29.メーン公爵
「ちょうど良かった」マリユスは、そう言ってしかめっ面を作った。「彼女には、いくつか言いたいことがあったからね」
「君は呼ばれてなかったよ?」ジャンは指摘する。
礼拝堂で待つと言う偽のメーン公爵は、クタン街道警備隊の連隊長であるアンヌと、ベアの領主であるアベルの二人を会談の相手に指名していたのだ。
「だから?」マリユスはお構いなしだった。彼はドロテーに目を向けた。「ドロテーさん。僕の偽物が、何人くらい護衛を連れて来ているか、聞いてますか?」
ドロテーは首を傾げて考えた後、口を開いた。「使いの方は、司教様が公爵をお連れしたとだけ言っていました。武装した人間をぞろぞろ連れているのであれば、きっと警告してくれたはずです。セバスティアンが、友人である父の危険を、見過ごすはずがありませんから」
「セバスティアン?」
「ベアの礼拝堂をあずかる司祭様です」
ジャンは、礼拝堂の前で老婆と談笑していた、老僧の姿を思い浮かべた。おそらく、彼のことだろう。
「好都合です」アンヌが言った。「それならみんなで押し掛けて行って、ふん縛ってやりましょう」
「相手は危険を顧みず、敵地に乗り込んでまで話し合いの席を持とうとしているのですよ。多少は敬意を払うべきではありませんか?」アベルがやんわりと抗議した。
「しかし」と、ルイ。「偽公爵は抜け目のない人物です。私はアンヌのアイディアも、それほど悪いとは思えません」
「ついでに、公爵の正体が魔物だと言うことも、思い出した方がいいぞ」マルコが指摘する。
するとアンヌは、束の間考え込んで、一つ頷いてから口を開いた。「私とアベルに加えて、マリユス、ジャン、アランの五人で向かうとしましょう」
「僕?」ジャンは目をぱちくりさせた。
「私は反対だ」マルコがしかめっ面で、すかさず言った。
「でも、あっちはどうせジャンの身柄を要求してくるはずです。どんな屁理屈をこねるにせよ、本人がそれには及ばないって言う方が、説得力がありますからね」
「ねえ」ジローが口を挟んだ。「ベルンでは、旦那がジャンを誘拐したことになってたし、偽公爵が同じ主張をしないとも限らないよ?」
「言わせておけばいい」マルコは鼻を鳴らした。「偽者が何を言おうと、今回は街道警備隊も私を捕まえたりはせんだろう。法を犯しているのは向こうなんだ」
「そうとも言い切れないわよ」と、カトリーヌ。「彼女が会談場所を礼拝堂に指定したってことは、教会に判事役を頼むつもりでいるって考えた方がいいわ。魔族に操られた魔物が、魔族の影響下にある教会に、ヴェルネサン伯爵が叛逆に手を染めているって告発をしたら、私たちはずいぶん不利に状況に立たされることにならないかしら?」
マルコは反論でも考えているのか、腕を組んで束の間黙り込んでから、しまいにはしぶしぶと言った様子で頷いた。「やむをえん」
「もちろん、本物のメーン公爵が同席していれば、本来なら話し合いを受ける筋合いなんてないと言うメッセージになるし、アランとアベルの二人なら、大抵の危険にも対処できるわ」カトリーヌは言って、アンヌに微笑みかけた。「いい人選ね」
「ありがとう」アンヌは笑みを返し、一同をぐるりと見回した。「一応、聞きますけど、他に参加希望者はいますか?」
三本の手が上がった。クシャロとジローとジャンヌだった。
「姉さまはだめですよ」アンヌは顔の前で人差し指を振った。
「なぜ?」ジャンヌはきょとんとしてたずねた。
「たぶん、この会見は不調に終わり、すぐに戦が始まります。姉さまは宿営地へ行って、いつでも兵を出せるように、準備しておいてください。私とアベル以外で、それができる人は姉さましかいないんです」
「わかった」ジャンヌはしぶしぶ同意した。
「私も手伝おう」ペイル伯爵が立ち上がって言った。「兵の扱いには、いささか慣れているのだ」
「俺は、少しばかり村の中を見回ってくる」カラスも席を立つ。
「買い物か?」と、マルコ。
