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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
43/46

28.ベアの村

 クタンの街道警備隊とモンルーズ軍は、ベア川北岸を東へ向けて行軍していた。その先頭に立つのは、青地に金銀の縫い取りやモールで飾られた、きらびやかな衣装を身にまとう、アルシヨン王国の皇太子だ。朝日にさんぜんと輝く鎧をまとった兵たちを、ある種厳かな表情で率いる貴人の姿を目にした旅人や、沿道の畑で野良仕事に勤しむ農民たちは、それぞれ足や手を止めて、うやうやしくお辞儀をしたり、手を振ったりして行列を見送る。

「馬鹿げてる」ジャンは、いささか機嫌を損ねた様子で呟いた。

「クタンを出発してから、同じことをもう七回も言ってるよ」ジャンのかたわらで馬を進めるマリユスが、呆れた様子で言った。

「わざわざ数えてたの?」ジャンは友だちをじろりとねめ付けた。

「まあね」マリユスは肩をすくめた。「でも、何がそんなに不満なの?」

「派手な服を着て、三千人の軍隊を引き連れて、先頭で偉そうにふんぞり返るなんて、僕の柄じゃないからさ」

「それは違いますよ、ジャン。この連合部隊を率いるのは、マリユス・シセ中将です」

 マリユスの少し後ろを行く、葦毛の馬に乗った騎士が口を挟んだ。女性の体型をかたどった胸甲をまとうその女騎士は、従姉のジャンヌと面立ちはよく似ているが、亜麻色の髪はうなじが見えるほど短く切り詰めている。

「わかってるよ、アンヌ」ジャンは言って、口をへの字に曲げた。「だったら、僕はもう少し後ろで目立たない格好をしていた方がいいと思うんだ。これじゃあ、本当に誰の軍隊かわからないよ」

「いいえ、だめです」アンヌは頑固に言った。「相対する立場をなげうって、好敵手の苦境を救おうと自ら先陣に立つ王子様だなんて、とても素敵じゃないですか。そんな姿を見たら、兵たちもがぜんやる気をだすに違いありません」

 今はモンルーズ領内を行軍中だから、先陣もへったくれもないはずだが、それでどうして兵の士気が上がると言うのか、さっぱり理解できなかった。しかし、自分とマリユスの関係を、国王派と将軍派の対立と切り離して考えていたジャンは、世間が違った捉え方をしていることに気付かされた。

「その上、二人ともとびきりの美少年なんですもの。絵になりますわ」アンヌは宙を見つめ、ほうとため息を漏らした。

「ひょっとして」ジャンは疑わしげな目を女騎士に向けた。「君のお屋敷にはたくさんの本があったりしない?」

「それが何か?」アンヌはきょとんとして首を傾げた。

 礼拝堂での事件の後、ジャンたちは街道警備隊の駐屯地へと向かい、そこで連隊長のアンヌと出会った。ところが、その時からジャンは彼女が赤の他人だとは思えず、それをずっと奇妙に感じていたのだ。おそらく彼女の年齢の割に子供っぽいところや、本の虫で何やら美しいお話の世界に没入する性質が、ポーレットにそっくりだったからに違いない。

「僕も、本が好きでたくさん読んでるんだ」

「まあ」アンヌは目を輝かせた。

「博物図鑑や冒険小説ばかり読むなって、従妹に怒られるけどね」

「従妹?」

「マルコおじさんの娘で、ポーレットって言うんだ。まだ十二歳だけど、彼女も僕に負けないくらい本が大好きだから、君とは気が合うんじゃないかな」

 対してアンヌは十九歳らしいが、年の差が二人の従妹の壁になるとは思えなかった。

「このごたごたが片付いたら、ぜひ会ってみたいです」アンヌは熱心に言った。

「なんだか、僕たちは色んな事を保留にしているね?」マリユスが苦笑を浮かべる。

 ジャンは口をへの字に曲げ、頷いた。「忘れないようにメモしておかなきゃ」

 三人で、たわいもない会話を交わしながら進んでいると、道の向こうから駆けてくる二つの騎馬が見えた。

「おーい」ジャンは鐙に立って手を振った。

 先頭の騎手が手を振り返した。アランだった。彼女から少し遅れてカラスが続き、二人は少し離れた場所で馬を止め、ジャンたちが追い付くのを待って再び歩き始めた。

「偵察、お疲れ様」ジャンが二人をねぎらうと、アランが頷いて応じた。

「畑ばかりで、びっくりするようなものは一つもなかったがな」と、カラス。

「麦だね」ジャンはぐるりと辺りを見回して言った。穂は青く、収穫はまだもう少し先のようだが、不意に刈り入れの重労働に駆り出された去年までのことを思い出し、彼は少しばかり憂鬱になった。ここが他人の畑で、ましてや王子に刈り入れを手伝えなどと言う者がいないことはわかっているが、それでも広大な麦畑を見れば、うんざりした気分にもなる。もちろん、マルコおじさんに知られれば、彼をがっかりさせることになるので、甥っ子がそう思っていることは内緒にしなければならない。

