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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
45/46

30.開戦

 クセの転移魔法で連れて来られた先は、敵軍の真っただ中だった。もちろん、周囲には数千のメーン兵がひしめいており、味方のモンルーズ、およびクタン街道警備隊の連合軍は、そこから緩い傾斜を四分の一マイルほど下った先の、ベア川の対岸にある。

 足の悪いマリユスは、ジャンの申し出で用意された床几に腰掛け、その様子を長らく眺めていた。彼の左右には、不安げな表情のセバスティアンと、退屈そうに、あくびをかみ殺すクシャロが控えている。ひとまずは全員が無事で、武器は取り上げられたものの、拘束まではされていなかった。

 それにしても――と、マリユスは怪訝に思う。両軍は、にらみ合ったまま一向に動こうとしない。防御側の連合軍はともかく、攻めかかっているメーン軍が、渡河の準備すら始めていないのは、どう言うことだろう。

 そんなわけで、少し離れた場所でクセと並んで立つジャンが、「いつまで、こうしてるの?」と、魔族の女にたずねた意味を、マリユスはすっかり勘違いしてしまった。

「もう少し待ってちょうだい」

 敵軍を見据えていたクセは、ジャンに目をやって答えた。その横顔は見惚れるほど美しいのに、浮かぶ笑みは、マリユスの背筋を微かに粟立たせた。

「でも」と、クセは続ける。「自分の軍隊が叩き潰される様子を、それほど心待ちにしてるなんて、ずいぶん変わった指揮官ね?」

「正確には、マリユスの軍隊だけどね」ジャンは、肩越しにマリユスを一瞥し、すぐにクセへ視線を戻す。

 マリユスにそっくりの、偽物に奪われたメーン公爵の座を奪還する――と言うのは、彼の軍が掲げる大義名分である。とは言え偽物は、魔族の秘技によって、マリユスの父親であるセドリック・シセの魂を宿し、今や本物のメーン公爵となってしまった。従って、マリユスのメーン公爵位も、それに付随する中将と言う役職も、そして軍隊を率いる資格も、また失われている。

 それにしても、死んだはずの父親が、少女に転生して戻ってくると言う現象に、生涯で二度も出くわすとは驚きである。よもや世間には、そう言った流行でもあるのだろうか。そうであれば、ちょっと可愛い女の子を見かけても、うかつに声を掛けられないではないか。

「でも、僕が聞きたいのは、そう言うことじゃないんだ」

 マリユスが、くだらないことを、つらつらと考えている間にも、ジャンの話は続いていた。

「あなたの目的は、僕を捕まえることだよね。それが叶ったのに、どうしてこんなところで、もたもたしてるの?」

 そもそもジャンの見立てによると、メーンの起兵は、彼を捕らえることにあった。意味のない戦争ごっこにかまけて、わざわざジャンを奪還される可能性は、残すべきではない。

「魔王様の本当の仇を、放っておけと言うの。あなたの父親を?」クセは、またもや口元だけの笑みで答える。

 するとジャンは、一瞬、用心深い猫が、獲物を見つけた時のような目付きになった。マリユスは、それを目ざとく見て取ったが、ほとんどの人たちは――おそらく、本人も含めて――気付いていない。

 マリユスは内心、ほくそ笑んだ。ジャンは、些細な一言や状況の断片から、相手を丸裸にできる頭脳の持ち主だった。純朴そうで、人好きのする外見に油断して、うかつなことを口走れば、知られたくないことを見透かしてくる。果たしてクセは、彼女がこっそりと隠し持っている何かを、ジャンの千里眼から守り抜くことは出来るだろうか。

「父さんをやっつけて満足なら、僕なんか放っておけばいいのに」ジャンは言って、口をへの字に曲げた。

「それでも私の(あるじ)は、あなたを欲しがっているの。きっと、あの方は、剣王の一族を根絶やしにしたいと考えてるのよ」

「それを聞いたら、ニコラ司教はどう思うかな。そもそも女神崇拝者に、僕が女神と結婚して、新しい皇帝の父親になると信じ込ませたのは、メヌの魔族たちじゃなかった?」

「お優しい殿下」クセは小さく喉を鳴らして笑う。「心配してくれるのは嬉しいけど、私のナイフはとても説得力があるの。ご存知ない?」

「まあ、そうだね」ジャンはため息をついて認めた。「ところで、いつアランが剣王だってわかったの?」

「彼自身が二日目の議会で、それを明かした時、私はまだ王都にいたの。その時は、まだユーゴは味方だったし、私は王宮内の情報を、いつでも手に入れられたわ」

「あ、そっか」ジャンは、目をぱちくりさせてから、ふと得心がいかない様子で首をひねった。「でも、クタンの礼拝堂で、女神のふりをしていた人は、父さんが体を借りている女の子の出自を知っているようだったんだ」

