第5話 ほしぞらはぼくらをしっている(2018.4.1加筆修正済)
第5話 ほしぞらはぼくらをしっている。
「……すーちゃん、おかえり~!気持ちよかったでしょ?」
そう言ってソファの背もたれから顔を覗かせた仁都は、俺の姿を見てぶふっ、と吹き出した。
「ふふっ……!!すごいね、よく、に、似合ってるよ……!」
「……そりゃどーも? お褒めに預かり光栄、ですなぁ?」
ようよう、仁都さんよ。逆さまに見ても俺はそんなに面白いですか。そう嫌味をこめながら、俺もテレビに向かい合うようにソファに座った。
テレビにはバラエティー番組が映っており、芸人やタレントの笑い声が聞こえる。ちょうどゴールデンタイムの真ん中だからだろう、滑らかで高画質な世界には見慣れた芸能人が多く出演していた。俺は仁都に手渡されたオレンジジュースを一口飲むと、ふうっと一息ついた。
お風呂は確かに気持ちがよかった。床は全て大理石で、バスタブも広かったし、窓から眺める景色も最高だった。 シャワーブースも二つ備え付けられていて、高級ホテルに泊まった気分になった。シャンプーやリンスなどのバス用品も見たことの無いブランドのものばかりで、自由に使っていいと言われたものの、恐れ多くて躊躇してしまった。
仁都はそばにあったクッションを抱えながら、こちらを見ては笑いを堪えているようだった。
「……いつまで笑ってんだよ」
「とてもよくお似合いだなあと……ぶふっ!」
「……いや、言ってることとやってることは、全く合ってないからな?」
「あーあ、こんなことになるなら、ひよこのパジャマとかとっておけばよかった~!ふふっ!」
「笑いすぎだろ……ってか、ひよこのパジャマってなんだよ。女子か」
「いいじゃーん!俺は可愛いもの好きなんですよーっと」
「その見た目で可愛いもの好きとか、世も末だな……」
えーひどーい!と頬を膨らませながらクッションをギュッと抱きしめた。拗ねた子供のように上目遣いをしてくるが、全くもって可愛らしさを感じられない。これが女の子ならいいが、図体のでかい男がやったところで俺は全く得をしない。姉貴でさえも可愛さを感じられないのだ。仁都なら尚更、だ。
というか、これがあれか、ギャップ萌えという奴か。仁都みたいな奴が可愛いもの好きだとか、学校一の不良が動物好きとか……。より高低差の激しいギャップほど女子は惹かれる傾向にあるらしい。母性本能がくすぐられるとか聞いたことがある。いつも姉貴の買い物につき合わされていたせいか、要らぬ知識だけは豊富にある俺、なんだかすごく悲しい気持ちになった。
ふと窓の方に目をやると、相も変わらず外の景色は途絶えることなくその光を灯していた。 しかし、先程とは違い、外の世界も光が消え始めていた。
結局、こういう景色は会社で残業している人たちによって成り立っている。姉貴もたまに、終電ギリギリで帰って来て玄関先で死んでいる。裏側ではこういう人達が支えていると思うと皮肉なものである。
そんな景色を背に、仁都はテレビを見ながら、大笑いしたりツッコミを入れたりしてご満悦のようだった。
俺もテレビを眺めながら姉貴に連絡を入れた。心配している、と言うことはないだろうが、一応姉貴を会場に置いていったことへの謝罪と今日は家に帰らないことを伝えた。
でもなんて送ればいい?仁都の名前を出したところで分からないだろうし、かといって嘘をつけるわけでもない。とりあえず、友達の家に泊まるとだけ添えた。
すぐさま、通知のランプが点滅した。予想していた通り、向こうは既に俺にお怒りのようで、恐ろしいくらい返事が連投されたが、見なかったことにした。
どうせ帰ってきてからも、ネチネチと説教されるのだ。今くらい見なくたってバチは当たらないだろう。いや、もう既に当たっているか……めんどくさいことになりそうだ……。
そう適当に姉貴からの連絡をあしらっていると、満島さんが帰る時間とのことで、玄関先で見送った。
満島さんは住み込みではないらしい。たまに泊り込むこともあるようだが、基本的には必ず自宅に帰るらしい。
また明日の朝一番に来てくれるそうだ。しかし、いくら家政婦だからと言って明日の朝一番は大変じゃないかと仁都を尋ねたら、
「大丈夫だよ、由佳さんはこの下の階に住んでるから」
と、言われ、俺は自分の耳を疑った。
……は?なんだって?この下に住んでる?