「ベアまで、あとどのくらい?」マリユスがたずねた。

 アンヌは束の間考えてから答えた。「あと五マイルくらいです」

「まさかとは思うけど、メーン軍がとっくにベアを占領してるなんてことはないよね?」ジャンは懸念を口にした。

「そうだとすれば、私とカラスは麦畑以外の何かを見ているだろう」と、アラン。「そもそも、連中は三日前まで街道にいたんだ。そこからベア川の南岸へたどり着くのは、どうがんばっても明日だろう。加えて、我々がいる北岸に渡河するとなれば、さらに時間が掛かる」

「でも、アベルはベアが戦場になるって言ってたよ。それは、僕たちとメーン軍が同じくらいにベアへ到着するってことじゃないの?」

 アランは首を振った。「数で劣る我々は、ベアの村でメーン軍を待ち構えるんだ。もしメーン軍に先を越されたのなら、それは我々の負けということになる」

「ろう城よりも、あいつらがのんびり川を渡ってるところを見つけて、弓なり魔法なりでやっつけた方がよくない?」マリユスが提案した。

「そのためには、メーン軍が渡河する時と場所を、正確に把握しなければならない。生憎と我々が掴んでいる最新の情報は、三日前にカトリーヌとユーゴがロゼで拾ったものだけだ。メーン軍がベアへ向けてどんな経路をたどるかも予測がつかないのだから、今のところベアでのろう城が我々の取りうる最善手と言うことになる」

「いい手だと思ったんだけどなあ」マリユスは言って、唇を尖らせた。

「そう捨てたもんじゃないよ」ジャンは友人を慰めた。「父さんは、メーン軍の動きがわかりさえすれば、うまく行くって言ってるんだ。何か、それを知る方法はないの?」

 マリユスは束の間考えてから、ふと何かを思いついた様子でアンヌに目を向けた。「ベアへ着いたら、川沿いに斥候を走らせられないかな。それと、馬を使える弓兵で部隊を編成して、対岸にメーン軍を見つけたら、そこへ向かわせ渡河を妨害するんだ。その間に本隊を向かわせ、上陸地点になりそうな場所を抑えてしまえば連中を完全に封じ込められる」

 アンヌは素早く、アランに目を向けた。「ねえ、悪くないですよ」

「そうだな」アランは頷いた。「ベアへ先行しているカトリーヌとユーゴが何かを掴んでいれば、あるいは偵察すべき範囲を絞り込めるかも知れない」

「さすが将軍」ジャンは褒めた。

「これでも僕は貴族の息子だよ。それなりの教育は受けているからね」マリユスは言って、不意に眉間にしわを寄せた。「付け加えると、この作戦ならアベルの故郷を危険にさらさないし、僕たちがメーン軍を抑えている間に、君たちは悠々とイゼルへ向かうことができる」

「一石三鳥だ。すごいじゃないか」ジャンは手綱を持った手で拍手をした。

「君って、本当に小賢しいやつだね」

「でも、この作戦を考えたのは君だよ?」

「だから、そう言ってるんだ」マリユスは大きなため息をついた。

「どう言うことですか?」アンヌがきょとんとしてたずねた。

「ジャンが戦場から逃げ出したと知れば、メーン軍はどんな犠牲を払ってでも、川を渡って彼を追いかけようとするはずなんだ」マリユスは説明した。「それは僕にとって、偽者をやっつける絶好の機会になるんだけど、同時に戦争のどさくさに紛れてジャンを捕まえるって計画を、あきらめなきゃいけなくなる」

「一時休戦だったのではないんですか?」アンヌがぎょっとしてたずねた。

「まさか」マリユスは肩をすくめた。「もしそうなら、ジャンが僕の考えた作戦に()()をくれるはずがないもの」

「君の役に立ちたいと思っただけさ」ジャンはにこりと笑って言った。「なんと言っても、僕は君が大好きだからね」

 マリユスはまじまじとジャンを見つめてから、ふと顔を赤らめ、思わずと言った様子で言った。「うん、ありがとう」

 不意におかしな音が聞こえ、その出所を見ると、アンヌが奇妙な表情を浮かべてこちらを凝視していた。

「なに?」ジャンはたずねた。

「いいえ、なんでもないです。本当に、なんでも」アンヌはついと目をそらし、なぜか自分の鞍を籠手のはまった拳で殴り始めた。

 それから部隊は一度の休憩を挟み、二時間ほどでベアの村にたどり着いた。かつて魔物の襲撃を受けただけあって、村の周囲は防塁と柵でしっかりと防御され、入り口には瀝青で防腐処理を施された頑丈そうな丸太の門まであった。門扉は開け放たれているが、槍や弓で武装した男が三人、そこを護っていた。

 アンヌは近くにいた士官に馬を寄せ、彼に何やら指示をくれた後、ジャンたちのそばへ戻ってきた。ほどなく号令が上がり、部隊はジャンたちを残し、村を迂回して再び歩き始めた。