「出自?」

「父さんが言うには、真っ二つにした魔王のおなかから、あの女の子が転がり出たらしいよ。父さんは、断末魔でのたうちまわる魔王から、女の子をかばって死んでしまったんだけど、気が付いたらその子に乗り移っていたそうなんだ。聞いてない?」

「初耳よ」クセは、いささか戸惑った様子で答えた。

「僕たち身内も最近知ったばかりだし、それを魔族が知ってるのはおかしいと思ったんだ。けど、あなたが知らないのなら、偽女神の出まかせが、たまたま父さんの話にそっくりだっただけなんだろうね。ひょっとしたら、魔王討伐の一部始終を見ていた人がいて、剣王が小さな女の子になったことをずいぶん前に知っていながら、それを今まで内緒にしていたのかも知れないけど」

「この戦が終わってメヌへ戻ったら、姉妹たちとじっくり話し合った方がようさそうね」クセは眉間に皺を寄せ、あからさまに不快の表情を浮かべた。「あなたが、それを教えてくれてよかったわ。さもないと、故意に隠し事をするような、不届き者を見逃すところだったもの」

「どういたしまして」ジャンは軽く頭を下げた。「これで僕も、あなたが主様とやらの命令で、父さんを殺そうとしてるんじゃないってことがわかったし、恩に着せる必要はないよ」

 クセは、口をへの字に曲げ、束の間ジャンを睨みつけてから言った。「あなたって、本当にたちが悪いわね。あの公爵と違って、おしゃべりをしていて楽しいと思えるから、なおさらだわ」

 その公爵が、巨漢の僧を従え、兵士たちの間を割ってやって来た。

「おい、クセ!」少女の姿を借りるメーン公爵は、通りすがりに息子を一瞥してから、魔族の女に大股で歩み寄った。「もうじき日が暮れるぞ。何をもたもたしている?」

「焦らないで」クセはしかめっ面になった。「千を超える魔物を、いっぺんに操ろうとしているのよ。慎重にやらないと、彼女たちは敵じゃなく、味方を食らい始めるわよ」

 マリユスは、内心の驚きを隠しながら、辺りをこっそりと見渡した。クシャロが言うには、魔物はどうやっても女性の身体にしか作れないとのことだ。しかし、周囲の兵士は屈強な男たちばかりで、魔物が化けているようには見えなかった。もちろん、男のような容姿でも、身体が女である可能性は否定できない。

 あれこれ作戦の打ち合わせを始めたクセとメーン公爵を置いて、ジャンがこちらへ歩み寄って来る。彼は左耳を押さえながら、「ねえ」と声をひそめて言った。

「なに?」と、マリユス。

「ここには二人も魔法使いがいるんだから、誰か転移の魔法を使えてもいいよね。ちょっと僕たちを、川の向こうまで連れて行ってくれないかな」

 マリユスは首を振る。「残念だけど、その呪文は知らないんだ」

 するとジャンは、期待を込めた眼差しをクシャロへ向けた。

「ジャンは、意外に間抜けなところがありますね」

「賢いふりをすると、みんな何も教えてくれなくなるからね」

 クシャロは小さく鼻を鳴らす。「もし使えるなら、ザナに捕まったりするわけないじゃないですか」

「あ、そっか」ジャンは目をぱちくりさせた。「ひょっとして、難しい魔法なの。クセもだけど、ザヒ老師や()()()()普通に使ってるけど?」

「みんな名人ばかりじゃないか。比べる相手が――」マリユスは言葉を切って、束の間ジャンを見つめてから、見張りの兵士にリュートを返せと食い下がるジローに目を向けた。どう言うわけか、彼の商売道具は武器とみなされ、彼自身が帯びていた剣や、ジャンやクシャロの短剣と一緒に、少し離れた場所の地面へ、ぞんざいに放り出されていたのだ。

