二話
錯乱した青年の名前は佐久間と言った。どこにでもある普通の高校で青春を謳歌し、他の仲間が大学に行くという理由で就職ではなく、進学を選んだ。
佐久間の通う大学は可もなく不可もないと言った平凡な大学であり、モラトリアムを過ごすには打ってつけであった。親元から離れ大学生活を送る佐久間は親からの仕送りをギャンブルに費やす駄目人間であった。
特定日と呼ばれるスロットの高設定の入る日には大学を自主休校し、留年間近となっていた。
佐久間はサークル活動に熱心であり、所謂ヤリサーに所属しており見た目は悪くないために女を切らす事は無かったが、成人していないために飲酒・喫煙は違法行為ではあるが、佐久間の様な人種に関わろうとする人間は少なく、仲間は同類ばかりであり同じ穴の貉であった為に気にする者はいなかった。
佐久間はサークルの先輩と一緒にクリスマス会を過ごし、飲酒していた事もあって気が大きくなっていた。番組を中断して行われた非常事態宣言も真に受けておらず、現れた変異体を返り討ちにしてやると豪語しながら夜の町を歩いていたのだ。
酔いが回っていた為に目的地もなく、さまよっていたが突然、隣にいたはずの先輩の首から上がなくなったのだ。某ハンターゲームの生物に似た変異体は一撃で先輩の命を刈り取った。
もし隣に居たのが先輩でなく自分であったのなら痛みを感じる暇もなく、生き絶えていただろう。そして逃げなくてはと思っていても足はいう事を聞かずに下半身が不意に暖かくなったのだ。
少しした後に腰を抜かし失禁したのだと気付いたが、何の解決にもなっていなかった。一緒にいた筈のサークルのメンバーは一目散に逃げだした。佐久間が動けないのであれば自分達は逃げる余裕が出来るという打算からであり、生き残るために捨て石にされたのだ。
迷彩服を着たコスプレかと思っていたが、自分とあまり年齢が変わらない隊員に担がれ運ばれたところで彼等が自衛官であることが判明した。佐久間は先輩の血を浴びており、外傷はほとんどないが感染症の疑いがあった。
普通科の隊員達には応急手当て以上の医療知識はなく、トラックで対策本部へと連行される事になった。にこやかに話かけてくる自衛官は表面上は友好的であったが有無を言わせない迫力があった。
衛生科の医官によって治療が行われたが、拘束が解かれる事はない。変異体との戦闘に参加した隊員達も隔離処置がとられ疫病対策として滅菌処置と経過観察が自衛隊の方針として決定されていたのだ。
遺伝子操作をして品質の向上を行う研究や細胞を臓器へと変える研究は行われていたが、それでも遺伝子の全てを人が解明した訳ではない。遺伝形質を持つ病気の特定の研究も道半ばであり、判明していない事は多い。
変異体を生み出したのが故意なのか事故なのかは判断がつかなかったが、これだけの変異体を生み出すには知識と設備が必要になるのは明白であった。もし、テロだとすれば変異体と接触した人間全てが感染源になる可能性を秘めており、変異体の調査が済むまでは目撃者を自由にする訳にはいかないのだ。
睡眠薬を投与されて強制的に眠りにつかされた佐久間であったが、先輩が変異体に喰われた記憶がなくなる訳ではない。目が覚めた時には無意識に体を抱き、体に怪我が無いかを確認した。
起きようとした佐久間を止めたのは看護師であり、科学防護服を 身に纏っており、事態の深刻さを物語っていた。両腕は自由になるが体はベットに拘束されていた。
看護師はドクターコールで医者に目が覚めた事を伝えたが、佐久間は咄嗟に看護師に掴みかかろうとしていたが、距離があるために手は届かなかった。
「自分の名前とここが何処か分かるかな」
「佐久間慎二です。貴方は医者ですか?という事はここは病院ですか?」
手の空いた医者が居なかった為に葛西は医療機器に与える悪影響の少ないPHSで呼び出され、患者の問診を行う事になった。科学防護服など仰々しい物は周囲の注目を引く為に着たくは無かったが、二次感染を防ぐ為に医療マニュアルが病院には存在しており、着ざるおえなかったのだ。
聴診器の音を聞くのも困難であり、転院先が見つかるまでの仮処置ではあるが、葛西が診たところ、接触してから数時間は経っていたが、平熱であり混乱はしているものの至って健康体であるというのが診断であった。
西湘厚生年金病院に勤める内科医の問診もこの後に行われるが、少なくとも外傷は擦り傷程度であり、感染の疑いは極めて低いと判断されるだろう。