「彼らの宿営地は、もうちょっと東にあるんです」と、アンヌ。「そこへ着いたら、マリユスが考えた作戦を始めるように命令しておきました」

「君はついて行かなくていいの?」ジャンはいぶかしく思ってたずねた。なんと言っても、アンヌは連隊長なのだ。

「まあ、私があれこれ指図しなくても、迷子になることはないでしょう。それよりも、みなさんをアベルさんのお屋敷まで案内しなきゃいけませんし」

「アベルを待たないの?」

 アンヌは頷いた。「隊列の後ろの方にいる彼らを待ってたら、たっぷり一時間は掛かりますからね。先にお屋敷で、ゆっくり休ませてもらった方が()()です」

 アンヌの先導で、ジャンたちは村の門をくぐった。門番たちはうやうやしくお辞儀をするだけで、誰何の言葉は掛けてこなかった。

 ベアは、ごく普通の農村に見えた。建物はどれも素朴な木造で、作業場を兼ねた納屋があり、牛舎や厩舎があり、帆布を掛けた荷馬車なども見える。ジャンの村とよく似た雰囲気で、どこかの戸口からポーレットが飛び出して来そうに思えたほどだ。しかし、通りを進むにつれて様相は変わり、コズヴィルで見かけたような漆喰塗りの建物が増え、日用の品々を売る店や、宿屋なども並び始めた。人通りも増え、道端でおしゃべりに勤しむ買い物途中の女性や、荷ロバを曳く男、笑い声を上げて駆ける子供の姿も見える。村の中心と思しい場所は、洒落た円形の広場になっており、それに面してこぢんまりとした石造りの教会があった。扉は開け放たれており、入り口には白いローブを着た年寄りの祭司がいて、腰の曲がった老婆と談笑している。その様子を見るだけで、ここの教会が女神崇拝とは無縁であることが窺い知れた。

 広場を抜けて、さらに通りを進むと、他の建物の三軒分の間口がある大きな建物が目についた。たくさんの窓があることから、一目で貴族の邸宅であることが見て取れる。しかし、そこは門も前庭もなく、確かに大きくはあったが、ベルンにあったマリユスの屋敷の半分ほどもない。

「ここが、アベルさんのお屋敷です」アンヌは言って、屋敷の前で馬を降りた。彼女は玄関に歩み寄り、呼び鈴の紐を引いた。すぐに扉が開かれ、幼い少女が顔をのぞかせる。

「こんにちは、コレット」アンヌが呼びかけると、少女はぱっと笑みを浮かべた。「アンヌお姉ちゃん!」

「ドロテー姉さまを呼んでくれる?」

 コレットは大きく頷き、屋敷の中へ引っ込んだ。ジャンたちも馬を降り、束の間待つと数人の子供達がばらばらと玄関から飛び出してくる。みな質素な服装で、とても貴族の家の子供には見えなかった。彼らは一行の馬の手綱を取り、屋敷の脇の路地へ入って行った。

「お屋敷の裏に厩舎があるんです」アンヌが説明した。

 子供たちから少し遅れて、青いドレスの女性が現れる。褐色に近い赤毛を三つ編みにして肩に垂らし、顔立ちは路端に咲くヒナギクのような、素朴な美しさがあった。

「アンヌ!」青いドレスの女性は、両手を広げてアンヌに駆け寄った。

「ドロテー姉さま」アンヌは言って、ドレスの女性を抱きしめた。ドロテーは途端に顔をしかめた。「鎧姿の友だちを抱きしめるなんて、大失敗だわ」

 アンヌはくすくす笑って身を離し、ジャンたちに目を向けた。「この人はペイル伯爵夫人のドロテーさんです」

「どうして、伯爵の奥さんがアベルの家にいるの?」ジャンに横抱きにされたマリユスが、きょとんとしてたずねた。

「アベルは私の父なんです」ドロテーはにこりと微笑んで答えた。

「アベルに、こんな綺麗な娘さんが?」マリユスは言って、目をぱちくりさせた。

「娘と言っても養女ですから。それに、私よりもお嬢さんの方が、ずっと綺麗ですよ」

 マリユスはため息を落とし、ジャンに目を向けた。「そろそろ君も、これには飽きてきたんじゃない?」

「まあ、そうだね」

「だから、うまい手を考えたんだ」

「裸になるの?」

「まさか」マリユスはしかめっ面で否定した。「首から『僕は男だ』って看板をぶら下げるのさ」

「それなら一目瞭然だね」ジャンは真顔で友だちに頷いて見せてから、きょとんとするドロテーに目を向けた。「彼はメーン公爵のマリユス。こう見えて、ちょっと可愛らしい女の子を見かけたら、声を掛けずにはいられない、ちゃんとした男の子です」

「ちょっと、ジャン!」マリユスは抗議した。

「でも、ジャンヌとクシャロが迎えに行ってる魔族の女の子たちは、みんな君に口説かれたんじゃなかった?」

「それは誤解なんだ。たまたま友だちになりたいって思った人たちに、美人が多かったってだけでさ」

「なるほど、それならしようがないね」

 二人のやり取りを見ていたドロテーは、くすくすと笑い出した。

「なに?」マリユスは言って、唇を尖らせた。

「いえ、失礼しました。閣下」ドロテーは頭を下げるが、口元には笑みが残っていた。

 マリユスは肩をすくめた。「うん、まあ、気にしないで。慣れてるから」

 ドロテーは一つ頷いてから、入り口を指し示した。「ひとまず中へ入りませんか。お客様をいつまでも玄関口に立たせているのは、ちっとも貴族の家らしく見えないでしょう?」

「ずっと言ってくれないんじゃないかと思ってました」アンヌは言って、ため息をついた。

 アンヌの案内で、一行は客間に通された。火のない暖炉の前にはアームチェアに腰掛ける金髪の男がいて、彼の足元には数人の子供たちが、半円を描くようにして床に座っている。男は開いた本に目を落とし、よくある童話を歌うようにして読み上げていた。