「ねえ」と、マリユスはジローに呼び掛けた。「安物のリュートなんか、もうあきらめたら?」

 仮面の吟遊詩人は兵士に背を向けると、小さく首を振りながら、こちらへ歩み寄る。「けどね、マリユス。あれでも、私の大事な商売道具なんだよ」

「あとで、もうちょっとましなのを買ってあげるよ」マリユスは約束をしてから、ジャンに向かって片目を閉じて見せた。どうやら、マリユスの親友は、シェリを通して何かしらの指示を受け取ったようだ。ひょっとすると、ウメコが転移の魔法で、この窮地から彼らを救い出そうとしているのかもしれない。と、なれば、みながばらけているのは得策ではなかった。しかし、問題が一つある。それを、ウメコに伝えておかなければならない。

「まあ、僕たちが転移魔法を知ってたとしても、どうせ、ここじゃ使えないんだけどね」

 ジャンは、きょとんとしてマリユスを見つめた。「どうして?」

「結界だよ」マリユスは言って、クセの背中をちらりと見てから続けた。「彼女は、ここら一帯に、魔法を妨害する結界を敷いたんだ。そうじゃなかったら、僕が火の玉の一つも投げずに、大人しくしてるはずがないだろ?」

「それって」ジャンは眉間に皺を寄せた。「どんな魔法も帳消しにしてしまうってこと?」

「いや」マリユスは首を振った。「ある程度、魔力をたくさん使う種類の魔法だけだよ。それこそ、転移魔法のような、ね。もし、何もかも消し去ってしまったら、あの女も魔物を操れなくなる」

「クシャロは、ぜんぜん気付きませんでした」

「結界は、僕の得意魔法なんだ。これについては、名人にだってひけをとらないよ」

 ウメコが、シェリを通して盗み聞きをしているなら、これでマリユスがやろうとしていることにも、察しがつくだろう。

 ところが、クシャロは言う。「あんまり自慢してると、みんなから鼻持ちならないやつだと思われますよ」

 好きでやっているわけではないのだが、説明していると自分の企みをクセたちに感づかれる恐れがあるので、マリユスはべっと舌を見せて、抗議するにとどめた。

「でも」と、ジャン。「千匹の魔物を操るんだよ。魔力だって、たくさん使うんじゃないの?」

「多分、使い方の問題ですね」クシャロは言って、束の間考えてから続ける。「十個のキャベツをまとめて荷馬車に載せるのと、一個ずつ載せるのとでは、どちらが大変ですか?」

「そりゃあ、まとめて載せる方だよ」

「でも、仕事が終われば、どっちも同じく十個のキャベツが荷台に載ってますよ」

 ジャンは目をぱちくりさせた。「それもそうだね」

「要は、単位時間あたりの魔力の消費量が、大きいか小さいかの差です。魔物を操ると言っても、実際は思考を送り込んで、やるべきことを教え込むだけですから、一体に使う魔力の量は、ほんのちょっとですみます」

 魔物の身体でいた時、その魔法のせいでマリユスは、クシャロと自分の思考を切り分けるのに、ひどく苦労をさせられたのだ。魂を持たない普通の魔物であれば、そもそも自分の考えなどあるはずもないから、術者の言うこともあっさりと聞いてしまうに違いない。

 不意に、ジャンが「あっ!」と声をあげた。彼はしかめっ面をクシャロに向けた。「それじゃあ、君は手を抜いたんだね」

「なにがですか?」

「クモの魔物を、僕たちにけしかけた時のことさ。君は、僕を殺さないように命令したって言ったけど、実際は彼女が投げ付けた机に、もうちょっとで押しつぶされるところだったんだ」

「おや、そうだったんですか」クシャロは目をぱちくりさせた。「まあ、そう言った間違いを起こさないように、本当なら一緒にいて、細々と指示を修正しなきゃいけないものなんです。でも、あの時は、そこまで手が回りませんでしたから」

「あいつは、なかなか手強かったね」と、ジロー。「私とアベルの二人掛かりでも手を焼いたんだ」

「君が足を引っ張ったんじゃないの?」マリユスはにやにや笑って言う。

「失敬な。私だって、そりゃあ大活躍したんだよ。なんなら、その時の様子を一節歌ってあげようか?」

 あるいは、それでクセの集中を乱せれば、彼女の作戦を阻止することも望めそうだが、その前にニコラ司教がこちらを睨みつけて来る。

「私の友人たちは、いささか難しい仕事に取り組んでいるところなのだ。おしゃべりを止めろとまでは言わないが、せめて声を落として欲しいものだ」

「ごめんよ」ジャンは急いで謝り、マリユスたちに向かって口元に人差し指を立てて見せた。彼はすぐに、ニコラへ向き直る。「ちょっと、聞いてもいいかな」

 この期に及んでもなお、ジャンは敵から情報を引き出そうと頑張るつもりのようだ。そして、果せるかな、ニコラは一つ頷いた。

「女神と魔王って、何か関係があるの?」

「殿下!」セバスティアンが、咎めるような口調で割り込んだ。しかし、ニコラは右手を上げ、老司祭を止めてから、ゆっくりとジャンに歩み寄った。彼は本当に大きかったから、近くに来られると日差しが遮られ、その影で辺りが暗くなった。

