5.牡鹿亭
荷馬車用の扉が大きな音を立てた。金属同士がぶつかり合うような、ひどい騒音だった。倉庫にいた全員が大扉に注目する中、扉は内側に勢いよく開き、片方は蝶番が壊れ床に倒れ込んだ。ぽっかり空いた開口に、四人の人影があった。先頭は鬼の形相で剣を構えるアランと、大きな斧を持ったマルコだった。一歩下がってカラスと、棍棒を構えるジローもいた。
「こりゃあ、びっくりだ。私らを襲ったのは、確かにこいつらだよ。カラスさん、あんたの言ったとおりだったね?」ジローが言った。
「商売柄、大都市のギャングのアジトは、あらかた記憶しているんだ。あんたが首領の名前を覚えていてくれて助かったぜ」
「はて。どんな商売をしてたら、非合法組織のアジトを把握する必要が出るんだろうね」ジローはわざとらしく首を傾げた。
「物を売ったり買ったりする商売さ。知らないのか?」
アランがジャンに向かって無造作に歩み寄った。まるでジャン以外は目に入っていない様子で、飛び退くように間合いを取るダミアンには一瞥もくれなかった。
エディは指示を求めてダミアンを見るが、首領の目に怯えの色を見てあきらめた。彼はジャンを無理やり立たせると、少年の喉元にナイフを突きつけた。「動くな、娘っ子!」
アランは動きを止めなかった。それどころか一足飛びに間合いを詰め、低く身を沈めてから素早く剣を跳ね上げた。銀色の切っ先がジャンの目の前で閃き、風が鼻を撫でた。ジャンの足元で金属が音を立てた。視線を落とすと、そこにはエディのナイフと彼の手首が落ちていた。ジャンの顔に生温かい血しぶきが掛かり、エディは長い悲鳴を上げながら人質を突き飛ばして、ふらふらと後ずさった。
たたらを踏んで飛び込んで来たジャンの身体を、アランが受け止めた。彼女はジャンを床に座らせると、傷口を押さえて喚き続けるエディに歩み寄り、彼の側頭部を剣の平たい部分で殴りつけた。悲鳴はぴたりと止み、エディは床に倒れ込んで動かなくなった。
別な場所ではナイフを構えたギーとマルコが対峙していた。歯をむき出して襲い掛かってくるギーに向かって、マルコは斧の柄を無造作に突き出した。柄の先端はギーのみぞおちにめり込み、ならず者は膝を折って胃の中身を吐き出した。マルコは斧を持ちかえ、その背でギーの頭をごつんと殴った。意識を失ったギーは床へ倒れ込み、自分の吐しゃ物に顔を埋めた。
フランツは、いつの間にか白目をむいて、カラスの足下に倒れていた。
「殺したのかい?」近くにいたジローが訊いた。
「いや、気絶してるだけだ」カラスは首を振った。
「けれど、ぎゅうぎゅう首を絞めてたじゃないか」
カラスは自分の首筋を人差し指で叩いた。「ここをちょっと押さえただけだ。そうすると頭に血が回らなくなって、気を失うのさ」
「へえ。面白いもんだね」ジローは感心して言った。
「もう一人はどうした?」カラスは辺りを見回した。人間用の出入口へ目を向けたところで、彼は悪態をつき始めた。扉はぽかりと開いたままだった。ジャンが辺りを見回すと、ユーゴの姿が消えていた。
「大丈夫かい、ジャン?」ジローが寄ってきて、ポケットから引っ張り出した布きれで、血にまみれたジャンの顔を拭った。
「平気だよ。ちゃんと、みんなを連れてきてくれたんだね」ジャンは笑って言った。彼はふと思い出してたずねた。「でも、危ないところだったかも。何をするつもりだったか分らないんだけど、あいつら味見がどうとか言ってたんだ」
「へえ」ジローは仮面をしているのに、明らかに動揺しているように見えた。「いやはや、そりゃあまた……確かに、危ないところだったね」
アランはダミアンを剣呑な目つきで、たっぷり二呼吸ほど睨んでから「斬る」と言った。ダミアンは、ひっと息を飲んで腰を抜かし、それから思い出したように剣を投げ捨て両手を挙げた。
