十二話
小田原で多くの死者が出ても人々は生きる為に働かなくてはならず、一夜明けてニュースによって防衛出動が決定されたと知っても多くの日本国民にとっては所詮は他人事だった。
いや、他人事であると信じようとしていた。日本人がテロリストによって殺された事は哀悼の意を表するには値したが、テロを未然に防ぐ事のできなかった政府を無能だと叩く事で人々は不満を解消していたのだ。他人の不幸は蜜の味だった。
領有権を主張したところ、中国・韓国が反対していた事は国民も知っていた。そして、小田原で類を見ないほどの大規模で特危獣が出現し、被害が出た事も報道で知った国民は多い。
日本では首都圏や県庁所在地で特危獣の報告が多くされてはいたが、人口の少ない地方都市でも報告例はあり、自治体の避難指示によって逃げれば、怪我を追う可能性は限りなく低いとされていたのだ。
特危獣対策警備隊は要請さえあれば、全国を駆け巡り、同時多発的に特危獣が出現したのは去年のクリスマスだけであり、その他でも警察が対象出来ない分隊級以上は報告例自体が少ないのだ。
被害状況や使用された武器によって等級を政府が決定しているが、ゴブリンでも武器を特危獣が持ってなければ一般人でも制圧は可能である。
政府としては最寄りの警察署や避難所指定された場所への避難や警戒情報指令室への適切な通報を推奨しており、接触を避ける様に国民に周知していても状況が許さない事もあるのだ。
接触が確認された場合には、血液検査が済むまでは隔離され経過観察を以て解放される。当事者になれば面倒な義務は免れず、故意に接触を申告しなかった場合には刑事罰も規定されている。
国民に司法に携われる様に導入された裁判員制度も裁判員になった人は全体から見れば少なく、国民の声が司法に反映されているかは疑問ではあるが、法律として通過してしまった以上は裁判員に選出されてしまったら義務から逃げる事はできないのである。
同様のことが特危獣対策特措法にも言えた。
特危獣を生でみれば確かに話の種にはなるかもしれないが実際に負傷し死亡する確率があるとしたら野次馬はするべきではない。
ただ感染するリスクを高めるだけであり、動物との安易な接触も極力は避けた方が無難であると言うのが専門家の意見だった。人から人へと感染しないというのが幻想になった。
そして、政府は時期をみて発表するつもりであったが対応案を練るには時間がかかる。だが、ネットで活動するフリージャーナリストによってその目論みも崩壊した。
小田原城の変異事件は未だに解決していないのにも関わらずである。その映像は居合わせた記者が撮影されたものとされているが、不審な点も多い。
普通の人間であれば逃げ惑うのが普通である。呑気に撮影している暇は命の危機にはない。逃げなければ被害者リストに名を連ねるだけであり、逃げられただけで幸運であるのだ。
警察官が駆けつけるまでの貴重な映像記録となったが、流出は国にとっては想定外であった。警察は報道機関と報道協定を結んでいたからである。報道協定は人質事件など人命に関わる事件で犯人を刺激しないために必要なのだ。
隠蔽するためにでなく、事実を公表した上で報道をさせない様にするのである。
報道機関にとって特落ちは恐怖でしかない。他社を出し抜いて報道することも必要であるが足並みを揃えるのであればと妥協するのもやぶさかではないのだ。
警察庁記者会を出入り禁止になるのはかなりの痛手である。公表した記者は各社にその映像を売り多額の収入を得たが日本の国益を損なうものであった。
日本が戦争へと走ってしまったのは政府も事実を公表せざるおえなくなり、結果、国民の悪感情を抑える事ができなかったのだ。その記者を戦犯であると指摘する者は多かった。
人が変異する事実が与える衝撃がそれだけ大きかったということでもあった。