普段であれば医者であろうと佐久間は突っ張るが、気が動転していても自分の状況がどの様になっているかを知りたいという気持ちが強かった。それに佐久間は酒に酔っていなければ大学生として平均的な知能はあり、ここで医者に反抗しても事態は悪くなると考える様になっていた。
葛西も佐久間が暴れるのであれば鎮静剤を投与し、必要であれば精神科医の受診を勧めるしか無かったが、落ち着きを取り戻したのであれば話を聞かなくてはならない。看護師に案内されて警察官が病室へと入って来た。
「こちらは神奈川県警の刑事さんだ。混乱しているところに悪いが、話を聞かせてくれないか」
「はい」
佐久間はあるがままに警察官に事情を話した。未成年の飲酒という所で顔をしかめたが、成人していなくとも飲酒・喫煙をしている未成年は多くこの様な事情や事件・事故にでも巻き込まれない限りは発覚することはほとんどなく、発覚しても厳重注意や補導が関の山である。
佐久間は先輩の死を確信していた為に問う事はなかった。頭から喰われて生きているほど人間は頑丈ではない。葛西によって経過観察が終わり感染症の疑いが無くなるまでは病室からは出られないが、部屋の中であれば自由にしてよいと言われたのでスマホを取り出して情報を調べようとしたが、画面は衝撃でヒビが入っており、凄く見辛い。
「佐久間くん。君は未成年であるために免許証から自宅を調べさせて貰った。親御さんには既に連絡済みであり、こちらに向かっているそうだ」
佐久間の親はサラリーマンであるが躾には厳しかった。その反動で自由な大学生活を送っていたのだが、状況を知れば大学を退学させられ、家も追い出されるだろう。
そうなれば社会的な信用のない一人の子供が生まれるだけであって、もしかしたら犯罪に走る可能性もあった。約半日後に両親は到着したが、父親は激怒し、母親が諌める声も届いていなかった。
「慎二。何を考えているんだ。日本は大変な事になっているんだぞ。それに未成年なのに飲酒だと、そんな事の為に高い金を払って大学に通わせているわけではないんだぞ」
父親は退院後に実家へと連れ戻す事にした様であった。アルバイトなどしたことなく、お金の大切さが分かっていないのだ。どんな職業であっても苦労して給料を貰った経験のある者は無駄に浪費する者は少数派だろう。
一家を支える大黒柱として父親は朝早く、夜遅くまで働いている。専業主婦である母親も父親と結婚するまでは働いており、家事はある意味では外で働くよりも重労働であり報われる事は少ないが誰かがやらなくてはならないことなのだ。
父親は断腸の思いで、息子に苦労させる道を選んだようだ。半年の猶予を与えその内に働き先と住む場所を決める様に息子に伝えた。大学には休学届けを出させ、働いて貯金が貯まったら復学できる様にはしたが、自主退学という事になるだろうと父親は理解していた。
大学の入学金や授業料は決して安いものではなく、工面して用意したものであったが息子の将来を考えれば決断しなくてはならなかったのだ。佐久間の住む町は田舎であり、大学を中途退学した者に対しての評価は厳しい。
碌な就職先がなくとも、自分がとった行動に対して責任を取らなくてはならないのだ。佐久間は就職先を必死に探すも良い条件はなく、例え見つかったとしても家賃や食費・水道光熱費を支払えば、手元に残る金などたかが知れていた。
佐久間は職業安定所で自衛隊の隊員を募集している事を知った。隊員になるためにはいくつかの採用コースがあるが高校卒業の資格しか持たない佐久間では、採用試験を合格して自衛官になるしか残された道は無かったのだ。
自衛隊は若者に広く門戸を開いているとはいえ、犯罪者を採用することはない。銃を扱う以上は心理面で不安要素を持つ者を採用する訳にはいかないが、佐久間には後がなく後悔をしていた。
採用担当者の意見は割れた。反対派は未成年の飲酒歴があり、変異体との接触経験のある佐久間の人柄を否定した。更正したとしても補導歴を持つ人間を受け入れるのはリスクが高いと主張したのだ。
賛成派は士長から三曹へと昇進した宮内が変異体に遭遇してなお、国防に携わろうと決意した佐久間の志望動機を理由に更正をした者に対して機会を与えないのは間違っていると主張し、基礎訓練を突破する根性があるのであれば評価するべきだとした。
曹は自衛隊におけるスペシャリストであり、実戦経験を積んだ者の言葉は重い。脱落するのであればそこまでの人間であり、脱柵さえしなければ自衛隊に与える損害は小さいのだ。
そして藤堂の推薦もあって晴れて自衛官としての道を歩き始めたのであった。白井は医官による問診を受けて、待機していた。接触したと言っても感染症が空気感染する可能性はそう高くはないと判断されていた。