「待ってくれ」マルコが止めた。「こいつは、知り合いなんだ」
アランは、いらだたしげにマルコを睨んだ。
「なあ、旦那。あんた、全人類と友だちだったりしないか?」カラスは呆れて言った。
「それほどでもないよ」マルコは謙遜した。「正確には、知り合いの息子なんだ。さしづめ遺産相続に漏れて、街道警備隊に送られたが訓練に耐えかねて脱走した口だろう」
ダミアンはマルコをまじまじと見てから、大きなため息を吐いた。「あんたの言うとおりだ、ヴェルネサン伯爵。親父が死んでから、俺の運は底をついちまったのさ。あんた、なんだってそんな格好をしてるんだ。今の今まで気付かなかったぞ?」
「新しいビジネスに挑戦中なんだ」マルコは言った。「なぜ私の甥っ子をさらった?」
ダミアンは、なおも切っ先を向けるアランをちらりと見た。
「アラン」マルコは言った。「やめるんだ」
アランは不承不承と言った様子で、剣を背中の鞘に収めた。
「仕事だよ」ダミアンは大きく息を吐いて話し始めた。「今日の明け方に叩き起こされて、あんたらが連れてる少年を捕らえろって言われたんだ。あんたの甥っ子だとは知らなかった」
「依頼人は誰だ?」
「フードで顔を隠してたから誰とまでは分からねえが、貴族みたいなしゃべり方をしていた。目立つ場所に怪我をさせるなとか細々と注文を付けられたから、俺はてっきり稚児にでもするつもりなのかと思ってたが、あんたが絡んでるってことは、ひょっとして政治がらみだったのか?」
マルコは苦々しい顔で頷いた。「多分そうだ」
「俺のへまだな」ダミアンはうめいた。「それに気付いてたら、こんな仕事は受けなかったんだ。おかげで、こいつらをひどい目に遭わせちまった」彼は苦々しい顔で、床に倒れ伏す仲間たちをぐるりと眺め回した。彼はマルコに目を向けた。「国王陛下とメーン公爵がいがみ合ってるのは知ってるか?」
「ああ、聞いたよ」マルコは頷いた。
「トレボーは今、将軍派の密偵であふれかえっているんだ。他のシマの連中に聞いた話だと、メーン公爵は王都へ傭兵をこっそり集めてるらしい。どうやら公爵は、何か思い切った事をしでかそうとしていて、密偵たちはその時になって、カッセン大佐に公爵の邪魔をさせないよう備えてるんじゃねえかって噂だ。ひょっとして、俺たちに仕事を持ち掛けたのも、その密偵の一人じゃねえのか?」
マルコが悪態をつき始めた。
「どう言うことだ?」カラスがたずねた。
「クーデターだ」マルコは吐き捨てるように言った。「メーン公爵は集めた傭兵で王宮を襲い、シャルルの身柄と議会を押さえるつもりでいるんだ。どうやら彼は、自分を皇帝に仕立てるための議会工作に失敗したらしい」
「皇帝だって?」カラスが片方の眉を吊り上げた。「そいつ、頭がおかしいんじゃないか?」
「私もそう思う」マルコは同意した。
「王都の穀物相場が上がってるのはそのせいか」カラスはぶつぶつ言った。彼はしばらく考え込んでから、ふと顔を上げて訊いた。「しかし公爵は、どうして自分の軍隊を使わないんだ?」
「王宮を制圧するだけなら数十人もいれば十分だからな。軍隊が必要になるのは、その後だ。公爵は王都を掌握するために、自分の領地からそれを呼び寄せるだろう。もちろん、王都に変ありとなれば国王派の貴族は自分の軍を差し向けるだろうし、カルヴィンをはじめとする街道警備隊も、公爵の軍が王都入りするのを阻止しようと動くだろう。メーン公爵が自分の天下を三日で終わらせたくないなら、彼らを出し抜く必要がある」
「つまり密偵たちは、カッセン大佐のスタートをできるだけ遅らせるための工作員ってところか」
「そう言う事だろうな」マルコは頷いた。
「しかし、どうしてジャンをさらう必要がある?」カラスは、ダミアンをじろりと見た。
