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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
40/46

25.クタン

「まあ、大体こんなところだ」ユーゴはメーン公爵の死についての顛末を語り終え、肩をすくめてそう締めくくった。

 誰もが仇敵の思わぬ行動を耳にして呆気にとられている中、ジャンは目まぐるしく頭を回し続けた。クセが気紛れで公爵を殺したのでなければ、きっと何かしらの動機があるはずだ。恨みか、あるいは口封じか。後者はいかにもありそうだ。魔族は権力者を裏で操り、自身を表に出さないよう努めているとジャンたちは睨んでいる。そうであれば、メーン公爵が余計な事をしゃべりだす前に殺すことは、じゅうぶん利にかなっている。しかし、ユーゴが語るところによるクセは、メヌで世界征服にうつつを抜かす姉妹を懲らしめるために、公爵の力が必要だとも言ったのだ。ユーゴを利用するためのでたらめな口実だと切って捨てるのは簡単だが、そうだとすれば、なぜ訓練を受けた密偵のユーゴは、その嘘を見過ごしたのか。

「クシャロ」ジャンは魔族の少女に呼び掛け、右手を差し出した。クシャロは頷き、かつてジャンの恋人を刺し殺した忌まわしい魔族の短剣を、ジャンに手渡した。ジャンが王都を発つとき、シャルルはこれを甥に託し、魔族の本拠であるイゼルで、その秘密を探れと命じたが、今この場に専門家がいるのだから、それを聞かない手はない。「この短剣で、人間の魂は抜き取れるのかな?」

 クシャロは目をぱちくりさせた。「なんだって、そんなことを思い付いたんですか?」

「クセのやったことがメーン公爵を殺すためじゃなく、彼を牢獄から逃がすためだとしたら、色々と説明が付きそうに思えたんだ。魂だけだと人間はずいぶん持ち運びがしやすいし、あとはセドリックにそっくりな魔物に魂を移して、牢屋で死んだのは影武者で、自分こそが本物だって言い張れば、前公爵は晴れて自由の身になる」

「ずいぶん怖いことを考えますね」クシャロはあきれた様子でため息をついてから、頬に人差し指をあてて何やら考え込んだ。しばらく経って、彼女は口を開いた。「ザナの背中を刺した時、彼女の魂は抜けなかったので、普通の人間に対しては、そう言った効果は無いと思いますよ」クシャロは言って、まるで苦いもので口にしたかのように、ぎゅっと顔をしかめた。「生憎、クシャロはそう言うのが苦手なので、断言できるほど実験したわけじゃありませんけど」

「そうだろうね」ジャンは頷いた。クシャロは見るのも聞くのも暴力沙汰が苦手なのだ。しかし、彼女の説が正しければ、クセは純粋に前公爵を殺すために、魔族の短剣をふるったことになる。すると、やはりこれは単なる口封じなのだろうか。

「そうだ」ジャンはふと思い付いた。「君はマリユスの魂を、どうやって抜き取ったの?」

「呪文があるんです」

「それ、教えてもらえる?」ウメコが口を挟んだ。

「もちろん、覚えたからって使えるわけじゃないですよ?」クシャロは忠告した。「生きたまま人間の魂を抜き取るには、どうやら資質のようなものが必要なんです」

「生きたままってことは、殺してしまえばそれほど難しくないってこと?」

「まあ、そうですね。でも、そっちの方法はよく知らないので、詳しく聞かないでください」クシャロは嫌な顔をした。「それで?」

「構わないわ」ウメコは肩をすくめた。「あとで授業の時間を作ってちょうだい」

「研究熱心ですね」クシャロは、くすりと笑った。

「魔法使いなんて、みんなそうさ」と、マリユス。「知ることが大事で、役に立つかどうかは二の次なんだ」

「クシャロも魔法使いですが、そうでもありません」

「君は魔法使用者で、魔法使い(mage)じゃないからさ。もちろん腕前は、僕より君の方がずっと上なのは認めるけど」

 ウメコは現公爵の少年を、しばらくじっと見つめてから口を開いた。「ねえ、マリユス。さっさとゲームを降りて、私の師匠に弟子入りしなさいよ。独学でもいい線行ってるようだけど、ちゃんとした師についた方が勉強もはかどるんじゃないかしら。それに、私は姉弟子として先輩面ができる」