そろそろ俺の知ってる常識じゃ追いつかなくなってきてるぞ?
家政婦さんの家が高層マンション?しかもこの最上階の下だって?
この下とは言え、家政婦をやっていて払えるような相場の家賃じゃないですよね?!
という俺の表情で察したのか、仁都は「まあ、これは、由佳さんになんかあったら対応できるようにってことで!一応、由佳さんの分の家賃も【こっち】持ちなんだー」と教えてくれた。
なんというブルジョワな。いくら家族同然だと言っても家政婦さんはあくまでも赤の他人なのだからそこまでする必要がないはずだ。だが仁都としては、満島さんは家族同然だとのことで、どうしてもすぐ会えるように手配したのだと言う。優しいのか余裕があると言うのか……つくづくよく分からない男だった。
しかし、【こっち】と言った時の仁都の表情は、どこか言い難いような寂しそうな目をしていたのは、気のせいだろうか……?
そんな俺を他所に、仁都はあっ、と言うとくるりと体を反転させた。
「お風呂に入ってこようかな~!!俺、結構長いからさ、適当にテレビ見ててよ。あ、ゲームもしてていいからね!」
そう言うと、仁都はお風呂場へと向かい、俺は一人だだっ広いリビングに取り残されてしまった。主のいない部屋に響くのは、テレビに映る出演者たちの笑い声だ。 それ以外は何も聞こえない。
仁都がいなくなった途端、こんなに静かになるとは思わなかった。でも静かになって困ることは無い。大体、家にいるときも一人でいるときが多いし、どちらかと言うとこっちのほうが好きだ。それなのに、俺はなぜかテレビの音量をあげていたのだった……。
ふと、テレビの時刻を見ると、そろそろ日付が変わろうとしているところだった。いつの間にか、バラエティの特番は終わり、今日の締めを告げるニュース番組の最中だった。
ほんとに風呂が長いんだな……のぼせてなきゃいいけど、と目線を窓にやると、もう光という光はほぼ消えていた。残業をするサラリーマンさえ見かけることもなくなった。 街灯や会社の広告や看板だけが周囲を照らしている。少しだけ寂しい風景だ。街ももう眠り始めているのだろう。
もうそろそろ終電自体がなくなる時間だ。 目まぐるしく動いた一日の終わりが、もうすぐそこに迫っている。
日付が変わり、藍色に染まった世界に光が差し込み、朝を迎えればまた昨日と同じ日常がやってくる。
また同じような毎日がやってくる。そしてまた一日が終わり、明日がやってくる。そうやって人は生きている。それを人々は人生と言う。
……なんて、どこかで聞いたような話を思い出す。美徳に聞こえるだろうが、それは全部偽物だ。ただただ、つまらない、退屈なものだ。
何故だろう。ここの景色を見ていると、何千人、何万人が過ごしている毎日がとても小さくて虚しいものに感じる。
俺もその中の一人だと言わんばかりに、その現実を突きつけてくる。 どんな喜びも悩みも悲しみも、遠くから見れば小さいことで、どうでもいいことに見えてしまう。
人生の主役は自分だなんて、誰が言ったんだろう。神様というものは、今、どんな顔をして人々を眺めているんだろうか……。
手を広げて、沈み込むようにソファで仰向けになった。 癖のある革の匂いに埋もれ、天井を見つめた。触り心地のいいソファは、こんな俺ですら包み込んでくれる。
先程まで、ここから見える夜景がとても美しく、憧れるものだったのに対し、今ではそれを観るのも嫌になった。
……あまりにも大きすぎるのだ。大きすぎる上に、眩しすぎるのだ。この世界にいても尚、必死に生きようとしている人の姿が。
あの夜景がそれを証明している。そして、俺はその姿に目を逸らしていた。どうしても自分が、同じ世界で生きられるとは思えなかった。
だからこそ、あとを追いかけてくるのは虚しさだった。大きすぎるが故に自分に圧し掛かる虚しさ、俺の人生そのものだった。
「……ほんと、大きすぎるよな」
そうぽつりと呟くと、大きな影が覆いかぶさった。
「何が、大きすぎるの?」
気づけば仁都がひょいと顔を覗かせていた。逆さまに見えるその顔は、お風呂から上がったばかりだからか、濡れた髪の毛がかすかに光を帯びていた。
「どうしたの?すーちゃん、眠たい?」