「いや」カラスは首を振った。「公爵閣下が来てるんなら、彼女の密偵がそこらをうろついていないとも限らないからな。妙ないたずらをされてもつまらないし、先に手を打っておくつもりだ」
「しかし、村の人間と普通の旅人と密偵を、どうやって見分けるのですか?」アベルが興味を引かれた様子でたずねた。
「領主のあんたには面白くない話だろうが、どんな街にも非合法組織があるんだ。彼らは自分たちの縄張りで騒動が起きるのを嫌うから、人の出入りには神経を尖らせている。聞けば怪しいやつについて、何か教えてくれるだろう」
アベルはひどく戸惑った表情を浮かべた。「まるで犯罪者集団が、この村の治安を守っているような口ぶりですね」
「実際、そうなんだよ」カラスはあっさりと認めた。「治安のいい街の方が住民や旅人の気もゆるむから、ギャングは仕事がしやすい」
不意にジローがリュートの弦をつま弾いた。「鶏小屋を襲う狐にほとほと手を焼いていた農場主が、ある日、鶏たちにこうたずねた。なんだってお前たちは、狐に食われるに任せている。自分で戦おうとは思わないのか。すると鶏たちは答えた。ご主人、あいにくと我々は武器を持ちません。敵と戦おうにも、クチバシとかぎ爪だけじゃあ大した手傷も負わせられやしませんや。そこで農場主、鶏たちに剣を与え、それでお前たちの敵を自分で追っ払えと言った。しかし、武器を手にした鶏たちが襲い掛かったのは、武器をくれた農場主だった。彼らにしてみれば、狐も農場主も等しく、玉子を盗み自分たちを食らう敵だった、と言うわけさ」
カラスはくすくす笑った。「トレボーで、俺はダミアンに、自分の鶏小屋をしっかり守れって言ってやったんだ。おかげでカッセン大佐を悩ます将軍派の密偵を一掃できた」
「俺が、あの街のごろつきどもとパイプを作るのに、何年掛かったと思ってるんだ。それを一月足らずで台無しにしやがって」ユーゴが渋い顔をして言った。「一体、どうやって連中を説得したんだ?」
「それ、あたしも興味あるわ」と、カトリーヌ。
「別に、企業秘密ってわけでもないからな」カラスは肩をすくめた。「知りたけりゃ、お前たちも手伝ってくれ」
異論はあがらなかった。しかし、食堂を出て行こうとする小男と密偵たちを、ウメコが呼び止めた。「ちょっと待って」
カラスは怪訝な様子で振り向いた。ウメコはそれに構わず、ジャンの方に目を向けた。「シェリ」
シェリはジャンの襟元からひょっこり顔を出した。
「あなたの欠片を、タケゾーとマルコおじさんに分けてくれない?」ウメコは言ってから、ふと考えて付け加えた。「それと、ジャンヌにも」
シェリは髪を模した房を、名前の挙がった三人に向かってするすると伸ばした。
「みんな、手を出して」
差し出された三つの手の平に、シェリは半インチほど房の先端を自切して、自身の欠けらを落とす。
「これを、どうするのだ?」ジャンヌは半透明の物体を、訝しげに眺めてたずねた。
「耳に入れるの」ウメコは身振りを交えて説明する。「それで、どんなに離れていても、さっきのレオンと同じように、シェリを通して話ができるわ」
「もちろん、こっちの会話も、みんなに筒抜けになるんだろうな」カラスは眉間にしわを寄せながら、シェリの欠けらを耳に詰め込んだ。「盗み聞きをするのは好きだが、されるのは嫌いなんだ」
「我慢してって言いたいところだけど」ウメコはシェリに目を向けた。「いいって言うまで、彼らが聞いていることは送らないでちょうだい」
「だが、会談の様子は聞き逃したくない」と、マルコ。
シェリはこくりと頷く。
「いっそのこと、全員に配ったらいいのに」クシャロが言った。
「一ポンドもない彼女から、そんなにむしり取ったら、ちょっとは可哀想だと思わない?」と、ウメコ。
クシャロはしばらくシェリを眺め、頷いた。「それもそうですね」
そうして一同は、それぞれの目的のために屋敷の食堂を出た。ジャンヌとルイは宿営地へ向かい、シオンは一度、宿へ戻ってから、魔物を通信手段として利用すると言うマリユスのアイディアを試すため、宿営地へ向かうと言う。カラスとユーゴとカトリーヌは、村に潜む偽公爵の密偵を探しに出掛け、マルコとドロテーとウメコは、不意の事態に備えて屋敷に残った。