「なぜ、そのような疑問を抱くに至ったか、理由を伺いたい」

 マリユスが見る限り、ニコラは老司祭と違って、ジャンの発言に腹を立てている様子はなかった。もっとも、この角ばった顔立ちの司教は、もとから表情に乏しいので、内心を読むことは難しい。しかし、おしゃべりを慎むようにと言った舌の根も乾かぬうちに、ジャンの問いに乗ってきた時点で、彼が何かしらの興味を覚えたことは、明らかだった。

「女神の敬虔な信者であるあなたが、魔族に肩入れしているって事実を考えれば、何もないってわけがないからね」ジャンは肩をすくめて言った。

「然り」ニコラは苦笑いを浮かべて頷いた。

「でも、それで女神と魔王に、色々と共通点があることに気付いたんだ。例えば、彼女たちはどちらも女性だし」ジャンは、クセの背中とクシャロに、それぞれ目を向けてから続ける。「どちらも、巫女のおなかに宿る」

 ニコラは頷き、「他には?」と、さらに先を促した。

「もう一つは、ヒドラ退治の挿話かな。僕は読んだことがないからわからないけど、ジローはあれを、ありきたりな英雄譚だって言ったんだ」

「なんなら、頭から終わりまで歌ってあげようか?」ジローが提案する。

「ありがとう。でも、今はいいや」ジャンは吟遊詩人の申し出を断ってから、話を続けた。「だとしたら、どうして教会は、それを神話から削るようなことをしたんだろう。もし、子供には聞かせられないような、色っぽいお話だとしたら、礼拝堂にモザイク画やステンドグラスで飾られたりはしないよね」

 ニコラは、訝しげに片方の眉を吊り上げた。「今は、女神と魔王の話をしていたのでは?」

「もちろん」ジャンは頷いた。「知ってる人は少ないと思うけど、父さんがやっつけた魔王は、ステンドグラスに描かれたヒドラに、そっくりなんだ」

 ニコラは、ぎょろりと目を見開いた。セバスティアンは、ぽかんと口を開け、マリユスはクシャロに目を向けた。「そうなの?」

「クシャロも、本物の魔王様は見たことありませんが、クシャロたちのおなかにいる魔王様の欠片は、外へ出てくるとあんな格好になるので、たぶん間違いないです」

 マリユスは思わず眉をひそめた。「そんなのをおなかに飼ってて、よく平然としていられるね?」

「普段は特に、何も感じないですから」クシャロは肩をすくめた。「それに、どこかの路地裏で野垂れ死にするより、魔族をやってる方がましってもんです」

「そっか」マリユスは頷いた。「しかも、それのおかげで僕とも出会えたわけだし、むしろ感謝しなきゃだね」

「余計な苦労を背負いこんだと言えなくもないです」

「なんだよ、それ」

「冗談です」クシャロは言って、くすりと笑った。

「ねえ、続けていいかな?」

 ジャンが首を傾げて聞いてくる。マリユスは話の腰を折ったことを謝ってから、先を続けるよう促した。

「どうして教会が、無害な挿話を削ったのか」ジャンは、セバスティアンをちらりと見てから続けた。「司祭様は、女神礼賛が行き過ぎるって理由を挙げたけど、もしそうなら、アルシヨンと女神の結婚についての挿話も削られているはずだよね。でも、僕が王子になる前に暮らしてた村だと、それは冬のお祭にやる、お芝居の定番だったんだ。だから、教会が神話をいじくったのは、時の権力におもねって女神をないがしろにしたわけじゃなく、むしろ女神の評判を守るためにやったことじゃないか――と、僕は考えてる」

