大氾濫 9
「アンリ君に相談なんだがね」
晩餐が終わりかけた頃、領主は唐突にそう切り出した。
俺は口に運ぶところだったケーキを皿に戻す。
ついに要求が来た。
さあ、領主はどんな無理難題を俺に突きつけてくるのか。
「なんですか?」
「単刀直入に行こう。ストラーニ家の養子にならないか?」
「それは、俺を貴族に、ということですか?」
「爵位を継ぐのはダヴィドだ。そういうことではなく、私は君に教育を与えたい」
「教育……」
「正直に言うと、私は君が恐ろしい。杖の一振るいで数千の魔物を薙ぎ倒したその力を、わずか6歳の子どもが持っているという事実が、私は怖い」
「俺は悪いことをするつもりはないです」
「分かっている。君は悪い人間ではない。だが君の成長をアドニス村に任せてもおけない。力あるものには責任が生じる。それを学び得る場が彼の地には無い。君にはその力に相応しいだけの知識と教養を身につける必要がある」
領主の言うことは理解できる。
考えても見て欲しい。
何も知らぬ6歳の子どもが重火器を持ってそこらをうろついていたら?
俺の存在はそれ以上に凶悪だ。
大人としてせめてその扱いを学ばせようとするのは当然のことだろう。
「まずは10歳までここで学び、それから王都の学園に入学してもらいたい。学園は貴族の子弟子女しか入学できないから、そのために養子になってもらいたいのだ」
「すぐには返事できません……」
「それはそうだろう。だが悪くは思うが君をアドニス村に帰すことはできない。学園に通うかどうかは先の話ではあるが、ここでの教育は受け入れてもらう。これはお願いではないのだ」
領主としての命令だと言うわけだ。
それでもすぐに返事をすることはできない。
母さんと約束したからな。
子どもらしく言外のニュアンスは伝わらなかった振りをしよう。
「せめて、大氾濫が終わるまで返事を待ってもらえないでしょうか? 父さんや母さんとも話をしたいです」
「そうだな。もちろん君の家族の生活についても考えていないわけではない。君の父親にはこの屋敷の庭師になってもらおうと考えている。他の家族についても屋敷で雇うと約束しよう」
「ありがとうございます。家族ときちんと話をしてみます」
「大氾濫が収まるまではまだまだ時間がある。じっくりと考えてくれ」
俺はケーキを口に運んだが、あまり美味しくは感じなかった。
その後、執拗に泊まっていくよう勧める領主の誘いを振り切って、俺は屋敷を後にした。
馬車で家族のいる天幕の近くまで送ってもらう。
歩いていっても良かったのだが、ピサンリの町をまだ一度も歩いていないので多分迷うからだ。
「ただいま」
すっかり外は暗くなっており、アデールはもう寝ているかもしれないと声を控えめに天幕の中に入る。
「おかえり、アン……リ?」
俺の姿を認めた父さんと母さんが固まる。
「アンリ、あなたその服はどうしたの?」
母さんに言われて気付く。
領主に用意してもらった貴族の服を着たままだ。
慌てて天幕の外に出ると、ジルさんが肩を震わせて笑っていた。
「わざとでしょ!」
「失礼いたしました。あまりにお気づきにならないものですから、つい。ですがお洋服はまだ乾いていないのです。明日にでもお届けするように致しますので」
「その時にこの服は返せばいいんだね?」
「いえいえ、そちらはもうアンリ様のものです。他に着る者もおりませんので、お受け取りください」
「というか、屋敷に出向くときにはちゃんと着てこいってことでしょ」
「まさしく」
馬鹿丁寧にジルさんは頭を下げる。
「分かったよ。屋敷に行くときはちゃんと着ていく。でも俺の服はちゃんと返してね」
「もちろんでございます」
ジルさんに今度こそ別れを告げて、俺は天幕の中に戻る。
「というわけで、この服は領主様から貰いました」
「領主様との間になにがあったの?」
母さんが心配そうに尋ねてくる。
「うん。養子にならないかって言われた」
「それで!? なんて答えたの!?」
「考えさせてくださいって答えたよ。母さんと約束したからね。でも領主様の言うことだから……」
「ふざけるなっ! アンリ、おまえは俺たちの大事な息子だ。誰にも渡すものか!」
怒鳴った父さんが俺の体をギュッと抱きしめる。
というか、力が入りすぎてて痛い。
「待って、父さん、痛いよ」
「だが、アンリっ!」
「落ち着いて、父さん、話を聞いて」
「んぅ、……にーちゃ?」
アデールまで起きてくる。
目をこすったアデールは父さんに抱きしめられた俺を見て、自分も自分もとすがりついてくる。
大混乱が続いたが、しばらくして俺は膝にアデールを乗せ、父さんは母さんに正座させられていた。
ようやく落ち着いて話ができる。
「養子の話は置いといて、領主様は俺に学ばせたいんだ。力を持つことの意味とか、その責任を。今の俺はなにも知らなさ過ぎるから……。俺は領主様の言うことにも一理あると思ってる。この力はすごく危険なものだ。俺も学びたいと思ってる」
「しかしそれが養子の話とどう繋がりが」
「俺が10歳になったら、王都にある貴族の子どもしか入れない学園に俺を入学させるつもりみたいだ。そのために俺を養子にしたいってことみたい」
「俺には難しい話はよく分からん。アンリはアンリだ。これまでのままじゃ駄目なのか?」
「俺もそれが良かったよ」
アドニス村で家族と成長し、成人したら冒険者になって一旗揚げる。
そんなささやかな人生設計は脆くも崩れ去った。
「けど領主様は逃してはくれないと思う。少なくともアドニス村には帰れない」
「そんな馬鹿なことがあってたまるか! おまえは逃げられるだろう! そりゃ俺たちはどうにもならないかも知れないがおまえはどこへだって逃げられる。そうだろう!?」
俺は首を横に振る。
「家族を置いては行けないよ。それに領主様のところへ行ったって家族が離れ離れになるわけじゃない。領主様はみんなに屋敷での仕事をくれるって約束してくれた。きっとアドニス村にいるよりもいい生活ができるよ」
「おまえを犠牲にして得るそんな生活になんの価値がある!」
「ありがとう。父さん。そう言ってくれて嬉しいよ。でも俺は犠牲になるんじゃないんだ。むしろこれはチャンスなんだと思う」
「チャンス?」
「考えても見てよ。ただの平民の俺が貴族の養子になるんだ。領主様の後ろ盾を得ることができるってことだよ。そして学園に行けば貴族の子どもたちと繋がりができる。きっとそれは得難い財産になるはずだ」
「おまえの言うことは難しくて俺には分からん。俺が知りたいのはひとつだけだ。アンリ。それは本当におまえの望むことか?」
父さんが心から俺のことを考えてくれていると分かって、涙が出そうになる。
父さん、本当のことを言えばもっとアドニス村で平穏な時間を過ごしたかったです。
でもその時間はもう終わってしまったんだ。
そんなことを口にすれば父さんをまた混乱させてしまうだろう。
だから俺はそれをぐっと喉の奥にしまいこんで、ただ頷いた。
「そうだよ。父さん。それが俺の望むことだ」
その夜は父さんと母さんに挟まれて眠った。
きっとこんな日々はそう長くは続かないと分かっていたから。