあとで、本物のアーシオンに会った。まあ、身体の方は、お前のものだったが?」
「そっか」アーシオン改めサクラコは腕を組み、うーんと小さくうなってから口を開いた。「僕とアーシオンが入れ替わってることは秘密にしろって、皇帝のおじいちゃんから言われてたんだけど、アーシオンがばらしたんなら、もういいのかな?」
皇帝陛下を、ここまで気さくに呼ぶ人間は初めて見る。
「まあ、俺以外にはアーシオンで通した方がいいだろう。皇子のアーシオンよりも親父の方が偉いんだから、そっちの言うことを優先するのが筋だ」
「それもそうだね」サクラコは頷いた。
「とにかく、朝飯を食ったら出発だ」
「出発?」
「アーシオンは帝都へ行けと言っていた。お前たちの入れ替わりの呪いを何とかするのに、俺の手を借りたいらしい」
「僕たちを助けてくれるの?」サクラコは目を丸くしてたずねた。
ヒロは肩をすくめた。「殿下は、俺がそうすると信じて疑わなかったようだ」
「まあ、ヒロさんは世話焼きだからね」サクラコは、さもありなんと頷く。
「言っておくが」ヒロはサクラコの鼻先に指を突き付けた。「ただ働きをするつもりはないからな」
「もちろんだよ。ヒロさんがいっぱいふんだくれるように、僕からおじいちゃんに掛け合ってみる」
ヒロは頷き、ベッドに放り出してあったアーシオンの剣を手に取り言った。「聞いてたな、殿下。後になって文句を言うなよ?」
もちろん、剣は何も答えない。しかし、アーシオンが現れている間、サクラコが剣の中にいたと言うのなら、逆もまたしかりだ。そして昨夜の短い会見から察するに、アーシオンはサクラコが見聞きしたことを、どうやってか知ることができるようだった。つまり、このやり取りも、彼の耳に届いているはずだ。
食堂へ向かった二人は、村長夫婦と一緒に朝食を摂り、それを終えるといよいよ暇を告げた。外へ出ると、村長宅前には二人を見送ろうと、村人たちが総出で――二日酔いの者を除き――集まっており、その内の一人が連れていたロバの手綱をサクラコに押し付けた。鎧姿での旅は難儀だろうから、それに積んで行けと言う。すぐにエイダを筆頭とする若い娘たちがサクラコを取り囲み、彼の鎧を脱がせ、部品を手際よくずた袋に放り込んで、ロバの背中にくくり付けた。
鎧下姿になったサクラコは村娘たちに礼を言うと、赤い顔でヒロに駆け寄り、彼の耳元で囁いた。「なんでみんなして、お尻やあそこを触ってくるのかな?」
「きっと、手が滑ったんだろう」ヒロはとぼけた。
ともかく、二人は村を発った。一度の野宿をはさみ、街道に乗ってからは宿場を継いで、帝都までは一週間少々の道程だが、道中は平穏そのものだった。一度だけ野盗に襲われたことはあったものの、ヒロとサクラコにかかれば大したトラブルにもならない。しかし、行きずりで耳にした旅人たちの話では、どうやら各地で魔物の被害が増えているらしく、そう言った話を聞くたびに、サクラコが表情を曇らせるのを見て、ヒロは理由をたずねた。
「これも秘密なんだけど」街道を行き交う他の旅人を気にするような素振りで、サクラコはこそこそと言う。「魔王が目覚めようとしてるんだ」
「魔王?」ヒロも声を落とし、訝しげにたずねた。
「おじいちゃんは、すべての魔物の母って言ってたけど、長ったらしいから僕はそう呼んでる。僕とアーシオンは、彼女をやっつけなきゃいけないんだ」
「お前の呪いと何か関係があるのか?」
サクラコは頷いた。「たぶん、そいつがラスボスだから、やっつければ元に戻れると思う」
「なんだ、その……ラスボスと言うのは?」
「えーとね、最後の敵の親玉って意味。世の中の悪いことぜんぶの元凶で、やっつけると大体ハッピーエンドになる」
なんとも都合の良い存在で、いっそのこと哀れでさえあった。ともかくヒロは、それが意味することに気付いた。
「おい」
