発掘作業の実施5
翌日も地面の穴掘りは続いた。
昨日は結局土器の欠片が数個見つかっただけだったが、今日はぼちぼちと遺物が出土しだした。シンシアは作業員から発見の報を受けるたびに、現場に駆けつけ、鼻先に土が付きそうなほど顔を近づけ、「これはこれは……」と呟きながら、嬉々とした様子でノートにメモを取っていた。記録係に任命されたアレックスも、彼女の横から出土物の写真を撮っていった。
ところが、出てくる物といえば、割れた壷やら原型を留めないほどボロボロに錆びた鉄の塊、木片、建物の土台らしき石などと、アレックスから見ると代わり映えのしないものばかりだった。最初はアレックスも興奮しながら写真を撮っていたものの、気付いたら機械的にシャッターを切っていた。そして作業員たちも最初は何かが出土するたびに、珍しがって近づいてきたが、そのうち飽きてきたのか、誰も他人の発見に興味を示さなくなっていった。
しかしアレックスを悶々とさせたのは、自分が全く遺物を見つけられていないことだ。写真係で掘る時間が少ないこともあるが、それでも発見数ゼロはショックだった。壺一つ見つけられないようでは、トレジャーハンターの名折れだ。早く何か見つけようと、穴を掘るスピードを上げたら、シンシアから「もっと丁寧に掘れ!」と怒鳴られてしまった。
そして、宝の本命である『本遺構』は、ようやく土砂よけの屋根が完成し、入口の土砂を取り除く作業が開始されたばかりだった。『本遺構』の通路がどこまで続いていて、作業がどれくらいかかるのか、まだ見当もつかない状況だった。
こうして午前中はシンシア一人だけが楽しそうで、アレックスを含めた残りの作業員たちはジリジリと太陽が照りつける中、黙々と発掘作業を進めていた。
短い昼休みが終わり(今日の昼食も缶詰だった)、午後の作業が始まってしばらく経った頃、山の麓に続く坂道から、ブロロン、ブロロンと、やたら騒がしい音が聞こえてきた。物音はどんどんアレックスたちのいる発掘現場に近づいてきて、とうとう車輪のついた鉄の箱が姿を現した。馬も繋いでいないのに車輪がひとりでに回転している。これが噂の超最新魔法具、魔動車だろう。
魔動車はゴゴゴゴーンと一際大きな音を立てて、アレックスたちが乗ってきた馬車の隣で停まった。馬たちが驚いて暴れ出したので、たまたまカメラフィルムの交換で馬車の近くにいたアレックスは慌てて馬たちをなだめた。
停止した魔動車から、まず三人の女性が降りてきた。それぞれ、赤、黄、紫という極彩色のドレスを着ていて、発掘現場には随分と不釣り合いな格好だった。その中の一人、赤いドレスの女性にアレックスは見覚えがあった。昨日ハインリッヒの部屋にいた人だ。
作業員たちが手を止めて、突如現れた三人の女性をぽかんと見つめている中、次に降りたのは、これまた発掘現場とは不釣り合いなほど高価な金刺繍された黒いジャケットを着たハインリッヒだった。そして彼に続いてワイシャツ姿のクリストファーが姿を見せた。
「ねえ、ハインリッヒ。ここがその、お宝があるっていう発掘現場なの?」黄色いドレスを着た女性が甲高い声で言った。
「そうだよ」ハインリッヒが優しい声音で返事をした。
「随分と埃っぽいところなのね」紫色のドレスを着た女性が鼻に白いハンカチをあてがいながら文句を言った。
「ちょっとあんた、何やってるのよ!」
と叫びながら、今日も同じくカーキ色の探検服を着たシンシアがハインリッヒたちのところへ猛然と近づいていった。
「出資者として発掘現場の視察に来たんだ。何か文句あるのか?」
「大有りよ! 何勝手に部外者を連れてきているの。今回の発掘は機密だって何度も言ったでしょ!」
彼女の怒気を含んだ大声に、ハインリッヒは一瞬表情を引きつらせたが、すぐに鷹揚に答えた。
