6.密偵
ぼそぼそと話す声で、ジャンは目を覚ました。鎧戸からは朝日が差し込んでいて、彼の隣にアランの姿は無かった。ベッドを抜け出して部屋の出入口の方を見ると、彼女は手に畳まれた服を持って宿の主人と何事かを話していた。
「朝食の準備が出来てる。着替えたら降りてこい」宿の主人は素っ気なく言って、さっさと立ち去った。
「おはよう」ジャンは少女に声を掛けた。
「おほよう。さっさと着替えて朝飯に行こう」アランはジャンに服を差し出した。
「今着ている服はどうするの?」新しい服を受け取って、ジャンはたずねた。
「ベッドへ置いておけと言っていた」
ジャンは頷き借りものの服を脱いで、新しい服を広げた。それは街の人たちが着るような洒落た意匠のもので、彼は袖を通すことに躊躇した。「こんなの、僕には似合わないよ」
「着てみないことにはわからないな」アランは着替えながら肩をすくめた。「それで気に入らなければ、マントで隠せばいい」
ジャンはぶつぶつ文句を垂れながら服に袖を通した。そうしてアランの助言に従い、マントでしっかりと身体を包んで食堂へ降りた。夜と違い朝の食堂は閑散としていた。客はマルコとカラス、そしてなぜかジローが彼らと同じテーブルに着いている。
ジャンとアランに気付いたマルコが手を振った。「おはよう、子供たち」
「おはよう」ジャンは挨拶を返し、席に着いて朝食が並ぶテーブルを眺めた。パンにチーズ、それと湯気を立てるソーセージや目玉焼きもある。「お客さんは僕たちだけ?」
「我々は少し寝坊したからな」マルコは言って、マントの前を合わせる甥を訝しげに眺めた。「寒いのか?」
「そうじゃないんだ。僕の服がだめになって、宿のご主人が新しいのを持ってきてくれたんだけど、ちょっと問題があって」
「問題?」
ジャンはマントを開いて見せた。
「けっこう似合ってるじゃないか」カラスが言った。
「私もそう思った」アランはパンをもぐもぐやりながら言った。
「こう言っちゃなんだけど、立派な商家の坊ちゃんに見えるね。よく似合ってるよ」ジローは何度も頷いて言った。
「見栄えは関係ないんだ」マルコが笑った。「我々農民は汚れを気にしなきゃいけない服を着ると、ひどく落ち着かなくなる傾向があってな」彼は甥っ子を見て言った。「まあ、他に着るものが無ければ慣れるしかないだろう」
「昨日、借りた服でよかったんだけど」ジャンはため息を吐いた。
「あれは、ここの主人の子供の服なんだとさ。取り上げたら可哀想だろう。それに代金はもう払ってあるんだ。今さら取り替えろなんて言うなよ」と、カラス。
ジャンはしぶしぶ頷き、食事に取り掛かった。パンをちぎって口に運び、飲み下してから彼は気付いた。ジローだけが料理に手をつけようとしないのだ。「食べないの?」ジャンは訝しげにたずねた。
「おや、ご相伴にあずかってもいいのかい?」
ジャンはマルコに目を向けた。
「ああ、かまわんよ」マルコは頷いた。
「ありがとう。けどね、私はもう済ませたんだ」
「それじゃあ、なんでここにいるんだ?」カラスは訝しげにたずねた。
「あんたたちに同行させてもらおうと思ってね」
「どうして、そんなことを思い付いた?」マルコは用心深くたずねた。
「剣王アランの物語以外にも、いくつか持ちネタを作っておきたいからさ。その点、ヴェルネサン伯爵の冒険なんて、これ以上ないテーマだろう。なんと言っても、あんたは剣王の忠臣にして従兄なんだからね」彼は首を傾げた。「はて、義理の兄だったかな?」
「剣王の妻の従兄だ」マルコは訂正した。
「それじゃあ格好が付かないよ」ジローは抗議した。
「そんなことはどうでもいい」マルコはじろりと吟遊詩人を睨んだ。「なぜ、お前が剣王の正体を知っている?」