さっきの俺が呟いていたことは聞いてないらしい。首を横に傾げ不思議そうにこちらを見ている。
途端に、全身が羞恥に包まれる。先程まで自分のことを振り返っていたのだ。らしくない、声がかすかに掠れてしまった。
「あ、ああ。別に、そんなんじゃ、ない」
「そう?結構、振り回しちゃったから疲れてると思ってたんだけど……大丈夫そうなら良かった!」
「……一応、自覚はあるんだな」
「さすがにねー。すーちゃんを攫っちゃってるわけだし?」
「お前みたいに人を攫う奴、サスペンスドラマでも見たことねえよ」
「でも、あれみたくない?舞踏会からお姫様を連れ去る王子様とか」
「俺にはその王子様が悪役にしかみえないけどな」
「あははー、だよねー!自覚と反省はしておりますー」
と、頭を下げてきた。なんとも調子のいい奴だと思う。こんな奴だから俺もそのペースに乗せられてしまったのだと思う。性格は残念だが、悪い奴ではない。
いい意味で調子を狂わされる。俺の棘のある言い方にも笑って返してくれるあたり、本当にコミュニケーション能力が高いんだと思う。
「……俺もね、この景色、そんなに好きじゃないんだ」
突然、仁都はそんなことを言った。首にかけたタオルで、くしゃくしゃに髪を掻き回した。
「見飽きたってのもあるんだけど……星が見えないから」
「……星?」と聞き返す。見飽きたってのも贅沢な話だが、星が見えないとはどういうことだろうか。そう思っていると仁都は話を続けた。
「昔はね、星がいっぱい見えるところに住んでたんだ。だから、いつもそこから星を見てたんだけど……ここじゃ星が見えなくてちょっと寂しいんだ」
昔を思い起こしているのか、そう言って柔らかく微笑むと、何かを思いついたようにパッと顔色を変えた。
「ね、すーちゃん。星、観たくない?俺、いいもの持ってるんだ~!ちょっと待ってて!」
そう言うと、俺の返事も聞かずにどこかに行ってしまった。自分の宝物を友達に見せたくて仕方ない小学生のようだ。
……しばらくすると、仁都は満面の笑みを浮かべて戻って来た。小さな凸凹が沢山ついた白い球体を持ってきたようだった。年季が入っているのか、所々少し錆び付いていた。
それは、小学生とかが夏休みの自由研究で使いそうな、手作りキットとかでよくある簡易なタイプのプラネタリウムの装置だった。
「じゃんっじゃじゃーん!俺のお星様!どう?素敵でしょ?」
「……何これ、プラネタリウム?」
「そうだよー。友達があまりにも不器用でさ、俺が代わりに作ってあげたんだー」
仁都はテーブルに置くと、コードを繋いでコンセントに差し込んだ。そして、いそいそとテーブルとソファを動かした。
意外だった。観たくない?と言うのだから、どこかに出かけるのかと思った。マリーアントワネットじゃないが、「星が見れないなら、現地に行けばいいじゃない」なんて言い出すのかと……。
完全なる思い込みだが、こいつなら電話一本でリムジンやヘリコプターくらい簡単に用意できそうだし。
だからこそ、ちょっと面食らった。こういうのを持ってるなんて普通の人みたいだ。いや、普通の人なんだろうけども。
「よーし!準備できた!ブランケットも持ってきたし、寝そべる準備は万端!すーちゃん、なんか飲み物いる?」
「いや、別にいらない……ってか、寝るのかよ。別にプラネタリウムなら座りながらでも見れるだろ」
「ダメダメ!こういうのは雰囲気が大事だからね?ここは今から草原です!はい!草原!」
「適当だなぁ……」
不安を口にする俺とは裏腹に、仁都はにんまりしていた。おうおうご満悦な様子だ。
今はそっと仁都のペースに合わせるしかない。俺は半ば諦めたような呆れたため息をこぼした。
しっかし途端に子供っぽくなったなあ。プラネタリウムなんて小学生のとき以来だ。あの時は、心地のいいアナウンスと共に、無数の星が空に流れる姿に見惚れてたんだよな。
星なんて、お祖母ちゃんの家に行った時にしか見られなくて、流星群とか流れ星が出た瞬間に思わず声を上げちゃったんだっけな……。
つい思い出に浸っていると、「テレビ消すね~」と仁都はリモコンを持ってテレビへと向けた。が、なぜか、すぐに電源は切らなかった。