「えー?」マリユスは不満げに唇を尖らせた。「ウメコの師匠って、おじいさんなんだよね。どうせなら、君に弟子入りしたいな」

「私?」ウメコはきょとんとして聞き返した。

「しわくちゃのご老人より、若くてきれいなお姉さんの方がいいに決まってるもの」

「お姉さんだって?」カラスがせせら笑った。「そんな、ご大層な体型じゃないだろう」

 ウメコは兄をきっと睨み、短く呪文を唱えた。不意にカラスの頭上から大量の松ぼっくりが降り注ぎ、ちびの盗賊は頭をかばいながら、わっと叫んでその場を飛び退いた。

「君、符術師だよね?」マリユスは目をぱちくりさせて言った。

「簡単な呪文なら発音できるわ。でも、複雑なものになるとさすがに無理ね。たぶん、音楽の素養が無いと、細かな抑揚は操れないんじゃないかしら」

 つまり、音痴は魔法使いにはなれないと言うことか。

「それより、なんだって松ぼっくりを降らせる魔法なんて思い付いたんですか?」クシャロが苦笑して言った。

「遠くの物を手元に引き寄せる魔法を改良してたら、偶然に出来上がったの。嫌がらせの他にも、焚き付けを準備するには便利でしょ?」

 マルコが咳払いをした。「本題から逸れ始めたことだし、会議は切り上げることにしよう。いずれにせよ、現時点でクセの目論見を推し量るのは難しいからな。今は、やるべきことをやるしかない」

「その前に、集合場所を決めておいたらどうかな?」と、ジロー。

 マルコはうなずいた。「定期便の船着場へ集まるとしよう。それからジローたちに、船の場所まで案内してもらう」次いでマルコはアベルに目を向けた。「我々は買い出しへ向かう。ベルンでは忙しくて買い物に割く時間が少なかったからな。補充を見送ったものが、いくつかあるんだ」

 アベルは頷いた。

「私もついて行っていい?」ウメコがたずねた。「いくつか薬の材料を仕入れたいの」

「構わんよ。他に質問は?」

 ユーゴが手を挙げた。マルコが首を傾げると、彼は言った。「そろそろ行ってもいいか?」

「ふざけてる暇があるのなら、あと小一時間おしゃべりに付き合ってもらってもいいんだぞ」マルコはじろりと睨んで言った。

「遠慮するよ」ユーゴはにやりと笑ってから、カトリーヌに顎をしゃくってみせた。女は頷き、二人は連れ立って部屋を出て行った。次いで船の調達組が去り、買い出し組のマルコたちも出口へ向かった。

「ちょっと待って」マリユスが呼び止めた。

「なんだ?」マルコは振り返って言った。

「僕の身分証明は?」

「そうだった」マルコはぴしゃりと自分の額を打った。「今から急いで書き上げて机に置いておく。お前たちは支度を整えたら、ここへ戻ってそれを回収してくれ。署名を忘れるなよ?」

 ジャンは頷くと、マリユスを抱え上げて机をマルコに譲り、部屋を出た。すると、ジャンより幾分年下の、愛らしい顔立ちをした少年の使用人が都合よく目の前を通り掛かる。さっそくアランが捕まえて用件を告げると、少年は三人をクローゼットと称する部屋へ案内した。彼は扉を開けてから、どれでも好きなものを持って行って構わないと言って立ち去った。