「地道な証拠集めと推理のたまものだよ」ジローは人差し指を立てた。「物語では端折りがちになる話だけど、剣王は魔界を目指す途中で、魔物に襲われたいくつかの村や都市を救ってるんだ。ところが、彼のおかげで命拾いした人たちの中に、自分たちを救ったのは先の国王陛下だったと主張する人が何人かいたわけさ。つまり、つじつまを合わせるには、この国の前王と剣王アランが同一人物じゃなきゃいけないってことになる」
「理屈はわかったが、そんなことをぺらぺら吹聴して回るんじゃないぞ」
「おや、秘密だったのかい?」
「まあな」マルコはソーセージを頬張り、もぐもぐやりながら言った。「皇帝になろうなんて馬鹿げたことを考えるやつが現れないように、今まではそうして来たんだ」
「だったら手遅れじゃないか?」
「今知らないやつらに、わざわざ教えてやる必要もないだろう。次期皇帝陛下の支持者を増やしたいなら話は別だが」
「なるほど」ジローは頷いた。「となれば物語に仕立てる時は、それとわからないようにあんたの名前と剣王の関係を、いい感じに脚色するとしようかね。剣王の異母兄弟と言うのはどうかな?」
「あくまで我々と一緒に来ると言うんだな?」
「同行がだめなら遠くからそっと見守ることにしてもいいんだよ?」
マルコは渋面を作った。「だったら目の届く場所にいてくれた方がましだ」彼はカラスに目を向けた。「構わんか?」
「ああ」カラスは肩をすくめた。「どこか地面の柔らかいところを見つけたら、始末して埋めればいい」
ジローはぎょっと身じろぎした。「物騒なことをおっしゃる」
「付いてくるのは勝手だが、俺たちの邪魔はするなってことさ」
「そんなことするわけないよ。私を信用しなって」
「その仮面で言われても説得力ないぜ?」
出入口の扉が開き、若い女が入ってきた。それは昨夜、カラスからチップを受け取っていた女給だった。彼女はカウンターの主人に挨拶し、それからジャンたちがいるテーブルに歩み寄って言った。「おはよう、みなさん」
「よお、カトリーヌ」と、カラスが応じた。「出勤は夜だけじゃないのか?」
「ちょっと忘れ物を取りに来たの」それから、カトリーヌは声をひそめてたずねた。「ねえ、ディボーが魔物に襲われたって本当なの?」
「なんで、そんなことを俺に聞くんだ?」
「だって、前に泊まった時、ディボーに行くって言ってたじゃない」
「少なくとも俺たちが出た頃は、まだ無事だったな」カラスは嘘を吐いた。「あんたもディボーから来たって言ってなかったか?」カラスはジローに目を向けた。
「私はたぶん、みんなより早く発ったからねえ」ジローは首を傾げた。「けれどもお嬢さん、一体どこから魔物なんて話が出て来たんだい?」
「駐屯地からディボーに部隊が派遣されたのは知ってる?」
「昨日のお昼くらいに、大通りをぴかぴかの兵隊さんが行進してるのを遠くからちらっと見たけど、あれがそうだったのかな」
「たぶん、それね」カトリーヌは頷いた。「昨日の夜、駐屯地からおふれが出たの。ディボーで大きな災害があったから救援部隊を差し向けることになった。ついては部隊に随行する人足を募集する、ってね」
「魔物のまの字も出てないじゃないか」カラスは片方の眉を吊り上げた。
「そりゃそうよ」カトリーヌは肩をすくめた。「だって、魔物が出たんじゃないかって話は、街の人たちの噂だもの」
「もちろん、噂になるってことは火種もあるってことだよね?」ジローがたずねた。
「ええ」カトリーヌは頷いた。「駐屯地の人たちは、その災害が何かってことを誰も説明しなかったの。それで私たちは、何日か前に北の方を旅した人が、魔物を見たって大騒ぎしたことを思い出したってわけ。もちろん、その時は、何かの見間違いだってみんな信じなかったんだけど」
「剣王が魔王をやっつけてくれたおかげで魔物は滅びたはずだろ。災害って言うのは、きっと他の何かさ」
「他の災害ってなんなの?」