「本人に聞いたわけじゃねえが」ダミアンは断ってから話し出した。「カッセン大佐とヴェルネサン伯爵が親友だってことはみんな知ってるし、伯爵が人質にされた甥っ子の命を助けてくれって泣き付けば、大佐だってむげにはできねえだろう。公爵は、それを狙ったんじゃねえのか?」
「いや」マルコは首を振った。「私たちがトレボーへ着いたのは今朝だ。公爵がここにいるなら話は別だが、そうでなければ行動が早すぎる。お前が言った通りの狙いがあったとしても、おそらく公爵の指示ではなく密偵の独断だろう」彼は考え、しばらく経って顔を上げた。「もう、じゅうぶんだ。カラス、彼がの言ったことが正しいか、後で裏を取ってきてくれ」
「わかった」カラスは頷いた。「そうとなったら、この臭い場所からさっさと出るとしようぜ」
「俺は、どうすればいい?」ダミアンが言った。
アランはやにわに剣を抜き、しげしげと刃を眺めてからダミアンに目を向けた。「教えてやろうか?」
ダミアンはすがるようにマルコを見た。
「私に、お前を助ける義理は無いと思うがね」マルコはそっけなく言った。「どう思う?」彼はカラスに意見を求めた。
「俺はどっちでも」カラスは肩をすくめた。
ジャンは、ふらつきながら立ち上がった。
「大丈夫かい?」ジローが心配そうにたずねた。
ジャンは頷き、他のみながぽかんと見守る中、ダミアンに歩み寄って、彼の前で足を止めた。そうして、足元に落ちていた剣を拾い上げ、床に座り込むゴロツキの首領をじっと見つめた。
「剣に覚えがなければ斬ろうとするな」アランは感情のない声で言った。「突け」
ダミアンは目に怯えの色を浮かべ、唇を引き結んだ。ジャンは肩越しに剣を放り投げた。剣は背後でがしゃんとやかましい音を立てた。ダミアンは困惑した様子で剣を見つめ、それからジャンを見た。ジャンはひとつ息を吸い込むと、やにわに拳を固めてダミアンの頬をがつんと殴った。そんなに強く殴ったつもりはなかったが、ダミアンはばったりと床に倒れ込んだ。
ジャンはアランに目を向けた。「これでいいよね?」
アランは、しばらくきょとんとしていたが、頷いて剣をおさめた。そうして、また例のおもしろがるような表情を浮かべ、ジャンを見つめた。
ジャンはダミアンを見た。彼はのろのろ起き上がると、殴られた頬を押さえてぽかんとジャンを見た。口の中を切ったのか、唇の端から血が垂れていた。マルコを見ると、彼は怒っているような笑っているような複雑な表情をしていた。ジローは仮面を被っているので表情は読めなかった。
カラスはジャンの肩をぽんと叩いてから、脇を抜けてダミアンに歩み寄った。彼はぼそぼそと低い声で、ダミアンの耳元に何かを囁いた。途端にダミアンは目を見開き、青い顔でカラスを見た。カラスはダミアンに背を向け、一同に言った。「行こうか?」
ダミアンのアジトを出ると、ジャンは石畳に落ちた自分の影が長く伸びているのを見て、夕暮れが近いことを知った。トレボーに着いてもう半日が経ったのかと驚き、それと同時に起こった出来事を振り返って、短い間にずいぶんいろいろあったものだと嘆息した。
彼らはしばらく無言で歩き続けたが、不意にマルコが口を開いた。
「裏通りには近寄るなと言ったはずだぞ?」
「ごめんなさい」ジャンは素直に謝った。
「まあまあ、伯爵さん」ジローがとりなした。「ジャンを路地へ連れて行ったのは私なんだし、なんと言っても今回のこれは、あんたの言う政治とやらに巻き込まれたって考える方が、ずっと真っ当さ。そうだとしたら、この子に大した落ち度はないと思わないかい?」
「口の達者なやつだな」マルコは渋い顔をした。
「そりゃあもう、商売柄ってやつでね」