 部屋に入って最初に目に入ったのは、四方の壁にずらりと掛けられた豪奢な服の数々だった。色も意匠も様々だが、いずれもサイズは子供向けだ。床の上にはたくさんのチェストが置かれており、その中も同じものだとすれば、この部屋には膨大な数の服が納められているに違いない。天井には数十本の蝋燭が灯されたシャンデリアが吊るされており、蝋燭の一本一本は切子細工が施されたガラスの覆いがしてあったから、窓が一つもないにも関わらず、室内はじゅうぶん明るかった。

「これでいいんじゃないか?」さっそくアランは、壁に掛かっていた一着を手に取り言った。

「そんな、ひらひらがたくさん着いた服なんて、着るつもりはないからね」部屋の真ん中に、ガラスの足を投げ出して座り込んだマリユスは、べっと舌を出した。「君、元王様なんだよね。まさか王宮でも、こんな服ばかり選んでたの?」

 アランは肩をすくめた。「王様を、誰が見ても恥ずかしくないように着飾らせるのは、従者の仕事なんだ」

「つまり君は僕のために、わざわざ恥ずかしい服を選んだってわけ?」

「特に何かを意図したわけではない」そう言って、アランは他の服を手にする。「これなんかどうだ」

「サイズがぜんぜん違うし、さっきのよりひどい」

 ああだこうだと言い合う二人を尻目に、ジャンは服を物色し続けていた。しかし、どれもこれも装飾過多で、とても旅向きには見えない。もちろんマリユスは、これからメーン公爵としてクタンへ赴くわけだから、あまり地味すぎるのもよくないだろう。しかし、この軽薄な布切れの花園の中で、果たしてまともな服など見つかるのだろうか。

 ジャンはチェストを開け、中の服を片っ端から引っ張り出して小さなため息を落とした。どうにも、これと言うものが見つからない。やけになったジャンは、自分の襟元を引っ張ってそこに声を掛けた。「ねえ、シェリ。マリユスの服を探してるんだけど、どれがいいと思う?」

 ジャンの襟元からシェリが顔を覗かせ、床に散らばった服をぐるりと見回してから、おもむろに一着を指差した。「これが、美味しそう、です」

「わかった」ジャンはうなずき、マリユスに歩み寄って選んだ服を差し出した。それは端々に金糸で蔓薔薇が刺繍された、濃緑色のローブだった。しかも馬に乗りやすいように裾が割れ、ゆったりしたズボンと揃いになっている。

「いいね」マリユスはにっと歯を見せた。「君が王子様じゃなかったら、僕の従者にするんだけどなあ」

「白状すると、これはシェリが選んだんだ。貴族の服は、僕にはちょっと馴染みが薄いから、どれがいいのかわからなくってね」

「何でもいいよ。少なくとも、君の父上が選ぶものより何倍もましだもの」

「悪かったな」アランは小さく鼻を鳴らした。

 マリユスの支度を整えたジャンたちは書斎へ立ち寄り、マルコが置いて行ったマリユスの身分証明書を手に屋敷を出た。外では数人の、やはり見目の良い少年の使用人が待ち構えていて、彼らは旅荷を乗せた三頭の馬を引いていた。二頭はジャンとアランの乗馬だが、もう一頭は知らない馬だった。

「ひょっとして、この脚で馬に乗れるか心配してる?」マリユスは、にやりとジャンに笑いかけた。「僕を鞍に乗せてくれたら、すぐにわかるよ」

 ジャンは頷き、抱えていた友人を鞍に押し上げ、ついでにブーツの爪先も鐙に突っ込んでやる。

「ありがとう」マリユスは鞍上で軽く首を傾げ、お辞儀をした。

「お役に立てて光栄です、公爵閣下」ジャンも大仰なお辞儀を返してから自分の牝馬に乗り、久しぶりだねと声を掛け、肩の辺りを掻いてやった。馬は片目でジャンをちらりと見て、満足そうに頷いた。