ジャンたちは、アベルが用意した馬車で礼拝堂へ向かう。それはいささか年季がはいっており、座席のクッションもすっかりくたびれていたが、ベアの道がよく整備されていたのと、礼拝堂までの距離が短いこともあって、ザヒの塔から廃道を荷車で運ばれた時に比べれば、それほどお尻を痛めることはなかった。
礼拝堂に到着すると、老司祭が不機嫌な顔で一同を出迎えた。とは言え、それはジャンたちに向けたものではないようだった。
「どうかしましたか、セバスティアン?」アベルが理由をたずねた。
「公爵ですよ」司祭は眉間のしわをますます深くした。「見た目は美しいのに、あれほど他人を不愉快にできる方は見たことがありません」
「僕が、メーン公爵の椅子に座れなかった理由がわかったよ」マリユスは自分を抱えるジャンに言った。「父上も含めて、いわゆる鼻持ちならないやつになることが、そのための条件だったんだ」
「もしそうだとわかってたら、僕は君と公爵家の間にある縁を切るって言う、レオンの考えに賛成してたと思う」
「そうですか?」クシャロは鼻を鳴らして言った。「坊ちゃまをあいつのペットにするくらいなら、うざったい公爵になってくれたほうが、ずっとましだと思いますけどね」
セバスティアンが、ぎょっとした様子でマリユスを見つめ、すぐに背後を見てから再びマリユスに目を戻した。
「尊師」マリユスはジャンの腕の中で会釈し、にっこり微笑んだ。「あなたを不機嫌にさせたのは、僕のそっくりさんなんです。僕は彼女から、本来の地位を取り返すために、ここへ来ました」
司祭は、マリユスの愛くるしい笑顔に、釣られた様子で笑みを浮かべるが、それはすぐに消えた。「どうして、そのようなことに?」
「ご覧のとおり僕は足が不自由で、父上はそれが気に入らなかったんです。そこで、僕にそっくりな女の子を連れて来て、彼女に公子を騙らせたと言うわけです」
セバスティアンは小さく首を振る。「手足より、他人への情や礼を欠く者を跡継ぎにしようとは、先代の考えもいささか理解できかねます。何よりあなたは、失った両脚を補うご友人がおられる。伴侶のように寄り添う友を得る資質は、どんな取り柄にも優ると言えるでしょう」
「伴侶だって!」マリユスはにやにや笑いをジャンに向けた。「確かに君が奥さんだとしたら、どんなに頼もしいだろう」
「お嫁さんになるなら、君の方がだと思うけど?」ジャンは反論した。
「なんでさ?」
「ちょっと前まで、君は女の子だったじゃないか」
「君だって、そこらの女の子より、ずっとドレスが似合ってたよ?」
アンヌが咳払いをした。「私としては、議論の帰趨を見守りたいところですが、今はさっさと偽公爵のところに向かうべきです」
「どうぞ、こちらへ」セバスティアンは苦笑して一行を導いた。
礼拝堂に入ったジャンが真っ先に目に留めたのは、大きなステンドグラスだった。そこにはあの、アルシヨン王子のヒドラ退治が描かれていた。王宮の礼拝堂ではモザイク画として置かれていたものだが、ひょっとするとジャンが知らないだけで、神話の挿話としてはありふれたものなのだろうか。
もちろん、礼堂内には祭壇や、礼拝に訪れた人たちが座るベンチもあり、王宮のように豪華ではないが、聖所の厳かさを損なうような安物でもなかった。
「へえ、立派なものだね」ジローがステンドグラスを見上げ、感心した様子で呟いた。それでジャンは思いついた。彼なら謎めいたヒドラ退治の挿話についても、何か知っているのではないだろうか。
「もちろん、知っているとも」ジローは頷いて言った。「けど、末王子が怪物を退治して自分の王国を築くなんて、ありきたりすぎて私の好みじゃないけどね」
「僕は、その挿話が入った本を読んだことがないんだ」ジャンは言って、背後のアランを肩越しにちらりと見た。「父さんは古書にしか収録されていないって言ってたけど」