ジローのおかげで伯父の叱責を免れたジャンだったが、ほっとする間もなく、今度はアランがくどくどと彼の不用意な行動を責めはじめた。助け船を出してくれたのは、カラスだった。
「そんなに心配なら、お前はしばらくジャンの護衛をしたらどうだ?」
マルコは片方の眉をぴくりと上げてカラスを見た。「いいのか?」
カラスは頷いた。「あのゴロツキの言ったことが本当なら、ここには公爵の密偵がうようよしてることになる。またぞろ彼らがちょっかいを掛けてこないとも限らないからな。ジャンが誘拐される度に俺たちがギャング団を壊滅させてたら、トレボーは清潔すぎて鼻持ちならない街になっちまう」
「それはそれで、カルヴィンが喜びそうだ」マルコは呟いてから、アランに目を向けた。「頼めるか?」
アランは頷いた。
「決まりだな」カラスは言った。「それじゃあ、俺とマルコおじさんはキャベツの代金を取り立てに行くから、お前たちは先に宿へ行ってくれ」
「寄り道はするなよ?」マルコが釘を刺した。
「わかった」ジャンは神妙に頷いた。
「私がちゃんと宿まで送るから、心配要らないよ」ジローは請け合った。
「はて。ジャンをギャングが待ち構えてる路地へ連れていったのは、どこの誰だったかな?」マルコは疑わしげだった。
「こりゃあ手厳しい」ジローは仮面の額をぴしゃりと叩いた。
「次はアジトへ連れ込まれる前に、私が片付ける」アランは言った。
「ならず者に会わない、安全な道を歩こうとは考えないのか?」マルコは首を振りながら、カラスと連れ立って駐屯地へ向かった。
マルコの心配をよそに、ジャンたちは大きな厄介ごとに巻き込まれることもなく、宿へたどり着いた。途中、血まみれのジャンを見て大丈夫かと訊いてくる通行人もいたが、ジローが適当に言いくるめて騒ぎになることはなかった。しかし、牡鹿亭の主人は部屋へ入る前に身体を洗えと言って、中庭に続く勝手口を指さした。ジローは「お先に」と手を振って、さっさと自分の部屋へ戻ってしまった。
中庭に出ると、そこは街中と違い土の地面が見えていた。片隅に小さな菜園が作られているのを見て、ジャンは不意に村が恋しくなった。勝手口から庭の中央に掘られた井戸までは石畳が敷かれており、足を汚さず歩けるようになっていた。ジャンとアランが井戸を覗き込んでいると勝手口が開き、宿の主人が大きな洗い桶と石鹸を持ってきた。桶の中には二人分の着替えも入っていた。
「嬢ちゃんの服は洗えば何とかなりそうだが、坊主のは無理だ。明日までに換えの服を用意しておく。身体を洗い終わったら桶の水を捨てて、汚れ物を入れておけ」
「ありがとう、ご主人さん」
ジャンが礼を言うと、主人はにこりともせず立ち去った。ジャンとアランは顔を見合わせ、血に汚れた服を脱いだ。井戸から汲んだ水を桶一杯に張って二人で中に入り、きゃあきゃあ騒ぎながら泡だらけになって身体を洗った。水は冷たかったが、気温が高かったのでむしろ気持ち良いくらいだった。仕上げに水をかぶって泡を洗い流し、きれいな服に着替えるとジャンは生き返った心地がした。
宿の中へ戻ると、主人がカウンターの向こうから二人を手招きした。ちらほら入り始めた食堂の客を横目に見ながら、ジャンはカウンターへ向かい、背の高い丸椅子にアランと並んで腰を落ち着けた。主人は黙って二人の前にカップを置いた。中身は温めたミルクだった。
二人がカップを空にしたところで、主人はようやく部屋へ入ることを許可した。ジャンは階段を昇り、今朝方自分で予約した部屋の一つに入り、アランも後を付いてきた。
ジャンは靴を脱いで二つ並んだベッドの一つに飛び込んだ。シーツは真っ白で洗い立てのように糊がきいていた。アランは空いたベッドへ腰を降ろし、また面白がるような顔でジャンを見つめてくる。