「街道警備隊が部隊を派遣するくらいの厄介な災害さ」カラスは肩をすくめた。「ディボーを通ってベルンへ向かうつもりだったが、別な手を考えた方が良さそうだな」
「なんでベルンなんかに。商売するなら王都の方が近いし便利じゃない?」
王都と聞いて、ジャンはパンをちぎる手を止め、カトリーヌを見た。ジャンの視線に気付いたのか、彼女は笑顔を向けてきた。カラスの眉が微かに吊り上がるのが見えた。どうやら彼は、へまをしでかしてしまったようだ。
「なるほど」カトリーヌはカラスを見てにんまり笑った。「王都ね?」
カラスはため息をついて懐からコインを数枚出し、テーブルに置いた。カトリーヌが首を振り、彼はさらにコインを追加する。それでようやく、カトリーヌはコインに手を伸ばした。
「あなたたち、一体何をやらかしたの。そりゃあ、あたしだって将軍さんの密偵の顔を全部知ってるわけじゃないけど、みんながみんな横目であなたたちを見てるわ。まるで意中の殿方から目を離せなくなってる乙女みたいに?」
「そこの太っちょの旦那はカッセン大佐の親友で、貴族たちに色んな影響を及ぼすことができるようなんだ。たぶん、その事が関係してるんだろう」
「そんなに偉い人には見えないわね」カトリーヌはマルコをしげしげ眺めて言った。「子熊みたいに可愛らしくて魅力的だとは思うけど?」
マルコは苦笑を浮かべて会釈した。
「あんたの男の趣味はよくわからん」カラスは肩をすくめた。「忘れ物はいいのか?」
「そうだった」カトリーヌはテーブルを離れ、どたばたと二階へ上がっていった。しばらくして降りてきた彼女は、小さな巾着袋を手にしていた。「ちゃんとあったわ。それじゃあ、またね」
「ああ、またな」カラスは手を振り、彼女が宿から出て行くのを見届けてからジャンに目を向けた。「しくじったな?」
「ごめんよ」ジャンは謝った。
「いや、相手が悪かった」
「ひょっとして、あの人も密偵なの?」
「わからん」カラスは首を振った。「ただ、油断ならないのは同じだ」
「悪い娘には見えなかったがな」
「鼻の下が伸びてるぜ、子熊ちゃん」カラスはふと考えてから、また口を開いた。「ダミアンが言ったとおり、この町に将軍派の密偵がうようよしているのは確かだ。そしてカトリーヌは、俺たちが密偵の注目を集めていると教えてくれた。しかも彼らは俺たちの行く先が気になるらしい」
「何だってそんなことがわかるんだ?」マルコは訝しげにたずねた。
「彼女が詮索したからさ。つまり、俺たちの目的地に関する情報が、高く売れると彼女は知っていたんだ」
「すると彼女は、我々が王都へ向かうことを密偵どもへ教えに行ったわけか」
「いや」カラスは首を振った。「そうするつもりなら、彼女はジャンのへまに気付かない振りをしただろう。わざわざ口止め料を催促してきたのは、その情報を売るつもりはないってサインなのさ」
「それじゃあ、何だってそんな小難しい顔をしてるんだい?」ジローが訊いた。
「密偵の目的が読めないんだ。一度はジャンを誘拐しておいて、その後は監視するだけで手を出してこないなんて、どうにも行動がちぐはぐに見える」
「きっと、私らをびっくりさせるチャンスを待ってるんだよ」
「まあ、そんなところだろうな」カラスは渋面を作った。
「わからないことを悩んでも仕方がない」マルコは肩をすくめた。「まずは目の前の食事を片付けよう」
朝食を終えると、一行は荷馬車に乗って駐屯地へ向かった。御者台には手綱をとるカラスとマルコが乗り、キャベツの無い空っぽの荷台にはジャンとアラン、そして思いがけず一行に加わったジローがいる。吟遊詩人は荷台の側壁にもたれ、仮面の顔で通り過ぎる街並みを眺めていた。ジャンは、ふと思い付いて彼に声を掛けた。
「ジローさん」
「ただのジローで結構だよ」ジローはジャンを向いて言った。「ムッシュだのミスターだのと付けられたら、どうにも自分じゃない気がしてしようがない。それで、どうしたんだい?」