「殿下」セバスティアンは戸惑った様子で言った。「全く、話が見えないのですが?」

 するとジャンは、何やら困った表情を浮かべた。さもありなん。彼が至った結論は、女神を敬愛する人たちには、あまりにも刺激が強すぎた。

「尊師」と、マリユス。「ジャンは、物事を複雑に考えすぎるきらいがあるので、このように回りくどい言い方になってますが、実はそれほど難しい話ではありません」

「すると、あなたは殿下の言った意味を理解していると?」

「ええ、もちろん」マリユスはにっこりと笑みを浮かべた。「つまり、女神と魔王は同じものなんです」

 セバスティアンは、ぎょっと目を見開き、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせた。

「まだ、そうだって確証はないのに、断言するのはよくないんじゃないかな?」ジャンは渋い顔をした。

「僕らにはなくても、ニコラ司教にはありそうだよ」

 ニコラは、セバスティアンのようにショックを受けていなかった。女神崇拝者であれば、自分の信仰を冒瀆したと、怒り出してもよさそうなものだが、そうしないのは、ジャンが唱えた説に、支持するところがあると言うことだ。さらに彼は、二、三度拍手してから、こう言った。「素晴らしい(ブラボー)

「何が素晴らしいものですか!」セバスティアンは、目を三角にして言った。

「兄弟」ニコラは司祭に目を向ける。「無論、信じがたいことだとは理解できる。しかし、教会の古い記録をひもとき、長きの研究を重ね、私がたどり着いた結論は、この少年らが至ったものと、まさに同じなのだ」

「そんな、馬鹿な……」

「馬鹿げていようと、事実は事実だ」ニコラは容赦無く言った。「その発端とは、女神崇拝なる誤った信仰に囚われてしまった人たちの愚かな行いによる。彼らは、女神の慈愛を世に広めるためと称し、非道に手を染めた。善に依れば、自らの為すことが、どれほど卑劣で悪虐であろうとも、同じく善であると勘違いしたがためだ。人たちの愚行により、女神が穢れることを恐れた教会は、まさに殿下が述べたように、神話の改ざんに手を付けた。彼女が魔王としての顔を持つことなど、教会として、あってはならないことだったからだ。教会は、なんとしても、女神がひたすらに聖なるもので、ただ人々に慈愛を下す、純粋なる善と見せかけねばならなかった。しかし、人々の敬愛を集めるだけの存在が、真に神と言えようか? 私は否やと言おう。なんとなれば、畏怖を失った神など、ただの偶像にすぎないからだ。然るに、女神の神性を取り戻すには、(さき)の神たる女神と、(あら)ぶる神たる魔王の、分かたれた二つの相を一つに統べなければならない。そのために――」

「そのために七柱神教会と、魔界の魔王崇拝を統合して、新しい教えを作る」ジャンは司教の言葉を奪ってから、小さくため息を落とした。「あなたが魔族に手を貸している理由は、それなんだね」

「然り」ニコラは頷いた。

「ついでに、僕の父上が皇帝になれば、その新しい女神教を国教に指定するって手筈になってるんじゃないかな」マリユスは付け加えた。

 ジャンは目をぱちくりさせた。「そうなの?」

「政治ってやつだよ、友だち。世の中の有様を変えたいなら権力が必要だし、権力が欲しければ、大勢の人の支持を取り付けなきゃならない。そして、人たちが誰かを持ち上げようとする理由の大半は、利益なんだ。ニコラ司教は皇帝の保護で自分の宗教を広められるし、父上は宗教の力で人民を従えることができる。互いに得るものがあるからこそ、彼らは手を組んでいる」

「でも、それは君のお父さんが、確実に皇帝になれるって前提がないと、成り立たない関係だよね。収穫してもいない麦をあて込んで、新しい馬車を買うようなものじゃないかな?」

「彼らは、来年が豊作だとわかってるのさ」マリユスは肩をすくめて言った。「君は、この軍隊が、君を捕まえるだけに起こされたと考えてるけど、実を言えば、王都を脅かすためでもあるんだ。彼らが君を捕まえても、ぐずぐずしている本当の理由は、それでシャルル陛下を降伏させて、父上の頭に皇帝の冠を載せる絶好の機会を逃したくないからさ」

「そんなの、うまく行くかどうかわからないじゃないか」

 確かに、こうしている最中にも、ロゼ軍とベルンの街道警備隊が、水路を使ってベアに向かいつつあった。明日になれば彼らは到着し、メーン軍優位の状勢をひっくり返す可能性もある。現公爵がクセをせっついているのは、その情報を得て、どうにかして今日中に決着を付けようと、焦っているからだ。しかし、川向こうの連合軍を打ち破ってしまえば、レオンとギャバン大佐は退かざるを得なくなる。そうして、日和見を決め込んでいた貴族たちが、尻馬に付こうと兵を出せば、メーン軍は王国軍に対抗できるだけの規模に膨れ上がるだろう。

