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地下8階。
【イゼルの大迷宮】の特徴は石材を用いて回廊が形成されているところだが、これまでの階層と異なり、相当の意匠の施された柱が連なっていた。
地下7階層への階段のある大部屋から3区画分進むと、約80m四方の大広間があった。地上の【大聖堂】と同規模の広間に中央には、誰の姿もない。
「本当は、ここに【迷宮主の僕】がいるんだが、さすがに【大浄化の祝祭】後で、【迷宮主】が不在ということであれば、ここの広間も空き部屋扱いって訳だ。」
【イゼルの大迷宮】最下層、【迷宮主の僕】の広間まで、足を踏み入れること。
これが、今回の潜入目的であった。たとえ、【迷宮主】がいない状況であっても、徘徊する魔獣の脅威は、地下3階や地下6階の【階層主】より遥かに危険であり、この先は上級者パーティでないと進行は難しいからである。
フロウドは一息吐いた。
地下7階での大銀狼の群れとの遭遇は、想定よりも危険な状況であった。中級者4人のうち、誰か1人が緊張のあまり混乱した行動を取った場合、パーティに相当の被害が生じたであろう。
20数匹の規模とはいえ、想定したものより危険な敵だったのである。
つまり、油断をしてはいけない、ということである。
そこを、ほぼ無傷で対応することができた。
幸いにも、(ここまでうまく進んでいるのだから、もう少し奥まで行ってみたい。)
と思っている者はいないようだ。
「これから戻るが、油断するなよ。」
フロウドの声に、パーティ全員が頷いた。
「トーマさん、大丈夫?」
並んで歩くトーマに、ティルが囁いた。
「うん?ごめん、少し集中できてなかったかも。大丈夫、思ったより身体の動きがチグハグな感じがするんだけれと、問題ないよ。」
ここまでの行程において、敵の索敵、弩の制度、【魔刀】の切れ味、どれを取ってもトーマの動きは素晴らしかったし、上級者の面々とも引けをとっていなかった感もある。
トーマ自身が、自分の動きに違和を感じていることに、フロウドやタリウスも気が付いていたが、客観的に見て、トーマの動きに違和感はなく、行程に支障を生じさせることもなかった。
【探索者】にとって、それは問題にしなくてもよい事柄であった。
【教会】内の宿舎の一室。【イゼルの大迷宮】の探索を終え、神官ネスは自室で装備を外していた。
神官ネスは、侯爵家の一員であった。
三男として生まれ、幼くして剣と魔法の才に恵まれ、目指したのは【聖騎士】であった。
20歳代後半で中級に達しており、出身が貴族であることもあり、高い評価を受けていると自分でも思っている。
今回、【イゼルの大迷宮】の地下8階層への探索も経験できた。しかも、【セルフェストの聖女】の護衛だ。
問題なく、無事、帰還できた。【大浄化の祝祭】の後とは云え、行き来に要した時間、魔獣との遭遇戦、最短経路での最下層への行程等、非常に円滑にできていた。非常に運が良かったとも思う。
近い将来、【聖騎士団】の一員として活躍することを目標とするネスにとっても、良い実績と経験を積むことができたと思っている。
少し気になったのは、トーマという若い【探索者】の事だ。
確かに【支援の加護】による術式は、パーティ全員を助けてくれた。ただ、【聖女】と同年代ということがあったとしても、ちょっと【聖女】に馴れ馴れしい感じの態度であった。
若くして神官業に就くということは何かしらの事情を抱えているということであるが、特に【聖女】ティルは顕著なのだと思う。そのためか、若い【神官】であっても、ティルに気安く話かけることのできる者はいない。
ネス自身、一回り年下のティルに、親しく接する機会などなかった。ティルが【大迷宮】へ入るようになって、幾度か、その行程に同行することがあったことから、他の者と比較すると格段に互いの認識度合は高いと感じているが、それは事務的な範疇に留まる程度である。
いわば高嶺の花のような、若く、美しい女性神官に、無知故に、多少ながらも気安く接する【探索者】に対し、好感など持てるはずもなかった。
(嫉妬とは、醜いものだな…)
自分の心中を見て、反省し、ネスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
振り返ると、そもそもトーマという【探索者】は、周囲とうまく世間話できるタイプではなかったし、取り立てて、ティルと仲良く話していたわけではない。
ティルの態度について、孤児院の子供達に接するとき以外には見られない、少しの気安さが垣間見えたに過ぎなかったのである。
そもそも、ティルはエイベル司教ら【活動派】に属する者である。
概ね神官達は【活動派】に対しての一種の親近感は持つ者の、やはり貴族階級と繋がりのあるものは主流派である【教義派】との関わりを重要視せざるを得ない。
我ながら俗世の欲に塗れた思いだな…と、ネスはやや自嘲したのである。