 暖炉から少し離れた場所には、L字に置かれた長ソファとクルミ材のテーブルがあり、ジャンは行儀が悪いことを承知で、ホストからすすめられる前に、ソファへマリユスを座らせた。

 金髪の男は少し驚いた様子で顔を上げるが、無作法を咎めるでもなく、夏空のように真っ青な瞳でジャンを見つめてくる。男はカラスよりいくらか年かさに見えるが、その表情は彼を取り囲む子供達とそっくり同じ、あからさまな好奇心が浮かんでいた。

「ルイ、お客様よ」ドロテーが言った。

「そのようだね」金髪の男は、ドロテーににこりと微笑みかけた。

 ジャンは以前に、アベルが友人を指してその名前を口にしていたことを思い出した。「ひょっとして、あなたが白騎士?」

 金髪の男は短く笑った。「義父上(ちちうえ)のおまけで付けられた異名ですが、その通りです」

「白騎士さまは白騎士さまよ。おまけなんかじゃないわ」ルイを囲む子供たちの中から、四、五歳くらいの少女がしかめっ面で言った。

「ベツィー、大人の話に割り込んではだめって言ったはずよ」ドロテーが注意した。

 少女はしょんぼりして頷いた。「ごめんなさい、姉さま」

「でも、ベツィーの言うとおりだよ」マリユスが言った。「こんなにかっこいいのに、おまけだなんてもったいないもの。ジローが見たら、きっと白騎士を主人公にしたお話を作りたがるんじゃないかな」

 ジャンは同意して頷いた。鎧兜も馬もないが、ルイは物語から抜け出してきたかのような、美しく完璧な騎士に見える。

 白騎士は椅子を立ち、マリユスに向かって優雅にお辞儀をして見せた。「公爵閣下」

「前に、どこかで会った?」マリユスはきょとんとして言った。

「いえ。あなたではなく、あなたにそっくりな偽者に会ったのです」

「ねえ、ルイ」ドロテーが口を挟む。「まずはみなさんに、椅子をすすめたら?」

「君の言うとおりだ」ルイは苦笑を浮かべ、みなに身振りでソファを示した。ジャンとアランはマリユスを挟んで座り、カラスとアンヌは別のソファに腰を落ち着けた。ドロテーは飲み物を持ってくると言って、客間を去った。

 アンヌは籠手を外してテーブルへ置き、テーブルの端に取り付いて、それを見てもいいかとたずねる子供たちに笑顔で頷いて見せてから、ルイに目を向けた。「なんだって、ペイル伯爵がベアにいるんですか?」

「久しぶりに里帰りする義父上に、息子が会いに来てはいけないのか?」

「親孝行を否定するつもりはありませんが、自分の領内で他国の軍が好き勝手やってる時に、やるようなことじゃないと思いますけどね」

 ペイル伯爵は眉間にかすかな皺を浮かべた。「私としては一戦交える覚悟で、領内に侵入したメーン軍の前に立ちはだかったのだが、彼らは攻撃の意図はないと言って、人質を差し出して来たのだ。さらには行軍中の野営にかかる土地の使用料と称して、多額の金子を払うことまでした。無闇にそれを蹴れば、私は無用の戦争を望んでいると領民から誹られることになる。何よりディポンが連中を素通りさせたことで、その軍事行動は合法とみなされているから、傍観するしか手はなかったのだ」

「うまい手を使いましたね」アンヌは鼻を鳴らした。

「どうやら彼らは、何もかも考え抜いた上で行動しているようだ」ルイは頷いて言ってから、マリユスに目を向けた。「あなたの偽者に会ったのは、まさにその席でのことです。彼はあなたとは違い、麗しい見た目とは裏腹に、尊大で実に鼻持ちならない男でした」

「彼じゃなく、彼女」マリユスは訂正した。「あたが見た偽公爵は、人間に化けた魔物なんだ。そして、魔物はどうしても女の身体にしかならないらしい」

「私が知っている魔物は、会話できるほどの知性を持ち合わせているように思えないのですが?」

「僕が見たあいつは、まさにそんな感じだったよ。誰彼構わず襲い掛かるようなことはないにせよ、ぼんやり笑っているだけで、話しかけても何も答えないんだ。でも、彼女たちは誰かの魂を植え付けるか、魔族に操られていれば、普通の人間と見分けがつかなくなる」

「そのようなことは初めて耳にしました」

「あまり知ってる人はいないと思う」

 ジャンは、ふと引っ掛かるものを覚え、話に割り込んだ。「あの」

「なんでしょう?」ルイは首を傾げた。

「どうして、こっちのマリユスが本物だとわかったんですか?」

「レオン卿から、侵入したメーン軍を率いているのは偽公爵だとの報せを受けたのです。もっとも、その手紙を受け取ったのは昨日のことで、私はもうベアにいましたが」ルイは答え、問いかけるようにジャンを見つめた。