「彼らにとって、今が正念場なんだ。うまく行くかどうかじゃなく、うまくやるしかないのさ」マリユスは言って、ニコラに笑みを向けた。「ただ、あなたにとっては、相当に分の悪い博打だと思うよ。父は公爵であると言うこと以外、他には何の取柄もないんだ。万が一、彼が皇帝になったとしても、そう長くは玉座に留まれないだろうからね。新皇帝が改心しない限り、あなたの女神教は、愚帝の汚名に巻き込まれて自然消滅することになるよ」

 現メーン公爵である魔物の少女が振り返り、マリユスをきっと睨みつけた。彼女は、つかつかと息子に歩み寄ると、彼が座っていた床几の足を蹴り飛ばした。マリユスは地面に転がり、起き上がろうとしたところで、メーン公爵に頭を踏みつけられた。

「自分で立てもしない()()()が、ずいぶんと偉そうな講釈を垂れているではないか」

「そりゃあ、メーン公爵家の嫡子として、立派な教育を受けて育ったからね。雄弁にもなるよ」痛みをこらえながら、マリユスはにやりと笑って見せた。

「お前は、自分が生きてここにいる理由を、理解しているのか?」

「もちろんですとも、父上。魔物の身体となって、新しい世継ぎを作れないあんたは、僕が大嫌いなのに、唯一の嫡子だから殺すこともできない。その心情を思えば、命を恵んでいただいたことに、感謝は尽きません」

 メーン公爵は、マリユスの顔から足をどけ、代わりにつま先で腹を蹴りつけた。クシャロの小さな悲鳴が聞こえた。鳩尾に鈍い痛みを覚えてから、わずかにおくれて嘔気がわき、胃液が喉にこみ上げる。

「なにやら勘違いしているようだな、息子よ」少女はにやにやと笑って言った。「お前の代わりなど、もう見付けてある。今のお前は、レオンに対する人質でしかない。あれは、お前にご執心だからな。お前の身柄と引き換えなら、喜んで兵を退くだろうさ」

 マリユスは息を飲んだ。そんなはずはなかった。マリユスの工作は完璧だった。彼の足取りを、誰とて掴めるはずがない。

 不意に、ジャンがメーン公爵をひっ掴み、高々と頭上に掲げてから、力いっぱい投げ飛ばした。魔物の少女は地面に叩きつけられ、「ぎゃっ」と悲鳴を上げてから、クセの足元にまで転がった。

「本当は女の子に、こんなことしたくないけど、友だちを傷つけるなら容赦しないよ」

 メーン公爵はよろよろと立ち上がり、ジャンを睨みつけた。「貴様ら――」

「セドリック」クセが冷たい声で言った。「そろそろ始めるわよ。子供たちの教育は後にしてちょうだい」

 メーン公爵は舌打ちをしてから伝令の兵を呼ばわり、早口で彼に指示を下した。

「大丈夫?」ジャンは、マリユスの側に屈みこんでたずねた。

「こんなの、慣れっこだよ」マリユスは身体を起こし、義足を前に投げ出して座り込んだ。「それより、ちょっと立たせてくれる?」

 ジャンは頷き、マリユスの腕を肩に回した。

「手伝おう」ニコラ司教が言って、反対側の脇に大きな手を差し入れる。

 ジャンは巨漢の僧を訝しげに見つめ、言った。「どうして、公爵を守らなかったの?」

「教育だよ、殿下。御次殿(おつぎどの)が指摘したように、私は彼に、善き皇帝となって欲しいのだ。そのためには、身体が不自由な者を労わる程度の度量は、備えておくべきだと考えた」

 二人に支えられ、マリユスは立ち上がった。驚いたことに、ガラスの義足はふらつくこともなく、しっかりと彼を支えてくれた。それを見届けたニコラは、マリユスに添えた手をあっさり放し、メーン公爵の側へと歩いて行った。ジャンは、まだ気遣う様子でマリユスの右ひじの辺りを掴んでいる。

「坊ちゃま」青い顔のクシャロがやって来て、マリユスの横に立った。

「また、怖がらせちゃったね。大丈夫?」

 クシャロは、こくりと頷いた。マリユスは、彼女を元気づけようと、その手を握った。クシャロは少しだけ驚いた様子で目を見開き、それから、にっと白い歯を見せた。そうしてマリユスは、クシャロが見つめるベア川に目を向けた。相変わらず浮橋のようなものは見えず、渡河の準備はまったく整っていないように見える。