世界保健機構(WHO)は日本からの報告を受けて対応策を検討していた。変異を疫病と定義付けるかは議論を呼ぶが看過できない問題である。
世界に向けて警告を発するのはWHOの責務である。健康被害について報告されば適切な調査を行い拡散を防ぐ為に行動しなくてはならないのだ。
以前から疑惑はあった。生物が変異するのであったのなら人間が例外である理由もない。一人の逸った記者によって事実として拡散したが、対応策はない。それが問題である。
免疫について検査し調査しても理由判明していない。植物が変異しない事実は掴めていても何故、変異しないかは検証の段階であった。
変異の目的も定かではない。生物という観点でみれば他の生物の体内で増殖し繁栄する事が目的であっても人類に対する敵意は必要があればと言えば疑問でしかない。
敵はなるべくであれば作らない方が良くそれは人間社会でも野生でも同じことであるのだ。人も害獣でなければ徹底して特危獣を狩ろうとはしなかっただろう。花樹も種を広めるために鳥に実を食べられる事もあれば種を守る為に高い毒性を持つ事は生存競争において最適解でもあるのだ。
人類が道具を手にし築いた歴史は長い。他種をも滅ぼさん勢いで繁栄してきたのは限りない欲があったからとも言える。物言わぬ動物の代弁者として神が特危獣を遣わしそれを警告であるという宗教家の言はある意味では正しく間違っている。
人が手にした文明を捨て原始時代へと戻る事は不可能に近い。地球にとって有限である資源を無作為に消費する人こそが病原菌であるという観点は一方的に見れば正しく思えるものなのだ。
立場によって考え方が違うのは当然のことだった。被害者から見れば非道な加害者でも加害者の家族からしてみれば家族であり守るべき存在であるのと同じ様に、人以上に高度な文明ができない限りは人は覇者として振る舞い己の首を絞めながらも次世代へとバトンタッチしていくだろう。
そこに正義も悪もなくただ存在するだけである。特危獣の存在は人の文明社会に対しての警告でもあり、挑戦であった。人も種としての生存競争から完全に脱した訳ではないと特危獣は教える事になった。菜食主義者が増えたのも仕方がないことだ。
蚊や鼠が病気を介する様にどの生物も感染源として為り得るのだ。動物園の動物を処分したのは興業として成立しなくなった事もそうだが、鶏が変異するのだから人より力のある象やライオンなどが変異して人を襲う事を恐れたからであった。
WHOの職員としても感染拡大だけは何としても避けたいが、人以外の生物を全て殺すのは現実的ではなく、食肉の安全性についても科学的な実証がされた訳ではないのだ。
だが死刑囚に対して人体実験を行う事は法治国家としては不可能に近い。犯罪者であっても最低限の人権は守られるべきであり、変異してしまった人間は確認がとれていなかった為に暫定措置として人を襲う者については公共の利益の為に殺処分を許可しているに過ぎないのだ。
特に人権は多民族国家にとっては火薬庫も同然である。人種によって差別されてきた歴史は人類の汚点であり、民主主義国家にとっても個人の権利が国を構成する上で欠かせない要素となっているのだ。
帰属意識が薄れているとはいえ家族と言う集団の延長上に地域がありその上に国がある。日本人であれば日本という国に依存し、国と全く関わらずに生活を送る事は不可能に近いのだ。
リスクを許容することも必要であればするべきだが犯罪者を人体実験の道具にしてしまえば、それが例え更正の余地がある軽犯罪者であっても対象になる可能性は高く、あらゆる事に飛び火する。
第二次世界大戦における大虐殺も民族主義に走った独裁者が他民族を迫害するために行われた。人口を抑制するための一人っ子政策も政府の方針としては正しかったのかも知れないが現実に即した政策でなければ効果はあがらないという事を実証したに過ぎないのだ。