「どうして、いつも仮面を被ってるの?」
「戦争で傷を負って、醜い顔になってしまったんだ」
「変な事聞いてごめんよ」ジャンはぎょっとして謝った。
「気にしないでおくれ、嘘だから」ジローはくすくす笑った。「昔、お偉いさんと女絡みのもめ事を起こして以来、命を狙われるようになってしまってね。それからは顔を隠すようにしてるのさ」
「そのもめ事に我々を巻き込むんじゃないぞ」マルコが御者台から言った。
「大丈夫。人前では仮面を外さないって決めてるんだ。たとえそれが友だちでもね」
「でも、それじゃあ食事の時は大変じゃない?」ジャンは指摘した。
「そうでもないよ。これを作ってくれた職人に頼んで、仮面を外さなくても飲み食いができるように細工をしてもらってるんだ」
「徹底してるんだね」
「そりゃあもう、命が掛かってるからね」
間もなく荷馬車は駐屯地の門前に着いた。そこには使用人然とした白髪の男が立っていて、彼はマルコを見ると手を挙げた。「おはよう、マルコ」
「やあ、アベル」マルコは御者台から降りて、新しい友人と握手を交わした。「行軍するにはつらい日になりそうだな」
「鎧を着ていると、陽気はちょっとした試練ですからね」アベルは目を細めて太陽を見上げた。「昨夜、クレマン少尉から伝言が届きました。数匹の魔物の襲撃はあったようですが、村に被害は無いとのことです」
アベルの報告を聞いて、ジャンはほっとため息をもらした。
「ありがとう、アベル。私にとって一番嬉しい知らせだ」マルコも笑顔を見せた。
「それと、本物の騎士の来訪に、娘さんが大層喜んでおられるとか」
ジャンは思い出した。ポーレットの蔵書には、確か八人もの騎士に慕われる姫君のお話があった。
「王都の動きはどうだ?」マルコが訊いた。
「今朝の早馬の報せなので三日前のニュースになりますが、相変わらず来週の議会へ向けて両派の多数派工作が続いています。一方がある貴族に賄賂を送り、一方がそれを暗殺すると言った具合です。賄賂の値を吊り上げるためや、あるいは暗殺を恐れて態度をうやむやにする議員が多く、趨勢ははっきりしません」
「カルヴィンはどうしてる?」
「少し眠そうにしています。あなたが持ってきたニュースのせいで、昨日から一睡もしていないんです。まだ書類仕事が残ってるので、あなたの見送りが出来ないことを申し訳なく思っていました」
「事が落ち着いたら、ゆっくり飲もうと伝えてくれ。その時はあんたも一緒だ、アベル」
「ええ、喜んで付き合いますよ」アベルは笑顔で頷いた。「部隊を北門の外へ配置しました。隊長は私の従弟のゴーン少尉です。必要な指示はしてあります」
「わかった」マルコは頷き、馬車へ乗り込んだ。「色々ありがとう、アベル。それじゃあ、ちょっと行ってくる」
「はい。お気を付けて」
アベルに見送られた一行はトレボー街道の大通りを進み、噴水のある広場を北に折れた。北門を抜け、しばらく進むとアベルが言ったとおり騎兵と歩兵で構成された数十人程度の部隊が待機していた。支援物資を積んだたくさんの荷馬車を取り囲み、いつでも出発できるよう隊列を作っている。カラスが部隊の先頭へ向かって荷馬車を進めていると、全身に鎧をまとった騎士が馬に乗って駆け寄ってきた。瞼甲を上げた兜の中の顔はアベルにそっくりだった。
「その顔ですぐにわかった」マルコは笑顔で言った。「あんたがゴーン少尉だな」
「はい、まさにその通りです」少尉は笑顔を返した。彼は籠手がはまったままの右手を差し出した。「馬上から失礼しますよ、伯爵」
「構わんさ。畏まって互いにぺこぺこお辞儀するよりも時間の節約になる」マルコは握手を返した。「我々はどこへ入ればいい?」