 アランは全員が鞍上にあるのを見て、一つ顎をしゃくってから自分の馬を進ませた。ジャンは彼女の後へ続き、ふと振り返れば巧みに馬を操るマリユスがいて、彼らはそもそも一体の生き物であるかのように息が合っていた。

 三人は、お行儀の良い人たちが行き交う美しい町並みを過ぎ、倉庫が立ち並ぶ通りを抜け、港へとやって来た。そこは上品な町の様子と打って変わり、喧噪にあふれていた。粗野な声をぶつけ合いながら、護岸に着けられた船から荷を揚げる人足の姿があり、そこかしこでは商談中と思しい人たちが、激しい身振り手振りを交えながら、いささか興奮気味の様子で何かをまくし立てている。ジャンは、その熱気に思わず手綱を引いて馬を止めるが、なによりも彼を圧倒したのは眼前に広がるベア湖そのものだった。

 もちろんジャンとて、湖や海がどんなものかくらいは本を読んで知っている。しかし、毛むくじゃらでにゃあと鳴く生き物を知らなければ、(chat)と言う単語が単なるアルファベットの連なりでしかないように、この馬鹿でかい水たまりを実際に見るまで、彼の知識も単なる記号でしかなかったのだと思い知らされた。

「さて」アランも馬の足を止め、曖昧な方向を指さしながらつぶやいた。「十年前と変わりなければ、定期便の船着き場は、あの辺りだが?」

「それで間違いないよ」と、マリユス。

 友人が確信した理由に、ジャンもすぐに思い当たった。全身緑づくめで大きな羽飾りのある帽子を被り、リュートを背負った仮面の男など、誰に見紛うはずもなく、そこがマルコの指定する集合場所なのは明らかだった。そして、ジローの側に立つ黒衣の少女はクシャロだ。二人は船荷を運ぶ人足が行き交う中に突っ立って、何事かを話し合っていたが、ジャンたちが近付いてくるのを見て手を振り、声を揃えて「おーい」と言った。ジャンたちは奇妙な取り合わせの二人に馬を寄せた。辺りを見回すが、他の仲間の姿は見えない。

「クシャロのおかげで、素敵な船が手に入ったんだ」と、ジロー。

「まあ、半分はカラスの口八丁のおかげですけどね」クシャロは肩をすくめて言った。

「そのカラスはどこだ?」アランがたずねる。

「彼なら船の番をしてるよ」ジローが言った。「船の元の持ち主が、我々との取引をちょっと不公平だと考えたみたいでね。現状を回復するためには、荒っぽい手段も辞さないと宣言したものだから、それに備えてるってわけさ」

 ジャンは苦笑いをアランに向けた。「おじさんが聞いたら、腹を立てるだろうね」

「そうだな」アランは頷き、拳で背に負った剣の柄を叩いた。「彼の耳に入る前に、厄介事は片付けた方がいいだろう」

「そっちの方が、もっとまずいことになりそうです」と、クシャロ。

「私も同意見だね」ジローは頷いた。

 結局、始末はカラスに任せ、彼らは仲間たちを待つことにした。ジローとクシャロはおしゃべりを再開し、アランとマリユスは剣術や馬術の話題で盛り上がっている。一人あぶれたジャンは賑やかな港の様子を眺め暇をつぶそうとして、ふとあることに気付いた。陸揚げされた積み荷のほとんどが、()()に巻かれた薪材だったのだ。この暖かい季節に、どうしてこれほどの燃料が必要になるのだろう。

 仲間たちにその疑問を投げかけると、マリユスが答えた。「ロゼの主要な産業が、ガラス器の製造だからさ。ガラスを溶かすには大量の燃料が必要だからね」

「でも、毎日こんな量の薪を取ってたら、森が丸ごと消えたりしない?」

「そうだな」と、アラン。「実際、ロゼ領内の森林は、百年ほど前に一度姿を消してるんだ。先代のロゼ伯爵から植樹を始め、回復を試みているようだが、まだ元通りと言う状態にはほど遠い。そんなわけでロゼは、見ての通り燃料の大半を、モンルーズ領からの輸入でまかなっている状況だ」