「なに?」
「つまり、そのラスボスとやらの退治を、俺に手伝えってことか?」
「そうなるね」サクラコはあっさり言った。
「手強いのか?」
「そりゃあラスボスだもん」サクラコは肩をすくめた。「でも、ヒロさんに魔王と戦えだなんて、アーシオンも言わないはずだよ。それは、僕と彼の仕事だから」
ヒロはしかめっ面を作った。「殿下と、じっくり話した方がよさそうだな」
「僕もそう思う」サクラコは頷く。「だけど、それは王宮へ着いてからにしてね。こんなところで、僕が女の子に変わったりしたら、きっと大騒ぎになるもの」
「なんだか、自由に入れ替われるような口振りだな?」
「僕が、そうしたいと思えばね」サクラコは肩をすくめた。
「殿下に決定権はないってことか?」
「今まで、彼が勝手に出てきたことはないよ」サクラコは言って、首を傾げた。「でも、昨日はどうして出て来れたんだろう?」
「お前が酔っ払ってたからじゃないか?」
「そうなのかな」サクラコは腕を組んで短く唸った。「また今度、実験してみるよ」
不意に、毛布から伸びる少女の白い脚を思い出し、ヒロは気まずさを覚えて小さく咳払いした。「お前さんも中身が若い娘なら、男の前で正体をなくすほど飲むのは止めた方がいいぞ」
「なんで?」サクラコはきょとんとして聞き返し、束の間をおいてその答えに気付いたのか、顔を真っ赤にした。「え、ええっ?」
「いや、俺は何もしていないからな」ヒロは慌てて言った。
「そ、そうだよね」サクラコは、ほっとため息をついた。「中身がアーシオンなのに、変なことできないよね」
「まあ、そうだな」ヒロはあいまいに応じた。昨晩は、その皇子の方から誘いを掛けてきたことは、黙っておいた方がよさそうだ。
村を発ってからきっかり一週間経った朝、二人は帝都へたどり着いた。皇子の帰還ではあるが、歓迎パレードの類はない。そもそも、鎧下姿でロバを引き連れて歩く青年が、皇子だなどとわかるはずもない。彼らは賑やかな町の通りを進み、長く曲がりくねった坂を上って王宮の前へやって来る。門前には槍を持った二人の立哨がいて、彼らはサクラコの――正確には皇子の顔を見るなり、すぐさま敬礼をくれた。ヒロも皇子の連れか、あるいは従者と見なされたようで、敬礼はなかったが誰何の声も掛からなかった。
門をくぐった二人は、石畳で美しく飾られた前庭を進み、いよいよ宮殿の前に立つ。そこにも立哨が二人いて、彼らは両開きの大きな扉を開けてから、門前の同僚と同じくサクラコに敬礼を送った。しかし、そのまま進もうとするサクラコを、一人が慌てた様子で止める。「殿下」
「なに?」サクラコは首を傾げる。
「荷獣はこちらで預かります」
「あー、そうだね。でも、ちょっと待って」サクラコは鎧が入った袋を降ろし、ロバの手綱を兵士に押し付けた。そして、ヒロに目を向ける。「ねえ、鎧を着けるの、手伝ってくれる?」
ヒロの手を借りて、サクラコは再び白銀の甲冑姿に戻った。そうして絢爛豪華なエントランスを抜け、通りすがる使用人や貴族たちのうやうやしいお辞儀を受けながら宮殿の中を進む。ところが、ふと気付くと辺りから人影は消え、むき出しの石壁に囲まれた通路を二人は歩いていた。ほどなく、飾り気のない扉を一枚抜けると、彼らは質素な樫の椅子に座る白いローブ姿の老人の前にあった。
髪も眉も髭も真っ白だが、背筋はぴんと張り、ゆったりしたローブの上からでも、その肉体にゆるんだ部分が一つもないことを見て取れた。椅子のひじ掛けに無造作に立てかけられた剣も、おそらく装飾や儀礼的なものではない。そしてヒロは、老人の頭に黄金の額帯が飾られているのを見て、慌てて膝を折った。
「帰ったよ、おじいちゃん!」サクラコは元気よく言った。
「お帰り、息子よ。だが、人前では父上か陛下と呼ぶ約束ではなかったか?」