鼠や猿に対する動物実験もされる方からしてみればたまったものではなく、言語による意思疎通ができないだけで一つの薬を開発する為に多くの動物の命が消費されている事は事実である。
頭痛薬にしろ癌治療薬にしろ。強い効能を持てばその分だけ副作用も苛烈なものになる。治験で同意を得るのは効果があっても実証しなくては空論に過ぎず、癌は治癒したが人も殺しましたでは意味がないからである。
実験に使用されるマウスは健康条件に気をつけている。前提が異なれば効果も変わり、製薬会社はデータをとる為に健康体であった方が良く自分達に都合の良い被験者に金を出すのは営利企業であれば避けては通れない道である。
遺伝的に発癌する可能性が高い女性が乳房を切除するかはどこに重点を置くかにある。癌を避ける為に予めリスクを取り除くのは間違っているとは言い辛く、遺伝に可能性は高くとも絶対であると言えるほど現代の医療水準は高くなく、ただ健康な肉体を損なうだけの可能性を完全に排除できるものではない。
特危獣の因子を持つ生物を食べる事による悪影響の基準を決める事も難しい。原因が特定されていてかつ長期の経過観察が必要になるからで、ダイオキシンが特定されてからも環境と人体に与える害を正確に把握するのも科学の進歩とともに必要であったからでもある。
特危獣に対する関心は高く各国も躍起になっているが原因を特定できていないのが現実なのだ。公式に発表することのできないデータを持った国はあるが、露見できない為に研究者によって因子が特定されたという体裁をとるしかなく、WHOでも把握するに至っていない。
WHOとしても対外的に成果を求められている。日本の小田原に職員を派遣するのは必至だが、職員の安全をどの様に確保するかも課題であった。島国であるために感染するルートはある程度までは特定できるだろうが、日本だけとも限らない。
ただ一番最初に変異が公式に確認されたのが日本というだけであって特別な意味を見い出せる可能性は低い。
だが、原因を特定しやすいのは良いことだが日本が受ける経済的損失は莫大なものになるのは避けられない。原発事故が起きて福島近海で捕獲された魚だけでなく日本で捕れた魚を輸入することすら拒否した国がある。
その行為自体は誉められたものではなかったが、健康被害を抑制するという点では間違ってはいないが科学的な根拠がなければ、ただの差別でしかないのだ。食品の輸出ができないことも問題だが、輸出国に輸出するだけの余裕があるかも疑問である。
自国の消費を賄うだけで精一杯の可能性もあり、BSE問題と本質は同一である。それも因子が特定されなければ不可能であるためにどちらにしても原因を特定しなくてはならない事には変わらないのだ。
日本は調査団を受け入れるのはやぶさかではないが、まだ事件は解決しておらず、小田原周辺の特危獣を人海戦術で以て捜索中である。
一人の自衛官にできる事には限界がある。人間である以上は疲労によって効率が落ちる。人を殺傷できるだけの武器は細心の注意を必要とし些細なミスが重大事故を誘発する。
佐久間が所属する教育隊にも防衛出動の命令が下ったが、藤堂の要請によって本来であれば後方任務に就く予定だった教育隊から選抜され召集された隊員達は小田原へと急遽配置されることになった。
陸幕によって最大限の配慮がされるのは統合幕僚長訓辞によるものだ。自衛官として国民の安全を護るのは義務である。
敵国との戦闘で矢面に立つ覚悟がある。国民の負託に応えると宣誓したのは伊達ではない。正式な要請であり訓辞があれば小田原の臨時司令部の警戒任務に二士達を使う事など造作もない。
小田原城と臨時司令部の高校は国民を受け入れる拠点としては近すぎるのだ。前線で国民を抱えながら戦うのは軍隊にとって悪夢でしかない。臨時司令部に国民を受け入れたのはなし崩しではあったが、藤堂の指示に従ったに過ぎない。