「帝国時代に、教会がいくつかの挿話を削ったり、内容を書き換えたことがあったのです」セバスティアンが言った。「いささか扇情的だったり、女神礼賛が行き過ぎていると考えた者がいたのでしょう。ただ、この辺りは口承が多いので、除かれた挿話も失われずに伝えられています。このヒドラ退治劇などはとても人気が高く、冬至祭の演し物となることも多いのです」
「おかげで」アベルが苦笑まじりに言った。「この礼拝堂を建てる際、寄付者に要望を募ったところ、満場一致でこの場面が採用されと言うわけです」
アンヌが咳払いをした。「観光はあとにしませんか?」
礼堂を抜け、セバスティアンは応接室に一行を導いた。そこは、アベルの屋敷の客間よりも広く、窓も多くあって、蝋燭などが焚かれていなくとも、室内は明るかった。
もちろん、そこにいたのはメーン公爵を騙る偽マリユスと、彼女を連れて来たという司教だった。しかし、セバスティアンと同じ白いローブを身につけた男は、ジャンが想像していた聖職者の姿から、大きくかけ離れていた。
身の丈は七フィートほどもあり、筋肉質で肩幅の広い雄牛のような体格をしている。角張った顔には、はっきりと目立つ皺があり、老齢とまではいかないにせよ、四十を下回ることはなさそうに見えた。
巨漢の僧は、厳かな表情を浮かべ、解放された窓の横に掛かる絵に見入っている。それは女性を描いたものであるから、おそらく女神の聖像なのだろうが、絵画の知識に疎いジャンは、それと確信することができなかった。
彼のかたわらには、やはり聖像を眺めるマリユスと同じ顔の少女がいた。彼女はカッセン大佐が着ていたものとよく似た軍服を身につけているが、その胸にはささやかながらも、明らかに今のマリユスにはない膨らみがあった。
応接室であるから、ジャンたちと彼らの間には、テーブルやソファと言った調度もあり、ジャンはそこへ友人を座らせようと考えたが、すぐにそれを取りやめた。待ち人の到着に気付き、ジャンの姿を目に止めた少女の浮かべる酷薄な笑みが、この会談を設けた彼女の真意を、明らかに示していたからだ。
少女はジャンから視線を外し、アンヌへ仏頂面を向けた。「ずいぶんと待たせてくれたものだな」
「先触れの一つもありませんでしたからね」アンヌは肩をすくめて言った。「もちろん、あなたたちとの交渉を、我々がそれほど重視していないと言うメッセージでもありますが」
「分をわきまえんか」偽マリユスは、ぴしゃりと言った。「爵位もない小娘のくせに、私と渡り合おうなど図々しいにもほどがある。そもそも私は交渉に訪れたのではない」
自分よりも年上のアンヌを小娘呼ばわりし、頭ごなしに命令を下す少女に、ジャンは違和感を覚えた。しかし、アンヌは腹を立てるでなく、ただすっかりあきれた様子で偽マリユスを眺め、言った。「では、何しに来たんですか?」
「命令だ。ただちに降伏し、皇太子殿下を我々に引き渡せ。さもなくば――」
「さもなくば、なんです?」アンヌは馬鹿にするように鼻を鳴らした。「こっちが七人で、そのうち四人が武装してるのもわからないんですか。もう少し、お行儀よくしないと、数も数えられない間抜けじゃないかって思われますよ」
当のアンヌはもちろん、アベル、アラン、そしてジローも剣を帯びていた。加えてマリユスとクシャロは魔法に長け、ジャンの懐にはシェリもいる。ところが、偽マリユスは寸鉄の一つも帯びておらず、かたわらの司教も丸腰だった。
アンヌの指摘を受けた偽マリユスは、途端に不安の表情を浮かべ、連れの祭司に目を向けた。巨躯の僧は表情のない顔をアンヌに向けた。
「無論、我らの身に何事かがあれば、兵はただちに進撃を始め、この村を踏み潰す手はずになっている。貴殿らの兵が、それを止められると言うのであれば、試してみるがよかろう。見ての通り我らは丸腰だから、それは容易いことだ」
「おい、ニコラ!」偽マリユスは、ぎょっとして叫んだ。
それを聞いたジャンは、不審に思ってローブ姿の偉丈夫を見つめた。クタンでマヌエル司祭に魔物の少女を与え、彼をたぶらかした司教の名も、ニコラではなかったか?