「彼はジャン。僕の親友で、今は偉そうな身なりをしてるけど、田舎暮らしが長かったせいで、本当はもっと質素な格好でいる方が好きなんだ。アルシヨン皇太子って肩書も、服と一緒に脱ぎ捨てられたらいいのにって思ってる」マリユスが紹介した。

「的確な紹介をありがとう」ジャンは親友に向かって、べっと舌を出して見せた。それから、立ち上がってお辞儀をしようとするペイル伯爵を身振りで止めさせ、わざとくだけた口調で言った。「僕の一族の主義で、友だちとは称号を呼び合って頭をぺこぺこ下げる挨拶を省略することにしてるんだ。少なくとも、畏まった場面以外では?」

「なるほど。それは時間の節約になりますね」ルイはにこりと微笑んだ。

 そこへドロテーと、おそらくジャンより二つ、三つ年下の少年が、茶器や菓子の載った皿をもって客間に入って来る。

「ドロテー」ルイは妻に呼び掛けた。「こちらは、ジャン皇太子殿下だ。しかし、我々は友人になったところだから、かしこまった挨拶は抜きにしよう」

「まあ」ドロテーは目をぱちくりさせてジャンを見つめてから、にこりと微笑んだ。「あらためてようこそ、ジャン」

 しかし、お菓子の皿を持った少年が、ぎょっとした様子でジャンに目を向けた。「王子さま?」

「そうだけど」ジャンは少年に微笑みかけた。「僕は、ほんの一月前まで普通の農家の子供だったから、そう呼ばれるのはまだ慣れてないんだ」

「それなら、なおさら練習した方がよくない?」少年はきょとんとして言った。

「正論だ」マリユスはしかつめらしい顔を作って頷く。

「何も、今すぐ手を付けなくてもいいと思うけどね」ジャンは言って、マリユスを親指で指し示した。「彼はマリユス。一見、美少女に見えるけど、本当は男の子だから何かを期待して親切にしないように」

「早めに言ってもらえてよかった」少年はくすくすと笑った。

「僕も一度、騙されたんだ」

「君が勝手にそう思い込んだだけで、僕のせいじゃない」マリユスは言って、口をへの字に曲げた。

「ちょっと、トニー」ドロテーがお茶を用意しながら言った。「ちゃんと自分の仕事をしてちょうだい」

「あ、ごめん。姉さま」少年はあわてた様子で菓子の皿をテーブルに置き、ジャンとマリユスに手を振ってから、アンヌの籠手で遊ぶ子供たちの輪に歩み寄った。「食堂にお菓子があるよ。みんな、おいで」

 子供たちは歓声を上げて鋼のおもちゃを放り出すと、トニーについて客間を出て行った。

「アベルは、ずいぶんと子だくさんなんだな」カラスがぽつりと言った。

「私も含めて、みんな孤児なんです」ドロテーがアンヌの隣に腰を降ろして言った。「最初は魔物の襲撃で亡くなった村人の遺児を、父が引き取って育てていたのですが、魔王が討たれてから後も身寄りのない子供たちを助けてほしいと、領内の人たちが頼って来るようになって」

 カラスは眉間に皺を寄せた。「そりゃあ、ちょいと大変じゃないか?」

「楽だとは言えません。でも、ルイや前のモンルーズ辺境伯、それとレーヌ公爵の助けもあって、なんとか不自由なく暮らせています」

「アンヌと仲が良いのは、辺境伯との縁か」と、アラン。

「そうですよ」アンヌが答えた。「ジャンヌ姉さまと二人で、よくここへ遊びに来てたんです。もちろん、魔王討伐後の話ですけど」

 アンヌは、あっと小さく声を上げた。「二人をまだ紹介してませんでしたね。こっちの怖そうなお兄さんはカラス、美少女の方はアランです。アランは、こんな見た目ですが、実はジャンのお父さんで、魔王をやっつけた剣王でもあります」

 ルイはまじまじとアランを見つめた。「まさか」

「少し、お前の気持ちがわかってきた気がする」アランはマリユスに向かって言った。

「これを共感できる友だちがいて嬉しいよ」マリユスはにやりと笑い返した。

 アランはルイに向き直った。「久しぶりだな、ルイ」

「知り合いなの?」と、ジャン。

 アランは頷いた。「まだ私が王をやっていた頃、ルイがペイル伯爵家を継いだ報告のために、王宮を訪れたことがあるんだ。あの時は十三だったか? 確か、今のジャンとそれほど変わりない年頃だったはずだ」

 ルイはお辞儀をしようと腰を浮かせかけた。

「よせ」アランはしかめっ面で、それを止めさせた。「私もジャンの家族だから、彼が言った主義に従っているんだ。それとも、私とは友だち付き合いする気がないとでも言うのか?」