「細かいこと言うなよ、街で知り合った彼女たちに歴史のロマンを教えてあげようと思っただけさ。彼女たちには珍しい宝があるかも、と言っただけで、メサイア・アンティークの話まではしていないから問題ない」
「誰、あのうるさい貧相な女は?」「ハインリッヒの知り合い?」「怖い怖い……」などと、三人の女性のヒソヒソ話を聞き流し(シンシアはもちろん、アレックスのところまで丸聞こえだった)、シンシアは次にクリストファーの方へ詰め寄った。
「これはどういうことですか、ホワイトさん」
クリストファーは困惑した表情を浮かべた。「私もお止めしたのですが、ターナーさんからシェーンベルクさんの言うとおりにしろ、と言われてしまいまして……」
「あのおべっか禿頭は……」
と、毒吐くシンシアの横で、赤いドレスの女性がハインリッヒに向かって、
「せっかくだからもっと近くで見てみたいんだけど?」
と、甘えるような声でせがんだ。
「もちろんだ。じゃあ行こうか、ヴェロニカ」
と、ハインリッヒは答えると、ドレスと同じ色の日傘を差した女性たちを連れて、シンシアの前から逃げるように、早足で『本遺構』の方へ向かって歩き出した。
ハインリッヒたちの背中にただならぬ視線を向けるシンシアに、クリストファーが恐縮した様子で声を掛けた。
「本当に申し訳ありませんでした」
シンシアはクリストファーの方へ振り返ると、ぶるぶると首を振った。
「そんな。全部、あの見栄っ張り好色男が悪いんです。ホワイトさんのせいじゃありません」
「いえ、秘書として私にも責任があります。彼女たちには後で他言無用だと強く言っておきます。……それで」クリストファーはずっと手に持っていた布袋を持ち上げた。「これ、罪滅ぼしといってはなんですが、氷菓子を持ってきました。良かったら食べてください」
「これはご丁寧に、ありがとうございます」
シンシアは布袋を恭しく受け取ると、馬車の隅で一部始終を見ていたアレックスの方へ鋭い視線を向けてきた。「何こそこそ見てるんだ、お前!」となじられた気がして、びくりと肩が震えた。
「ブローム、この差し入れを作業員たちに配ってきて」
「あっ、はい!」
アレックスは、シンシアから布袋を受け取って、作業員たちのところへ駆け足で向かった。
アレックスが発掘場所に戻ると、作業員たちが一斉に近づいてきた。
「どうした、嬢ちゃんたち。もしかして、修羅場ってやつか?」
マルドナドがニヤニヤと品のない笑みを浮かべながら言った。
「そんなんじゃないですよ。許可もなく他人を連れてきたことに怒っているだけです」
とアレックスは答えたものの、自信はなかった。シンシアのハインリッヒさんに対する感情は複雑そうに思えたからだ。
「そ、それよりも、秘書のホワイトさんから差し入れがありました」
アレックスが布袋の口を開けると、ひんやりした空気が溢れ出てきた。作業員たちの表情がほころんだ。
「さすがは秘書君だ、わかってるねえ。よしお前たち、休憩にするぞ」
作業員たちは、袋から氷菓子を奪うように取ると、日陰に向かって歩き出した。
すると、『本遺構』の方から、ハインリッヒの声がした。
「おい、サントス君」
マルドナドは「ちっ」と小さく悪態をつくと、足を止めて、ハインリッヒたちの方へ振り向いた。「なんだい、貴族の兄ちゃん?」
「現在の遺跡の作業状況を説明してくれないか? 彼女たちに聞かせてやってほしい」
「嬢ちゃんから聞けばいいだろ?」
マルドナドは揶揄うように言うと、ハインリッヒは語気を強めて言い返してきた。
「ぼ……僕は、君から聞きたいと言っているんだ、早くしたまえ!」
マルドナドは肩をすくめた。「やれやれ、雇い主様の言うことは聞かなきゃな」と言って、『本遺構』の入口に向かって歩き出した。