「輸送隊の真ん中に似たような荷馬車が何台かあるので、そこらへ紛れるといいでしょう。私の従者たちが近くにいるので、いいように使ってください」少尉は輸送隊をちらりと見てから、声音を落として続けた。「兵士とその従者は大佐が慎重に選んだ者ばかりなので心配は要りませんが、輸送隊には臨時雇いの役夫が何人かいます。彼らの中の誰かが密偵だったとしても、私は驚きません」
「どう思う?」マルコはカラスに意見を求めた。
「間違いなく密偵はいるだろう。彼らは俺たちだけじゃなく、大佐のやることにも関心があるはずだからな」
マルコは頷くと、少尉に目を戻した。「この後は?」
「みなさんが隊列に加わったら、すぐに出発します。細かいことは従者たちに聞いてください」
「わかった」
ゴーン少尉は軽く頭を下げてから、馬首を巡らし隊列の先頭へ戻って言った。
一行は少尉に言われた通り、輸送隊の真ん中にある荷馬車の一団に加わった。すぐに若者が四人やってきて、彼らはマルコにお辞儀した。その中の生真面目な顔をした青年が一歩前へ踏み出し、口を開いた。
「ゴーン少尉の従者でアンジェと申します。我々でお役に立つことがあれば、なんなりとお申し付けください」
マルコは御者台を降りると、ひとつ頷いて見せた。「込み入った話しをしても大丈夫か?」
アンジェは頷いた。「役夫たちは隊列の最後尾で意味の無い仕事をさせています。見張りも付けているので、今のところ彼らに会話を盗み聞きされる心配はないでしょう」
「どう言った手筈か説明してくれるか?」
「最初の水場まで移動し、そこで少尉が休憩と前方の偵察を命じます。みなさんはフードで顔を隠し、馬に乗り換え従者の振りをして偵察隊に同行してください。丘を越えたところで、身代わりの者たちを待たせていますから、彼らと入れ替わりで王都へ向かっていただきます」
「しかし、我々が荷馬車からいなくなっているのを見れば、密偵たちも何が起こったかぴんと来るんじゃないか?」マルコは指摘した。
「もちろんです。そこで我々が代わりに荷馬車へ乗り込みます。馬車が空っぽでなければ、少しの間は誤魔化せるでしょう。その間に密偵たちとの距離を稼いでください」
「おじさん」ジャンはふと閃いて口を挟んだ。「ちょっと考えがあるんだけど」
「なんだ?」
「最初っから、みんなで馬に乗るのはどうかな。それと、アンジェさんや他の人たちにも馬に乗ってもらって、僕たちはそこに紛れ込むんだ」
「なるほど」ジローがぽんと手を打った。「荷馬車が最初っから空っぽなら怪しまれる心配はないってことか。それに五頭しかいない馬がみんな行ってしまえば目を引くけど、たくさんいる中の五頭ならそれほどでもないからね」
「うん。でも、馬の数は四頭だよ。僕は馬に乗れないから、アランと二人で乗るんだ」
マルコは少し考えてから口を開いた。「よし、ジャンの作戦で行こう」彼はアンジェに目を向け言った。「私は自分の馬を使いたいが、構わないか?」
「馬車馬に乗るんですか?」アンジェは訝しげにたずねた。
「ちゃんと鞍をつける訓練もしてある。心配は要らんよ」
「わかりました。馬車は他の馬に引かせましょう。アメデ」アンジェは振り返り、仲間の一人に呼び掛けた。「伯爵の馬を頼む」
アメデと呼ばれた若者は頷き、馬車の長柄から手際よく馬を外して、その手綱をマルコに渡した。
「おお、ありがとう」
「代わりの馬を連れてきます」アメデは言い置いて立ち去った。
マルコはふと思い出したようにジローを見て、眉間に皺を寄せた。彼はアンジェに目を向けた。「あの緑色をなんとかした方がよさそうだな?」
「そうですね」アンジェは仲間たちに目を向けた。「オーバン、丈の長いマントを探してきてくれ。終わったらアントンと一緒に馬を用意するんだ。我々が乗る分も忘れるな。ついでに馬で移動したいと思ってるやつを、あと二、三人ほど連れてきてくれ」
オーバンとアントンは揃って頷くと、その場を立ち去りそれぞれの仕事に取り掛かった。