「いえ」ルイは苦笑を浮かべた。「王宮でお目にかかった時は畏れ多いばかりでしたが、今ならずいぶんと親しみやすく思えます」

 アランは頷いた。「色々と不便なこともあるが、それはこの姿の利点の一つでもある」

「膝に乗せて、髪を梳かしたいくらいです」と、ドロテー。

「それは勘弁してくれ」アランはしかめっ面で言った。

 それからずいぶん経って、呼び鈴の音が聞こえた。ドロテーは客を迎えに席を立ち、ほどなくしてジャンの残りの仲間たちを連れて戻って来る。その中にはカトリーヌとユーゴもおり、加えてジャンヌと、明らかに魔族とわかる漆黒の衣装を身に付けた女性の姿もあった。彼女はカトリーヌよりやや年嵩だが、他の魔族の例にもれず美しい顔立ちをしている。

「義父上」ルイは腰を上げ、アベルに歩み寄った。

「ルイ、久しいですね」アベルは笑みを浮かべ、義理の息子と握手を交わした。「領地は放っておいて平気なのですか?」

「ひとまずメーン軍は、ペイルに対して攻撃の意図はないようです」ルイは言って、一同をぐるりと見渡してから眉間に皺を寄せた。「ここでは少々手狭ですね」

「食堂へ移動しましょう」アベルは頷いて言った。

 一同はぞろぞろと食堂へ移動する。そこにはトニーや他の子供たちの姿もあり、とっくにおやつは食べ終えているようだが、それぞれ椅子に座っておしゃべりを楽しんだり、そこらを駆けまわったりしている。ドロテーが子供たちに外で遊ぶよう言い聞かせて彼らを追い出すと、一同は腰を降ろし初対面の者同士の紹介をはじめ、最後に新たに加わった魔族の番になった。

「シオンと申します」魔族は言って、マリユスに笑みを向けた。「お久しぶりです、坊ちゃん」

「うん」マリユスも笑みを返した。「みんなでメヌを逃げ出したんだよね。他の人たちは元気?」

「はい」シオンは頷いた。「クシャロに話を聞いて、妹たちも坊ちゃんの力になろうとベアへ集まっています。ジャンヌ様のお計らいで、みなは宿の方にいますが、年長の私が代表として、こちらまで伺うことになりました」

「何人くらいいるの?」ジャンはたずねた。

「私も含めて十一人です、殿下」

 ジャンはあきれた目を友人に向けた。「君ってやつは」

「みんな、いい子なんだよ」マリユスは言い訳した。「君だって、彼女たちに会えば友だちになりたいって思うさ」

「君が言うならそうなんだろうけど、彼女たちはみんな、僕を捕まえようと思ってるんだよ。鶏が狐に向かって、友だちになろうって言うのと同じじゃない?」

「僕も狐の方なんだけど」

「あ、そっか」

 今更だった。

 ジャンはシオンに向き直った。「やっぱり、主様(あるじさま)って人の命令?」

「ええ、そうです」シオンはにこりと微笑んで言った。

「それだけ慕われてる主様(あるじさま)って、どんな人なんだろう」ふと思い付いてつぶやくと、マリユスを挟んで座るクシャロが、何やら身動ぎをした。「ねえ」と、ジャンは馴染みの魔族にたずねる。「彼女たちって、僕や父さんのことを仇だと思ってるんだよね?」

「本人に聞いたらいいじゃないですか」クシャロはにやりと白い歯を見せた。

「そうだよって言われたら、ちょっと怖いじゃないか」ジャンは唇を尖らせた。

「大丈夫ですよ、殿下。確かに私たちは魔王様を畏れ敬っていますが、何より彼女の復活こそが、剣王に対する一番の復讐だと考えているんです」シオンは言って、アランに微笑みかけた。剣王は肩をすくめただけで、何も言わなかった。

「確かに」と、シオンは笑みを消して続ける。「一部の姉妹は、主様を魔王様と同一視して、彼が殿下を求める理由を復讐だと考えています。でも、私たちやクシャロは、主様には別の意図があるように思うのです」

「それは何?」ジャンはたずねた。

「わかりません」シオンは首を振った。「でも、ご本人に会って理由を聞いてみたいとお考えでしたら、私たちが力になれると思います」

「今は遠慮しておくよ」

「残念」シオンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「確かに魅力的な人物だね。ユーモアのセンスがある」ジャンはマリユスの耳元に口を寄せ、こそこそと言った。マリユスは何も言わず、片目を閉じて見せた。

「さて」マルコが言った。「そろそろ雑談をやめて、これからのことを話し合おう」

 テーブルの端の方でおしゃべりをしていたモンルーズの従姉妹とドロテーも、口を閉じてマルコに目を向けた。

「私としては、白と黒の両騎士にも色々と聞きたいところなんだけど……いや、もちろん後でも構わないとも」マルコの右手に座るジローは、でぶの伯爵に睨まれて口を噤んだ。

 マルコは小さく首を振ってから続けた。「カトリーヌ、ユーゴ。お前たちからだ」

 カトリーヌは頷き、胸元から折りたたんだ紙片を引っ張り出して、テーブルの上にそれを広げた。それは地形の線をひいただけの簡易な地図だった。「メーン軍の位置がわかったわ」