「あっ!」と、ジャンが声を上げた。

「どうしたの?」

「魔物だ。川沿いに、ずらっと並んでる」

 マリユスは目を凝らすが、生憎と彼は、ジャンほど目がよくない。こっそりと、遠見の呪文を唱えて視力を底上げすると、なるほど、人の身の丈の三倍はありそうな、巨大なアリの魔物が、川沿いに整然と並んでいるのが見えた。もちろん、魔物であるから、大きさを別にしても真っ当なアリの姿であるはずもなく、その背中の上には、長い金髪の少女の腰から上が生えていた。そして、彼女たちは戦場に相応しく、兜と盾で武装している。ただし、鎧や衣服の類は身に着けておらず、凝視するのがはばかれる恰好だった。

 川の対岸に、ばらばらと弓兵が出て、突然現れた魔物に向かい、次々と矢を射かけ始めた。しかし、それらはほとんどが魔物の甲殻に弾かれ、何本かは背中の上の少女に突き立つが、彼女たちが痛手を覚えているようには見えなかった。

 魔物たちが前進を始めた。巨大アリは次々と川へ飛び込み、たちまち最前列が対岸へと泳ぎ着いた。連合軍の弓兵は慌てて後退するが、アリの魔物は上陸せず、長い大あごと、かぎ爪のある前脚で岸に取り付き、そのまま動かなくなる。そこへ後続の魔物がやってきて、岸に取り付いた魔物にしがみつき、さらに続く魔物も同様に、先行する魔物にかみついたり、脚を絡めたりして、ついに川面は魔物で埋め尽くされた。

「橋だ」ジャンが、ぽつりと言った。

「これは、ちょっとまずいね」マリユスは遠見の魔法を解き、眉間に皺を寄せて言った。メーン軍が渡河に手間取れば、まだ連合軍にも勝ち目はあったが、今や架橋に加わらなかった魔物は次々と即席の橋を渡り、わずかに遅れて人間の兵士も前進を始める。もはや一刻の猶予もなかった。

「ウメコは?」マリユスは急いでたずねた。しかし、ジャンは首を振る。と、なれば、ここは自分たちで何とかするしかない。手っ取り早いのは、軍を率いるメーン公爵を殺すことだ。いずれにせよ、彼は除く必要がある。さもなければ、せっかくフランドルへ逃がした弟のジュールを、またくだらない跡目争いに巻き込んでしまう。父の言う「お前の代わり」とは、つまりはそう言うことだからだ。

「マリユス、ちょっと脚を貸してくれないかな」ジャンが言った。

「え?」一瞬、親友の言葉の意味が、理解できなかった。

「君の義足を、一本貸して欲しいんだ。いや、返せるかどうかわからないんだけど」

 マリユスは、親友をじっと見つめた。どう見ても、彼にふざけている様子はない。「何か、するつもりなの?」

「うん。まあ、マルコおじさんには、何もするなって言われてるんだけどね」

 もちろん、彼なら甥っ子の身の安全を考えて、そう言うだろう。しかし、頼りになる大人たちの多くは、川の向こうだ。

「わかった」マリユスは承諾し、ちらりと視線を前に向けた。クセとメーン公爵、そしてニコラ司教は、三人ともこちらに背を向けている。

 マリユスは、義足の外し方を手早くジャンに伝えた。ジャンは一つ頷いて屈みこみ、マリユスの太ももの辺りをまさぐる。束の間、くすぐったさをこらえていると、ガラスの義足はすぽりと外れた。ぐらつく身体を、クシャロが慌てて支える。

 ジャンは、ズボンの裾から義足を引き抜くと、右手で足首の辺りを持ってから全体をしげしげと眺め、おもむろに、没収された武器の前に立つ、見張りの兵士の方へ歩き出す。兵士は、ジャンをぎょっとした様子で見つめ、あたふたと剣を引き抜いた。もちろん彼は、ジャンを殺したり傷付けたりしないよう、言い含められているに違いない。だから、王子がガラス細工の脚で殴り掛かっても反撃は試みず、掲げた剣で自分の身を守ることに努めた。しかし、義足の重量とジャンの馬鹿力の前に、彼の防御はなんの役にも立たなかった。剣はへし曲がり、兜はへこんで兵士は声もなく昏倒した。すぐにジャンは、魔族の短剣の一本を拾い上げると、クシャロに向かって放り投げ、魔族の少女は、それを空中で受け取った。ジローも駆け付け、自分のリュートと剣を手に取る。