司法解剖された遺体は病理検査にかけられ、未知の細菌は発見されなかったが、結果が出るまでは軟禁状態となっていた。健康体そのものだと判断しても見えない細菌の感染源になる可能性は否定できない。他の隊員が出動するなかで、待機を命じられるのは思ったよりもきついものがある。
出動する度に感染源となるかも知れない隊員が増え、対応可能な隊員が減るのは国民にとっても良くないことなのだ。決して広くはない部屋に分隊員は押し込まれやることのない隊員達は思い思いに暇を潰していた。
多くの隊員は筋トレを行い、情報収集をしていた。いつ、この軟禁が解かれるかは分からない。だが、時間の経過と共に被害状況も鮮明となっていたのだ。全国での死者は百人に満たなかったが、それでも突如として命を奪われた理不尽さはどの被害者にも共通している。
ファンタジーに代表されるゴブリンの被害も多く出動した隊員によって銃殺され、解剖に回されたが、変異体が何故に発生し、人を襲う様になったかの原因は現在も分かっていないのだ。
内閣危機管理室は全国にある自衛隊の駐屯地・基地に対して治安出動待機命令を藤家の名で出した。一週間もすると事件発生当初よりは落ち着きを取り戻していたが、市街地の生々しい銃痕は全てを補修するのには圧倒的に時間が足らない。
警察と自衛隊に変異体の特別対策チームを設立する事を決定し、閣議決定も為された。野党は与党の責任追及に没頭していたが、誰が変異体の発生を予測できただろうか。
迅速な治安出動と国民の生命を守る為に武器の使用を許可した事で多くの命が守られた事は事実であり、自衛官による誤射は一件も起きていない。むしろ、警察官の発砲によって怪我をする一般市民の方が多かったくらいでだ。
警察官に殉職者はいても自衛官には負傷者こそ数えきれないほどに報告されたが、殉職者を出す事は無かったくらいである。変異体による国民の死傷を重く見たのは内閣だけではなかった。
回復不能の障害を負ったり、死亡すれば保険金を支払わなくてはならない保険会社は倒産の浮き目に合いそうになっていたのだ。変異体を災害と見るか人災と見るかによって保険金の支払い額は大きく左右される。
免責事項によって支払いを拒否する保険会社も現れ、あらゆる保険料の高騰を招く結果となっていた。保険はいざという時の積み立てである。多くの加入者がいればそれだけいざという時に支えてくれる人が多いということで最たる例は国民皆保険制度であり、公的年金制度であった。
多くの問題を内包しているが国民の安心に寄与していたのは事実である。国が運営者であるために保険制度自体が無くなる事は考え辛いが、民間である保険会社は営利企業であり、吸収合併や倒産は十分に考えられる事態なのである。
被害者が多くなればその分だけ経営リスクは高くなる。回避するためには、免責事項での除外か、保険料を高くして対応するしか無いのだ。海外旅行の場合、治安や期間によって保険料が上下する様に保険会社も政府の判断によっては被保険者に対しての支払いを考慮しなくてはならないのだ。
藤家内閣は法律の制定を余儀なくされ、一月に常会が開かれるのが、通例となっており臨時会を開くかの判断は難しいところであった。藤家は状況を把握するのにも時間は必要である。
常会が開かれるまでに法律の骨子と対応マニュアルを関係部署に作る様に通達した。関係大臣も政治のプロではあるが、必ずしも担当した大臣の職に精通しているとは限らず、官僚に実権を握られている場合も多々であった。
アメリカ軍の介入を防ぐ為に早急な対応が必要だった。変異体が出現したのは日本だけではなかった。アメリカ国民は銃の所持が合法であり自衛の手段を国民が持っていたために被害は他の先進国に比べれば軽微であると言えたが、銃犯罪による死亡者も比例して多いのだ。
日本の様に専守防衛に特化した軍でない先進国は軍事力によって変異体を殺傷したが、国民が受ける被害も大きかったのだ。市街地での戦車の砲撃は日本では考えられない事であったが、ロシアや中国は強行し、国民に被害を出した。
アメリカも爆撃機による誤爆で民事訴訟と刑事訴訟が起こっており、韓国軍は徴兵制度が残された国であるために対応は早かったが管理が杜撰であり、軍隊として機能不全を起こしていた。
日米安全保障条約に基づいてアメリカは変異体を敵と認定し、在日アメリカ人の安全を確保するために在日米軍を動員しようと水面下での交渉が行われていた。