氷菓子を配り終えて、馬車のところに戻ってみると、シンシアとクリストファーが並んで話をしていた。
「発掘状況はいかがですか?」
「地層を見たところ、ここは昔から時々土砂崩れが起こっていたようですね。ですから予想より深く掘らないといけないみたいです。でもようやく遺物が出始めました。帰って精査するのが今から楽しみです」
「発見した遺物は何処に?」
「あそこです」
シンシアが馬車置き場の隅にある木箱を指差した。アレックスは慌てて馬車の陰に隠れた。どうしてこそこそしなきゃいけないんだ? と隠れた後に思ったが、今更、シンシアたちの前に姿を現す気にはなれなかった。
「拝見してもよろしいですか?」
「もちろんです」
シンシアとクリストファーが並んで木箱の前に移動する。アレックスは彼女たちの死角になるように、馬車の脇を移動した。
クリストファーは木箱から土が付いたままの遺物を拾い上げた。「博士はこの遺跡について現在はどうお考えですか?」
「幾つか小さな建物が埋もれていますが、やはり崖から見えているあの『本遺構』が、この遺跡の主たる建築物のようですね。……それと、出土物の状態から、年代はホワイトさんの当初の推測どおり、千二百年前、魔法大戦前後に建てられたものでしょう」
「なるほど……」クリストファーは遺物を色々な角度に傾けながら、真剣な眼差しで見つめていた。「ではこの遺跡が、謎多き魔法大戦時代に光明を照らす、大きなきっかけとなるかもしれませんね」
「でもホワイトさん、少し言いにくいことですが、ここが重要な史跡として認められた場合、保存のため、鉄道工事の変更をしないといけません」
「全く問題ありません。私たち人類の歴史に比べれば、会社の利益なんて些細なことです。……ターナーさんは嫌がるかもしれませんが」
シンシアとクリストファーが揃ってクスクスと笑った。
そんなすっかり良い雰囲気の二人のやりとりを馬車の陰に隠れて見ていたアレックスは、胸がムカムカするのを感じていた。
クリストファーが続けて言った。「でも本当にこの遺跡の調査が進めば、コット博士は魔法大戦の歴史的解明に多大な功績を残した偉大な考古学者として歴史に名が残るわけです。なんて素晴らしいことでしょう」
「止めてください、わたしなんてまだまだです」
シンシアが恥ずかしそうに俯いた。
「そんなことありません。博士は立派です。私も微力ながら博士のお手伝いができて誇らしく思っています」
と言いつつ、クリストファーがシンシアに体を寄せてきた。
なんだよ、気持ち悪いお世辞ばっかり言いやがって、インテリ眼鏡野郎め、近すぎるぞ、今すぐ博士から離れろ! いい加減シメてやろうか、とアレックスの苛立ちが頂点に達するまさにその直前、ハインリッヒの陽気な声がした。
「発掘はまずまずと言ったところだな」
ハインリッヒはシンシアとクリストファーの間に強引に割って入ってきた。
「ちょっ……、突然何よ。わたし、ホワイトさんと話している途中なんだけど」
「それは気付かなかったな」ハインリッヒはすっとぼけたような顔で言った。「そんなことより、僕はアドバイザーとして、シンシアに二、三助言をしようと思ってここへ来たのだ」
「あんたはいつわたしのアドバイザーになったのよ。それに、あのケバい女たちの相手はしなくていいの?」
「問題ない。サントス君に頼んであるから」
『本遺構』の入口に目を向けると、マルドナドが三人の女性たちに囲まれていた。実に羨ましい光景だ、とアレックスは思った。
視線を戻したハインリッヒは続けた。「シンシア、入口の作業がこのままでは終わらないのではないか?」
「あんたに言われた通り、半分も人を費やしてやってるわよ」
「ならもっと人を増やせ、シンシア」ハインリッヒが命令口調で言った。