存外に優しい声だった。ちらりと盗み見ると、帝国の主は目尻を下げ、にこにこと微笑んでいた。
「ごめん。でも、ヒロさんを連れて来たのはアーシオンだし、彼は僕たちの事情を知って、手助けを買って出てくれたんだ。だから、今さら内緒にしなくてもいいんじゃないかな」
束の間の沈黙があった。「ヒロと申すか」
「はい、陛下」ヒロは答えた。
「顔を上げよ」
言われて顔を上げたヒロは、浮かびそうになった苦笑を懸命に噛み殺した。皇帝は剣を握り、玉座の上から冷たい目でヒロを見下ろしている。つまり彼は、まんまとはめられたのだ。
ヒロは飛びずさり、腰に差した剣の柄に手を伸ばす。いまだ玉座に座したままの皇帝と束の間にらみ合い、そして彼は剣帯を外して床に放り出してから、両手を上げてさっさと降参した。
「ずいぶんと殊勝な態度ではないか?」老人はにやりと口元を歪めた。
「俺は冒険者です、陛下。冒険と自殺行為が違うことは、よく知っています」
ここで皇帝を斬り殺したとしても、無事に王宮から逃げおおせるはずもなく、そもそも武器を帯びたまま、皇帝の前に通された意味を考えれば、この老人を殺すこと自体が相当に困難であることは明らかだった。
「ねえ、ちょっと。どう言うこと?」サクラコが、不穏な空気に戸惑った様子でたずねる。
「お前の魂が何者であるかは、誰にも知られてはならぬと言ったはずだ」皇帝は言った。「しかし、この者はそれを知った」
サクラコは息を飲み、ヒロに駆け寄ると皇帝に向き直って両手を広げた。「僕とアーシオンが入れ替わっているって知られたのは、アーシオンがそれをばらしたからで、ヒロさんのせいじゃないんだ。だから――」
「サクラコ」ヒロは短く言って、弁解を止めさせた。「陛下は、誰が悪いと言っているわけじゃない。彼の秘密を秘密のままにするには、こうするしかないんだ」
「でも!」
皇帝が咳払いをした。「何も、命まで取ろうと言ってはおらぬ。ただ、当面は日の光を拝めぬだろうな」
「だとさ」振り向いた青年の頭に手を置いて、ヒロはにっと笑って見せた。「まあ、当面ってことなら、いずれ牢屋からも出してもらえるだろう」
サクラコは顔をくしゃくしゃにしてから、いきなりヒロに抱き付いた。華奢な体型なのに、見た目を裏切って締め付ける腕の力は強かった。ヒロは鎧の角が肉に食い込む痛みに耐えながら、サクラコの耳元で囁いた。「村のことは黙っていてくれ。あいつらは何も知らないが、たぶん陛下はそれを信じない」
サクラコは息を飲み、身体を放して小さく頷いた。
「話は付いたか?」皇帝は言うと玉座を立って出口へ向かい、自らその扉を開けて、ヒロに外へ出るよう促した。ヒロは素直に従い廊下へ出た。皇帝が後へ続き、束の間を置いて呼ばわった。「兵よ!」
すぐに近くの扉から、数人の兵士がばらばらと飛び出す。皇帝は兵たちを睥睨してから、顎をしゃくってヒロを示し、言った。「この男を牢へ連れて行け」
大抵の城がそうであるように、皇帝が住まう宮殿にも地下牢があった。宮殿は皇帝の権威を示すだけでなく、戦ともなれば軍事拠点としての機能を果たすし、その際に捕らえた捕虜などを留置するには、このような施設が不可欠だからだ。そして、捕虜とされるのは大抵が身代金を支払える貴族であり、やんごとない方々を収容するために、牢獄は彼らがそこそこ快適に過ごせるよう、気を配った造りになっていた。
罪人を閉じ込めるための牢獄であれば、腐った寝藁が敷かれているところを、ここではベッドとして使える大きな長持が置かれている。蓋を開ければ畳まれた毛布と、羊毛を詰めた敷布がしまわれていた。そして驚いたことに、ここには便所まであった。壁に石組みで設えられた座式の便器で、足元から便器の下まで傾斜が作られており、用を足した後はそこから水を流し、下水道へ繋がる穴から汚物を洗い去る仕組みだ。なるほど、これならば普通の牢で一般的に使われる屎尿桶と違って、始終放たれる悪臭や、それに引き寄せられて集まってくる害虫の類に悩まされることもない。もっとも、それは初めて見る設備だったから、ヒロは牢番を呼んで、使い方の説明を受けなければならなかった。