「それじゃあ、次は辺境伯領が丸裸になるんじゃないの?」

 アランは首を振った。「モンルーズは造船業が盛んで、こちらも大量の木材を使う。そのために代々の辺境伯は、他のどんな領主よりも森林の管理に神経を削っているんだ。こうやって薪として輸出される木材は、大半が間伐材らしいから、おそらくお前が心配するようなことにはならないだろう」

「間伐材って?」マリユスが聞いてくる。

「間引きされた木のことだよ」ジャンは友人の質問に答えた。「森の木が密集すると、互いの枝で押し合いへし合いをして、成長が悪くなるんだ。地面に差す日も少なくなるから下生えが減って、雨が降ると壌土が流れだしやすくもなる。それで、木を間引いて、隙間を作ってやる必要があるってわけさ」

「君って林業も嗜んでたんだ?」

「そう言うわけじゃないよ」ジャンは笑って答えた。「僕やマルコおじさんが住んでた村は、周りを森に囲まれてたんだ。そして、森からは燃料や建材ばかりじゃなく、色々と役に立つものが採れるからね。村のみんなは、それが荒れないように管理してたってだけだよ」

 不意にアランが笑い出した。「マルコが聞いてたら、蜂蜜の時のようにまた咳払いをしているところだな」

「僕、まずいことを言った?」

「王領内の森は、全て王の財産と言うことになっている。たとえ間伐であっても、勝手に伐採を行えば罪に問われかねない」

「むしろ、僕たちは王様の財産の価値を上げてるのに」なんて理不尽な法律だろうと、ジャンは唇を尖らせた。

「だが、そのおかげでロゼの二の舞を防げているのだから、良し悪しはあるだろう。もちろん、お前は王子なんだし、うまくシャルルと議会を説得すれば、法律を見直させることも出来るかもしれないぞ」

「そうだね」ジャンは腕を組んで考えた。「マルコおじさんに相談してみようかな」

「噂をすれば、だ。あれはマルコじゃないか?」

 アランが指さす先には、馬車と騎手の姿があった。彼らはジャンたちの側で足を留め、マルコは御者台の上から集まった一同の顔をぐるりと見回した。「全員集合と言うわけではなさそうだな」

「カトリーヌとユーゴは、まだ来てないよ。カラスは船の番だって」と、マリユス。

「仕方が無い。風は待ってくれないからな。我々だけでクタンへ向かうとしよう」マルコは言って、ジローに目を向けた。「船まで案内してくれ」

 一行はカラスが待つ船着き場へと向かった。そこには大きな平底船が係留されており、カラスは(とも)の辺りに胡坐をかいて座り込み、膝に肘を置いてほおづえをしながら一行の到着を待ちわびていた。

「何事もなかったかい?」ジローは陽気にたずねた。

 カラスは立ち上がり、肩をすくめた。「誰かが近くで水泳を楽しんでた程度だな。まだ上がってこないところを見ると、ずいぶん水が気に入ったらしい」

「まあ、この陽気なら仕方ないね」ジローはもっともだと言いたげに頷いた。マルコはいぶかしげに二人を見つめるが、何も言わなかった。

 一行は船尾と護岸に渡された頑丈な板を渡り、船に乗り込んだ。甲板は、荷馬車と馬で、たちまちぎゅうぎゅう詰めになった。喫水は浅く、大きな波があれば船べりを越えて水が入って来そうに見えたが、幸いにも湖面は穏やかだった。中央には帆が畳まれたマストもあるが、左右の舷側には人の背丈の倍ほどもある長いオールが置いてあった。漕ぎ手が座るための台もあり、左舷の側にはカラスがいて、彼はジャンに目を向け言った。「オールを頼む」

