「FAXを配る係りの人」
「FAXを配る係りの人」
以前、新聞のラテ欄(ラジオ・テレビ欄)を作る会社で働いていた。
2行目からいきなり余談で恐縮だが、山崎ナオコーラの作品にもしばしばこの設定の話やエッセイが出てくるが、それを読む限り、彼女と自分がこれから話す会社は、同じだと思う。
さて、当然だが、この会社にはテレビ局からラテ欄の原稿が大量にFAXされてくる。今は、デジタル的な何かでやり取りしているのかもしれないが、とりあえず、自分が働いていた十数年前は、数台のFAX機がフル稼働していた。
その為、大量に送られてくるFAXを各部署へと届ける専門の人がこの会社にはいた。
その人は、40過ぎの、やや若禿げで黒縁のメガネを掛けた男性で、たいてい冬は毛玉のついたモスグリーンのセータで、それ以外の季節もユニクロのマネキンの方がお洒落だな、と誰もが思うような気の抜けた服装をしていた。
仮に、その人をここでは稲木さんとしておこう。
稲木さんはパッとしない外見ではあったが、夏の甲子園で大番狂わせが起きて一斉に次の対戦校が変わり、狂ったように訂正のFAXが送られてきているような時も、おだやかさを失わず、誰かに話し掛けられても、気安く応えていたので、それなりに、人気があった。みな、稲木さん、と親しみを込めて彼を呼んだ。
FAXを配る稲木さんの仕事は、総じて慌しいものではあったが、それでも波があった。稲木さんの波は、世の中の穏やかさや狂乱とリンクするようであった。大きな事件が起きれば一斉にラテ欄は差し変わり、FAX機は唸りをあげる。何もなければ規定通りの番組が放送され、そんな時はFAX機も、あ、その機能、あったんだ、と思うようなつかの間のスリープ状態に入った。そんな時は、社内がやや、静かになった気さえした。それくらい、いつもFAX機の音は社内を占めていた。そしてその傍に、気まぐれな暴君に仕える気弱な執事のように、モスグリーンの稲木さんはいた(モスグリーンなのは冬だけだけど)。
そんな風に稲木さんは始終、FAX機の面倒を見ていたから(時に、トナーがなくなり、備品室にまで走ったりした。そんな時は、稲木さんの履き古したサンダルがペッタンペッタン、甲高い音を社内に響かせた。そして、みんな、キーボードを打つ手を一瞬止めて彼を見た。そして思ったものだ、あ、稲木さんが走ってるよ。あ、イルカがジャンプしたよ、に似た、ちょっとしたお得感があったのだ、いつも悠然とした稲木さんが慌てて走る姿には)、括弧の文章が長すぎて、はて、何の話だったかと忘れかけたが、とにかく稲木さんはそうやって甲斐甲斐しくと言ってもいいくらいFAX機の面倒を見ていたものだから、当然、席もFAX機の隣りにあった。ピーピーひっきりなしに鳴る、すぐ傍に稲木さんの机はどの部署とも独立して、ぽつんとあった。ふつう、会社における社員の席とはそこで仕事をする為のものだと思うが、稲木さんの場合、席は待機する場所でしかなかった。何故なら、稲木さんの仕事は届いたFAXを配る仕事であり、特段、席で机に向かって何かをする必要がなかったからだ。元より、ひっきりなしに騒ぎ立てるFAX機のせいで、彼がその席に落ち着いて座っていることは少なかったが、それでも世界とはいつも狂乱に満ちているわけでなく、FAXも少なく、つまり、稲木さんがゆっくりとその席に座っている日もなくはなかった。そんな時、たいてい、稲木さんは文庫本を読んでいた。
仕事中に堂々と文庫本を読んでいるのは(しかもうるさいFAX機のすぐ隣りで平然と)いかがなものかと思う諸兄もいるかもしれないが、稲木さんが文庫本を読むのは何となく、黙認されていた。いや、黙認というと何かこう、許す、許されるみたいな上下関係を感じるが、それよりももっとゆるやかな、(だって、稲木さんだもの)仕方ないよね的な、言語化不可能な目に見えぬ寛容がFAX機及び、稲木さんの席周辺には確かにあった。何しろ、稲木さんが気を緩められるのはつかの間であり、それ以外の時間はひたすらFAXを捌くのに尽力しているのであり、それゆえに、各局のラテ担当者は自分の席で安心して入力に専念できるのだ。だから、文庫本くらいはね、いやこれがさ、単行本とかで、でかかったらね、ちょっとアレな気もするけど、きっと稲木さんもその辺はさ、気を使ってるんだよ、みたいな、ある種の忖度というか、感謝からくる寛容というか、単なる同情というか、とにかく、稲木さんは席にいる時は本を読んでいた。
その読書の賜物かどうかは不明だが、稲木さんは博学だった。
多肉植物を育てている女子社員との雑談では、霧吹きは3日に1回ね、なんてアドバイスはさらっとできたし、小説家志望の若手男性社員とは、谷崎はやはり細雪が白眉なんじゃないか、なんてブンガク談義に花を咲かせることも余裕だった。