アンヌとニコラは、互いににらみ合った。それを見かねた様子で、セバスティアンが口を挟んだ。「アンヌさん、それにブラザー・ニコラ。あなたたちは、街のごろつきのように互いを脅迫し合っています」
アンヌとニコラ司教は、いささか気まずそうに互いから目をそらした。セバスティアンは、にこりと微笑んだ。「この年寄りも、腹が立てば憎まれ口の一つも叩くことはありますから、あなたたちが罵り合うことを、とがめようとは思いません。しかし、お互いに数千の兵の命を預かって、その代表としてここにいるのですから、相手への敬意を忘れるべきではないでしょう」
「然り」ニコラ司教は言って、アンヌに頭を下げた。「不躾であった」
「お互い様ってやつです」アンヌは肩をすくめた。「とは言え、クタンとベルンの街道警備隊は、そこの女の子をメーン軍の代表だとを認めていません。まずは彼女がメーン公爵だとする論拠を示してください。話は、それからです」
「逆に問う。貴殿が閣下を否定する論拠とは?」
「もちろん」アンヌはマリユスを向いて、わざとらしく頭を下げて見せた。「その権限を持つメーン公爵、つまりマリユス・シセ中将閣下が、私たちと共にあるからです」
すると偽マリユスは、目をぱちくりさせてアンヌを見つめた後、不意に大声で笑いだした。そうして、少女はひとしきり笑うと、小馬鹿にした様子で言った。「そのかたわが、メーン公爵であるはずがなかろう」
「ずいぶんと失礼な女の子だね」マリユスがむっとして抗議した。「そもそも、それを決めるのは君じゃなくて法律なんだけど?」
「無論、そうだとも」偽マリユスはにやにや笑いを浮かべて言った。「法の上でも私はメーン公爵であり、それにまつわる全ての権利は、いまだに私のものなのだ」
ジャンは、唐突に身を退いた。対決に水を差された格好のマリユスは、なにやら文句を言い立てたが、ジャンは耳を貸さなかった。ともかく、これで彼らの背後に控えていたアランと、メーン公爵の間にある障害は、一つのテーブルと二つのソファだけになった。そしてジャンはアランに目を向け、本当に何気ない調子で言った。
「父さん。彼女を殺して」
アランは抜剣すると、テーブルを踏み台にして飛び上がり、偽マリユスに斬りかかった。突然のことに、少女はぽかんと口を開けるばかりで、自分の身を守る素振りさえ取れなかった。しかし、刃は彼女に届かず、金属同士がぶつかり合うけたたましい音が室内に響いた。ニコラが電光石火の動きで偽マリユスを突き飛ばし、彼女の代わりに頭上へ掲げた腕で、アランの剣を受け止めたのだ。
偽マリユスは後ろ向きに転がり、壁に頭をぶつけてぎゃっと叫んだ。刃を弾かれたアランは空中でバランスを崩し、テーブルの上へ背中から落下する。そこへニコラが足を振り下ろし、間一髪、転げて逃れたアランの代わりに、天板を真っ二つに踏み割った。
立ち上がったアランは態勢を立て直し、ジャンたちを背に庇ってから、猫足立ちで構えるニコラへ、剣の切っ先を向けた。その時になって、ジャンはニコラ司教の袖口にできた切り口に、鈍く鋼が光っているのを見て取った。つまり、この偉丈夫は丸腰と言いながら、ローブの下に何かしらの防具を、しっかり身に付けていたのだ。
「ジャン。これは、なんのつもりですか?」アベルは咎めるように言いながらも、アランにならって剣を引き抜いた。
「あとで説明するよ」ジャンは言ってから、少し考えて付け加えた。「彼に生きていられると、僕たちは困ったことになりそうなんだ」
マリユスが、拳で手の平をぽんと打った。「なるほど。こんな風に誰かを苛々させる才能の持ち主が、そう何人もいるはずがないよね」