「村までは一緒に来てくれるんだよね?」ベッドに寝転がったままジャンはたずねた。
「そうだな」
「ポーレットに会って欲しいなあ」
「私も彼女に会うのが楽しみだ」アランは頷き、それから訝しげにジャンを見た。「お土産を買うんじゃなかったのか?」
ジャンは「あっ!」と声を上げだ。手の中は空っぽだった。ダミアンたちに襲われたとき、あの路地へ落としてきてしまったようだ。彼は窓の外を見た。外は黄昏時の薄闇に覆われ始めていた。「買い物へ行くには、もう遅いね」
アランは頷いた。「そのうち、買い直す機会があるだろう」
「そうだね。でも僕は、ポーレットのお土産を買う度に、何かの災難に巻き込まれてる気がするんだ」
「次は大丈夫だ。私が付いている」
「そう願うよ」
それから二人は、たわいのない事を話し合って時間を潰した。しばらく経って部屋の扉がノックされた。ジャンが出ようとするとアランはそれを止めて、剣の柄に手をかけながら扉の前に立った。
「二人とも、寝ちまったのか?」
宿の主人の声だった。アランは扉を開けた。
「ツレが戻って来たぞ」主人は親指で肩越しに背後を示した。「食堂に晩飯を用意してあるから降りてこい」
二人は主人に付いて階段を降り、食堂へ向かった。ほぼ満席だったが、ディボーのコマドリ亭と違って、羽目を外す客の姿は見られなかった。壁際のテーブルからマルコが手を振った。向かいの席にはカラスもいた。
「豪勢だね」ろうそくを囲んでテーブルに並ぶ料理を見て、ジャンは言った。
「そうだろう。しかし、眺めていても腹は膨れないぞ?」マルコは言って、空いた椅子を指さした。早く座れと言う事か。
ジャンとアランが席に着き、夕食が始まった。アランは小さな身体のどこに入るのかと疑うほど食べ、ジャンも負けじと詰め込んだ。おかげでマルコは三度もおかわりの注文をする羽目にあった。全ての皿が空っぽになり、みんなの胃袋が満足した頃、若い女給が短くなったろうそくを交換に来た。女はカラスの耳元で何かを囁き、カラスは同じように何事かを囁き返した。女は顔を赤らめて笑いながらカラスの背中をばんばん叩いた。カラスは彼女にチップにしては多めのコインを握らせ、軽く尻を叩いて戻らせた。
「何人だ?」マルコが訊いた。
カラスは親指と人差し指を曲げて見せた。「どいつも離れた席にいる」
マルコは頷き、一同を見渡してから口を開いた。「我々は王都へ向かう」
「どうして?」ジャンはぎょっとして聞き返すが、人差し指を口元に当てるカラスを見て口を両手でふさいだ。
「密偵がいる。声を聞かれる心配はないと思うが、用心に越したことはない」と、カラス。
ジャンは頷き、声をひそめてたずねた。「村へは帰らないの?」
「ジネットやポーレットのところへ、公爵の密偵を案内してやることも無いだろう」マルコは言った。
「それもそうだね」ジャンは納得した。ポーレットが自分と同じ目にあったらと考えただけで、彼は胸が締め付けられるようだった。しかし、わからないこともあった。「でも、どうして王都なの?」
「魔王の手を借りなくても国が滅びそうな状況なんだ。ちょっと行って、シャルルとメーン公爵の尻をひっぱたいてやろうと思う」
「それは、おじさんがする事なの?」
マルコはしばらく考え、頷いた。「そうだな。どうやら私がやらなきゃいけないようだ」
「君の言うとおりだね」ジャンはアランに目を向けた。「お土産を買い直すチャンスがさっそくやって来たよ」
アランは頷いた。
「また失くしたのか?」マルコは眉をひそめた。
「うん。おかげで、持ってきたお小遣いがなくなりそうだよ」
「いくらか渡そうか?」
「ありがとう。でも、いいや。キャベツを運ぶ手伝い分のお小遣いはもうもらってるからね」
「そう言うことなら、何か稼ぐ方法を考えてやろう」カラスが申し出た。