そうやって忙しいながらも本を読み、どんな雑談にも応じてくれる稲木さんは皆から慕われていたが、そうではあったが、稲木さんは孤独でもあった。
社内で机にパソコンがないのは稲木さんだけだった。社内で所属部署がないのは稲木さんだけだった。社内で稲木さんくらいの歳で役職についていないのは、彼だけだった。稲木さんはよく働き、皆に親切で、なくてはならない存在だったけれど、それでもどこまでいっても彼は「FAXを配る係りの人」でしかなかった。
時折り自分は、一心にキーボドードを打つ社員や、せわしげに原稿を読み合う社員に背を向けて(とはいってもそれは稲木さんが意図的にそうしたのではなく、席の位置がそうだったからだけだが)、自分の席で寡黙に本を読む彼の姿を見た。それはラテ欄を作る、という進路のもと、それぞれが持ち場で役割を果たす「会社」という船の中でよるべなくポツンとひとつ、浮いて見えた。
彼は、常に他人に対してオープンであったが、あまりプライベードを語らない人でもあった。その為、社員の間で面白半分に彼を巡る様々な噂が流れた。
いわく、元ナンバーワンキャバ嬢の美人の年上彼女がいる(噂なのに、キャバ嬢でなく、「元」がついてしまうところが、稲木さんらしい)。
いわく、親の介護に追われていて、プライベードの時間はほとんどなく、給料も少ないから生活は大変らしい。あるいは、いやいや、実は彼はああ見えて給料面では厚遇されており、むしろ自分達なんかよりずっと貰っていて、独身貴族生活を謳歌している。いわく、彼の部屋は時代小説(文庫)が積みあがっており、しばしば文庫雪崩が起きるらしい(その大半は、燃えよ剣らしい)等。
しかし、こうした噂の真偽を直接彼に質した人はいなかった。その頃、まだそれほど有名ではなかった、フットサルの試合なんかにも呼ばれれば気安く参加していた稲木さんではあったが、一方で、そうした彼自身の「奥地」へと踏み込ませない何かが、黒縁フレームの奥で笑う瞳にはあった。
キー局のラテ欄担当者の中に、戸崎さんという女性がいた。彼女は大学を卒業したばかりで、まだまだスイーツを食べ歩きたい女子大生の雰囲気抜け切らぬ、可愛らしい女性であった。殺伐としたラテ欄編集部に迷い込んだ気ままな蝶のような彼女を男性社員は戸惑いと新鮮さを持って密かに注目していた。
ある時、そんな彼女が恋をしたという噂が社内を駆け巡った。しかも、その相手は稲木さんだという。
事実、FAX機の間を行ったり来たりして、大量のFAXを産婆のように取り上げては部署ごとに仕分けて行く稲木さんの周りを蝶のように、ひらひらとまとわりつく彼女の姿がよく見られるようになった。かわいいことを、生活信条に掲げている向きのある彼女は、ラテ欄を高速で打ち込むには不利にしか働かないだろう、長めの爪に光沢のあるピンクのネイルを施していたし、茶色く染めた髪もゆるふわカールさせていた。それが彼女が稲木さんについて歩くたび、跳ねた。
周りはそんな2人をやきもきして見守ったが、彼女が愛猫の話をしている時でも彼は「それなら、ヤモリも飼ったほうがいい。ねこはネズミを捕るので、昔から重宝されたし、ヤモリは家を守るとされているから、どちらもいれば、戸崎さんの家の安寧は固い」などと、生真面目に答え、どこまでもマイペースだった。そんな時に限って、FAX機の調子がおかしくなったりすると、意地の悪い誰かが「FAX機の嫉妬じゃないのか」と笑ったりもした。
そんな調子で、戸崎さんの恋は進展がないようだったが、ある時、深夜に差し変わった原稿入力の為、早朝に出勤した社員が、誰もいない、明かりも落ちた社内で、戸崎さんを見たという。その時、彼女は泣いていたという。
実際のところ、2人に何があったのか、何もなかったのか、それはわからない。でもそのあと、FAX機のあたりで彼女の姿を見ることは減り、代わりにFAX機は絶好調で紙を吐き出し、彼は相変わらずそれをせっせと回収しては配り続けていた。
自分がこの会社を辞める時、同じ部署の人がささやかな送別会を開いてくれた。そこに、稲木さんも来てくれた。彼はただの飲み会に参加したごとく、口数も少なく、黙々と焼酎を飲むばかりだったが、突如、用事があるので先に帰る、と告げ、幹事に多めにお金を渡し、自分の傍までくると「これ、あげるわ。元気で」と鞄から、いつも持ち歩いているらしい、しわしわの文庫本を一冊くれた。岡本太郎の『今日の芸術』だった。その時、最後に少しだけ、彼が彼の「奥地」を見せてくれたように思った。
それは今も、自分の部屋の本棚にある。しわしわのまま。(終)