リモコンを構えたまま、その目はまっすぐ何かを捉えていた。俺もその視線を追って画面を見た。そこには、女性アナウンサーが淡々と次のことを伝えていた。
「本日、各大手企業が集まる社交会に柄沢議員が参加し、多くの参加者と交流を深めていました。企業だけではなく、芸能人や各界の著名人が集まる中、議員は、終始笑顔で参加者たちと食事を楽しみ、「これからも、お互いに頑張っていきましょう。未来の日本のためにも、これからも皆さんの力をお借りします」と励ましの言葉を交わしていました。それでは、次のニュースです。昨日、熱愛があった俳優の……」
僅か一分も満たないニュースだったが、仁都は諦めたような目でその話を聞いていた。食い入る、とはまた違うが、何かを言いたそうに口を開きかけていたがすぐに閉じた。
映っていた芸能人に好きな人でもいたのか、はたまた、知り合いが映っていたのだろうか?柄沢議員、そうアナウンサーの口から出たとき、一瞬その人を睨んでいたようにも見えた。仁都は政治家が嫌いなのだろうか。
俺も政治家はそこまで好きではないし、それ以前に興味が無い。なんとなく分からなくはないのだが、仁都もそうなのだろうか?
「……どうかしたのか?」
ニュースでは人気俳優の熱愛報道が終わり、天気予報に移っていた。明日は晴れるようだ、天気予報士のお兄さんが嬉しそうに伝えていた。
先程のニュースによっぽど夢中になっていたのか、仁都は俺が声をかけるとハッとした様子で、「あ、ごめんごめん!なんでもないよー!気にしないでー!」と言い、「明日の天気見たかったんだー!へー、明日は晴れるみたいだねー!」と声を張り上げてテレビの電源を切った。
笑っているはずなのに、その表情は固かった。だが、俺はそれ以上追求するのはやめた。親しき仲にも礼儀あり……いや、親しいのかは疑問だが、 動物的直感により、このことには触れないほうがいいと判断した。
なんでもかんでも喋られたほうが困る。今日は情報の整理に脳をフル回転させっぱなしだったのだ、しばらくは頭を使いたくない。
「じゃあ、電気消します~!」
仁都が電気のスイッチを押すと、部屋は真っ暗になった。 真っ暗と言っても、薄く外の明かりが窓から零れているので、見えないという程ではなかった。
俺達は隣同士でカーペットの上に寝そべった。離れて寝たはずだが、俺たちの仲じゃん、と向こうからくっついてきた。
どこが俺達の仲なんですかね、と悶々とした気持ちを抱える俺の横で、仁都はプラネタリウムの電源を入れた。
……そして、そこから見える景色に、俺は感嘆の声を漏らした。
「すげえ……」
「ようこそ、すーちゃん。星の世界へ」
……それは見渡す限り、満天の星だった。 部屋の天井が高いからか、作り物だと分かっていても、本当に星を眺めているような躍動感が全身を駆け巡った。
本来、普通の部屋では映しきれない部分まで、鮮明に、全ての星がこの天井で煌めいているのだ。
神様が無数の宝石を空に投げたようなこの空間に、ただただ感動していた。星なんてこの町ではそうそう見られないのだから。
「……すごいな、本当に外にいるみたいだ」
「ふっふっ。これ見た目は錆びてるけど、中身はまだ現役だからね~。ほら、見てみて!あれがデネブ、アルタイル、ベガ……なんだっけ、ほら、三つ合わせて……ええっと……!」
「夏の大三角、だろ?」
「そうそうそれ!すーちゃんは物知りだねー」
「いやいや、小学生の時に習っただろうが」
「ふっふっ、すーちゃん、俺が記憶力良さそうに見える?」
「……そうだな、ノーコメントにしとく」
「えー!!ここは嘘でも良さそう!って答えてよー?!」
いやいや、訊いてきたのはそっちだろう、とんだ被害を食らってしまった。 逆にどこから謎の自信が湧いてそんな質問をするのか問い質したい。
本当にこいつは喜怒哀楽というか、感情の移り変わりが激しい。うちの猫を相手にしている気分に……いや、うちの猫よりもこいつのほうが移り変わりが激しいのかもしれない。
というか、この底知れぬテンションの高さはいったいどこから来るのだろうか。体力がよく持つもんだ。もう夜中だぞ、星を見るときくらい大人しくしてても俺はいいと思うぞ?