「坊ちゃま」武器を構えたクシャロは、メーン公爵の背中に目配せして言った。

 マリユスは頷いた。結界は、すでに解除してある。そのために彼は、父親をわざと怒らせ、地面に転がったのだ。結界に直接触れ、微妙に編まれた魔法の網に、小さな傷を付けるために。

 クシャロは短く呪文を唱え、霞のように姿を消した。もちろん、支えを失ったマリユスは、バランスを崩して倒れかけた。そこへセバスティアンが駆け寄り、危ういところで彼を支える。

「ありがとう、セバスティアン」

「いえ。それより、こんなことをして、大丈夫なのですか?」

「もちろん」とは言うものの、もはや後の算段は、ジャン以外に知るところではない。

「あなたたち、何をやっているの!」

 ここへ来て、クセが騒ぎに気付き、ぎょっとした目を向けてくる。

「取り抑えろ!」メーン公爵が叫び、近くの兵士が五、六人、抜剣して隊列を離れ、ジャンに向かってくる。すぐさまジローがマントを翻し、最初に駆け寄ってきた兵士とジャンの間に割って入った。

「馬鹿者、殺してはならん!」メーン公爵が叫び、兵士はぎょっとして足を止めた。その隙を逃さず、ジローはリュートを横様に払い、兵士の頭を激しく殴りつけた。生憎と、ジャンが振るった義足ほどの破壊力はなかったが、転倒させる程度の痛手は与えられた。当然、リュートは調子っぱずれな音を立て、粉々になる。大事な商売道具と言った割には、ずいぶんぞんざいな扱いではないか。

 残りの兵士たちは、公爵の命を愚直に守り、ジャンとジローを取り囲むだけで、打ち掛かるような真似はしなかった。

「何をやっている。道化師は殺しても構わん!」メーン公爵は苛立たしげに言った。

「私は吟遊詩人なんだけどね?」ジローは鼻を鳴らして言った。

「吟遊詩人って、楽器を叩き壊すのが仕事だっけ?」ジャンが、当然の指摘をする。

「マリユスが、もっといい物を買ってくれるって言うからさ。せっかくだし、めいっぱい上等なやつをねだってみるとしようかな」

 これで、公爵の椅子を、なんとしても奪い取る理由が出来た。メーン公爵家の金庫を自由に出来なければ、ジローとの約束は守れそうにないからだ。もちろん、レオンに言えば小遣いの一つもせびれそうではある。彼なら、頬にキスの一つもくれてやれば、金貨を何枚か、喜んで差し出してくれるだろう。

 兵士の一人が、ジローを狙って斬りかかってきた。吟遊詩人は剣を閃かせ、鋭く突き出した剣で、その喉を貫き、彼をあっさりと屠った。ジローが、そのふざけた見た目に反し、手練れであると見て取った兵士たちは、地団太を踏んで「殺せ」と叫ぶ指揮官を無視した。

 理解できないのは、ニコラだ。彼はメーン公爵の隣で、泰然と成り行きを見守っているように見えた。あるいは、これも彼の言う「教育」なのだろうか。

 間もなくマリユスは気付いた。公爵の背後にある、薄く生えた芝草が、足の形に踏みしだかれ、それが点々と公爵に近付いていたのだ。そして、公爵の背後から二フィートほどで、足跡が止まった時、不意にニコラは、何もない空間に裏拳を振るった。鈍い音がして、出し抜けにクシャロが現れた。魔族の少女は数歩たたらを踏んで態勢を立て直すと、鼻血を流しながら、魔族の短剣でメーン公爵に鋭く突き掛った。

 ニコラは体を当ててメーン公爵を突き飛ばすと、その場で低く腰を落とし、弓を引き絞るように右の拳を脇に引き込んだ。そうしてクシャロの短剣が届こうとした瞬間、巨漢の僧は左手で彼女の手首ごとそれを払い、がら空きになった胸元へ右の拳を突き放った。鈍い衝突音に、骨のくだけるおぞましい音が混じり、強烈な拳撃を受けたクシャロは十フィート余りも吹き飛ばされ、地面へ仰向けに転がった。そうして彼女は、大きな血の塊を、ごぼりと音を立てて吐き出し、それっきり動かなくなった。

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