「他にご用はございますか?」アンジェはマルコに向き直って言った。
「いや、もう結構だ。ありがとう、アンジェ」
「では、作戦の変更を少尉に伝えてまいります」アンジェは一礼して、駆け足で隊列の先頭へ向かった。
「ずいぶん堅苦しいやつだな」カラスはアンジェの背中を見ながら、誰にともなく呟いた。
「そうでもありませんよ」アメデが替えの馬車馬を連れて戻ってきた。「滅多に笑わないやつですが、笑う時は笑います。ただ、彼を知らない人が見ると、虎が歯をむき出してるようにしか見えませんが」彼は馬が長柄に固定されたことを確かめてから、カラスに目を向けた。「さあ、これでいいでしょう。御者は私が引き受けますので、みなさんは降りてオーバンたちが連れてくる馬に乗ってください」
しばらく経ってオーバンとアントンが馬を引いてきた。仲間たちは――マルコでさえも――軽々と馬に跨がったが、ジャンは少々手こずった。オーバンに手を借り、馬上からアランに引っ張り上げられて、彼はようやく馬に乗り込むことができた。
「こんなことになるなら、ちゃんと乗り方を教えておけばよかったな」マルコは苦笑して言った。
「練習するよ」初めて乗る鞍はどうにも落ち着かなく、ジャンはお尻をもぞもぞ動かしながら言った。
前に座るアランが首をひねってジャンに目を向けた。「もう少し前に乗って鐙を使え。鞍の後ろは揺れるぞ」
「わかった」ジャンは言われた通りにした。
しばらくしてアンジェが戻ってくると、部隊は動き始めた。それは大量の救援物資を積んだ荷馬車の速度に合わせたものだったから、ひどくゆっくりした歩みで、最初の水場へたどり着いたのは太陽が西へ傾き始めたころだった。
部隊の先頭から伝令がやってきて、休憩を取るよう告げて回った。部隊は足を止め、アンジェは全員にフードを被るよう告げた。さらに彼は、二人乗りの騎手は目を引くと言う理由で、アランの身体をマントで隠すようジャンに命じた。ジャンは言われた通り、アランをマントですっぽり包み込んだ。
間もなく従者や雇われ役夫たちが忙しく走り回り、水場の井戸で汲んだばかりの冷たい水が詰まった水袋を配って回ったり、馬に水を与えたりした。しばらく経って、偵察任務の命令を伝令が告げにやってくると、マルコが身振りで仲間たちに合図した。一行は馬を走らせ、部隊の先頭に集まった偵察隊の騎士たちの後ろに並んだ。ジャンは、アンジェの馬が隣に並んだのを見て、それを訝しく思ったが、わけをたずねる前にゴーン少尉が口を開いた。
「全員そろったな?」ゴーン少尉は一同をぐるりと見渡した。「お前たちの任務は、ごく当たり前の偵察だ。本隊に先行し、前方に何があるか調べる。ただし今回は、その何かが魔物の可能性もある。従者諸君は騎兵からじゅうぶんに距離を取り、万が一彼らが交戦に入った場合は速やかに本隊へ引き返し、状況を報告するように。何か質問は?」
誰も口を開かなかった。
「よし、では行ってくれ」
偵察隊は丘を登り始め、頂上に近付いたところでカラスは馬の歩みを緩めた。
「どうした?」マルコが手綱を引いてたずねた。
「本隊にいる密偵がおかしな動きをしないか、少し見てから向かう。先に行ってくれ」
マルコは頷き、軽く馬の腹を蹴って先へ進んだ。
「ジャン」丘の頂を越えたところで、アランが言った。「そろそろマントを除けてくれ」
ジャンは並んで馬を進めていたアンジェに目を向けた。「もう大丈夫かな?」
「ええ、ここまでくれば密偵からは見えないでしょう」アンジェはフードを外して言った。
ジャンがマントを開くと、アランはふうと息を吐いた。「暑かった」
「暑いのは苦手なんだね」ジャンもフードを払いのけて言った。
「私がいつも薄着でいる理由がわかっただろう」
「うん。でも下着は穿いた方がいいよ」
アランは肩をすくめた。「考えておく」
「アンジェさん」ジャンは青年に声を掛けた。