アンヌは、束の間マリユスを見つめた後、はっと息を飲んでから剣を抜き、アベルとアランの間に立った。「まあ、どうしましょう。何がなんだがわかりませんが、大変なことになってしまいました。でも、こうなったら、偽公爵をこの場で討ち果たす他はありません」
「ひどい棒読み」マリユスが苦笑して言った。
それにしても、ニコラ司教の存在は、まったく想定外だった。もちろん彼が、例のニコラ司教本人であれば、メヌの魔族と関わりがあることは明白だったから、この会談の場に現れるのも不思議ではない。しかし、一介の僧侶がアランと互角に渡り合うとは、思いもよらなかった。
「大丈夫ですか、お嬢さん?」セバスティアンが、青ざめたクシャロの顔を覗き込み、心配そうにたずねた。クシャロは唇を真一文字に結んで頷くが、あまり大丈夫そうには見えなかった。
「彼女は喧嘩の類が苦手なんでね」ジローが説明し、剣と拳を突き付け合う四人の姿が目に入らないよう、クシャロの頭を胸に抱え込んだ。
「閣下」ニコラは拳を構えたまま、アランから目を離さずに言った。
「なんだ?」頭をさすりながら立ち上がった偽マリユスは、苛立たしげに聞き返した。
「札を」
少女は眉間にしわを寄せた。「だが、我々は剣王の息子を……」
「札を」二コラは繰り返した。
偽マリユスは渋々ながらも、言われた通り軍服の襟元から護符を取り出した。ニコラはアランを警戒しながら少女に歩み寄り、彼女を背にかばった。
ユーゴの話を思い出したジャンは、彼らの意図に気付き、早口で言った。「魔法で逃げるつもりだ!」
しかし、アランは動かなかった。アベルもまた、剣を構えたまま身動ぎもせず、ニコラ司教を睨み据えるばかりだ。アンヌもまた、凍り付いたように動かない。
そうやって、彼らが手をこまねいている間に、偽マリユスは護符を自分の胸に押し当てていた。少女と偉丈夫はたちまち虹色の光に包まれ、煙のように消え失せた。わずかに遅れて、応接室の扉が弾かれるように内側へ開き、そこから突風が吹き込んだ。風に煽られたセバスティアンがたたらを踏み、クシャロを抱きかかえるジローのマントがばさばさと翻った。ジャンもまた突風に押され、マリユスを落っことさないよう、懸命に踏ん張った。
風が止むと、アンヌが大きなため息を一つ落とし、剣を納めてジャンに目を向けた。「言い訳に聞こえるかも知れませんが、あのニコラとか言うお坊さんは、相当な使い手だったんです。正直、私一人が斬り掛かったところで、返り討ちにあうのが関の山だったでしょう。かと言って、みんなと一緒に戦おうにも、ここは狭すぎました」
「そうですね」アベルは頷いた。「私やアランでも、きっと無事では済まなかったと思います」
「そんなに?」武術には疎いジャンだったが、険しい表情を浮かべるアランを見れば、彼女も同じくニコラを脅威に考えていたことがわかる。
「教えてくれ」アランが言った。「なぜ、この場で彼女を暗殺しようなどと考えたんだ?」
「あとで説明すると言う約束でしたね」と、アベル。彼はアンヌに目を向けた。「あなたの三文芝居についても、ぜひ理由を聞かせてください」
ジャンは頷き、ひとまずマリユスをソファへ座らせた。もう慌てて逃げ出すような事態は起きそうにないし、そろそろ両腕が限界だった。その隣へジローが、いまだに具合の悪そうなクシャロを座らせ、真っ二つに割れたテーブルを挟んだ対面のソファには、アベルとアンヌが腰を降ろした。
「大丈夫?」マリユスは気遣ってクシャロにたずねた。「ちょっと、外の空気を吸ってきたら?」
「平気です。もう落ち着きました」クシャロは大きなため息をついて、ソファの横に立つジャンをじろりと睨みつけた。「それに、クシャロも王子様が、殺人衝動に駆られた理由を聞きたいです。まあ、察しはついてますけど」
