黄泉返りの魔王 65
ミシミシと音を立てる扉は何もしなくとも今にも破られそうだった。
亡者の群れが向こう側にいることが嫌にでも分かる。
でももう大丈夫だ。
俺は範囲回復魔法を前方に向けて強く行使する。
幻想魔法のいいところは多少の障害物なら透過するところだ。
威力の減衰はあるが、今の俺の出力なら扉や壁程度なら問題ない。
扉の向こう側から聞こえてくる亡者の絶叫に室内の人々は悲鳴を上げ、耳を塞いだ。
扉近くで武器を構えていた兵士たちですら、腰を抜かしたものがいるほどだ。
クララとは違うってところを見せないとな。
継続性を持たせた回復魔法は近寄る亡者を次々と浄化していっているはずだ。
回復魔法を維持したまま、ネージュに向けて頷くと、彼女は扉の閂を外した。
この広間へと通じる扉は両開きの結構大きなものだ。
おそらくは舞踏会のような催し物を開催する大ホールなのだろう。
ウエディングドレス姿のネージュはその扉の中央に立って、その向こう側に身を晒した。
扉の向こう側にいた人々が、部屋に入ろうとしていた元亡者の生存者たちが、ホールへと殺到しようとして息を飲んだ。
ネージュが、つまり純白の衣装に身を包んだあまりにも美しいエルフの聖女がそこにいたからだ。
「大丈夫。中へ」
微笑みの無い聖女だったが、言葉の意味は伝わった。
「彼らはもう大丈夫です。亡者化の心配はありません」
俺がホールの中にいる人々に向けて言う。
亡者だったはずの人々がホールに入ってくることに拒絶感を示す人は多かったが、ネージュの美しさがすべてを覆した。
彼女に認められた人々が邪悪であるはずがない。
そう感じてしまうのだ。
さっと生存者たちに目を向けるが、レオン王子はいない。
クリストフ王子は、ごめん、顔を知らないや。
「レオン殿下について知る者はいるか?」
「レオン殿下は我々を守って戦い、そして亡者へと成りかけると自ら首を落とされました。しかし、しかしっ! 首が落ちてなお、レオン殿下は、くっ!」
そうか。
……そうか。
根の優しい、他人を慮る、犠牲を良しとしない人だった。
臆病でありながら、前に立つ勇気のある人だった。
王の器では無かったけれど、人として好感の持てる人だった。
友人ではなかったけれど、大切だと思える人だった。
戦争を控える中、リディアーヌとの結婚式に手紙をくれた。
義兄だったが、一度もお義兄さんと呼ぶことはなかった。
死んでいい人はいないにせよ。
どうしたって人は死ぬにせよ。
死んで欲しくない人だった。
王の器では無いにせよ、王太子としていずれ王になる彼を支えてもいいと思っていた。
「行こう。ネージュ。レオン殿下がこれ以上人を害することがないようにしよう」
「うん」
ネージュも帰らずの迷宮でレオン王子と長い時間を過ごした。
大切な人だと思っているかどうかはともかく、思い入れは時間の分だけあるはずだ。
あまり感情を表に出さないネージュだけど、剣を握る手にはいつもより力がこもっているように思えた。
感情は魔法に影響を与える。
幻想回復魔法は嵐のように邸宅内を吹き荒れた。
亡者が次々と浄化されていき、ネージュは剣を手にしてはいたが、彼女の役割は主に生存者への状況説明と上階への誘導だった。
浄化されて絶命した亡者の遺体は一時的には残るにせよ、それは脆く、崩れやすく、まるで砂のように、灰のように、煙のように、衣類だけを残して消えていく。
抜け殻のように衣服が散乱する邸宅内の光景は、非現実的で、世界が終わった後のようだった。
やがて邸宅内を大体浄化し終えた俺たちは、それと出会う。
邸宅の入り口で外を向いて、剣を床に突き立て仁王立ちする首の無い亡者。
そんなはずはないのだけど、その亡者はまるでこれ以上亡者が邸宅に入るのを防いでいるかのように見えた。
回復魔法を放つのを躊躇ってしまう。
首の無いレオン王子の亡者は回復魔法を受けたら消えて無くなってしまうだろう。
彼がここで人々を守ろうと戦った証は残らない。
それにどうしたって考えてしまうのだ。
首さえ見つけて繋げたらもしかしたら、と。
「アンリ!」
ネージュの手にした剣が、首無し王子の剣を受け止める。
風が起こるほどの剣圧。
ネージュは身体強化の魔導具を使用しなければならなかった。
薙ぎ払い。刺突。振り下ろし。フェイントを織り交ぜ、刃だけで無く、拳や足も使って攻撃してくる首無し王子。
その戦闘スタイルはシルヴィのものに影響を受けている。
亡者になっても、その肉体に刻まれた記憶は残っているのだ。
そしてその動きから、迷宮生還の後もレオン王子が研鑽を積んでいたのだと分かる。
強い!
シルヴィやバルサン伯爵には遠く及ばないまでも、彼が人々を守ろうと前に出たのはこの強さという根拠があったからだろう。
以前の彼であれば、まず自分の身を守ろうとしたはずだ。
周りの人々に守られるのが当然だという王族として当然の、普通の感覚を持つ人だった。
強さが、成長が、彼を殺したのだ。
「ネージュ、頼む。彼に先を、強さの続きを――」
上手く言語化できない。
そもそも首の無い王子になにが見えるというのか。
亡者になにが伝わるというのか。
魂はきっとそこにはいない。
回復できないのは、きっとそういうことなのだ。
だからこれは俺の感傷だ。
心の整理の付け方だ。
そんな俺の我が儘に、ネージュは小さく首肯した。
「そうする」
両者の剣戟は俺が目で追うのも難しいほど速く、鋭く、美しかった。
そしてそれでもネージュのほうが上手だった。
身体強化の魔導具が必要だったのは、亡者化したレオン王子の肉体的制約が外れていたからだろう。
リミッター以上の力を出し続ければ肉体はすぐに限界を迎える。
ぼきり、と骨の折れる音がして、攻撃した側のレオン王子の腕があり得ない方向に曲がった。
ネージュは手を緩めない。
心臓を狙った刺突を、王子は左手で受け止める。
だがそれくらいでネージュは止まらない。
剣先は手のひらを貫き、その胴を貫いた。
ネージュは力任せに剣を横に振り抜き、心臓を貫いた刃は胴体を切り裂いて横に抜ける。
驚くほど血は出なかったのは、きっともう心臓が止まっていたからだろう。
もしもこれが物語なら、レオン王子が最後に正気を取り戻して、感謝の言葉を残していくのかもしれない。
けれどこれは現実で、レオン王子には言葉を発するための首が無かった。
「アンリ、もう十分」
「そうだね」
レオン王子の亡者はまだ動いていたが、もう戦えるほどではない。
これ以上はただただ苦痛を引き延ばしているだけだ。
「さようなら。お義兄さん。リディアーヌは必ず幸せにします」
そう言って俺は回復魔法を行使した。
返事は無く、ただ亡骸は激しく痙攣して、そして動かなくなった。
これは物語ではない。