「はっ? ふざけないでよ。これ以上そっちに人を割いたら、予備調査の方が進まなくなる」
と、シンシアがきつい口調で言い返した直後、『本遺構』の方から女性の甲高い声が聞こえてきた。
「ねえ、ハインリッヒ。これ以上ここにいたらお肌が焼けちゃうわ。もう、街に帰りましょ」
ハインリッヒは返事の代わりに女性たちに向かって手を振ると、シンシアにぐっと顔を近づけた。「いいか、シンシア。お前だって心の底ではあの遺構を調査したくてしようがないんだろ。もっと、自分に正直になれ」
シンシアの返事も聞かず、ハインリッヒは彼女から離れ、魔動車に向かって歩いてくる女性たちに近づいていった。三人の女性は不潔なものを見るような目をシンシアに向けつつ、ハインリッヒが開けた扉から、魔動車に乗り込んでいった。
「短期間で最大の成果を出す方法、頭の良いお前ならわかるはずだ。じゃあ、しっかりやるんだぞ」
最後に念を押すようにハインリッヒはシンシアに向かって言うと、彼自身も魔動車に乗り込んだ。
シンシアと魔動車を不安な表情を浮かべ交互に見ていたクリストファーだったが、全員が乗り込んだ後に、シンシアに向かって頭を下げた。
「なんだか、本当に申し訳ありません」
「ですから、ホワイトさんのせいではありません。こちらこそお見苦しいところを……」
「いえいえ、また今度ゆっくりとお話を聞かせてください」
クリストファーは魔動車の運転席に向かって歩き出したが、「あ、そうだ」と言って、途中で引き返してきた。
「一応お伝えしておこうかと思いまして」
クリストファーの真剣な表情に、シンシアの目つきも鋭くなった。「何でしょうか?」
「ここ数日、ケシュの街で怪しげな連中を見かける、という話を聞きました。今日の朝到着した鉄道にも、街には不釣り合いな格好をした男たちが降りたという話もあります」
「それって……つまり」
「もしかすると、遺跡の話を聞きつけた連中かもしれません。杞憂だとは思いたいですが、念のため気を付けて下さい。……それでは」
クリストファーはシンシアに向かって祈るように両手を合わせた後、今度こそ魔動車に乗り込んだ。そして、来た時と同じように爆音を轟かせながら、走り去っていった。
■ ■ ■
ハインリッヒたちが去り、発掘作業は再開されたものの、その日はずっとシンシアの機嫌が悪かった。午前中は出土物が発見されるたびに愛でるように観察していたのに、再開後は簡単なメモを取っただけですぐに立ち去ってしまった。それ以外の時間は睨みつけるように黙って作業の様子を監督しているものだから、作業員たちも緊張して、動きがぎこちなくなってしまった。
そして、アレックス自身も再開後は仕事に身が入らなかった。シンシアとクリストファーが語り合う姿、それから彼女とハインリッヒが激しく言い合う様子が脳裏から離れなかったのだ。
シンシアとハインリッヒは会うたびに喧嘩になる。二人がお互いどう思っているにせよ、相手のことが気になってしようがないことだけは否応無しにも伝わって来る。マルドナドの言う通り、確かにあれは痴話喧嘩だ。一方、シンシアとクリストファーは考古学という共通の話題を持っていて、気が合うのだろう。終始楽しそうに話している。下世話好きなおばちゃんが見たら、「なんてお似合いのカップルなのかしら」などと言うに違いない。
それに比べて、アレックス自身はどうだろう、たまたまシンシアより最新の魔法具の知識が少しある、それだけだ。ハインリッヒのように長い付き合いもなければ、クリストファーのように、彼女の会話に付いていけるだけの知識もない、採用されて五日程度の新米助手に過ぎない。別にシンシアに好かれたいがために助手になったわけではないのに、それでもなんだろうこの疎外感は?