「そっか」マリユスは苦笑を浮かべた。
みなが落ち着くのを見計らって、ジャンは口を開いた。「僕たちが偽マリユスと呼んでいた女の子だけど、実は本物のメーン公爵だったんだ」
アベルはきょとんとして、ちらりとマリユスを見てからたずねた。「どう言うことですか?」
「ユーゴは、クセが例のナイフでメーン公爵を刺し殺したと考えたみたいだけど、どうやらそれは間違いで、僕が考えた通り、あれは彼から魂を抜き取るためにやったことだったんだ。そしてクセは、まんまとマリユスのお父さんの魂をメヌへ持ち帰り、あの魔物に植えつけたってわけ。だから彼女はメーン公爵だし、見た目が変わったとしても彼が生きているのなら、マリユスはまだそうじゃないってことになる」
マリユスはジャンに目を向けた。「そして、このままだと僕が、兵隊を率いてここにいる大義名分がなくなってしまうことに気付いた君は、彼女を暗殺しようとしたってことだね」
「元はジャンヌのアイディアだよ。生き残った方が本物のメーン公爵だなんて、シンプルでわかりやすいよね」ジャンは、ちらりとアンヌを見てから説明を続けた。「アンヌが、あの下手くそな芝居を打ったのは、マリユスがメーン公爵じゃないことに、気付いていないふりをするためだったんだ。それを知ってしまったら、街道警備隊としては彼の味方をするわけにはいかなくなるもの」
「ひどい演技だったね。私が興行主なら、絶対に舞台へ上げたりしないよ」と、ジロー。
「みんな、ちょっとひどくないですか?」アンヌはくさった。
「でも、君は僕たちほど、魔物と人間の魂の関係に詳しいわけじゃないよね。どうして、あれをマリユスのお父さんだと見抜けたの?」
「彼女は、初対面の私を爵位もない小娘って言いましたよね。でも、大抵の人はマルコおじさんのように、クタンの街道警備隊の連隊長と、モンルーズ辺境伯を同じ人物だと考えてますから、あの子がそれを指摘した時点で、何かがおかしいと気付いたんです。それに、私だって一通りの事情は聞いてますし、マリユスが言った自分の父親の特徴と合わせて考えると、彼女の正体にたどり着くのは――」アンヌは言ってから口元を押さえ、抑揚のない声で言った。「あー……いったいなんのことでしょう。わたしには、さっぱりわかりません」
ジローがため息交じりに、小さく首を振った。
不意に、ジャンの襟元からシェリが顔を出した。彼女は口を開くが、その声はジャンヌのものだった。「アンヌ、急いで宿営地へ戻ってくれ。メーン軍が動いた」
アンヌは驚いた様子で、ソファから腰を上げた。「渡河を始めたんですか?」
「いや。しかし例の渡し場に、ぞろぞろ集まってきているようだ。魔物の女の子を加えて送り出した偵察部隊から、つい先ほど報告があった。すでにマリユスの作戦通り、弓を持たせた騎馬隊を送ってある。私とルイは本隊を連れて前に出るから、お前は後方で指揮を執ってくれ」
「わかりました」アンヌはアベルに目を向けた。「手伝ってください」
アベルはソファから立ち上がり、頷いた。「一度、屋敷へ寄らせてください。馬と鎧を取って来ます」
しかし、シェリが別の声で言った。
「まずいことになった」カラスの声だった。
「どうしたの?」ジャンはたずねた。
「我らが公爵閣下は、密偵の代わりに魔物を放っていたんだ。クタンの礼拝堂で見たバッタ顔が、北門の辺りで何匹か暴れている。用心した方がいいぞ。他の場所にも、現れないとも限らない」