このように、ほぼ申し分ない環境ではあったが、鉄格子の向こうで焚かれる松明だけが唯一不満だった。牢には窓がないから照明が必要なのはわかるが、こんな狭い場所では煙がたまりやすく、どうにもいがらっぽくていただけない。何より、これほど明るくては、牢番の目を盗んで鉄格子に掛る錠前を外すこともできないではないか。あるいは、と便所から下水道へ脱出することも考え、念入りに便器も調べたが、あいにくと排水孔は人がくぐれる大きさではなかった。
夜になれば、この目障りな明かりも消してくれるだろうと期待して、ヒロは長持の上にごろりと寝転がった。今は朝で、朝食も終えていないが、出される食事に手を付けるつもりはない。皇帝陛下は命までは取らないと言ったが、ヒロはそれを真に受けるほど、間抜けではなかった。となれば、消耗は避けて機会を待つ方が賢明だろう。
しかし、しばらく経って扉の音が響き、牢番の声が聞こえて来た。誰かと話しているようだが、相手の声は聞こえない。面会だとすれば、来訪者の目的はヒロだろう。今は戦時下ではないから、彼の房以外は空っぽだったからだ。ほどなく二つの足音が近づいてきて、少女の声が言った。「不便はないか?」
「少しばかり、喉が渇いたな」
長持に寝転がったまま、肘枕で頭を上げて来訪者に目を向ける。鉄格子の向こうには、一振りの剣を携える少女と、黒いローブを着た金髪の青年が立っていた。青年の方は、おそらく男の方のアーシオンとさほど変わらない年頃だが、翡翠色の瞳とたたずまいは、そうと感じさせない老成した雰囲気を漂わせている。
「言い訳になるが、これは私の意図したことではない」少女のアーシオンは言った。
「そうだろうとも」
ふと、少女の足元に目をやると、彼女は裸足だった。ヒロは身を起こし、長持の蓋を開けて中から巾着袋を取り出した。ほとんどの私物は取り上げられたが、これだけは手元に置かせてくれと牢番に頼み込んで持ち込んだのだ。なぜ、こんなものをと訝られたが、自分をはめた皇子に対する、ささやかな仕返し以外に意図するところはない。
「さあ、殿下。これを返して欲しければ、俺をここから出すんだ」巾着袋を突き付け、ヒロは言った。
すると、アーシオンの隣に控えていた青年が、ぼそりと何かを呟いた。気が付けば巾着袋は消え、それは青年の手の中にあった。彼は袋の口を開け、中身を引っ張り出してヒロに怪訝な目を向けた。「こんなものを後生大事に持ち歩くとは、お前は女性の足の臭いに妙な執着でもあるのか?」
「余計なことをするな、ザヒ」アーシオンがたしなめた。「ここから一ペニーをかけた、私とヒロの交渉が始まるところだったのだぞ。魔法などで、それを台無しにしないでくれ」
「それは申し訳ない」ザヒと呼ばれた青年は肩をすくめ、革靴と短いタイツをヒロに差し出した。「返すから、交渉とやらを楽しむといい」
「いや」ヒロは受け取りを拒んだ。「ただのおふざけだったんだ。殿下の足が霜焼けになる前に、それを履かせてやってくれ」
「ありがとう、乳母殿」アーシオンはくすりと笑って言うと、ザヒから靴とタイツを受け取り、床に座り込んで下着が見えるのもお構いなしに、それを履き始めた。淡い色が複雑に染められた彼女の下着はまったく奇妙で、やたらと薄っぺらい上に股下が無く、そのために腿の付け根が丸見えになっていた。
「もう春も終わろうかと言うのに、どうして王宮は何もかも冷え切っているのだろう」靴を履き終えたアーシオンは立ち上がり、スカートの裾を整えながらつぶやいた。「ちょっと座っただけで、尻が冷えた」