「はい、なんでしょう?」アンジェは生真面目な顔を見せて言った。
「どうして一緒についてきたんですか?」
「全て手筈通りに進んでいるか確認するためです」
「でも、行って身代わりの人たちと入れ替わるだけですよね?」
「はい」
「何か間違いがあると思ってるの?」
アンジェはふと考えてから首を振った。「いいえ。しかし私には、間違いが無かったことを見届ける義務があります。違いますか?」
それで、ジャンは納得した。アンジェは仕事の完遂を自分の目で確認するまでが、彼に与えられた任務だと考えているのだ。「うん、その通りだね」ジャンは頷いて言った。
「はい」アンジェは短く応え、再び真っ直ぐ前を向いた。
丘を下ってしばらく進むと、四人の男たちが馬に乗って丘の麓に生える灌木の間から姿を現し、街道の脇に出てきた。全員がマントを着てフードを目深に被っており、顔は見えなかった。騎手たちは馬上から騎兵に敬礼をして彼らが過ぎ去るのを見送ると、丘を下るジャンたち一行に目を向けてきた。
「身代わりの者たちです」アンジェが言った。
ジャンは返事もせず、眼下の騎手たちをすがめた目で見つめた。何かがおかしかった。
「どうかしたんですか?」
「どうして四人なのかと思って」
「それは、あなたたちの乗る馬が四頭だからでしょう」
「ジローが一緒に来ることになったのは、つい今朝の事なんだ。大佐やアベルさんが身代わりの人たちを用意しようって考えた時は、まだ彼が僕たちの仲間になるなんて知らなかったはずだから、彼らは三人じゃないとおかしいよね?」
アンジェはしばらく考えてから口を開いた。「だとすれば、大佐と中尉はあなたが馬に乗れないことを知らなかったんでしょう。それなら計算は合います。念のため、後で伯爵に確認してみましょうか?」
「うん、そうしよう」
丘を下り終えた一行を、男たちは馬を降りて出迎えた。一人がお辞儀をして口を開いた。「我々の馬に野営の道具や食料など、旅に必要な装備を積んであります。みなさんは、こちらへ乗り換えてください」
「何から何までかたじけない」マルコはフードを外し、馬上から礼を述べた。「しかし、私は自分の馬を連れて行きたいんだ。荷を載せ替えても構わないかな?」
「手伝っていただくことになりますが、構いませんか?」
「ああ、もちろんだ」マルコは馬を降りた。
ジャンも、おっかなびっくり馬を降りた。着地の時に少しよろめいたが、騎乗の時ほど無様にならずに済んだ。アランとジローもすぐに馬を降り、それから少し遅れてカラスがやって来た。彼は馬を下りるとマルコに歩み寄って言った。
「本隊に動きはない」
「どうやら、ここまではうまく運んでいるようだな」マルコは頷いた。
「これからどうするんだ?」
「私は自分の馬に荷を積む。お前たちは彼らの馬に乗り換えてくれ。準備が終わり次第、出発する」
「わかった」カラスは頷いた。「馬の様子を確かめてくる」
「よし、始めよう」マルコは最初に声を掛けてきた男に言った。
アンジェが馬を降り、マルコたちの側へ歩み寄った。「私も手伝います」
「頼む」マルコは頷いた。「馬が動かないように手綱を持っていてくれ」
カラスたちは他の男たちと馬を交換し、鞍や積み荷を固定するベルトや紐が緩んでいないか念入りに点検を始めた。
アランから手綱を受け取った男は鞍を揺すって首を傾げ、「坊や」とジャンに声を掛けてきた。「すまないが、ちょっと手伝ってくれるか?」
ジャンは頷き、騎手の側に歩み寄った。
「どうやら君たちの乗ってきた馬の腹帯が、少し緩んでいるようなんだ。私が調整するから、鞍を押さえていてくれ」
ジャンは男の声に、なんとなく聞き覚えがあるような気がした。首を傾げながら言われた通りに鞍を押さえ、彼はようやく思い出しはっと息を飲んだ。しかし、次の瞬間には男の腕ががっちりと首に回されていた。ジャンは男の手から逃れようと闇雲に暴れ、その拍子に男のフードが外れた。現れたのは、歯をむき出して笑うユーゴの顔だった。