以上のようなことをとりとめもなく考えていたせいで、度々発掘作業の手が止まってしまい、シンシアに呼ばれていることも気付けずに、彼女の不機嫌度を更に助長させてしまった。
そんな状況だったから、今日の作業も終わって、ケシュの街に戻り、事務所に鍵と馬車を返し、作業員たちが解散した後、シンシアから「ちょっと食事に行かない?」と誘われた時、アレックスは心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
街の中央に広がる盛り場で看板に〈山猫亭〉と書かれた店に入り、二人用の席に座った。シンシアと夕食を共にするのはケシュの街に来て以来初めてだった。発掘作業が終わった後、彼女は別の仕事があるから、と言ってすぐに宿屋に戻ってしまっていたからだ。
テーブルにやって来た愛想の悪い給仕に向かって、アレックスは蒸留酒の水割りをシンシアはワインをそれぞれ注文した。それからシンシアは、頬杖をついて、どこか遠くを見るかのような目を店の奥へ向けた。
睨まれているわけでもないのに、アレックスはシンシアの誘いに乗ったことを後悔するほど、非常に緊張して背筋が固まっていた。シンシアの不機嫌モードはまだ続いているらしい。周囲の客がどんちゃん騒ぎしている中、ここだけは、別れ間際のカップルのように息苦しい空気に満ちていた。……付き合ってすらいないのだが。
と、とになく何か喋らねば、アレックスは必死にネタを探した。
「……い、色々遺物が出てきて良かったですね。俺的には金や銀も出て欲しいところですけど」
トントン、とシンシアが人差し指でテーブルを叩きながら、ゆっくりとした口調で答えた。「……そうね、想定よりはまだ少ないけど」
ぎゅっと胃が縮まった。「え、えっと……そろそろ俺も何か見つけたいっすね。俺が担当する穴、金どころか木片一つ出てこないんですよ」
コット博士の物憂げな視線が一瞬だけアレックスに向けられたが、何も言わず、すぐに気怠そうに店の奥へ戻っていった。
アレックスの背中からどっと冷や汗が噴き出してきた。な、なんだこの拷問は!
と、ここで救世主様のお導きか、注文の酒がやって来た。シンシアは頬杖をついたまま、ワイングラスを持ち上げた。
「……とりあえず、お疲れ」
「お、お疲れ様です」
アレックスも両手でジョッキを掴み、水割りをあおったが、緊張のせいで味がしなかった。
チラリとシンシアの方へ目を向けると、彼女はワイングラスに口をつけたまま、硬直していた。シンシアの表情が徐々に青ざめていく。これはただ事ではない、と直感したアレックスは、ワイングラスを握っていた彼女の腕を掴んで揺すった。
「どうしたんですか、しっかりしてください、コット博士!」
「……い」
シンシアは何か言ったが、唇がぶるぶると震えているせいで、はっきりと聞き取れなかった。
「何て言ったんです。博士!」
「……不味い」
「はい?」
「何て不味いワインなの!」シンシアはワイングラスを叩きつけるようにテーブルに置くと、はしたなく舌を出して手団扇で煽った。「こんな不味いワインを飲んだの初めて……」
その一言にアレックスは脱力したようにがっくりと肩を落とした。毒でも入ってたんじゃないかと、心配したのに。
「……ちょっと」突然シンシアの不機嫌そうな声がした。「どうしてわたしの腕を掴んでるの?」
「おおっと!」アレックスは慌てて手を離した。「こりゃ失礼」
「これなら、泥水でも飲んだ方がマシね」ナプキンで口元を拭きながら、シンシアが言った。
泥水以下のワインって相当だな、と思いつつアレックスはジョッキを傾けた。
「そういえば、ここの店のワインは最低だけど、蒸留酒は悪くないって話を聞きましたね」
「なっ、何でそれをもっと早く言わないの」
「俺はもともとワインをあまり飲まないんで、忘れてたんです」