「石とはそう言うものだよ、殿下」ザヒは訳知り顔で言った。「熱も冷気も長らくため込む性質がある」
石の性質以外にも原因があるのは明らかだったが、ヒロはその事実を指摘しなかった。
「なるほど」アーシオンは魔法使いにおざなりな相槌を打って見せてから、ヒロに目を向けた。「困ったことになった」
ヒロは長持に歩み寄り、その上にどかりと腰を降ろした。「そりゃあ、気の毒に」
「ずいぶん、気のない態度だな。世話焼きのあなたらしくもない」
「生憎と囚われの身じゃあ力にはなれない。お引き取り願おうか、殿下?」
「だが、このままでは世界が滅びる」
ヒロは眉を吊り上げた。突拍子もない話だが、彼には心当たりがあった。「魔王か?」
「すべての魔物の母だ」ザヒが訂正した。
「サクラコは魔王と呼んでいるんだ。本来の呼び名は長ったらしいからって理由だが、俺も同意だ」
ザヒは肩をすくめた。「では、そう呼ぶとしよう」
ヒロはアーシオンに目を向けた。「あんたとサクラコが、そいつを倒す任務を負っていることは聞いた。もちろん、あんたはそれを盗み聞きしていたんだろうから、わざわざ言うまでもないことだが」
「人聞きの悪い」
アーシオンはやんわりと抗議するが、ヒロはそれを無視した。
「サクラコは魔王を手強い相手だと言っていたが、世界を滅ぼすほどとは聞いてないぞ。具体的に、魔王が目覚めたら何が起こるんだ?」
ザヒは空中から一冊の本を取り出し、手の上でページを繰ってから口を開いた。「目覚めたすべての魔物の母は、無秩序に魔物を生み出し、彼女の子らは海嘯となって世界を覆いつくした――ここには、そう書いてある」
「なんだ、その本は?」
「およそ千年前の記録だ」
「そんなに古そうには見えないがね」
ザヒは小さく鼻を鳴らした。「元は石板に彫られていたのだ。持ち歩くにはいささか不便だったから、これに書き写した。ともかく、この記録によれば、魔王が目覚めたことにより当時の文明は滅び、人たちは洞窟に住まう原始の生活を強いらることになったらしい」
「魔王は大昔からいたってことか?」
「少なくとも、記録にはそうある。そして、これに記された多くの兆候に、現代の状況が符合しているから、魔王の目覚めが近いことは明らかだろう」
「そんな相手に、皇子様と女の子だけで立ち向かうのは、ちょいと無謀に思えるがね。軍隊じゃだめなのか?」
「もちろん、その備えもある」と、アーシオン。「ただし、大々的に軍を動かすとなれば、災厄が近付いていることを人たちに知られる恐れがある。そのために起こりうる混乱も、また避けるべき災害なのだ」
「魔王についての話が半分でも本当だとしたら、ちょっとした混乱の方が、まだましじゃないか?」
「災いに、どっちがましと言うものはないよ」アーシオンは肩をすくめた。「もちろん、私とサクラコがしくじれば、選り好みもしていられなくなるから、その時は兵馬の出番となるだろう」
ヒロの頭の中に、ふと疑念が生まれた。「まさか、陛下はそのために帝国を建てたんじゃないだろうな?」
アーシオンは、笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
ヒロは魔法使いの青年に目を向けた。「あんたらがサクラコと殿下を、軍隊に匹敵すると考えている理由はなんだ?」
「この記録には」ザヒは指の背で本のページを叩いた。「千年前に魔王が目覚めた時、まだ辛うじて国家の体裁を保っていた国の王が、異界の神の力にあやかって魔王を封じたとある。我々は、その儀式を再現しようと試み、そうして現れたのがサクラコだった」
「それじゃあ、サクラコは神様か何かってことか?」
「本人は普通のケンドー少女だと言って否定していたが、彼女を宿した剣は正しく機能しているから、それに近しい者だろう」