「船は漕いだことがないんだ」ジャンは言いながらも、右舷の漕ぎ手になったマルコをまね、重たいオールを水面に差し入れた。

「そんなに難しいもんじゃない」カラスはジャンの背後から少年を抱くようにして、簡単にオールの動かし方を教えた。ジャンが何度か水面を引っ掻き、少しばかりこつを掴んだところでアベルが係留索を解いた。ジローがマストに背をもたれ、リュートを抱えて軽快なリズムの曲を奏で始める。右舷のマルコが甥っ子ににやりと笑い掛け、ジローの演奏に合わせて歌いながらオールを動かした。わずかに遅れてジャンもオールを回し、船はゆっくりと岸を離れた。

「ジャン、がんばれ」甲板に座るマリユスがのんびりと言って、マルコと同じ歌を歌い出した。次いで船尾からは舵を取るアベルの優しいバリトンが上がり、それに劣らぬ巧さでクシャロとウメコも声をそろえる。舳先ではカラスの歌声も聞え、ジャンはいくぶん心配に思いながら、船べりに寄りかかって湖面を眺めるアランに目を向けた。幸いなことに、彼女はリズムに合わせて身体を揺らしはしても、合唱に加わることはなかった。

 ほどなく船は港を離れ、マルコはオールを甲板へ引き上げた。ジャンもそれに倣うと舳先にいたカラスがマストへ取り付き、畳まれていた帆を広げた。帆はすぐに風をはらみ、船は速度を上げて水面を滑るように走り始めた。カラスとアベルは声を掛け合い、帆と舵を操って、一時間ほどで港が見える場所まで船を運んだ。しかし、そこまで来ると風向きが変わり、もはや帆走では進めなくなったので、再びオールの出番が訪れた。ジャンとマルコは、演奏を再開したジローのリュートの調べに合わせてオールを回し続け、一行は夕刻も間近になってクタンの港へとたどり着いた。

「お疲れ様」マリユスが笑顔で労いの声を掛け、容赦なくジャンに両腕を差し出した。

「もう、腕が重いよ」ジャンはぼやきながらも友人の身体を抱え上げ、渡り板を歩いて上陸し、先に降ろした馬の背へ彼を押し上げた。それからジャンも自分の馬に乗り、伯父に目を向けた。「これから、どうするの?」

「もちろん、モンルーズ辺境伯の屋敷へ向かう」

「こんな時間に押しかけて、嫌な顔されないかな?」ジャンは町の城壁に差し掛かった夕日を見て言った。

「別に、遊びに行くわけじゃないからな。何か言われても気にすることはない」マルコは肩をすくめ、手綱を振って馬車を走らせた。

 クタンの町は、湖を挟んで対岸にあるロズヴィルとは異なり、全く色合いに乏しい町だった。建物はどれも似たような灰色の石造りで、それはもう住居と言うよりも砦かなにかのようだ。行き交う人々も一様に灰色のマントを羽織り、足を止めて雑談に興じたり、店先で値切ったりする者もいない。よそ者のジャンたちを、じろりと睨んで、ただ行き過ぎて行く。

 何もかもが、ひどくよそよそしい。その印象をアランに告げると、彼女は一つ頷き言った。「モンルーズは、もともと帝国が没落した後に独立した王国で、北は魔界の蛮族、南はアルシヨンからの侵入に長らく悩まされ続けていたんだ。私の曾祖父にあたるジャン一世の時代にアルシヨンと講和を結び、辺境伯の称号が与えられることになってアルシヨンとの戦争は無くなったが、当時の記憶は百年やそこらで消えるものではないのだろう」

「アルシヨンを嫌っているってこと?」

「そうじゃない。ただ、誰もが戦に備えていると言うだけだ」

 まもなくマルコは、やはり石造りの建物の前で馬車を止め、門前に立つ兵士に呼びかけた。「モンルーズ辺境伯に目通りを願いたい」

 兵士の若い男は平民姿のマルコを、眉をひそめてじろじろと眺めた。「閣下は多忙である。明日、改めてお越し願おう」

「生憎と急ぎの用でな」マルコは、マリユスをちらりと見やってから、兵士に目を戻した。「それに、メーン公爵を門前で追っ払ったと知れたら、あんたもまずいことになるぞ。さっさと上司へ報告して判断を仰ぐべきじゃないか?」