確かに彼は旅商人で、その道の玄人だ。ジャンは少し考え、「お願いしようかな」と言った。
「犯罪はだめだぞ」マルコが釘を刺した。
「俺がそんなへまをするって本気で思ってるのか?」カラスは渋い顔をした。
「へま?」ジャンは首を傾げた。
「彼の道徳観は少しユニークなんだ」アランが説明した。「証拠を見つけられるようなへまをしなければ、どんなことも犯罪ではないと考えている」
「理想は行為そのものが発覚しないようにすることだな」カラスは補足した。
「えーと」ジャンはちらりと伯父をみて言った。「正直な方法で頼めるかな?」
カラスは肩をすくめた。「依頼人の注文なら仕方ない」
「商売の話は終わったか?」と、マルコ。「明日は朝食の後で駐屯地へ向かい、最初の予定通りカルヴィンの部隊に紛れディボーへ向かう。ただし、ディボーへたどり着くのは荷馬車だけだ。我々は途中でカルヴィンから借りた馬に乗り、王都へ向かう。うまく密偵たちの目を誤魔化せれば、公爵の不意を突くことも出来るだろう。何か質問は?」
「僕は馬に乗れないよ?」ジャンは言った。
「私と一緒に乗ればいい」と、アラン。「馬車は無理だが、馬なら乗れる」
「他にないか?」マルコが訊いた。
カラスが手を挙げた。「テーブルを離れたら明日以降のことは一切口にするな。それが嘘でもだめだ。密偵は嘘から真実を拾い出す訓練を受けているからな。部屋の中は盗み聞きされてると思え。トレボーを十分離れるまでは気を抜くなよ」
全員が神妙に頷いた。
「さあて、話はこれで終わりだ」マルコは言ってジャンに目を向けた。「私とカラスは少し飲んでから部屋へ戻るが、お前はどうする?」
「僕はもう寝るよ。みんなは知らないと思うけど、ギャングに誘拐されるとすごく疲れるんだ」
「アラン」カラスが言った。「今日はジャンと一緒に寝ろ。さすがの密偵たちも、この宿で狼藉を働くとは思えないが、俺は裏をかかれるのが嫌いなんだ」
「わかった」アランは席を立った。彼女はジャンを見て言った。「行こうか?」
ジャンが部屋の扉を開けると、中は真っ暗だった。中へ入ろうとすると、アランがそれを止めた。彼女は剣を抜いて室内を一通り改めてから廊下へ戻り、壁に掛けられていたろうそくを一本拝借して、部屋のろうそくに火を灯した。それでようやく、彼女はジャンに向かって頷いて見せた。
「ずいぶん慎重なんだね」ジャンは感心して言った。
「カラスと違って、お前は弱いからな」アランは剣をおさめながら言った。「お前は機転もきくし賢いが、自分の身を守るだけの力も技術も無い」彼女の口調は責めも非難してもいなかった。ただ、淡々と事実を挙げ連ねているだけだった。「そうなると、私が気を配るしかないだろう」
「そうだね」ジャンは認めた。「頼りにしてるよ」
「任せろ」アランは頷いた。
ジャンは笑顔を返し、ベッドへ潜り込んだ。アランは部屋の蝋燭を吹き消した。一瞬、辺りは真っ暗になった。窓の鎧戸からわずかに差し込む月明かりに目が慣れると、アランの姿が青白く浮かんで見えた。彼女は自分のベッドから枕を持ってきて、それをジャンの顔の横へ置き、剣を抱いて彼と同じ毛布に潜り込んだ。ジャンが訝しげに目を向けると、彼女は「カラスが一緒に寝ろと言ったからな」と言った。
多分、カラスは同じ部屋で寝ろと言いたかったはずだが、ジャンはあえてそのことは指摘せず、枕をずらしてアランにスペースを譲った。あれこれおしゃべりしたい衝動に駆られたが、カラスの警告を思い出し、結局「おやすみ」とだけ言った。
「おやすみ、ジャン」
アランの声が耳元で聞こえた。少女の身体から伝わる体温が心地よかった。二人の間にある剣をちょっとだけ邪魔に思いながら、ジャンは眠りに落ちた。
(8/19)誤字修正