そう思いながら仁都の星を当てるクイズに付き合い、不意に笑みが零れていることに気づいた。
「お前……今のところ、一つも成功してないからな?」
「違うんだよー!すーちゃんの頭がよすぎるんだよ!」
「どんな反論だよ、それ……っはは!」
「あー!!笑ったなー!!」
「呆れて何も言えないっての、っあはは!」
「もー、笑いすぎだよ!すーちゃん!」
そう言って仁都はうりゃうりゃと、仕返しなのか俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた、力加減がしてあるからかくすぐったい。俺はひとしきり笑ってしまった。
「……たまには、星を見るのも悪くないよな」
自然と口から出た言葉だった。俺にしてはらしくない言葉だったかもしれない。 思えば、いつからか空を見上げることすらも忘れていた。
空を見上げるためには、顔を上げなければならない。だけど、顔を上げれば、そこには俺を嘲笑う気味の悪い人々の姿は常に見え隠れしていた。
俺よりも背が高くて、俺よりも声が大人で、無数の目がこちらを見ている。ある者は俺の事を嗤い、ある者は俺を卑しめた。もちろん、身内の中でもだ。
右も左も、いつも見えるのは「雀宮泪さえいなければ…」という視線だった。それが脳裏から離れなくて、いつしか、ずっと下を向いていた。
どうせ、俺は背が小さいのだ。俺よりも背の低い人間はいないのだ。だったらこのまま下を向いていようと、人の顔すら全く見なくなった。だけど、今は少し違った。
……たまには、空を見上げることもしていいんじゃないかと。
たまには顔を上げないと、自分が今、誰といるのか分からなくなるもんな。そうじゃなきゃ、そばに見えるものまで見逃してしまう。
自然と心のなかにあった重荷が、一時的だったけど、外れた気がした。きっと、この星空と、仁都のおかげだと思う。
今、この瞬間だけは、俺も上を向ける気がした。
「……仁都」
「ん?なーに?」
「今日は、ありがとう。その……色々と楽しかったし、面白かった」
「そう?それなら良かった」
そう言うと、顔をこちらに向けた。ふやけたように緩んだ、笑みを浮かべていた。
、
「……俺、すーちゃんみたいな弟欲しかったなあ。そうしたら、もっと楽しかったのかも」
俺が弟ですか……と言ったところで、俺はとあることに気づいた。いや、気づいていたけど触れていなかったことに。
「……なあ、仁都、お前の両親って、今どこにいるんだ?」
俺の問いに仁都は何も言わず、柔らかな表情を変えないで、俺の次の言葉を待っていた。
「あっ、ほら、こっちは泊まらせて貰ってる身分なんだし、ちゃんと挨拶しないとダメだろ。自分の意思であったにしろ無かったにしろさ……」
世間一般、常識的なことを何気なく言ってるはずなのに、どこか仁都を追い詰めているようだった。
えっと、と次の言葉が出なくて頭の中の広辞苑を漁っていると、仁都は起き上がり、少し経って俺に向き直った。
「んー……俺の両親はね、すごく遠い所にいるんだ。ここ最近、全然会ってないんだ~」と、言うと唇を尖らせて蛸みたいな表情をした。
「なんか、最近仕事が忙しいみたいでなかなか帰ってこないんだ。全く、こんなにカッコいい息子を放ったらかして何してるんだろうね!俺グレちゃうぞ!」
そう言うと、仁都は腕を組んでうんうんとうなづいていた。ってか、カッコいいのは自覚済みですか、左様ですか。