「ジャン!」異変に気付いたカラスが叫んだ。
アランが剣を抜き放った。それと同時に騎手たちが素早く動いた。彼らは一斉に剣を抜き、ジャンを捕らえたユーゴの前に立って彼を守った。
「俺はエディみたいにはいかないぞ、娘」ユーゴは言った。「お前がこいつらを斬り捨てる間に、俺は小僧の首の骨をへし折ってるだろう」
「あんた、あの臭い倉庫にいたゴロツキじゃないか」ジローが言った。「何だって、その子をつけ狙うんだい?」
「黙れ、道化師」ユーゴはぴしゃりと言った。
「失敬な。私は吟遊詩人だよ」
「俺は黙れと言ったんだ」ユーゴはジローを睨み付けてから、一同をぐるりと見渡した。「全員、武器を捨ててその場に跪け。手は頭の後ろだ」
「どうするんだ、旦那?」カラスは用心深くマントの下に手を隠して言った。
「言われたとおりにしよう」マルコは腰から剣を抜いて放り出すと、ユーゴの言うとおり地面に膝を突いて両手を頭の後ろに回した。
カラスもぶつぶつと悪態を吐きながら彼にならい、ジローとアンジェも後に続いた。アランはしばらくユーゴを睨み付けていたが、ついに歯噛みしながら剣を放り出して仲間たちと同じように跪いた。
ユーゴは満足そうに頷き、ジャンを地面へうつ伏せに押し倒すと、馬乗りになってマントの下から引っ張り出した細い紐で彼の手首を後ろ手に縛り上げた。「ダミアンも最初にこうしておけばよかったんだ。ちょっとした痣なんか袖の長い服でいくらでも隠せるだろうに」彼はジャンの髪を掴んで顔を引き起こすと、耳元に口を寄せて囁いた。「手を焼かせるなよ、小僧。お前が大人しくしていれば、お前の伯父や仲間たちの無事は保証してやる。もちろん、お前の命もだ」
ジャンはしぶしぶ頷いた。
ユーゴはジャンを抱え上げ、鞍の上にどすんと乗せた。そうして鐙に足を掛け、素早く騎乗してから彼の仲間たちに言った。「俺たちがじゅうぶん離れるまで、そいつらを見張っていろ。ただし、あまり頑張る必要は無いぞ。偵察の騎士たちが妙に思って戻ってくるとやっかいだからな」
男たちは振り返らず頷いた。
ユーゴは馬首を巡らせ街道を出ようとするが、不意に目の前の藪から女が飛び出したので、思い切り手綱を引く羽目になった。馬はいななき、苛立たしげに前脚を振り上げた。
「カトリーヌ、貴様!」ユーゴは興奮する馬を抑えようと必死に手綱を操った。
カトリーヌはその隙をついて馬に駆け寄ると、ジャンの身体を引っ掴んで鞍から引きずり下ろした。彼女はジャンの身体を抱き留めて地面に転がり、叫んだ。「カラス、今よ!」
カラスは頭の後ろに組んでいた手を素早く振り下ろした。剣を構えていたユーゴの仲間たちは短くうめき、三人ともその場に崩れ落ちた。仰向けに倒れた一人の心臓のあたりには太い針のような物が深々と突き刺さっていた。
アランが素早く転がり、起き上がりざまに剣を拾い上げユーゴに突進した。ようやく馬の制御を取り戻したユーゴは舌打ちを残し、街道を外れ西に広がる草原を一目散に走り去った。さしものアランも馬の脚には及ばず、逃げるユーゴを見送りジャンに目を向けた。「大丈夫か?」
「うん」カトリーヌの胸の中でジャンは頷いた。「でも、とりあえず手をほどいて欲しいな」
アランは剣の切っ先を伸ばし、ジャンの手首を拘束していた紐を断ち切った。
「ありがとう」ジャンはそそくさと立ち上がり、カトリーヌに手を伸ばした。「カトリーヌさんも」
「あらまあ」カトリーヌは微笑みを浮かべてジャンの手を取り立ち上がった。
「説明してくれるんだろうな、カトリーヌ」カラスがやって来て言った。
「そうね」カトリーヌはスカートの土埃を払い、優雅にお辞儀した。「改めて申し上げます。カトリーヌ・カステラ、国王陛下にお仕えする密偵ですわ」