 マリユスはジャンに目を向け、右手を顔の横にあげた。ジャンは自分の左手で、それをぱちんと叩き返した。カトリーヌは地図を指差しながら続けた。「ここから少し南に行くと渡し場があるんだけど、一昨日、対岸にある村へ行った人が川沿いをうろつく兵隊を見掛けたらしいの。たぶん、彼らは渡河できそうな場所を探す偵察部隊ね。きっと本隊も、そう遠くないはずよ」

「その渡し場から川を渡って来るってこと?」ジャンはたずねた。

「いえいえ」アンヌが言った。「そこは小さな艀が一つっきりしかないので、五千もの兵隊が渡るには無理があります」

「その場所ならよく知っている」ジャンヌがくすりと笑って言った。「私とアンヌとドロテーの三人で泳いだことがあるんだ。水深はあるが流れは弱いから、おそらく浮橋のようなものを使うつもりなのだろう」

「泳いだ?」ジャンはぎょっとしてたずねた。もちろん、服を着たまま水に入るわけもなく、思わずその様子を想像して、ひどく気恥ずかしくなったのだ。

「もちろん子供の頃の話だ」ジャンヌは片目を閉じて見せた。

「その頃のあなたは、もうジャンと変わらない年頃だったはずですが?」アベルが眉間にしわを寄せて言った。

「齢をばらさないでくれ」ジャンヌはしかめっ面をして見せた。

 ドロテーがくすりと笑う。「私たちが何歳だったかも、伏せておいた方が良さそうですね」

「ええ。察しがいい人なら、わかってしまうでしょうし」アンヌはにやりと笑って言った。「それはそうと、マリユスがうまい作戦を思い付いたんです」

「ほう?」マルコは片方の眉を吊り上げた。彼はアンヌが語る作戦の概要を聞いてから、アランに目を向けた。「私にも悪くない作戦に思える」

 アランは頷いた。「荒削りなところはあるが、じゅうぶん及第点以上だ」

「偵察と弓騎兵による時間稼ぎは良いのですが、本隊で敵の渡河を完全に阻止してしまうのはいただけません」アベルが言った。

「そうですね」ルイが同意する。「むしろ、ある程度の渡河を待ってから攻撃を加え、相手の戦力をいくらかでも削るべきでしょう」

「ねえ」と、マリユス。「なんだか試験を受けてる気がしてきたんだけど?」

「これだけ優秀な教官がそろってるんだから、仕方ないよ」ジャンは笑って言った。

「じきに戦争が始まるって言うのに、ずいぶんのんびりしているな。え、殿下?」不意にユーゴが言った。

「あまり実感がわかないんだ」ジャンは正直に言った。「軍記物くらいは読むこともあるけど、実際の戦争は見たことがないし、マリユスみたいに軍学を修めてるわけじゃないからね。何か、気を付けておくことはある?」

「まあ、人が大勢死ぬってことくらいは覚えておくんだな。その大半が顔も知らない連中で、味方ですらないとしても」

「うん、わかった」ジャンは神妙に頷いた。マリユスが気にするなとでも言うように、ジャンの背中を軽く叩いた。

「俺の方は、あまり楽しいニュースじゃない」と、ユーゴ。「メヌに置いていた部下からの報告によれば、向こうはすっかりクセに牛耳られちまったようだ。反抗的な連中は、人間だろうが魔族だろうが姿を消し、偽坊ちゃんの傍には卵を守る雌鶏よろしく、あの女がいて睨みをきかせているらしい」

「すると今回の軍事行動は、完全にクセの意志と言うことか」マルコは眉間に皺を寄せて言った。次いで彼はカトリーヌに目を向けた。「王都への侵攻はあったのか?」

 カトリーヌは頷いた。「アランが予想した通りよ。彼らは山脈の南端を通ってヴェルネサンへ侵入しようとしたらしいの。もちろん、シャルルは私たちの警告に従って、あなたの領地へ兵を送っていたから、メーン軍は早々に自分たちの領地へ逃げ帰ったわ」

 二人の密偵はさらりと言うが、どちらも何百マイルも離れた場所の出来事であることに気付き、ジャンは内心舌を巻いた。どうやら密偵とは、単に情報を集めるだけでなく、それを伝えるための技にも長けているらしい。

「クセがジャンを捕まえるために軍を動かしたとするなら、そっちは陽動か?」マルコは腕を組んで、誰とはなく訊いた。

「ルイの話によれば、マリユスの偽者はペイル領の部隊と一緒にいるようだから、そう考えてもいいだろう。もしジャンが来た道を引き返し、それを保護するためにシャルルが兵を北へ向かわせたとすれば、メーン軍にとって面白くない結果になるからな」アランが言った。

「クセが偽マリユスの保護者を気取っているとするなら、あの女も近くまで来ていると言うことになるな」

素晴らしい(ブラボー)」ジャンヌが熱っぽく言った。「これでスイの仇を討てる」

「本来、こっちが守勢だってことを忘れないでくださいよ?」アンヌが指摘した。

「だが、ジャンとマリユスの狙い通りに偽者をやっつけるには、こちらから仕掛ける必要がある」

 不意にカラスが笑った。「イゼルへ行くなら、メーン軍にはいつまでも向こう岸で、手をこまねいていてくれた方が有り難いのに、その一方で川を渡ってきても欲しいわけか。結局、どっちが得なんだ?」

