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第71話 みえぬものにこびぬもの

第71話 みえぬものにこびぬもの


 放課後。もう今日が本番で良かったんじゃないかという、長い長い体育祭全体練習が終わり、学年主任から各自自由解散するように言われた。ようやく帰れる、と重い腰を上げて背伸びする。インナーシャツに染み付いた汗をどうにかしたい。通気性がいいとはいえ、ベタつくのは避けきれないようだ。未成年の汗の量は尋常じゃない。自身が汗臭いのも分かっているので、できることなら制汗剤か何かでこれを軽減させたい。むしろ、シャワーを浴びたい。

 そう思いながら、生温くなった烏龍茶を一気に飲み干し、その場を立ち去ろうとすると、不満そうに声を荒らげる田端の声が耳に届いた。声のした方を向けば、額に手を当てて落胆している瀧本と頬を膨らませて不服そうに腕を組んでいる田端、そしてその目の前に黒髪で銀フレームの眼鏡をかけた、うちのクラスの担任の加古原先生がいた。加古原先生は、子供のように不服そうにしている田端の表情に対し、笑顔をひとつも崩さない。それでも、田端は抗議だと言わんばかりにオーバーアクションをしながら、先生を非難していた。


「それは無いよカコちゃん! 俺は別に係じゃないんだから、そういうのはタキの専売特許なんだから俺は必要ないでしょー?!」

「おいこら、人を何でも屋みたいな言い方すんな。あと、先生なんだからちゃん付けはやめろ」

「そうですよ田端くん。先生は仮にも担任で仮にも男なので、ちゃん付けは少し可愛すぎますよ」


 先生は困ったような笑みを浮かべながら物腰柔らかく答える。いや、そこなのかよ、と俺と瀧本は同じタイミングで先生を見てしまった。まあ、確かに、田端のネーミングセンスは壊滅的というか、好き勝手しすぎなのだが……。そのくせ、女子にあだ名を付けるのは恥ずかしいとのことで、女子は全員名字呼びというヘタレっぷりである。


「えー?! 加古原だからカコちゃんでいいじゃん? 親しみがあって俺は好きだよ?」


 そういう問題じゃないだろう、と心の中で思ったと同時に瀧本が口に出して叱責していた。加古原だから、カコちゃん。確かに加古原先生は体の線が細くて痩せ型だが、れっきとした男性である。髪が長ければ女性に見えなくもないのだろうが、180cmはあるのだからあまりそうは見えないだろう。服装自体も、いつもカーディガンを着て緩い感じである。ちょっと抜けてるところがあってそこが好きだって女子生徒が多いらしい。よく分からないけども……。


 本名は加古原咲也。今学期から産休に入った先生の代わりで、うちのクラスを担任することになった人だ。それなりに評判も良い。

 担当科目は現代文と古文。見た目に寄らず、言葉巧みに生徒のモチベーションを上げるのが上手いとのこと。ただ、俺は前の担任も含め、先生と言う存在にあまり関わったことがない。逆に、瀧本や田端はよく関わることが多いみたいだが、俺としてはなんだかこう、読めない人だな、と線を引いている。

 生徒思いのいい先生だというのはわかっているのだが、本能的に苦手なタイプだなと感じている。俺からしたら、『先生』というよりも『教授』という人間に見えるのだ。まあ、あくまでもこれは俺のひねくれた主観になるのだが……。


 自分の性格が如何にひねくれているか呆れ笑いながらその様子を眺めていると、威嚇し続ける猫を宥めるように先生はニコニコと笑いながら話を続ける。


「田端くん、ここは先生に恩を売るつもりでお手伝い頂けないでしょうか?」

「恩を売るぅ? それって先生に借りを作るってことー?」

「そうです。田端くんは、座学の成績と課題の提出はあまり宜しくないようですが、体を使うこと、つまり、運動神経がすごく良くて私は尊敬してるんですよ」

「運動神経が良い? 俺が?」

「はい。先生は昔から運動は苦手なので、田端くんのような運動神経の良い人は本当に羨ましいです。先生からしたら天性の才能だと思いますよ」

「ふ、ふーん? まあ俺の運動神経の良さは学年でも指折りだし~?」


……なるほど、すごく単純、というか社会の縮図だな。馬鹿には下手に出て、外堀から埋めていくのか。前述の言葉に対しては、痛い所をつかれたとでも言いたそうな顔をしていたのに、どんどん持ち上げられるとすごく気分の良さそうな顔をしている。「褒めて伸ばす」を物にしてるのは確かなのかもしれない。一歩間違えたら皮肉の言葉にしか聞こえないのに、相手によって言葉を選ぶのは流石としか言い様がない。


 ってか、田端って猫、めっちゃ自分の喉をごろごろされてんじゃんか。もはや手のひらの上で踊らされてるも同然だな。これは確かに噂通りの技なのかもしれない。田端の心の隙に入り込んだとはいえ、先生はまだ喋るのを、いや、撫でるのをやめなかった。


「ですから、田端くんの得意分野で内申点を稼ぐのも先生としては悪くないと思うんですよ。田端くんには、その才能があります。だから、瀧本くんと一緒に競技係の片付けのお手伝いをして頂きたいんです」


 またたびか何かを与えられたかのように、言葉巧みに優しく持ち上げられた田端はそれはそれはもうご機嫌なもので、ない鼻を高くし、誇らしげに、しょうがないなあと言って「カコちゃんがそこまで言うんだったら、やってあげなくもないよ!」と、無事に懐柔されていたのだった。


 これには瀧本も驚きというか、意外だと言いたそうな顔をしていた。前の担任ですら田端の扱いに苦労していたというのに、ものの数分で相手のことを気分良くさせたのだから、やはりいろんな意味で恐ろしい先生である……。改めて、関わりたくないな、と眺めていると、加古原先生はチラリとこちらの方を横目で見て口を開いた。


「……恩を売るという意味では、雀宮くんも宜しければ、ぜひ」


 そう言ってにっこりと微笑んだ。思わず背筋がゾッとする。別に、向こうからしたら何気ない言葉を投げたつもりなのだろうけども、完全にとばっちりである。うわ、最初から見てたのかよ、とは言えず、そのまま瀧本も田端も俺の方を見る。そして、俺が一歩足を出して逃げ出そうとする手前で、田端が「すずりん!!」と俺の首を引っ張るように肩に腕をかけて無理やり捕まえてきた。


「ぐえっ」

「よーし、すずりんも先生に恩を売っておこう?運動神経ならすずりんも該当するでしょ?」

「いや、俺は別に……?!」


 そう言ってその腕を振りほどこうとするのだが、俺の視線の先にいる加古原先生がこちらを見つめていた。


「人数が多い方が助かりますが、無理にとは言いません。ただ……」


 そう言って一呼吸置くと、首をこてんと横に傾けてふふっと笑った。


「恩と言うのは、いつか財産になりますよ。進学するにも就職するにも。ですから、今のうちに沢山売っておくことをおすすめします」


 そう言い切ると、不気味な程に柔らかな笑みを浮かべる。自分の性格も大概だなと充分理解したのだが、それでもこの先生の言葉はなぜか心の奥をくすぐるような言い方で好きになれなかった。

 ただ、瀧本も田端も手伝ってくれるなら有難いとでも言いたそうに期待の眼差しを向けていたので、断るわけにもいかず「わかりました」と返事をすることしかできなかったのである……。


 まあ、仁都達を待つにはいい暇つぶしになるかもしれないと、心のどこかで加古原先生の手のひらの上で妥協している自分がいたのだった……。


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