日本にとって運が悪い事にアメリカ国籍を持つ観光ピザで入国した日系アメリカ人が変異体によって命を落としていた。父方の祖父の住む第二の故郷である日本の文化に触れる為に京都に滞在していたが、変異体の襲撃に遭い即死した。
アメリカで生まれた為に片親が日本国籍を持っていて片親がアメリカ国籍を持つ子供の場合にはアメリカ国籍が与えられる。アメリカに在住していた為に制限を受ける日本国籍を取得させる事を両親は選択しなかったのだ。
日本の場合は国籍を複数持つ事に対して否定的であり、帰化する条件も厳しい。日本に移住する際には改めて日本国籍を取得することを考えており、犯罪を犯していない限りは費用はかかっても両国の行き来は容易であり不便さを感じる事がなかったのだ。
アメリカは自国民が被害にあったことで介入する口実を得た。日本がアメリカに渡す思いやり予算は馬鹿にできるものではなく、アジアに睨みを効かせるためには日本の優先順位は高いのだ。
自国の批判を外国に向けさせる思惑もあって日本は丁度良いカモであった。日米地位協定によって米軍に所属する兵士は日本では手厚い保護を受けている。
沖縄の在日米軍兵士に対する悪感情の殆んどはこの条約のせいであり、沖縄県民の一部は在日米軍によって利益を享受しているが、沖縄に集中している米軍兵士の問題行動は目に余るものが多いが、外交下手である外務省の官僚や政治家は現状を変える事ができないでいるのだ。
核の傘によって守られていると主張する政治団体もあれば核抑止論自体が空論であると主張する学者もいる。国連決議違反であると主張し、始まったイラク戦争はフセイン政権を打倒するための戦争であったともされ、結果的にはアメリカが主張した大量破壊兵器が発見される事は無かった。
日本は交戦権を認めておらず、国家間の問題を解決するための武力行使を容認していない。平和憲法は時代にとり残された憲法であると批判の対象になるが、日本が過去の過ちを認め二度と戦争を起こさない戒めとして機能しているが、実務上の弊害も多いのだ。
現行の憲法は戦勝国アメリカの意思が強く反映されている。ブロック経済によって日本が他国を侵略する遠因となったアメリカに押し付けられたと考えている日本人も多く、憲法の改正が議場に登る度に話題となったが要件が厳しすぎるために日本はいつまでも国家として大人になれない原因だとする学者もいる。
一番の被害を受けているのは自衛官である。交戦権の否定によって日本は軍隊を持つ事が許されていないという考えが一般的であり、自衛隊は日本の国土防衛のための最小限の戦力であるというのが政府見解なのだ。
だから、自衛官は日本軍ではなく、自衛するための戦力の自衛隊の職員であって軍人ではないというのが公式見解となっている。だが、他国から見れば自衛隊は統一された制服を身に纏い階級によって指揮系統が確立された軍隊であり、交戦者の国際規定を満たした軍人なのだ。侵略に使われない戦力であり、専守防衛に徹した戦力であることは他国が認めるところである。
軍事脅威に晒された自国民を救出に行く際には法的根拠がなく、親日国家に救出を任せるなど先進国にはあるまじき国でもあるのだ。集団的自衛権や武器の使用に関する交戦規定など問題は多いが、何とか運営されているのが、自衛隊でありイメージも昔に比べたら良くはなっているがまだ警察に比べれば国民の自衛隊に対する理解は浅いと自衛官なら感じるだろう。
先達の築いた実績の上に今の自衛隊がある。災害派遣などで注目を浴び国民の理解を得られる機会も多くなったが、白井は未だ周囲に対して公務員であるとだけ告げ自衛官であると公言はしていない。
親しい友人は知っているが、そうでない者に対してまでの説明は難しく、理解が得られない事も多いのだ。年輩の曹には今はまだ自衛官にとってましだと諭された経験は幹部自衛官でなくとも一度はあるだろう。
理解がなければ迅速な行動は難しく、災害派遣であっても出動する準備はできていて多くの命を救えた筈なのに結果的に見捨てるしか無かったと語る曹の声には忸怩たる思いが込められていた。
今だってそうだ。最高司令官である内閣総理大臣が決断しなくとも、自衛官の一人一人が出来る事を探ししているのだ。武器の使用許可は現場の自衛官にとって切実な問題であり、強い自制心を求められるが、自衛官は体以外にも心も一緒に鍛えてきたのだ。
白井は今回の出動で力不足を認識し、レンジャー課程に志願した。そして、藤堂から伝えられた命令は幹部レンジャー課程の受講と変異体が出現した事によって新設されることが決定した政府認定特別危険指定獣対策警備隊【特危獣対策警備隊】への転属命令だった。