その藤堂も命令された立場ではあったが。緊急性が高く後送する余裕が無い中で戦闘力を持っていたのは自衛官と警察官だけであった。神奈川県警としては小田原警察署を拠点とし活動するつもりであった。
自己完結能力がない警察官では限界がある為に自衛隊へと命令が下ったのだ。
教育隊を指揮するのは春日小隊の隊員である。訓練された自衛官として新人を教育するのには慣れている。教育隊の教官の任務をした事があればレンジャーの助教であった者もいる。
精鋭足る特危獣対策警備隊は混成中隊である。警備を新人に任せるのは不本意であるが新しく入隊する選抜員の資質を見極めるための試験でもある。
教育隊員は直接の危険がある特危獣駆除に駆り出すことはない。訓練生の仕事は自衛官として活動するために規律を学ぶ事にあるのだ。国税が使用されてはいるが誰だって新人であった事はある。
歳を経ると忘れがちにはなるが、経験は成長するためには必要なのだ。致命的でなければ失敗もまた経験である。駐屯地内の警備にあたる事はあったが、緊張感は戦場そのものであった。
警戒線の外側である程にベテランが配備されているが手にした小銃の殺傷能力に変わりはなく、特危獣の殺傷能力も相手によって変わる事はないのだ。
他の駐屯地からも隊員が集められていたが、国民を威圧しないように注意する様にも命令が下っている。防衛出動の決定は国防に携わる自衛官達にとっても寝耳に水だったのだ。
限られた戦力で外敵と戦わなくてはならない。テロリストと発表されていたが、隊歴の長い者であれば韓国や中国の関与を疑わない者はいないだろう。
日本以外で領有権を主張したのは韓国だけであった。事前に領有宣言の為の手続きを行っていたが、日本が不法に島を占拠し国有化したと言うのが韓国の主張である。
通常であれば領海内にあれば先占する必要はないが厄介な事に韓国が領有を宣言し実行支配している竹島から十二海理以内にあるために日本は常駐する公務員を置く必要があったのだ。
護岸工事をするのも国益になるし、新たな領土は多大な国益を生む。正当なものであれば他国に譲る事は売国行為であり日本の政治家はそこまで愚鈍ではなかった。地域紛争だろうが戦争だろうが日本が韓国と戦って得られる利益はほとんどない。
それならば敵視されていようが貿易黒字を出していた方が建設的である。日本の精密部品は世界でシェアを奪われてはいるものの欠かす事の出来ない技術となっている物が多い。
例えばおにぎりの包装に関わる特許は一つ当たりの利益は少なくとも膨大に消費されるためにそれだけで会社の運営ができる程である。
特許技術は公表する必要があるために某飲料メーカーはレシピを公表せずに炭酸飲料を販売しているが、開発者でなく先に登録した者又は事業者に特許は認可されるために闇雲に特許申請を出す中国の姿勢は特許の主旨には反しているもののあながち間違った行為であるとは言えないのだ。
既存の商標権や著作権を蔑ろにする中国はそういう意味では批判されるべきではあるが、求心力は低下したとはいえ未だに労働力市場で確固たる地位を維持しているのは認められるべきことなのだ。
佐久間は銃を手にしながら去年のクリスマスを思い出す。酔ってあんな事をしなければ一般企業に勤める会社員となっていただろう。
自衛官になるしか道がなかったとはいえ、指導教官からは意見が割れていたと言われれば納得するしかなかった。日本人は平和に染まり過ぎていた。
国家が抑止力として軍隊を持つのは当然の義務であり権利であった。日本は常任理事国になるために様々な活動をしていたが、ロシアや中国が認める訳がないのだ。常任理事国が持つ拒否権はそれだけ強力な切り札であり国連を形骸化させるには十分であったのだ。
人が通る度に銃を向けそうになるが何とか自制する。夜間の外出は許可しておらず大部分の特危獣は排除されたとされているが、分隊級以上が出現すればたちまち地獄となるだろう。