ま、まあ、良かった……。こういうのは、どこまで踏み込んで訊いていいのか分からないからな。別に聞いちゃいけないわけじゃなかったようだ。
「ふーん、結構大変なんだな。どっちも仕事でいない感じなのか?」
「そーそー、俗に言う海外転勤って奴。ほぼ日本にいないから、ここの家の名義も俺のフルネームってわけなの」
はあ……なるほど、そういう訳だったのか。うちと似たようなもんだったのか。
うちは姉貴がいるので、一応家を空けても気にしてはいない。しかし、この家は仁都一人でいることが多くなるため、心配した両親が家政婦である満島さんを雇ったのだという。
本人曰く、生活能力はまるでないらしい。一時、家の中をめちゃくちゃにしてしまったことがあるそうだ。
確かにそういう理由ならば、親御さんは心配で家政婦さんをつけたくなるのも分かるかも。
「それに俺一人っ子だから、兄弟とかほんとにそういうの羨ましくて、すーちゃんみたいな弟欲しかったなあ~」
それを想像しているのか、仁都はえへへ~と笑っている。お前が兄で、俺が弟……??絶対に嫌だ。四六時中こんなテンションで来られたら疲れて三日ももたない自信がある。
逆も然りで、こんな俺よりも大きくてうるさい弟は嫌だ。劣等感で胃が大荒れになる未来が容易に想像できる。
「ってか、そっちこそどうなの?もし、うちの親に挨拶するんなら、俺もそっちに挨拶しないといけないじゃん!息子さん攫ってすみません!って」
「いや、挨拶くらい別に……ってええ?!いや、うん、ええー……??」
攫った子の家に来る人攫いとか見たことねえよ……律儀すぎて逆に怖い。というか、挨拶なんて別にいらないだろ。
「まあ、うちは至って普通だな。親父にお袋に姉貴が一人。あとは猫を二匹飼ってるかな」
「へー!猫ちゃんいるんだ!いいなあ!!俺、猫大好きなんだよね!今度はすーちゃんちに行ってみたいな~」
猫がいると聞いてからか、その目はキラキラと輝いていた。もう、今すぐにでも行きたいと言わんばかりだ。
お前は待てができない大型犬か。こいつのことだ。ここで断れば、簡単に引き下がらないだろう。多分余計ややこしくなる……はあ、仕方ない。
「……今度、機会があったらな」
「えっ、本当に?!」
「それに、だ。お前には、うちの家族に俺を攫ったことを謝ってもらわないといけないしな」
と、少し意地悪してやると仁都は頭を抱える仕草をした。
「あ~っ! やっぱりそういうのって菓子折りとかいるのかな?!いるよね?!」
「……そうだな~、俺の母さんと姉貴はマカロンが好きだぞ」
「お、おっけー!今度由佳さんと買ってくるよ!」
「…っはは!そこまで悩むことかよ?!」
俺は思わず吹き出してしまった。なんだコイツ、いちいち大げさだけど面白い奴だ。
「あー!すーちゃん笑った!馬鹿にしたー!」
と言いながら、ぽかぽかと効果音がつきそうな勢いで俺の背中を叩いてきた。俺はそれすらも面白くて、ツボにはまってしまった。
久しぶりに出した笑い声はどこかに明るくて心地の良いものだった。こんなに笑えたのは、俺が疲れていたからなのか、それとも……仁都のおかげなのか。
笑い転げていた俺達も、朝日が昇る頃にはカーペットの上でぐっすり眠っていたようだ。まるで兄弟のように仲良く眠っていたと、満島さんは証言していたのだった……。