 兵士は馬上から自分を睥睨する少年を見て、不意に自信を失った様子だった。彼は「待っていろ」と言って門の奥へ引っ込み、しばらく経って年配の兵士を伴い戻ってきた。

「無礼を承知でうかがいますが、何か身の証を立てるものはお持ちですか?」年配の兵士は丁寧にたずねた。

「マルコおじさん」マリユスは言って、旅荷から筒状に丸めた紙を取り出し、マルコに放り投げた。マルコはそれを空中で受け止めてから、年配の兵士に差し出した。兵士は紙を広げ、中に目を通してからぎょっとした様子で姿勢を正し、素早くマリユスに敬礼をくれた。「失礼しました、閣下」

「構わないさ」マリユスは肩をすくめた。「それより、君が敬礼しなきゃいけない相手は他にもいるよ。そうは見えないかも知れないけど、目の前にいる農民然とした旦那さんはヴェルネサン伯爵だし、彼の隣りにいる白髪の紳士はベア男爵、そして」マリユスは居ずまいを正した。「こちらにあらせられるは、ジャン皇太子殿下である」

 年配の兵士は目を白黒させ、慌てた様子で若い兵士を小突き、揃って頭を下げた。「どうか、無礼をご容赦いただきたい」

 ジャンは笑みを浮かべ、無言で頷いた。

「すごい。ちゃんと王子様に見えるよ」マリユスがこっそりと言った。

「練習したからね」ジャンは片目を閉じて見せた。

「君の父上については伏せたけど、構わないよね? これ以上、彼にショックを与えるのは可哀想に思うんだ」

 ジャンは頷き同意した。アランの素性を持ち出せば、さらに説明がややこしいことになる。

 ともかく門はただちに開けられ、一行は屋敷に通された。外観と違い、エントランスは大貴族の邸宅にふさわしくきらびやかではあるが、どこか質実剛健の雰囲気があり、おそらくは主の権力や裕福さを誇示するためではなく、単に照明の効果を上げるためにそうしているのであろう。

 玄関口では家令と思しい老人が、案内をしてきた兵士と何やら言葉を交わしていた。しばらく経って兵士を帰した家令は一行を応接間へ案内し、主人を呼んでくると言って、お辞儀を一つくれてから部屋を立ち去った。

 ジャンがマリユスを椅子に座らせると、クシャロは彼の隣の席へ腰を降ろすなり口を開いた。「みなさんもちゃんとした服を着ていれば、こんな悶着なんて起こらなかったのに。そもそも貴族様のお宅を訪問するのに、みすぼらしい格好をしてたんじゃ失礼にもほどがあります」

「礼儀について、あんたに注意を受けるとは思わなかったな」マルコが少し驚いた様子で言った。

「クシャロの場合、無礼なのは口だけですから」

「辺境伯が来たら、君は口を閉じておいた方がよさそうだね」ジャンは苦笑して言った。

「もちろん、そのつもりです。難しいお話は、みなさんにお任せします」

 ドアをノックする音が聞こえた。しかし、誰かが応じる間もなくそれは開かれ、癖の無い亜麻色の長い髪をした女性が顔を覗かせた。いや――と、ジャンは一瞬迷った。その人物は背が高く、しかも男物の服を着ていたからだ。しかし、よくよく見れば胸元には女性らしいふくらみがある。

 マルコが席を立ち、うやうやしくお辞儀をした。「閣下」

 足の不自由なマリユスを除く全員が、彼にならって起立した。モンルーズ辺境伯は、いかめしい顔で真っ直ぐマルコへ歩み寄ってから、不意に相好を崩して彼を抱きしめた。「マルコおじさん!」

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