「理想はロゼ、ベルンの連合部隊と合流した後に、メーン軍を渡河させ、それを殲滅することだ」アランが答えた。「だが、援軍の到着には十日以上掛かるだろう」

「やむを得まい」マルコが渋い顔で言った。「まさか、マリユスを放っていくわけには行かないからな」

「ありがとう、マルコおじさん」と、マリユス。

「お前の作戦には、そもそも我々が組み込まれていたようにも思うんだがね?」

「そりゃあ、川の向こうのメーン軍に向かって、ジャンが『捕まえられるなら捕まえてみろ!』って言ってくれれば、ずいぶん捗るからね」

「ねえ」ジャンは会話に割り込んだ。「レオンに言って、急いでもらうのはどうかな」

 マルコは訝しげな顔で甥っ子に目を向けた。「鳩でも飛ばすのか?」

「もっと早く連絡をつける方法があるよ」ジャンは言って、襟を引っ張り呼びかけた。「シェリ」

 すぐにミニチュアの少女が顔を出し、初めて彼女をみる人たちのぎょっとするような視線が集まった。

「その子を、どうするの?」ウメコがたずねた。

「ロゼ軍に捕まった時、僕たちはシェリの欠片で連絡を取り合ってたよね。同じ事をやろうと思って」

「レオンに欠片を預けたってこと?」

「レオンと対決した時、僕は耳の中にいたシェリで彼の喉を塞いでやったんだ。彼がまた、おかしな気を起こした時のために残しておいたんだけど、こんなところで役に立つとは思わなかった」ジャンはシェリに目を戻した。「レオンと話がしたい」

 シェリはジャンの服の中から飛び出し、テーブルの上に降り立ってから、こくりと一つ頷いた。

「レオン、聞こえる?」ジャンは遠方の青年に呼びかけた。

「殿下?」シェリの口から、驚くレオンの声が聞こえた。

「殿下がどうかしたのですか?」シェリがギャバン大佐の声で言った。彼女は戸惑った様子のレオンの声で続けた。「いえ。彼の声が聞こえたように思えたのですが」

「これは幻聴じゃないよ」ジャンは言った。「手短に言うと、ベアにいる僕たちのすぐそこまで、メーン軍が迫ってる。ロゼとベルンの部隊を急いでこっちへ向かわせてほしい」

「なぜメーン軍がベアに?」

「彼らの狙いは王都じゃなく、僕だったんだ。あなたがやった事を、彼らもやろうとしている」

 わずかに間があった。

「事情はわかりました」と、レオン。「しかし、今はようやくギャバン大佐と和解できたところなのです。急げと言われても、ベルンからベアまでの距離を考えれば、どんなにがんばっても十日は掛かるでしょう」

 ジャンヌが席を立ち、ジャンのそばにやってくると、テーブルの上のシェリに声を掛けた。「レオン卿、私はジャンヌだ。部隊の一部だけでも、水路でロゼからポルドリーまで送れないか。うまくすれば、丸一日でベアにたどり着けるはずだ」

 ギャバン大佐に状況を説明するレオンの声を、シェリは伝える。それが終わると、レオンは言った。「わかりました。ひとまず、千を連れて向かいます」

「待ってるよ、レオン」マリユスはシェリに向かって手を振った。

「マリユス、くれぐれも無茶はしないように」

「わかってる。じゃあ、またね」

 頃合いと見て、ジャンはシェリに頷いてみせた。声はそれっきり聞こえなくなった。

「殿下は、便利な友人をお持ちなんですね」シオンが感心した様子で言った。

 ジャンはシェリに礼を言ってから、彼女を胸元にしまい込んだ。「君たちだって、魔物を使えば同じ事ができるはずだよ」

「それだ」マリユスは、ぱちんと指を鳴らした。「僕たちの部隊に魔物を加えて、今みたいな連絡手段に使えないかな」マリユスはシオンに目を向けた。「魔物は連れてきてるの?」

 シオンは頷いた。「六体ほど、人の姿で置いてあります。しかし、伝書鳩代わりに使うより、戦わせた方が、ずっと役に立つのではありませんか?」

「そうでもありません」と、アンヌ。「数千の人間が、ほとんど時間差もなく動けるなんて、とんでもない強みですよ」

 ジャンは、アランに目を向けた。「そう言うものなの?」

「熱いやかんにうっかり触って、手を引っ込めるのが遅れたらどうなる?」

「あ、そっか」ジャンは納得した。

 呼び鈴が鳴った。すぐにドロテーが立ち上がり、食堂を出て行く。ほどなく彼女は、血相を変えて駆け戻ってきた。

「どうした、ドロテー?」妻の異変に気付いたルイがたずねる。

「司祭様からのお使いでした。礼拝堂で、お父さまとアンヌを待つ人がいるとのことです」

「自分から訪ねもせず呼び付けるとは、一体、誰なのだ」

 ドロテーはマリユスに目を向け、大きく深呼吸をしてから口を開いた。

「メーン公爵です」

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