ケンドーとはなんぞやと言う疑問はひとまず置いて、ヒロは少女の姿をしたアーシオンを指差した。「俺には、これが正しいとはどうしても思えんがね」
「この儀式によって剣に宿った神は、剣の使い手の肉体を依代として神力を顕わすのだ。それはまさに、殿下の肉体にサクラコの魂が宿っている状態と等しくある。しかし、サクラコは霊的な存在である神とは異なり、自身の肉体を持っていた。過誤があるとすれば、その一点であり、おそらくそれが入れ替わりと言う現象の素因となっているのだろう。いずれにせよ、サクラコの魂を殿下の肉体に寄せている剣の魔法を解くことで、彼らの魂は本来の肉体に戻ることができる」
「その、魔法を解くにはどうすりゃいいんだ。サクラコは、魔王を倒せば万事解決すると考えていたが?」
「その通りだ」ザヒは頷いた。「神は人知を超えた存在だから、ただ降ろしただけでは気紛れに去られてしまう恐れがあり、常であれば我らにそれを止める術はない。そこで、神をこの世へとどめるための制約が必要となる。正確ではないが、ある意味で呪いと言っても良いだろう。そして、この儀式における制約からの解放条件は、魔王を倒すことなのだ」
ヒロは顔を歪めた。「惨い話だ」
「だが、すでに起こってしまったことだ。彼女を解放するためにも、世界のためにも、我々は一刻も早く魔王を倒さねばならない」
「魔王の居場所にあたりは付いているのか?」
ザヒは首を振った。「そのための鍵となる魔物の一匹を、ようやく仕留めたところだ」
「なんだそりゃ?」
「サクラコがマンティコアと呼んでいた、あの魔物だ」アーシオンが答えた。「残りは三匹。ただし、その居場所はわかっていない」
「一刻も早くと言いながら、ずいぶんのんびりしてるじゃないか」
「各地から魔物被害の報告を集め、それらしい魔物の目撃情報がないか調べている」ザヒが渋い顔で言い訳した。「が、何分にも極秘に行っていることだから、人手も割けずあまり捗ってはいない」
ヒロはため息をついた。サクラコは彼を世話焼きが過ぎると言ったが、まったくその通りだ。「俺は何をすればいい?」
「それでこそ、我らがヒロさんだ」アーシオンは満足げに頷いた。
「あんたは黙っててくれ、アーシオン」ヒロはぴしゃりと言った。
少女は肩をすくめた。
「まずは、これを読め」ザヒは本を消し、代わりに一枚の紙片を空中から取り出してヒロに差し出した。紙片を受け取り眺めると、拙い字で何やら書いてあり、ヒロはそれを読み上げた。
「アーシオンのバカ、ペテン師、大ウソつき。ヒロさんが牢屋から出るまで、魔王退治なんかしないからね。サクラコ」
「彼女はこれを書くなり、私と入れ替わって剣に引きこもってしまった」と、アーシオン。
なるほど、世界を滅ぼす魔王を倒せる人物が、その任務を放棄したとなれば確かに世界の危機だ。
「ヒロを牢へ閉じ込めたのは、私ではなく父上なのに、ひどい言われようだと思わないか?」
「あんたが親父さんとの相談もなしに、俺を連れて来たからこうなったんだぞ」ヒロは指摘した。
「ともかく」ザヒは言って、咳払いをした。「私とアーシオンは陛下に事態を説明し、彼にお前の解放を認めさせた。ただし、お前が我らの監視下に入ると言う条件付きではあるが?」
「構わんよ」と、ヒロはあっさり受け入れた。牢の中よりはましだ。
すると、ザヒは短く呪文を唱えた。鉄格子の扉に掛かっていた錠前がかちりと外れ、床に落ちてけたたましい音を立てる。そうしてヒロが扉をくぐるなり、出し抜けに鎧姿の青年が現れて彼を抱きしめた。
「おい、よせ」ヒロは顔をしかめて言った。「鎧が当たって痛いんだ」
「あ、ごめん」サクラコは慌てた様子で身を離し、束の間を置いて右手を突き出す。「これからも一緒だね。改めてよろしく、ヒロさん」
ヒロは頷き、その手を握り返した。すると、サクラコは満面の笑みを浮かべ、唐突に宣言した。
「冒険者ヒロが仲間になった!」