黄泉返りの魔王 81 [人外の戦い 1]
雪という名を与えられたエルフの少女には記憶が無い。
アンリという少年から名を与えられてもう十年ほどになるが、外見に変化が無いことから、その失われた記憶の期間は相当に長いと想像できる。
できるが、記憶が無いということは存在しないのと同義だ。
彼女は実質的に十歳程度であり、その全ての期間をアンリという少年の成長と共に過ごした。
彼女にとってアンリは父であり、兄弟であり、そして夫である。
大事な人だ。
唯一の人だ。
かけがえの無い人だ。
だから――、
「お前は殺す」
アンリの命を狙ったこいつは許せない。
いま生きていることが許せない。
動いていることが許せない。
存在していることが許せない。
そして同時に感謝している。
アンリを守らせてくれてありがとう。
私に存在価値を与えてくれてありがとう。
ネージュという少女は自分がアンリの中に存在していればいいと思っている。
もはや自身の生存にすら興味は無い。
アンリを守るために自分が死ねば、アンリがこの世を去るときまで一緒にいられる。
彼よりも遙かに長い寿命を持つはずの彼女にとって価値があるのは、アンリが生きている期間だけだ。
その後を無為に長く過ごすくらいなら、今ここで果てるのは本望。
激高しながら、憤怒しながら、ネージュは冷静に自分の手札を確認する。
ガルデニアとして、つまり王国の王家直属の諜報機関から訓練を受けた彼女にはそれができる。
長く帰らずの迷宮に潜っていたことで、それ以前からアンリの傍に居続けたことで、また何より黒い宝石に食いつかれていた期間があったことによって、現存人類エルフ種としてはほぼ限界まで強化されたその肉体性能は、だがエルフ種の限界によって非力だ。
エルフ種は長命であることにその存在のリソースを多く奪われていて、成長の余地が少ない。
ネージュにしてみれば、まったく無意味なことに才能を浪費してしまっている。
寿命を燃やして強くなれるなら、いくらでもそうするのに!
ゆえに彼女の手札は自身の性能というよりは、ガルデニアとして鍛えられたその技術にある。
死なないための戦闘能力、隠し持った多種多様な暗器、そしてなにより判断力が彼女の手札だ。
思わず笑ってしまったあの瞬間、ネージュの持ち時間は10秒しか残されていなかった。それが彼女の命をすべて燃やして得られるアンリの生存可能時間だった。
アンリを守って貫かれることなど想定内。
むしろアンリによって回復されたことのほうが、彼女の想定していた最悪より遙かに上。アンリならそうすると分かっていたが、彼女は願望を計算に入れるようにはできていない。
シルヴィはクララを連れて上がって来た。
絶死の10秒を乗り越え、合流を果たした。
そしてアンリは行った。
勝った。
そう、アンリが行った時点でネージュはこの戦闘における勝利条件を満たした。
不意を突かれて始まったこの戦いは、アンリさえ生きて離脱できれば良かったのだ。
「まったく、勝った、って顔しちゃってまあ」
クララを狙った敵の攻撃を往なしたシルヴィは、同時にネージュに向かって放たれた攻撃をも往なした。
二人は敵を挟んでまったく逆の地点にいたのに、シルヴィにはそれができる。
エルフ種ではない、純粋な人間種の性能限界にネージュは目眩を覚える。
なんという才能の差だ。
なんという隔絶の大きさだ。
どうして! どうして! どうして私にはそれが無いの!?
アンリはネージュのことをとても大切に思っている。
ネージュはそのことを知っている。
だけどアンリがネージュより女の子として愛しているのはシルヴィのほうだ。
――私より小さいまま成長の止まった女の子。
どちらかというとまだ幼さの残るネージュにすら女性としての肉体的魅力では劣るだろう。
その顔立ちも、ネージュの知る一般的な見方では劣る。
アンリに対する態度だって優しくない。
それなのにアンリの男の子としての愛情を一身に受け取って、その上で強さで遙かに上を行かれている。
「ふっ!」
シルヴィが鋭く息を吐く。
彼女の動きは強化されたネージュの視力でも追うのがやっとだ。
なぜなら彼女は物理的にありえない動きをする。
ガルデニアとして訓練を受けたネージュの予想の範囲から大きく逸脱した動きをするから、見失いそうになる。
いま戦っている敵は完全にシルヴィについていけていない。
きっとシルヴィがそうなるように動いているからだ。
だからネージュは辛うじて動きを追えている。
もしも狙われたのが自分であれば、きっと為す術もなく殺される。
そしてそれほどの強さを持つシルヴィであっても、この敵の鋼の防御は破れない。
シルヴィが手にしているのは得意とする剣ではないけれど、それはきっと関係ない。
むしろ鎚という鈍器で殴っていることで、敵の動きを制限できている。
斬ることを目的としている剣では、動きを止めることは難しかっただろう。
「素晴らしい。が、足りぬ!」
敵はついにシルヴィに対処するのを止めた。
彼女の攻撃が自分にとって痛撃とならぬのだから、防御することに意味は無いと割り切ったのだ。
シルヴィからの猛攻を受けながら、それを完全に無視する形で黒い槍を振りかぶる。
「ネージュ!」
放たれたのはクララに向けた槍の投擲。
もちろんシルヴィはそれを弾くことができる。
にも関わらず、シルヴィはネージュの名を叫んだ。
意味が分からないまま鋼糸を引き絞る。
攻防に手が出せぬままでも、撒いていた伏線を回収する。
地面に敷かれていた鋼糸が一斉に巻き上がり、なにもかもを絡め取る中でネージュは気付く。糸に絡みつく不自然な感触に気付く。
咄嗟に床を蹴った。
背後から迫っていた槍が、ネージュが立っていた場所を通り抜けて、そして消滅した。
なぜ忘れていた。
この敵はシルヴィたちが合流してきて最初になにをやった?
こいつは複数のまったく違う位置に向けて攻撃ができるのだ!