「ったく……肝心なところで使えないんだから」さらりと毒を吐かれる。「……でもその話は誰から? 作業員たちと夕食も一緒に食べてるの?」
「いえいえ。あの人たち、結構仲間内の結束が固くて、余所者の俺が混ざれる余地なんてないですよ。……この話を聞いたのはハインリッヒさんからです。昨日はあの人とここで飲んでたから」
「はぁ?」
シンシアの表情が露骨に歪んだ。ようやく張り詰めた空気も緩んできたのに、よりによってこの場でハインリッヒの名前を出すなんて、失言だったと後悔した。
「前にも忠告したけど、あいつと関わるとろくなことがないから」
「べ、別に積極的に会おうなんて思ってませんよ。たまたまばったり会っただけです」
「あいつと何を話したの? また善からぬことじゃないでしょうね?」
「またって……」ハインリッヒがいつも善からぬことを考えているようなシンシアの口振りに、アレックスは困惑した。「昨日はハインリッヒさんの自慢話を聞かされただけですよ。密林で三日三晩サバイバルして伝説の万華鏡の滝を発見したとか、無人島で人食い虎と闘ったとか……」
「あいつはまた嘘八百を……。貴方、まさか彼の話を信じてるんじゃないでしょうね」
「さすがに俺だって全部は信じてませんよ」アレックスもここ数日のハインリッヒの言動を見ていれば、彼の話をすべて鵜呑みにできない、と理解し始めていた。「でも博士、そこまで目の敵にしなくてもいいんじゃないですか? 酒も奢ってくれたし、決して悪い人ではないと思いますけど」
「何言ってるの、そうやって油断させるのがあいつの手口なんだから。わたしや多くのトレジャーハンターたちがどれだけ痛い目に遭ってきたことか」
聞く耳は持たないようだ。
「うーん、結局、博士とハインリッヒさんってどういう関係なんですか。喧嘩するほど仲が良いって話もありますけど?」
「だから腐れ縁って言ってるでしょ。お世話になってるおじさまの息子だから、しようがなく相手をしてあげているだけ。そうでなかったら、今すぐにでも谷底へ突き落としてやりたい」
随分と物騒な話だ。しかし、アレックスにはそれも本心とは思えなかった。聞けば聞くほど、シンシアはハインリッヒのことを嫌いだと思い込もうとしているだけのように感じられた。
ならばここは酒の力を借りて、もう少し突っ込んだ話を聞いてやろうと思った。自慢じゃないが酒にはそこそこ自信がある。昔のバイト先の先輩と飲み比べをして、相手を酔い潰したことが何度もあった。シンシアを適度に酔わせて、本音を引き出してやろうじゃないか。
アレックスはジョッキを飲み干し、二人分のお替りを注文した。
「ささ、博士、試してみてください」
と言って、届いた新しいジョッキに手を伸ばし、すぐさま半分飲み干した。シンシアもゆっくりと口につけた。
「……確かに、さっきのワインよりはましね」と言って、シンシアは更にジョッキを傾けた。
「そうでしょ」アレックスは残り半分を一気に飲み干した。「さあ、博士もどんどん飲んで、嫌なことは忘れましょう!」
「べ、別に嫌なことなんてないけど。……って、そんなペースで飲んで大丈夫? いくら水割りでもそれなりに度数は高いわよ」
「平気です。それより博士、手が止まってますよ。酒はひたすら流し込めって言うじゃないですか。……あっ、店員さん。ジョッキ二つお替わりで」
最初は遠慮がちに飲んでいたシンシアだったが、アレックスが強引に「さっ、もう一杯」と勧めると、彼女は断らなかった。シンシアとハインリッヒのやりとりを見ていて、案外彼女は強引な押しに弱いんじゃないか? と感じていたが、どうやらその推測は当たっていたようだ。シンシアも次々にジョッキを空にしていった。
お互い、七杯目のジョッキがテーブルに運ばれた頃には、シンシアの頬はすっかり赤くなり、いつもの吊り上がった目も今はとろんと眠そうに垂れ下がっていた。