シェリは、続けてマルコの声で言う。「アベル。子供たちが何人か、街中の方へ遊びに行っているようなんだ。私とドロテーで迎えに行くつもりだが、ひょっとするとお前さんの方が、早く見つけられるかもしれん。屋敷へ向かいながら探してみてくれ」
「わかりました」アベルは強張った顔で頷いた。
「お屋敷は私が守るわ」ウメコの声が言った。「誰かが逃げてきたら、ここを避難所にしても構わない?」
「お願いします」アベルは言って、アランに目を向けた。「手を貸してください」
アベルは、アランの返事も聞かず部屋を飛び出した。後を追うアランは出口の前で足を止め、ジャンに目を向けた。
「僕は大丈夫」ジャンは頷いてみせた。「ここに、みんなと隠れてるよ」
「まあ、籠城戦なら私とクシャロだけでも手は足りると思うよ」ジローはのんびりと言った。
「クシャロも頭数に入れるんですか?」魔族の少女は眉をひそめた。「げえげえ吐いて、床が汚れても知りませんよ」
「掃除で済むなら安いもんさ」ジローは言って、アランに目を向けた。「こっちは任せておくれ」
アランは頷き、アベルを追って部屋を出て行った。
「それじゃあ、私も行きますね」と、アンヌ。
「魔物がいるんだよ。一人で大丈夫?」ジャンが言うと、アンヌはにっと笑って見せた。「魔物退治なら、ジャンヌ姉さまと何度かやったことがあります」
そうしてアンヌも去り、シェリも口を噤んで再びジャンの懐に引っ込んだ。立て続けに起きた騒動に半ば呆けていたセバスティアンが、はっと息を飲んで口を開いた。「村の人たちが、助けを求めてやって来るかも知れません。手を貸していただけますか?」
「もちろんだとも」ジローは胸を叩いて行った。「それなら、ここじゃなく、礼拝堂の入り口を守った方がよさそうだね」
「僕も手伝うよ」と、マリユス。
「結界の魔法でも掛けるの?」ジャンは友人を抱き上げてたずねた。
「まさか」マリユスは肩をすくめた。「そんなことをしたら、逃げて来た人まで入れなくなるよ」
「あ、そっか」
ジローを先頭に、五人は応接室を出て礼堂へと向かった。そこは無人で、開け放たれた出入口からも人たちが騒ぐような音は聞こえない。どうやら魔物は、この辺りまでは来ていないようだ。ジローとセバスティアンは出入口の前に立ち、ジャンたちはずらりと並ぶベンチの、一番後ろの列の辺りに控えた。
それにしても――と、ジャンは今さらになって首を傾げる。わざわざ敵地を訪れ、挑発するようなことを言ってから逃げ出した、メーン公爵の意図がどうにも読めなかったのだ。しかも、その頃合いを計るようにメーン軍は動き、魔物が暴れ出した。もちろん、これらの出来事に関連があることは明白だが、そうとなれば何が目的だろう。あるいは本気で、ジャンたちが自分の『命令』を聞き入れると考えたのだろうか。
ジャンは息を飲んだ。何がではない。誰の目的かを考えるべきだった。ユーゴは言っていた。クセはスイの目を通して、王宮へ忍び込むための転移先を物色していたのだ、と。そして、今のメーン公爵は、スイと同じく魔物だった。つまりクセは――
耳がきんと鳴って、軽い痛みが走った。祭壇の前に虹色の光球が現れ、それはあっという間に膨れ上がり、弾けて消えると唐突に黒い服を着た女が姿を現した。
ジャンは逃げ出そうと、礼堂の出入口へ目をやった。しかし、そこではセバスティアンとジローが、両手を上げてじりじりと後退りをしていた。二人が脇によけると武装した兵士が数人、ばらばらと礼堂内に踏み込んできて、司祭と吟遊詩人をたちまち拘束した。
ジャンが祭壇の方を振り返ると、そこにはよく知った魔族の女が立っていた。
「さあ、殿下」クセは笑みを浮かべ、猫撫で声で言った。しかし、その目はまるで笑っていなかった。「お迎えにあがりましたよ」