装甲車も配備されたが、街中で安易に砲撃することは出来ず、自衛官は防衛計画に従って行動しなくてはならず、地方よりも人口の多い都市部が優先されるのは仕方がないことだからだ。
自衛隊は女性に広く職域を解放していたが、母体保護の観点から戦闘職種への配属はまだ少なかった。田辺二士は空手の有段者であり全国大会への出場経験を持つ男勝りな自衛官であったが女性らしい気配りもできる。
特危獣対策警備隊の隊員達は黙っていても国民を威圧してしまう。彼等は精鋭であり、戦う為の戦力なのだ。国民に愛想を振り撒くのも必要だが、それは広報官に任せておけば良い。自衛官としての規律さえ守っていれば多少は無愛想であってもいざという時に役に立たないよりはましであるのだ。
正直に言えば教育隊の隊員にやらせることではない。自衛官としての規律訓練も中途であり本来であれば国民の前に出られる状況ではないのだ。自衛官として半人前も良いところであり、人を撃つ覚悟はまだない。
的を撃つのと生き物では異なり、携帯を義務付けられた拳銃ですらとても重く感じているのだ。通勤中は例外であるがいつ特危獣と遭遇するかは誰にも分からない。
兵士級であれば殺傷可能であり兵長級でも足止めが可能なのだ。国民に負担をかけるのは本意ではなかったが、安全性を確保するためである。
朝がくれば順次交通規制が解かれ帰宅することも可能となるが最悪は得てして想定外として起こるのだ。
「ゴブリンだ。みんな逃げろ。特危獣だ」
「こちら教育隊、佐久間二士です。悲鳴が聞こえたため現場を離れる許可を願います」
悲鳴が聞こえた事で無線で教官の指示を仰いだ。寝静まっているはずの体育館は血の海となっていた。
どこからかゴブリンが侵入した可能性は低い。現場での情報共有が正しいのであれば帰宅困難者の中から変異した者が出たというのが合理的であった。
「こちら司令部、了解した。佐久間二士。極力、発砲しない様に留意せよ」
佐久間は冗談ではないと心の中で上官を罵倒した。国民を護るための武器が小銃であり拳銃だ。
警戒網を突破できるとは考えにくく、人員だけでなく機械的にも監視網を構築しているからだ。ゴブリンと接触すれば感染のリスクは高くなる。
小田原城ではグールに変異したと聞いたが、ゴブリンに変異したとしても門外漢である佐久間にとっては小さな差異でしかなかった。
警戒していた自衛官の中で一番早くに着いたのが佐久間であったがそれが果たして良いことだったかは不明だ。寝ずに携帯をいじっていた者が気付き声をあげたが、かえってゴブリン達の注目を浴びてしまいじりじりと距離を詰められていた。
佐久間は周囲の人に電気をつける様に指示したが逃げ惑うだけで一向に灯りがつく事はない。出口は人が殺到しており、怪我人も多い。
息を潜めるのが賢いとも言えた。動物でも動くものに注意を惹かれ攻撃するものなのだ。
帰宅困難者を受け入れた際にリストを作っているが、高校の敷地内から外に出ても安全であるとは言えないのだ。校庭には天幕が張られ自衛官はそこで寝泊まりしていた。
自衛官は現在、作戦行動中であり体育館とそう距離がないため春日の判断によって決定された。武器を所持する自衛隊の隊員と国民を一緒にする事は危険であった。
気休め程度の隔離処置は自衛官にとっては有利に働いたが、国民にとっては最悪であった。出入口を自衛官が固めてはいたが、逃げる国民と特危獣を薄暗い中で判別するのは困難であったからだ。
非殺傷兵器であるスタングレネードによって体育館を制圧していく。佐久間も突入しようとしたが、命令によって出入口の監視任務に就く事になったのだ。
即死したのは三名であり、これは変異したと思われる人物を含んでいない。怪我人は多くて数えられず何かしらの傷を負っていた。化学防護服を着ていても気休めくらいにしかならないことは医療従事者であれば公然の秘密であった。
隣人が特危獣になることを最悪の形で証明してしまったが、それはここだけの話ではなかった。