そろそろ頃合いのようだ、とうとうアレックスは切り出した。
「コット博士、ところでさっきの話ですが」
シンシアはワンテンポ遅れて反応した。「……さっきの話って?」
「ハインリッヒさんのことです。博士、本当のところ、あの人のことをどう思っているんですか?」
「……と、突然何を言い出すの、ブローム?」
シンシアの目が点になる。
「訊いているのはこっちです。博士は本当はハインリッヒさんのことが好きなんじゃないですか?」
「わたしが、ハインリッヒのことが好き? ……ブローム酔ってる? だいぶ顔が赤いけど」
「はぐらかさないでください! だって、今日の昼にハインリッヒさんが来てから、ずっと機嫌悪かったじゃないですか。女の人たちと仲良さそうに歩いているのを見て嫉妬してたんじゃないですか?」
すると突然、シンシアは口に手を当てて、クックッと堪え笑いを始めた。
「嫉妬? わたしが? あいつに? ないない。……あいつの女好きにいちいち腹を立ててたら堪忍袋がいくつあっても足りないし。わたしが腹を立てたのはあくまで、あいつが機密にもかかわらず、勝手にあの年増女たちを連れてきたことと、彼女たちが場所をわきまえない格好で現れたからよ。わたしの神聖なる仕事場に勝手に入ってくるなってこと。……それをあいつへの嫉妬だと勘違いするなんて、ブローム、貴方の感性もなかなか面白いわね。こりゃ傑作だわ」
「だっ、だったら、秘書のホワイトさんはどうなんです。今日だって随分楽しそうに話してたじゃないですか。彼のことはどう思ってるんですか?」
「貴方、本当に大丈夫? 呂律も怪しいけど」シンシアが心配そうな表情でアレックスの顔を覗き込んできた。
「だから平気です。それよりホワイトさんのことはどうなんです?」
「今日は随分と積極的ね。普段もそれくらい働いてくれると嬉しいんだけど……」シンシアは新しいジョッキを掴んだ。「まあ、ホワイトさんと趣味は合いそうだな、とは思ってるけど?」
「そ、そうなんですか!」
「ちょっ、顔が近い。……どうしたの、貴方、今日本当に変よ。さっきから頭もフラフラしてるし、もう宿へ帰ったら?」
「だから俺は平気です。で、どうなんですか、ホワイトさんのことは好きなんですか?」
「さっきから何? 好きだの嫌いだのって話ばかり」シンシアの眉間に皺が寄っていく。「なんかいろいろ邪推しているようだけど、ハインリッヒにしろ、ホワイトさんにしろ、好きとかそんな感情は持ってないから。そもそもわたし、しばらくは恋愛とか結婚するつもりないし」
「ええっ!」
アレックスにとって、酒場に来て一番の驚きだった。
「発掘作業と報告書作成にてんてこ舞いで、わたしにはそんなことやってる暇なんてないの」
と言って、シンシアは肩をすくめる。
「そんなの勿体ないじゃないですか。綺麗だし頭も良いし、世の男たちが放っておきませんって」
と、アレックスが言った次の瞬間、シンシアの顔の赤みが一気に増した。
「なっ、……何に言ってるの」シンシアは突然立ち上がった。「仕事が残ってるから、もう行くわ。ここは払っておくから、あとは好きにして」
「あっ、博士! 待ってください」
シンシアを引き止めようと、アレックスも席から立とうとしたが、足に力が入らず、その場から動けなかった。
シンシアはアレックスに背を向けて、早足で店の出口に向かった……と思ったらすぐに引き返してきた。
「博士……?」アレックスはシンシアの顔を見上げた。
「言い忘れてたことがあって、というか今日はそもそもこれを伝えるために食事に誘ったんだけど……」シンシアはアレックスの肩に手を添えた。「ブローム、今日で貴方が助手採用期間の新記録保持者だから。……これからもよろしく」
「それって、どういう……」
と、訊き返そうとしたところで、アレックスの記憶は途切れた。




